2011年12月11日日曜日

不思議な感覚を抱えている。

満月だからかもしれない。

日本のことを考えている。
アメリカに来て、長い時間が経って、そこに居る自分という感覚が自然だ。
一方で、ニューヨークという都会に住んで、即興音楽をやっている自分、という今の自分のメインの世界を包み込むあらゆる層の自分の化身というか分身の存在について、時に考えることがある。

5年程前に、奄美大島にひとりで旅をしたことがあった。
離島の海辺のコテージに泊まった日は、8月6日だった。
コテージの外からは、波の音がして、月が煌煌と光っており、蟹達が動き回る音が聞こえるようだった。
備え付けの小さなテレビでは、白黒の第二次世界大戦の映像が流れていて、原爆についての話をしていた。
その日、私は、はかりしれない静謐さと共に、おそろしいほどの孤独も感じていた。
その孤独を感じるために私はその旅をしたのだと思う。


また別の時、カリフォルニアのメンドシーノという山の中に暮らしていた時も、
私は孤独を慈しみ、孤独を愛し、孤独をもてあましていた。
私のこころはほとんど少女であった。
その少女の精神は、精霊の存在を感じる取ること、人のこころを汲み取ることに長けていた。
早朝の誰もいない山から谷を見下ろして、薄紫色の雲が波のように空を押し寄せてくるのを眺めた。

この時のことは、まるで前世の物語のように遠い昔に感じる。


我ながら、よく都会にここまで馴染んでいるなぁと感心する。
まあ、何事も慣れではあるし、今やっていることをするには素晴らしい修行の場であるから、ここにいる。

ただ、私は、いま、自分の国のことを考えると、胸がつぶれる思いだ。
どうか物事が少しでもよい方向に向かいますように。

教育が大事だ。
問題提起をできる、自分の頭できちんと考る積極性をみんなが持たなければならない。
みんなが互いを思いやり、気遣える社会であるからこそ、それを生かして、ポジティブで新しい創造をどんどんしていける柔軟さも必要だ。
周りがこう言ってるから、とか、テレビがこう言ってるから、とかは関係ない。
自分で学習して自分の力でその学習した内容を身に付け、それに基づいて行動するのだ。
それはすなわち、教養のある人間になる、ということである。

2011年10月27日木曜日

Baldwin

ジェームス・ボールドウィンの著作を二冊。

Giovanni's Room と If Beale Street Could Talk。

人間と人間の、細かな感情の交わり合い。
情景が、手に取る様に伝わってくるような表現の仕方。
すごくリアルなのだ。

例えば地下鉄の電車に乗り込んで座った時に、目の前に座っているひとが居る。
そのひとのことは、何も知らないし、ただ脳に情報として入ってくるのは、彼/彼女の風貌のみである。
通常の感覚であれば、そのひとの人生に起こっていることに敢えて興味は持たないし、
ましてそのひとの感情のバリエーションなどには考えも及ばないものだ。

だけれど、
ボールドウィンを読んだ後は、その、他人と自分の世界を隔てるシールドの様なものを自分のマインドがいとも簡単に通り抜けてしまう感覚がある。

淡々と送られていく人生の中で、
感情を掻き乱されるという経験をひとはどれくらいするだろうか。
例えば、愛する人がある日ジェイルに行ってしまったら。
例えば、自分の、ぬるいものに包み隠された冷酷さに突然気づいてしまったら。

私は、幸せなことに、哀しみを生み出すたぐいの感情の揺れにはしばらく会っていない。

ただ、素晴らしい音楽を聞く時の高揚感は、知っている。

哀しみの陣痛も、悦びの高揚も、私達の内側から生まれる場所は、同じところのような気がする。
そして、その場所に存在するものは、時間と空間を超越する種類のものなのだと思う。

2011年10月6日木曜日

- The truth that we are intended to express is that we are all larger than we know.
We are part of a grand design. There is room for our expansion.
The Universe falls in with worthy plans.
As we strive to grow larger and more expansive, the Universe seeks to expand through us. - Julia Cameron



何度もすべての作品を消しゴムで消して、自分も消え去りたいと思った時があったけど、
あの時、そうしなくて本当によかった。

何かに確実に近づいている。

私の人生の根幹を形作っていく、何か。

自分で、手探りをして、体中泥まみれになりながら、涙を垂らしながら必死で探していた。

みつからなくて、あー、もう駄目かもなあ、なんて、

とりあえず仰向けに土の上に寝転んでみたら、

目に映るのは、一輪の鮮やかな花が、秋の澄んだ空に揺れている様。

それを見て、「あー これだ。」

無理しなくても、そこにあった。

っていうような感覚。

2011年9月29日木曜日

芸術の系譜

ジェームス・ボールドウィンの『ジョヴァンニの部屋』を読み進めているうちに、
山田詠美の書く世界との共通点を見つけた。

人間の、複雑で、生々しく、どうしようもない性。
それはいつも愛情と哀しみから生まれてくる。

私達の住む世界のそういう部分を、長い間私は見逃してきた。おそらく、故意に。
孤独を謳歌し、人の深い感情の湖に、自分の手を敢えて濡らし、水を掬ってみるということを避けてきた。

ボールドウィンを読みながら、その小説の中の世界に没頭していく中で、
並行して自分自身を取り巻く世界に同じ匂いのするストーリーが静かに流れていることに気づいた。

この一見なだらかに見える変化は、大きなインパクトを私の人生にもたらしつつある。

アリスコルトレーンのオルガンの演奏がインド古典音楽のハーモニウムの演奏からの水脈を受け継いでいる、
ということにもやっと気がついた。

自分の魂が、求めている芸術の形、それには、系譜の様なものがある。
その系譜を辿っていく事は、私の魂が求めていることを紐解いていくことでもある。

2011年9月6日火曜日

小さい頃から絵を描くことが好きで、画家になりたいと思った時もあった。
ピアノも好きだったけれど、自分が本当にいつでもやりたいと思うのは、絵を描くことだった気がする。

色彩というものに、魅了された子供だった。
それは、小学生の時に露草や朝顔などの花からつくった色水、夏に庭に咲き乱れた百合の花、
夜に咲いた月見草の群れ、空き地でおそるおそる眺めた彼岸花などの色彩のイメージだった。



近頃、対するスタンス、そして内容的なものも、私の音楽は、painting に近いものになりつつある。

フリー即興演奏を始めてから、限りなく感覚的な奏法を用いているため、コードを選んで弾く感覚、単音を散らしていく感覚というものが、絵の具をキャンバスに落とす作業の様に感じるようになった。

私が即興演奏によって表現したい世界観というのは、Emily Kngwarreyの描くアボリジナルアートの世界観である。earthyで、spiritual、そしてpeaceful。

木や花や人の様に、芸術作品というのは、ひとつとして同じものは存在せず、
それぞれに魂が宿っているもの。

不完全であったり、一見、不格好なものに、魂が宿っている。
そして、その一見不格好なものを、不格好で価値がない、と捉える価値観というのは、それだけの価値観である。

人が「不格好だ」と言って、ある対象を嘲笑する時、
嘲笑される対象は、時に、おそろしく洗練された見識眼で、その嘲笑という行為を受け入れる。
その対象が、自身の「不完全さ」という美を賛美する限り、嘲笑は風となって消え、
嘲笑する者達は、己の知らぬ間に、対象の美の存在感により圧倒される。


2011年9月1日木曜日

たまに、 全部、 手放してしまいたい欲求に駆られる。



こだわりとか、

自分はこういう人間だ、という思い込みとか、

そういうものから自分自身をすべて解放したところには、

自由が存在している。

自由ほど、こわいものはない。

自由を手にした時、人間は、創造という「性」の内なる存在に気づき愕然とする。

創造するということは、継続である。

その創造における自らの不能を垣間見る時、人間は生存の危機に近いものを感じるのかもしれない。

しかし、その継続性というものを実現するためには、

仏教的円環思想の観点から言えば、創造と共に、破壊が存在することが自然である。

破壊が存在してはじめて、創造が継続される。


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when you emancipate yourself from

clinging to things

or subjective labeling of oneself as being certain ways,

you see freedom.

freedom that you dread.

nothing else is more dreadful.

you stare at a handful of freedom in amazement,

realizing your undeniable urge for creation.

creation exists within continuity.

a glimpse of the fact

that you have just little authority over that flow of creation

gives you a shiver

the feeling that is very much like a struggle for life itself.

now,

to attain the continuity

the cyclical view of life is much helpful

for it shows us the meaning of construction and destruction.

may both sides be celebrated, as sacred parts of creation.

2011年8月18日木曜日

Terry Riley

坂本龍一氏の著書、「音楽は自由にする」(このタイトルは、"music sets you free"という意味とも"play music freely"とも取れるのが面白い)の中で紹介されていたレコードを入手。

Terry Rileyの音楽を初めて聴いた。


Music for the Gift/Bird of Paradise/Mescalin Mix(1960-1965)

"Music for the Gift"にはChet Bakerも参加していて、ジャズの演奏が主体になっているのだが、
そこに加えられたマニュピュレーションがとてつもなく格好良い。

"Mescalin Mix"については、ピアノ、テープ処理、ボイスを用いて創られており、
アルバムに乗せられているインタビューには、その当時ペヨーテに彼が音楽的、経験的な上での影響を受けていたことが述べられている。



"Shri Camel"(1980)

このアルバムは、彼に最も影響を与えたと言われるインド古典声楽の名人、Pandit Pran Nathからライリーが学んだものの集大成である、とライナーノーツに述べてある。
そして、一見(一聴)するとオリエンタル、東洋音楽的な雰囲気があるのにも関わらず、
その音楽を構成するのは、オルガンであり、西洋的なテクノロジー、音楽倫理に基づいている。

ライナーノーツが素晴らしいので、一部、訳してみた。

「この音楽の反復的、円環的構成は時間の存在しない無限性を表すオーラを作り上げている。
ライリーの高揚感のあるリリシズムは私達の想像とスピリットを未だかつて訪れたことのない空間へと誘う。この内的静穏と精神的な冒険が重なり合う経験は、臨床のアルファ波的現象に近いものがあるが、これは単なるメタファーに過ぎず、実際の音楽的経験を確実に描写するには事足りない。

このような精神的経験ついては、必ず誰しもが気持ちよいと感じるものではないだろう。
『手放す』こと、そして子供の精神を持つことができない者達にとっては、恐ろしく、脅威的な経験となりうるかもしれない。
しかし、体の内側に存在する知恵を体感できる者、そして高次意識への受容性のある者にとって、
テリーライリーの音楽は強い魅力を持つだろう。
『グローバルな精神』の裏側にあるからだと精神のための音楽であり、
『新しい時代』のための音楽であり、
現在の世界における、新しい宗教的意識の誕生のための音楽である。」-Hugh Gardner


最近、合わせて、アフリカ、ピグミー族の音楽を聴いてきたのだけれど、
彼らの歌に存在する美しいポリフォニーにとても似た音がテリーライリーの音楽の中で聴けたのも面白いと思った。

2011年8月8日月曜日

Alice is my hero.

Universal Consciousness/Lord of Lords (1971)

Alice Coltrane


Charlie Haden、Ben Rileyとのトリオ演奏、
Jimmy Garrison、 Jack DeJohnette/Rashied Ali/Clifford Jarvis という編成での演奏。

今年に入ってから聞いたアルバムの中でもしかしたら一番好きかもしれない。
少し聞きながら興奮している。
本当に素晴らしい。。

オーセンティックで柔らかい印象のハープの音色もあれば、
死ぬ程格好良くて、ヒプノティックなオルガン演奏がある。
ミックスはベースの重低音がかなりいい感じ。
Flying Lotusは、やっぱりかなりアリスコルトレーンから影響を受けているんだろうな。


彼女は私のこころの中で、、、最大限に尊敬する女性であり続けるだろう。

人々からの注目を一心に集めていた、夫であり偉大なミュージシャンであるジョンコルトレーンの側で、女性として、同じミュージシャンとして、自らの自信と個性を失うことなく、まっすぐ自分の信じる道を進むことは、容易では無かったはずだ。。
神学=音楽という方程式をとても正直で明らかな形で表現した人。
彼女ほどにも、評価に値するミュージシャンが、、あまり認知されていないということに驚きを覚える。
ジャズ界においては異端児だったのだろうか。
アリスコルトレーンほど、私にとって、素晴らしい音楽的世界観を持っている人は他にいない。。


私も、オリジナルな音を創ろう。
人の真似事じゃなくて、私の魂から出て来る音を創ろう。。
テクニックはそこまであるわけじゃないけれど、
魂とサウンドの繋ぎ方は知ってる。
ソウルフルなサウンド、という意味では、割と自信がある。
もっと自分の音を知ろう。そして、自分の音に恋に落ちれるくらいになろう。

2011年8月7日日曜日

breaking a pattern

「意識」して日々を過ごす様に努めている。

自分の凝り固まったパターンを打ち砕くため、
まずはそのパターンに気づく必要がある。

なんでもいい。

同じやり方を繰り返すのではつまらないから。

同じ目的地に行くのに、違う道を通って行く。

その日のエネルギーを感じてから、着る服を決める。

なんでもいいから、新しいことにトライしてみる。

2011年7月28日木曜日

7/21、
演奏することによって、自分のスピリットが浄化されるということを経験した。

今まで、少し無理をしてでも、何かしらの形に入ろうと頑張ってきた事柄について、
もう無理をしなくてもいいんだと、ストンと理解できるようになった。
自然体で、そのままでいればそれでいいんだ、っていうことを、体で感じた。
形に入ろうとしなくてもいい。
自分が形をつくれば、窮屈じゃなくなる。

そして、そのピースフルなヴァイブレーションは、魂の内側からじわじわと生まれてくるものだということ。
自分を愛してみることは、そのまま他人を愛すること、大切にすることに繋がっていて、
それが平和のヴァイブレーションに繋がっていること。

好きなことを、自由にやっていい。
リミットー限界 という思考は、自分が自分の頭の中で作っている。


私のライブに、
沢山の人が来てくれた。
ひとりひとりに話しかけて、
私の音楽を聞いてもらって、

・・・こんなに溢れるくらいの愛情を、私は受け取っていいのだろうか? と自問した。

嬉しくて、
恥ずかしくて、
照れくさかった。


その時に、ごく自然に、その受け取った愛や想いを、みんなに転写/反射できた。
そして、みんなが、みんな、この壮大なストーリーの主役として生きているということを、手に取るように感じた。
そう思うと、それぞれの存在がとても愛おしく、大切に感じた。
その気持ちでひとりひとりの存在と接するごとに、場のエネルギーが強くなるのがわかった。
その感覚というのが、oneness と呼ばれるものにきっと限りなく近い。

2011年7月21日木曜日

reminder

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"It was just blind faith."
And yet, faith is not blind.
It is farseeing and, even as we claim to stumble in believing darkness,
we are led inch by inch and hunch by hunch into what we are becoming - and so is our art.

......

something larger and finer than we know calls us to be larger and finer than we dare.

Julia Cameron
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飛ぶ蓮

夏のあの日に
噎せ返るような暑い日差しの中で
透き通る青い蝶に魅せられた
蝶はあの高い木の上までいつも飛んでいき
水を飲みに水たまりへと降りた
私はひとり
心の中で鳴る鈴の音を聴きながら
夢中で森の中を 池の周りを 土の上を 走っていた

あの時に聴いていた音と感情
そういうものを音楽にしたい


なつかしくて 泣けてくるような


子供の頃はいつも
美しいものとおそろしいものに魅せられた

おそろしいものが美しかったり
美しいものがおそろしかったり

その得たいの知れない神々しい存在を
木の後ろに隠れて こっそりと見ていた

その自分の姿というのは 
本質的には
今も変わらない

2011年7月19日火曜日

solo concert

Rema Hasumi Solo

7/21 Thursday 8pm
at Gershwin Hotel (7 E27st between 5th and Madison Ave)
Admission : $10
Instrumentation : Grand Piano, Nord Electro 3 and Electro Harmonix 2880

Music of Alice Coltrane, Mary Lou Williams, little bit of John Cage and free improvisations...

2011年7月4日月曜日

la melancolina e la sensualita

倍音が好き。


アイヌの口琴、ムックリやアボリジナル音楽、ディジリドゥ、それからガムランの音。

キーボードの音にエフェクトをかけた、ひずんだ感じの音も良い。

イメージで言うと、カラフルな砂嵐。

模様が混ざっていく感じ。有機的な感じ。

そういう音楽を創りたいなあ。


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菊池成孔著の「憂鬱と官能を教えた学校」を読み始めた。

私は最近もっぱらピアノに向かうとバッハの平均律を何曲か2時間程弾き、
その後、キーボードで色々な音とエフェクトを試している。

菊池氏の本の中でも話が出て来る、ヨーロッパ的な音階に関する概念と、それ以前の、人間の音楽に対する感覚。
この本を読んで、何かものすごく腑に落ちたの。

私はクラシックピアノから入り、ジャズを大学で学んだ。
それは12音階という概念に基づいた勉強。
大学では、ほぼバークリーメソッドに忠実に従ったハーモニーの勉強をした。
その頃聞いていたのは、ハードボップ、ビーボップを中心とする、所謂ストレートアヘッドなジャズ。

それから数年後、
ケネディーセンターで演奏した時の映像を見た友人が、私がアリスコルトレーンを好きなのかと聞いた。
そこから、新しいものが生まれて、坂を転がり落ちる球体のように、色々なものを付着させながら、
その物体は大きくなってきている。
友人が私の中にアリスコルトレーンの様な要素を見つけたとすれば、そういうエレメントはすでに私の中にあったんだと思う。
だから、今、これまでになかった、精神=音楽のフィット感がある。
ニューヨークに来ていなかったら、こういう音楽的成長はできなかったかもしれない。


12音階のヨーロッパ的アプローチでピアノを弾くことと、
その概念をいかに打破するか、ということを今は同時にやっている感じだ。


二週間後のライブでは、今までにやったことのない新しいことをやろうと思っている。
それと、Alice Coltrane、 Mary Lou Williamsの曲をフィーチャーする、というアイディアは決まっている。
なんとか構成として合うのであれば、John Cageの曲も弾きたい。


何日か前に、友人の友人に、「どんなスタイルのピアノを弾くの?」と聞かれて、
言葉に詰まった自分が居た。
もう、即答でジャズって言えない。
でも、多分それはすごく良いことな気がする。

2011年6月27日月曜日

new world

Henry Threadgill and ZOOID

Henry Threadgill - reeds
Christopher Hoffman - cello
Liberty Ellman - acoustic guitar
Stomu Takeishi - bass guitar
Elliot Humberto Kavee - drums
Jose Davila - tuba/trombone

@ Jazz Gallery


素晴らしかった。
ずっと聞いていたかった。
なんというか、リズムセクションによって有機的な音の粒がびっしりと描写されている中に、
(今思えば私の大好きなアボリジナルアート、Emily Kame Kngwarreyeの絵画の様であった。)
Threadgillの、官能的でエモーショナルなアルトサックスが唸る。
わー、すごかった。
うん。


最近、本当に、むさぼるようにレコードを買い、新しい音を聞いていて、
今までいかに自分がコンサバティブなリスナーであったかということを思い知らされている。
特に今よく聞いているのは Albert Ayler、エチオピア音楽、そしてハープ音楽 (Alice Coltrane / Dorothy Ashby)。
やっぱりAlbert Aylerは大好きだ。
あの粘り狂う音が大好き。


お尻が取れてしまうくらいたくさん働いて、少しお金ができたので、今週ループペダルを買う予定。
キーボードに対して楽器としての興味がすごく湧いてきて、色んなことを実験してみたいので、
とても楽しみにしている。
7月のコンサートまでに、頭にあるアイディアを形にしたいと思う。

2011年6月13日月曜日

eternity

昨晩は、タクシーをつかまえるのに苦労した。

ニューヨークのタクシードライバーは、横暴な人が多くて、
一台目も、二台目も、「ああ、その地域には行きたくない。」と言われた。

三台目のタクシードライバーに行き先を告げて、やっと車に乗り込んだ時、
ああ、このドライバーは大丈夫だ、とヴァイブレーションで感じた。

友人が先に降りて、後部座席には私ひとりだった。

「日本人ですか?」とドライバーは聞いた。

「そうです。あなたは?」

「パキスタンから。」

「good country?」と私は聞いた。

「すごくすごく良い国だ。」

「国を恋しく思うことある?」

「ああ、とても。。
でも、毎年帰ってるから。今年も7月に帰るんだ。
僕はパキスタンの北部の山間に80エーカーの土地を持っていて、毎年こちらから植物の種を持って帰って、様々な種類の植物を育てている。マンゴー、トマト、ぶどう、なんでもあるよ。
今年からは、魚を養殖するための池も作る計画がある。
あと3年立ったら、定年退職するから、それまでがんばって、3年後にパキスタンに帰るよ。」

「3年は、短くも長くも感じられるわね。」

「きっとあっという間さ。ところで君はここで何をしてるんだ?」

「私は音楽を弾くの。」

「ああ。音楽か。Music is forever.」 彼はそう言った。

私と彼はブロークンイングリッシュで話をしていた。でも、その簡素な喋り方だったから、余計に心に響いた。

音楽は永遠。。。。


そして彼は最後に、

「君にとってすべてが上手くいきますように。アメリカは夢の国だよ。」と言った。


それだけで、なんだか泣きそうになって車を降りた。

2011年6月12日日曜日

reminder

do not become a fault-finder

in yourself

and

in others.

2011年5月12日木曜日

my blue print

ずっと ずっと
何度も 何度も
試行錯誤して
考え続けてること。
本当に、ずっと考えている。

どの表現方法を自分は選ぶか。

今年に入ってから、フリーの即興演奏を始めたこともあって、
あまり弾いていなかったスタンダードジャズの演奏を今日してみたら、意外に気持ちが良かった。

だけど、やっぱり自分に合っている奏法、自分が一番臆する事無く表現できる方法は、フォームのない即興演奏だと、思う。きっと。

アメリカの音楽を勉強してきて、その文化、歴史を尊敬し、愛してはいるけれど、
私は決して、その真似事がしたいわけではない。

多分、私にとって、音楽を弾く至高の(そして無意識の)目的は、感情の、深みのある側面を思い切り音楽という媒体を通して表現することだ。。。

だから、音楽を、商業的に捉えることはもしかしたら一生できないかもしれない。
職業音楽家としては駄目なのかもしれない。
多分、悩んでる、焦る、といつも思ってはいるけれど、
やりたいことは奥底ではわかっている。
人間の感情の、様々なレベルの立体感を、表すこと。
いわばシャーマニズム。


ということを、自分の演奏の音源を聞きながら書いた。
何かが生まれつつある。
卵をあたためている親鳥の気分。

2011年5月3日火曜日

Without kindness, there can be no true joy.

-Thomas Carlyle

2011年5月2日月曜日

本当の芸術は神学である

Mary Lou Williamsの音楽を研究している。

彼女は、アメリカの歴史においての、女性の楽器奏者という意味でとても重要な位置にいる、
レジェンダリーな人物である。

そういう意味でも非常に尊敬しているのだけれど、
彼女のブルースの演奏というのは本当に素晴らしい。嘘がない演奏というか。。

最近、ジャズのライブ等を見に行って、飽き飽きしてしまう気持ちになることが多々ある。
それはなんというか、エゴの為に演奏している奏者があまりにも多い気がするから。

音楽というのは、色んな種類のものがある。
自分が注目されたいとか、有名になりたいという薄っぺらいエゴを捨て、
神、または偉大なる存在、スピリチュアリティー、そういうものの為に演奏する、
それが究極的な音楽、または芸術の形であり、それは神学に身を投じるということだと理解している。

その一方で、エンターテイメント性の高い音楽が数えきれない程たくさんあり、
それはもはや芸術とは呼べないものが多い。
ジャズの世界にも、そういう音楽がたくさんあるような気がして、
それをしたり顔で、うんうん、素晴らしい、なんてワイングラスを片手に聞く聴衆がいる、という光景を見て、馬鹿らしいと思ってしまう。
それは、ジャズ雑誌の評論家にも言えることだ。
私達は、それぞれに、それぞれの感性を目一杯生かして、芸術を紐解いていくという姿勢が必要だと思う。
評論家や大衆、マスメディアの多数決が決めるヒットチャートの一位に踊らされるのは野暮だ。
自分の耳を、目を、感覚を、磨いていくことだ。
それは他の誰も自分のためにやってくれない。
本当に良いものは、ピカピカに磨かれた大型グローサリーの野菜やくだもののように媚びてあなたを待ちはしないのだ。
良いものは、土に埋もれ、泥にまみれ、その美しさをひけらかすことなく、ただ存在している。
それを見つけ出しにいくのは、私達自身。

これが実は本音。


話が飛んだけれど、
Mary Lou Williamsが、いかにジャズの根本であるブルースとスピリチュアル音楽を彼女の音楽に昇華したか、それでいてアバンギャルドな要素も持ち合わせている彼女が、
どうしてこんなにも知られていないのかが不思議でならない。

これについてはまた書こう。

2011年4月25日月曜日

piano is a mother of romance

前に借りていたアパートの私の部屋の階下に住んでいた、会ったことのないエジプト人の女の子が、
その当時、ひとつの恋愛を終えたばかりで、私の弾くピアノで少しだけ悲しみを埋めることができていた、と人に聞いた。
あれから4ヶ月、私がそのアパートから引っ越して、
彼女も引っ越したらしいのだけど、
ピアノの音色がどうしても恋しくなって、とうとうピアノを購入してしまったらしい。


もう4年ほどピアノを教えている大好きな12歳の生徒がいて、
彼女は本当に天真爛漫で才能に溢れている。
先週のレッスンの時に、ふと彼女の手を見て、もうすでにピアニストの手になっていることに気づいた。
少し無骨で、指の関節がしっかりしている。
私の手とそっくりな彼女の手。
「大きさが同じくらいなのね、ほら。」と言って、私の手を彼女の手に合わせると、
「ワオ、本当だ!先生って手が小さいのね!」と満面の笑顔で答えてくれる。
そんな彼女に、すごくきっと私は癒されてると思う。


私はどうしようもなくセンチメンタルな人間だ。
だからこそ、ピアノを人生の中に持つことで、
素晴らしくロマンティックで情緒ある生き方をできていると思う。

ロマンスを感じるための、幾多もの層を私の心に創り出してくれたのも、
きっと、昔から弾いてきたショパンでありベートーベンであり、ドビュッシーなのだ。。

2011年4月23日土曜日

reminder

怖れることなく、偏見を持たず、自分の世界を拡げていくこと。

ある事物、人に対して自分の中に生まれた観念に、変化の余裕を常に与えること。

自分の世界に常に新しい風が吹くように、窓を開けておくこと。

2011年4月19日火曜日

don't think, just play

We cannot play it safe and expand as artists at the same time.
We must risk expanding our territory. -Julia Cameron


今日はThe StoneでKarl Bergerという作曲家、ピアニスト、ヴァイビストの、即興オーケストラのワークショップを見た。
『70~80年代に、Ornette Colemanらと共にCreative Music Studioを立ち上げ、ジャズとワールドミュージックにおいての前衛的な開拓者となった。』と説明書きがあった。

オーケストラは、総勢20名くらい。
Don Cherry作曲のテーマなどにしたがい、その場で耳で曲を覚え、そこからcollective free improvisationがはじまる。
面白かったのは、Karl Berger氏の指揮の取り方。
その場で即興でオーケストラをひとつにまとめるのは容易ではないはずだけれど、
音楽はすごく良かった。

途中でBerger氏が言っていて印象に残った言葉。

「感じたままに即興してください。この音、フレーズでいいだろうか、などと考えないでください。
『思考』は遅すぎて、即興演奏についていけないのです。」

2011年4月16日土曜日

鏡の中にある如く

Ingmar Bergmanの、Through a Glass Darkly (1961)を見た。


小説家の父 David (Gunnar Bjornstrand)、精神分裂病で完治しないだろうと言われている娘、Karin (Harriet Andersson)。
Karinを愛してやまない夫、Martin (Max von Sydow)。
そして、Karin同様に精神薄弱な弟 Minus (Lars Passgard)。

この4人の、感情の交錯がものすごい密度の濃さで描かれている。
特に、Harriet Anderssonと Lars Passgardの演技は素晴らしかった。

白黒の海の風景に、画面から溶け出してくるかと思う程の人間の感情。
静かなシーンの中で流れ出すチェロは、バッハのSarabande from Suite No. 2 in D minor。
美しさと、人間の感情の持つ繊細なグロテスクさの同居。

それから、精神分裂病により、現実と倒錯のふたつの世界を彷徨うKarinを愛する3人の男、という設定もおもしろいと思った。

ひとりの女と、その父、弟、夫という一番近しい3種類の男達が、他に誰もいない孤島で過ごすのだ。
その3人全員とKarinとの間に、とても微妙な具合の性的なニュアンスが描かれている。
父が、弟が、夫が、Karinを愛し、愛で、抱きしめる様子、
そしてその愛の雨にまみれて、さらに精神を病んでいくKarin。


印象に残っているのは、
ベッドで夫に抱きしめられながら、愛の言葉を囁かれ、
父の書斎では、椅子に座った父の膝の上に座り、なだめられ、
古い船の地下で、雨水のしたたる中、性的に弟をからかった後でその弟に抱きしめられ眠るKarin。

この映画の中での、それぞれの愛情表現のシーンというのが本当に衝撃的だった。
発狂寸前の愛、というか。。
こういう愛の表現を映像で見るのは初めてだった。


言葉や音楽にボキャブラリーがあるように、
愛の表現にもボキャブラリーというものがある、と思う。

そのボキャブラリーを増やしていくことで、人間は愛の美しさを体感するのだと思う。

どんな愛し方をするか、というのは、喋る時にどんな言葉を選ぶかと同じだ。

2011年4月6日水曜日

hexagram

when would the bird in the cage fly out?

In the night of dawn

A crane and a turtle will become as one

Who do you see in front of your back?



カオスを知り、秩序をあらためて知る。

絶望の淵に立ち、信念を抱く。



All I know is that everything around me is mirror, that's the trick.

All I know is that time is everywhere, inside of me, outside of me.

All I know is that "this" and "that" will merge into "none" but there's no done.

All I know is that it is just one orb that's going back and forth.

All I know is that I know nothing, and, nothingness is the godly self.

2011年4月5日火曜日

companionship with god

"We can request the ability to erase ourselves as the conscious architects of what we create.
We can strive to serve by what we make and, in that quality of service, we can attain a degree of egoless anonymity that is the midwife of good work."

-Julia Cameron

2011年3月22日火曜日

幾層の現実

昨日、
近所の自然公園に行って、大きな木の下で日光を浴びながら本を読んだ。

その広場では、子供達が駆けまわり、
犬が尻尾を懸命に降ってhappinessを表現しながら主人と歩き、
サッカーをする大人のグループの誰かが大声で話し、
私から10メートル程先には、金属探知機で何かを探している初老の男性がいた。

私の耳に入ってくるすべての音が、目を閉じると、不思議と調和して聞こえた。
日常が目の前に広がっている。
とてもピースフルな時間だった。

これが、「現実」とよばれるもののひとつの層であり、
それと同時に存在する別の「現実」がある、ということを私は考えていた。

私達は、無力な存在なんかではない、ということを、全力で思い出す時が来た。


そうするには、どうすればいい?

そればかりを考えていた。


音楽を。。

私の世界への想いを。。



どうすればいい?

シンクロニシティーは、いつもの様にあらゆる方向からキーワードを流してきた。

「責任を持つこと。」


自分の、創造している現実に、責任を持つこと。

私達ひとりひとりの思考、もしくは、その無意識の思考の集まりが、現実を作っている、そのことを再確認する。

だから、
自分をまず愛することからはじめる。
愛は、与えるもの。。。人に、期待をしない。 
それでも、自分はハッピーになれる。 もし自分が自分を愛していたら。

自信を持てる?
私はどれくらい、こわいんだろう? 他人が? 自分が? 両方、同じ事。
こわいと言って、そのまま閉じてしまえば、無難に人生は過ぎ行くかもしれない。
だけど、きっと、このまま私のこころの中にあるわだかまりをかかえて、その責任を取って生きることになる。

いま、私の課題は、そのこわいという気持ちを かなぐりすてること。
私にはできない という気持ちを 私だからできる に変換すること。

そして、嘘をつかずに、正直に、誠実に毎日を生きること。
直観を信じること。

三位一体を、めざしてみる。

行動、言動、思考を一致させる。


そういう意味で、思考に責任を持って生きること。

決して簡単じゃないけど、やってみようと思う。


2011年3月17日木曜日

美しい音を弾こう。

2011年3月16日水曜日

今は、自分が生きているこの時間に、精一杯できることをするだけ。

一番怖れていたこと。

反原発をずっと両親に言い聞かされて育った。

広島も長崎も、何度も訪れているけれど、その度に、どうして日本は未だに原子力発電をやめないのかと思った。

青森県六ヶ所村の核核燃料再処理工場についても去年ずっとリサーチしていた。

浜岡原発が(場所的に)危ないという話も前から出ていたはず。

今ニュースで静岡で震度6、しかし浜岡原発は異常なしで運転続行、というのを見て、心臓が止まる思いだった。

これから、余震が完全におさまる間だけでも、浜岡原発をとめておくことはできないのだろうか。。。


昨晩は、、
考え始めたら気が狂いそうだったので、早くベッドに入ったけれど、
叫び出しそうになるのを抑えるのだけで精一杯だった。

どうか、被害が最小限にとどまりますように。

2011年3月3日木曜日

すきま

地下鉄の電車が、暗いトンネルを抜けてマンハッタン橋に差し掛かった。

真っ青な空と白い雲と、車窓から見えるイーストリバーの景色。

午後2時、
がらんとした車内の、私の向かいの席には、若い黒人青年がふてくされた顔で座っている。

その青年の表情に、アメリカという国の憂いというものを見た気がした。


両手を使って、手のひらの中に溜めてきたものが、少し指を開けば、さらさらとあっという間に消失してしまう、
そんな 「隙間」 がアメリカには沢山ある。

私の生まれ育った国、日本には、その「隙間」がほとんどないと思う。
指のすきまから、何かの欠片がこぼれ落ちていく時に、下から無数の手、無数の張り巡らされた網が、すべて受け止めていく、そんな感覚がある。
そうやって、ひとつもこぼさないように、受け止めなくたっていいんじゃないだろうか。。と皮肉な私は思ったりもするけれど。


「隙間」のあるアメリカは、いつも 失う という恐怖と隣合わせなんではないかと思う。
しっかりと自分で、自分の人生のパズルのピースを拾い集めていかないと、
「隙間」の空虚感に蝕まれて、あっという間に自分を見失ってしまう。


私がこの場所を離れられないのは、
多分、その「隙間」がつくる、こころもとなさを好んでいる自分がいるから。

異国に若い時移り住んで、
こわかったし、
不安だったし、
絶望したし、
葛藤した。

ただ、その、一寸先は闇かもしれない、という切迫感に、いつも後押しされてきた。

2011年2月6日日曜日

why music?

To create music is like studying divinity.

I will keep focusing on the greatness of soul, which is in other words called divine oneness.

2011年2月5日土曜日

dream time music

先週末の友人のライブを見てからというもの、

家で練習する時の弾き方を変えて一週間。

今日は演奏の仕事がふたつあって、どちらも自分的にはかなり満足のいく演奏ができた。


今までも十分に、感情に忠実な演奏をしていたけど、

それが、もっと感情的になったというか、もっと憑依的になったというか。。

音楽に入り込めるようになってからというもの、

その感覚は日に日に深くなってきている。

それは本当に、ドリームタイムというか、高次元の感覚で、

中に入れば入り込む程に、空間が広がっていくの。

そして、その空間を掴んでしまえば、それは極端に言えば時間の存在しない次元になる。



その、、空間の中で、音楽を創り出していくこと、、、
それも、
感情のままに、情熱の語るままに、自分という媒体を通して音を創り出していくこと、、
こんなに素晴らしいことは、ない。。。

2011年1月29日土曜日

音楽の空間

今晩の演奏は、準備万端で臨んだにもかかわらず、玉砕。

初めて一緒に弾くドラマーとのトリオ。
合わないタイプの演奏家で、弾いててちょっときつかった。

固い、、固い、、音で、ガシガシ弾いてくる感じが私はやっぱり苦手だ。
音の柔軟さは、絶対に必要。

例え静かに弾いていてもグルーブ感があって、空間を上手く活用することのできるドラマーが好き。
なかなか、そういうドラマーには出会わない。



昨日、先輩達の素晴らしい演奏を見て、やっぱりこの感じだ、って思って、
音楽の方向性みたいなものを掴めた感触があったの。

だからこそ、、、
今までの私だったら、自分の力量が足りないからしっくりこないんだと思っていたところ、
生意気にも今は、私の演奏のやり方と合わない、と解釈するようになった。

即興演奏をしている時に、意識して、空間を置いて、ひとつひとつの音に意味を持たせれるように弾こうとしているんだけれど、
まだまだ、相手が「聞かない」奏者だと、その「間」というのを、自分ひとりで保っていくのは難しい。


尊敬してる奏者がこう言ってたの。

「ストレートな弾き方をするドラマーでも、良いドラマーはいるけど、
僕がやりたいと思っているのは、ある音楽の形やフォームの中で、即興によってどれだけ自由に、オープンになれるかを常にチャレンジし続けること。それをできるドラマーとやるのがやっぱり楽しい。」

本当に純粋な芸術として音楽を捉えていないとできないことだと思う。


私、すごくすごくこういう音楽家達と演奏したいと熱望している。
アバンギャルドな音楽にすごく惹かれる。
多分、、、彼らは、開拓者だから。
芸術の開拓者というのは、大抵の場合、マジョリティーの大衆の注目を浴びることがないし、
その先鋭的な芸術に対しての理解を得ることもない。
だからこそ、自分の芸術性に関してクリアーなイメージとコンセプトがなければ続けられないことだと思う。

どうしたらそういう領域に行けるだろう??

2011年1月26日水曜日

meditation in music

たまたま時間が出来て、
昨日と今日と、久しぶりにジャムセッションに行って、

やっぱり違うって気づいた。

目指してる音楽の種類が、違うんだと思う。

というか、音楽を弾く過程においての、姿勢が違うんだと思う。

やっぱり私、瞑想したいんだと思う、音楽で。

瞑想する演奏家が好きなんだ。


ジャムセッションで、聞いてられない時があった。

何かを喋ることと、音楽で即興することはすごく似てるけれど、

口を開くのであれば、mean what you say でしょう。

もし、話す内容がないのならば、静かにしていればよい。

その「静寂」「無」というのも音のひとつだし。

と、すごく思うの。


こういう風に客観的に冷静にジャムセッションの音を見ることができるようになったのは、
成長したと思う。

アバンギャルドの音楽を聞き出して、確実に耳が肥えてきたと思う。

‥…


結局は、自分自身が、本当に惚れ込めるくらいに美しいと思える演奏をできるようになればいい。

きっと人からのフィードバックはrelativeだから、当てにならないし。

芸術というのは、本来は自分自身のためのものであるべきなんだ。


そして、その芸術に込める自分の美意識というものが、どういうものに帰しているか、
そこなんだと思う。。