2014年6月21日土曜日

Folhas Secas






ノスタルジックな情景の夢を見た。
子供の頃の純粋な遊びと、自由の感覚の夢。

ネルソン・カヴァキーニョのこの名曲と夢の内容が混じり合う。


 



マンゴーの木から落ちた 乾いた葉の絨毯の上を歩く時

学校のこと そして 詩人達のことを 思い出す

歌いながら丘を登ったのは 数えきれないくらい

太陽に焼かれて 時間を食べ尽くした

いつか もう歌えないと 時が私に告げたら

私はギターの横で 子供の頃の時間を追憶するだろう












2014年6月20日金曜日

Rema Hasumi / Darius Jones / Dan Weiss @ Spectrum

6月18日の演奏。
ダリウス・ジョーンズとダン・ワイスとのトリオ編成。
最初から最後まで即興で通した。

ダリウス・ジョーンズとは共演し始めて約2年程経っていて、
色んな内容の音楽を、色んな編成で一緒に弾いてきたけれど、
根本で彼と私の音楽が繋がるのは、ブルースのフィーリングと、スピリチュアルな音の探求だと思う。

今回の即興で一番手応えを感じたのは、ひとつのアイディアに深く沈み込んでいくことで、
即興の中に、作曲されたもののような必然的な部分を刷り出して即興の構造をもっと立体的にする、というプロセス。
これは、家でソロピアノでずっと弾いていたものを、トリオでも応用することができた。

 ドラムのダン・ワイスも、まったく媚びず、彼のユニークな弾き方でそのまま正直に絡んできたので、
私が頭の中で描いていたものとは少し違う演奏になったのだけれど、
それが即興というものだし、そこからどれだけ音楽を開いていけるか、というのは本当にやりがいのあることだと思う。

私達のすぐ後には、アイヴァンド・オプスヴィクがアンジェリカ・サンチェスをキーボードに、
クリス・デイヴィスをプリペアド・ピアノに従えた新しいバンドで演奏した。
その後は、ベルギー出身のドラマー、フリン・ヴァン・ヘメンのバンド。
パスカル・ニッゲンケンパーがプリペアド・ベースを弾き、ピアノはフェンダー・ローズのソロパフォーマンス作品を発表しているジョゼフ・ドゥモウリンだった。


どれも素晴らしい演奏。
いつも謙虚さを忘れないように。
少しずつ、変化している。




2014年6月14日土曜日

Charles Gayle Quartet @ Vision Festival 2014



息を切らして辿り着いた扉の向こうからは、駆け狂う様なサックスの音が溢れていた。
はやる気持ちで重い扉を開けると、そこには、人々の、初夏の訪れへの祝福と、暴力的な雨雲への鬱憤が混じり合った興奮が、濃密な空気を作り出していた。
もしかするとその空気は、そのまま、純粋な音楽への陶酔と、商業主義に対しての蓄積した芸術的不満に置き換えることができたかもしれない。

私は、まるで60年代にタイムトリップした様な感覚を覚えていた。
音楽の内側から響く、熱心さ、素朴さをこんなに直接的に感じるコンサートで、
大きな会場が満員になっている。そういう場面にはしばらく出会えていなかった。
熱狂する観客の拍手や歓声に、顔色ひとつ変えずに、
音楽へ献身していたその男は、チャールズ・ゲイルという人であり、またの名を、道化師「ストリーツ」といった。


チャールズ・ゲイルは、つぎはぎのあるよれよれのスーツを着て、鈍く光るサックスを吹いた。
Tシャツの上につけたネクタイも、長身の体躯のせいか、不思議とスタイリッシュだ。
ピエロの赤いつけ鼻が、彼の白い顎ひげとともに漆黒の肌から浮き立っていた。

ウィリアム・パーカーが、大木の幹を連想させる太いベースを弾き、
デイヴ・バレルのミニマルかつエッジーなピアノはモンクの様な響きで空間を覚醒させ、
マイケル・ウィンバーリーの雷の轟音の様なドラムが高揚を持続させた。
素晴らしいリズムセクションを後ろに、淡々と、しかし確実に熱を持って演奏するゲイル。
後にも先にも、私は、あんなに粋な道化師を見たことはなかった。

以下は、ゲイル自身が、彼の演じる道化師「ストリーツ」について語った内容だ。

そうだな。彼の格好を見てみれば分かると思うが、彼はぼろぼろの服を着た奴だ。
愛、痛み、喜び、生きていく中で起こるすべてのことに反応するんだ。
心がずたずたになって、俺もその心をずたずたに破って、泣き始めるさ、
そしてそれをピアノとか、サックスで弾こうとしてみるんだ。
その中には社会的、政治的な理由だってある。 何かの結果を招く原因を作ろうとかじゃないんだ。
ただ、心の中にあるもの、それだけだよ。
いくつかの問題は、他の問題よりも少しやっかいだ。だけど俺はそれも演じる。
たまに小道具を使ったりするときもあるし、使わない時もある。
だいたいはパントマイムだ。伝統的なものとは少し違う。言葉は使わない。 
そうして、ストリーツを動かして、遊ばせるんだ。
愛の演目もある。小さな赤ん坊のことだったり、ただ誰かを手助けすることだったり。
または暴力の演目もある。ピアノの上に血が滴る様なね。まあ、目には見えない形で、だけど。
ただ演奏しようとするんじゃなくて、何か他の形の見えるものを演奏に取り入れたかった。
そんなにだいそれたものだとは思っていないけれど、
俺の心の中にはずっとあったものだ。
ずっと、ただ演奏するだけでは自分には充分じゃないと感じていた。
特に、ストリートでの生活を経験してからは。
ストリートでは、演奏するだけじゃなくて、食事もしたし、ぶらぶらしたし、時には寝たよ。
パフォーマンスや演奏っていう、フォーマルなことだけに意味があるとは思わない。
多くの場合は、それ以外にもたくさんの要素が混じっている。
ストリートで演奏する奴の多くは、家に帰っても演奏できる。
だが、本当にストリートで生活してる場合は、曲をパフォーマンスするっていうことだけじゃないんだ。
他の色んな事が、マインドにも演奏にも関わってくる。
色んな人と話をするだろうし、時にはサイレンを追いかけてるかもしれない。
救急車を追いかけるってことじゃなくて、サイレンと音で遊ぶっていうことだよ。
見た目の面白さのためにそういうことをするのではなくて、
演奏しているその瞬間に、そういう色んな出来事が周りで起こっているから。
少なくとも俺の場合は、そう、演奏するだけじゃ充分じゃないんだ。

ゲイルは、過去に20年近く、ホームレス生活をしていた。
ストリートをただひたすら歩き、サックスを吹く生活、を送っていたのだそうだ。
私が興味を引かれるのは、音楽家として彼が経験してきたであろう、人間の「評価」というもののめまぐるしさである。同じ人間が、同じ楽器を弾いて、ある時は路上の片隅で見過ごされ、
またある時は豪奢なステージで拍手喝采を浴びるのだ。
その様子をゲイルは、どんな気持ちで眺めてきたのだろうか。

自由に即興をすることと、自由であることは別物だと思うんだ。
誰だって自由な即興はできるさ、だけど、精神は自由か?
そうでなければ、ただ自由即興のための音楽的語彙を学ぶだけ。
個人的な話だが、自慢じゃないけど、私は自由な人間だ。
だけど、それが必ずしも良いこととは言わない。
時には自由であるということは障害にもなるけれど、
私はそういう人間だから、それでいい。
これは、自由のための声明だ。そこには、喜びもあるし、悲しみもある。


超資本主義を人間の無知さが容認する世相において、芸術も商業と同じ程度の生産性を期待される。どれだけのお金に還元されるかという物差しで芸術を評価してしまいがちな私達現代人は、
まるで夢を喰い尽くしてしまう盲目の獏(ばく)の集まりだ。
この安易な評価基準に甘んじることなく、個人の経験と感受性を反映した独特の基準を維持できるように、私達は注意深くいなければならないと思う。

ゲイルの演奏が私に教えてくれたことは、
ミニマルな表現の一端を深く、忍耐強く、掘り下げていくことで、
そこに、あらゆる事象を包括するひとつの小宇宙を見出すことができる、ということだった。





引用:チャールズ・ゲイル ジェームス・リンドブルームによるインタビュー
             ケン・ワイスによるインタビュー 
              

2014年6月3日火曜日

ヴィジェイ・アイヤーのスピーチ 



ピアニスト、ヴィジェイ・アイヤーのスピーチが最近話題になった。
ジャズの世界で市民権を握る黒人ではなく、まして白人でもない、
アジア系マイノリティのアーティストであるアイヤーの視点から見た、ジャズ批評について、
コミュニティを作り、社会活動と芸術活動と連動させていくことの重要さなどについて話している。


私自身は、アメリカに来た2002年当時、アメリカ黒人史の講義を受けたりして、
ジャズとアメリカという国における歴史的背景との関連性をできるだけ理解しようと努めてきた。
その当時はその作業に夢中だったのだが、在米5年を過ぎたあたりからは、
音楽に集中し、そのような社会的な事を考える機会は年々減っていたように思える。
アメリカにおいては、人種について何か言及することは、ある種のクリシェであり、
所謂リベラルな人々にとって、人種差別などというのはもってのほかの古臭い話題であるという風潮もある一方で、未だに社会的な場面では人種の問題が声高に論議される一面もある。

ジャズの世界での話をすれば、
音楽の評価における人種的偏見は、極めて微妙な形でだが、存在していると感じる。

在学時代に教えを受けたピアニスト、ジョージ・ケイブルスに、私はジャズと人種の関係についての問いを投げかけたことがあった。
その時に、ジョージは少し間をおいてから、優しい物腰でこう言った。
「ジャズは、黒人の所有する音楽ではないけれど、黒人の経験から生まれたものだよ。」
「この曲を教えてあげよう。」と言って彼が弾きだしたのは、
Lift Every Voice and Singという、アフリカン・アメリカンの国歌とも言うべき曲だった。

ジャズのすべてを吸収したかった私は、この曲も習得したし、ブルースもひたすら勉強した。
だけれど、ある時点で、所謂「ジャズ」と呼ばれるもの、スタンダードやブルースを弾くことに面白みを感じなくなっていった。そういうものを弾く時、表現の根本とも言える、私の精神の深みに存在する『何か』と、音楽の響きそのものが符合しなくなっていた。
その時に初めて、自分はアジア人で、日本人なのだということを客観視しはじめたと思う。

今自分が生きている社会の中で、自分の生まれ育った背景に忠実な形で、
純粋な表現をしたい、そう思った時に、目の前に開いていたのはインプロビゼーションの世界だった。
何年か、インプロビゼーションジャズの世界に身を置いてきたが、
特に最近、夫とそのような話をよくすることもあって、社会的興味と自分のアーティストとしてのスタンスが繋がり始めていた感じがあった。

今この時期にジェン・シューがやっていることや、ヴィジェイ・アイヤーのスピーチの内容なんかは、
私が感じていることとの繋がりもあるし、なんだか大事なことの様な気がしている。

ジャズという音楽は、アメリカ社会の根底にあるものを反映してきた。
奴隷制度があり、市民権運動があり、資本主義大国アメリカのアメリカ中心主義があり、
人種の多様性があり、そのひとつひとつがジャズの中になにかしらの形で反映されていった。

移民のルーツを持ったコミュニティとして、アジア人として、私達はこうやって表現していく、という
自らのアイデンティティを尊重した表現の提示をしていくことは、私達自身と他者、両方の想像力を育ててくれると思う。

音楽や表現というものが存在しなかったら、政治にも社会にも希望を持てないのではないか。
だからこそ、音楽家・芸術家は、芸術作品が人間のラディカルな発想の喚起を促す可能性を持っている、ということを自覚した上で表現していくことが必要とされる時代なのかもしれない。


 以下がスピーチの内容です。

(翻訳:蓮見令麻)
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皆さん、
今回初めて、アジア系アメリカ人のイエール大学卒業生として、世代を越えて集まった皆さんとお会いできたことを、嬉しく、誇りに思います。

ご存知ない方のために説明しますが、
私はピアニスト、作曲家、即興演奏家、バンドリーダー、エレクトロニック・ミュージシャン、そしてプロデューサーです。おそらくジャズの世界では私のことを知る人が多いと思いますが、
同時に私はそのジャズというカテゴリーにあてはまる内容と、そうでない内容を両方創作してきたアーティストとして一般的には知られています。ごく最近、私はハーバード大学の音楽学部の教授にも就任しました。

私は、皆さんとまったく変わらない、ひとりのアジア系アメリカ人ですし、
これまでに、このような機会において様々な人々によって述べられてきた物事以外に、私が提供できる叡智などは特にありませんが、
今日は、「私達」についてのお話をしたいと思います。

イエール大学というのは、インドで財産を築きあげた、特権階級の、裕福な帝国主義者、エリフ・イエールの名前から由来しています。
そのような場所に戻ってくるということは、私にとっても非常に面白いことです。
 1687年から1692年まで、エリフ・イエールは、イギリスの東インド会社のインド、マドラス(現チェンナイ)の交易所Fort St. Georgeの知事でした。
そしてこの土地は、私の祖先が生まれた場所でもあります。
後に、イエールは、不正所得と東インド会社に対する数々の冒涜により、知事を退任させられました。

この様な事実により、エリフ・イエールのことをイギリス東インド会社のジョージ・ブッシュまたはミット・ロムニーと呼べるかはわかりませんが、
とにかく、監視の目のない状況での、彼の帝国主義的略奪は、様々な物事を動かす動機となりました。
エリフ・イエールは、1700年代の始め、
この学校(イエール大学)に多額の寄付をできるほど裕福になり、
結果として学校の正門に彼の名前がつきました。
私達が何をして、どのような機関を設立しようと、私達イエール大学の卒業生は、エリフ・イエールの家元にいるというわけです。

現在、私自身も、何世紀という歴史のあるもうひとつの教育機関会社(ハーバード大学のこと)に毎週趣き、教鞭を取るわけです。
その度に私は、ナイジェリア系イギリス人のアーティスト、インカ・ ショニバレの、
"complicity with excess"ー「贅沢の共謀」いう言葉を思い出します。

私達がアメリカ人としての道すじというものを考え、構築し、それを応用していくプロセスにおいて、私は自分自身がこのような国のシステムの中の共謀者のひとりであるという事実を考えずにはいられません。
構造のなかの不平等性、支配のパターン、恐ろしい奴隷と暴力の歴史。
そういったものすべてにおいてです。
いまこの場所にいる私達のほとんどが、そのようなシステムにおいて「成功」した結果、ここにいるわけです。
そうやって私達はイエール大学に入学し、 周りの人々に「最も成功した人」ともてはやされます。
もしかすると、私達の中には、自身の成功の証明を確認するため、今週末ここに集まってきた者さえいるかもしれない。(中略)
アメリカで成功するということは、アメリカという国家の意義にある意味では賛成することにもなり、
また、アメリカの醜い過去を認め、消化したということにもなるのです。

そういった事も考慮にいれながら、とりあえずは「成功」という話を置いておき、
別の観点から我々について話してみましょう。

あなた達と同じように、私自身も、大人になってからのほとんどの間、「私達(アジア系アメリカ人のこと)」について考えてきました。
コミュニティについて、どこに属するかということ、アイデンティティー、連合。
アメリカ人らしさ、アジア人らしさ。
法学者カレン・シマカワの近年の研究において、彼女がアジア系アメリカ人の状況・経験を理論的に説明する為に使っている「国民的消沈」という言葉が非常に興味深いのです。
それは、私達のここでの生活というのは、
アメリカ人らしさを尊重した上でなお、常に人種的境界線に立ち、
「アメリカ人であることはどういうことか」を考えるフロンティアでいなければならないというものです。


この「私達」に関する問いは、私にとっては、ただなんとなしに考える思考の羅列以上の意味があります。
1992年にイエール大学を卒業してから、私はずっと外の世界で文化的な仕事をしてきました。
18のアルバムをリリースし、何百ものコンサートをこなし、
アルバムやパフォーマンスはテレビ・ラジオでブロードキャストされ、
いかにも何千という批評を受けてきました。
その結果として、私がアイディアを形にし、探求し、提議し、繋がっていくものを作ってきたものに対する、ローカルなものと国際的なもの、両方の反応をリアルタイムで経験してきました。

この私自身の経験は、主に北アメリカとヨーロッパが舞台でした。
さらにこの経験は、ジャズという、アメリカにおいてもっとも人種的な葛藤を孕んだ文化的表現を背景にしていました。この不可思議で、ごちゃごちゃしていて、競争的でもある、ジャズという文化です。
この音楽は、一般的には、ブラック・パワー、またはリベラルな白人の「カラー・ブラインドネス(人種間の軋轢に対し、精神的に関与しない)というスタンスの間で理解されてきたものです。

アフリカン・アメリカンのコミュニティの力、
または、アメリカ黒人の「ブラックネス(社会的、文化的、黒人らしさ)」に対する、白人、または外国人によるフェティシズムに寄り掛かった、文化理解、芸術理解というわけです。


過去20年間の間に、幾度となく、私は人種についての会話に参加してきました。
今となっては、私はジャズの世界において、安定した継続的な位置を獲得することができました。
私はジャズ界におけるサクセス・ストーリーの一員となったわけで、それに関しての文句は何もありません。ただ、その「物語」が、どのように語られるか、ということを観察しているのです。

例えば、何度も、(ほとんどの場合、ジャズの世界で発言する立場にある白人男性によって)
私の作品は、「数学的」で、「技巧的」、「偽物のジャズ」、「コンセプチュアルすぎる」、「オタクのためのジャズ」、「不協和音」、「アカデミック」、そしてつい最近、「失敗作」と呼ばれました。

数年経つうちに、人種的な内容がこのような批評の中に付随するようになりました。

『アジア人にはソウルがないので、アーティストになろうと努力するだけ無駄であり、
特に「ブラックネス」というイメージの直結する(ジャズの様な)分野においては、見込みがない。 』
しかしこれは白人の純粋に直観的でインテレクチュアルではない批評であり、
多く存在する白人のジャズミュージシャンに対してはこのような批評は無縁なのです。

1990年代の初めに、私はUCバークリー大学で、物理学専攻の博士課程にありました。
同時に、オークランドでアフリカン・アメリカンのミュージシャンをメンターとして音楽の勉強もしていました。 また同時に、Asian Improv Arts(アジア人即興芸術)というアジア系アメリカ人の活動家アーティストのコミュニティの一員でもありました。
この団体は、30年以上前に、ジョー・ジャン、フランシス・ワン、マーク・イズ、フレッド・ホーなどの面々により設立されたものです。

そしてこの団体は、アフリカン・アメリカンの連合体としての政治、そしてアクティビズムの功績から直接的な影響を受けました。
音楽業界の上部構造を回避し、彼らは自分達自身のレーベルを立ち上げます。
私は彼らの恩恵を受け、最初の二枚のアルバムをこのレーベルから出すことができました。
ベイエリアの大きなアジア系アメリカ人のコミュニティの期待を受け、
San Francisco Asian American Jazz Festivalを始めとする様々なイベントも運営しています。
アジア系である、という共通点を彼らは様々な形で利用してきました。
それは、異国風のアジア・ジャズ・フュージョンを作るとかではなくて、
創造的探求の場所のため、多様性を分かりやすく表現するため、フェティシズムからの脱却、
アンチ・オリエンタリズムの改造、そしてコミュニティ運営の実践という形で、です。
そうやって、Asian Improv Artsは、アジア系アメリカ人のコミュニティメンバーが集まり、様々なものを作り上げる場所と機会を提供してきたのです。

彼らは、若くクリエイティブなアジア系アメリカ人のミュージシャンのひとりとして私を暖かく迎え入れてくれました。
その当時、私にとっては、「アジア系アメリカ人」の連合に私のような南アジア人が入り込むことができるかどうか疑問でした。

西海岸の人種的構造は今と少し違い、何世代も続く日系アメリカ人と中国系アメリカ人のコミュニティに、わずか30年あまりしか存在しない南アジア系アメリカ人のコミュニティは圧倒されていました。
シリコンバレーとクイーンズを除いては、私達の数は圧倒的に少なかったのです。
さらに言うと、南アジア系と東アジア系の間には、連帯感の様なものはまるで存在しませんでした。
ですから、最初は、私達が同じ困難を共にする者として自分達をひとくくりにするのには、
まだ早いのではないかと、戸惑いを感じたのを覚えています。

それは、北カリフォルニアにおける、インド由来のものすべてに対する傲慢な文化的関連性とも混ざり合った感情でした。
ヨガや瞑想、お香やタンプーラ(ドローンの一種)、タブラ、インド風ネックレスに腕輪にビーズ、
そういうものすべてに魅了されるアメリカ人にとって、 北カリフォルニアは聖地の様な場所でした。
もしこの数週間のうちにベイエリアに行く機会があれば、アジアン・アート美術館に行ってみてください。興味深いヨガについての展示があります。
この展示に、私の友人でアーティスト、デザイナーのチラーグ・バクタが参加し、膨大な数のエフェメラのコレクションを出しています。その名も、『ヨガをする白人』という、物議を醸すタイトルです。

この作品は、20年前に私が南アジア系アメリカ人として通りぬけ、抵抗してきた物を象徴しています。それは、異国風のものを好み、取り入れようとしてきた白人の文化的雑食性の傾向のことです。
アーティストとして旅をし、様々な場所を見た結果、ベイエリアの白人が、ジャズやヒップホップ、そしてすべての黒人文化に対して、同じようなスタンスで接していることに気付きました。
黒人のアイデンティティやコミュニティを提示するという強気な態度ではなく、
白人が身につけたり、収集したり、または白人の主観性に取り込んでしまうというフェティシズムという形で、です。


南アジア系のアメリカ人という存在自体がアメリカ社会において新しく、
人々は私達が誰で、どんな背景を持っているかをよく知りませんでした。
私達がひとつの集団として主流文化に初めて登場しだしたのは、1990年代、私の世代が成人した頃のことです。
私達は、1965年以降の、西欧圏の外からやってきた移民の医者、科学者、エンジニアなどの両親のもとに生まれた最初の世代の子供達でした。
私達は、言ってみれば、希望を持ち、ある程度の教育を受ける特権と階級を持ち、
またある程度の文化的な不透明さを持った、新しいタイプのアメリカ人だったのです。


私が最初のアルバムをAsian Improvのレーベルから出すという話をアングロ・アメリカンのパーカッショニストにした時のことをよく覚えています。
彼は、まるで私が重大な間違いをおかしたような表情でこう言いました。
「インドがアジアの一部だなんて知らなかったな。」
私は、インドは南アジアに位置しており、それはアジアのうちに入るのだと思うと言いました。
彼の返事はこうでした。
「だったら、僕は北西のアジア人だな。そのレーベルから僕もレコードを出せるかな。」
それは、8年生の時に、クラスメイト達が私に向かって「サンチェス」とか「フィリッペ」とかいう南米風の名前を叫んできた時の感じによく似ていました。
私達は、基本的には、異なった経験の額ぶちに入れられ、認められず、存在を認識されることもほとんどない、「謎」の種族でした。

Asian Improvの仲間達、それから敬愛するアフリカン・アメリカンのメンター達に育てられ、
90年代に私のアーティストとしてのプロジェクトは始動していきました。
めぐり合わせ、コラボレーション、コミュニティ、そういったものに突き動かされて、
私はあらゆる種類のことを試しました。

他のアジア系アメリカ人や、アフリカン・アメリカン、異なった人種の人と様々な共同プロジェクトを行ったのも、コミュニティという概念を熟考し、動かし、試し、また時には批判するためでした。
コミュニティとは何か?
私の友人で政治科学者のカラ・ウォンは、彼女の「義務の境界線」という本の中で、
「個人のマインドの中にある、類似性、従属、仲間意識を感じさせる集団に対してのイメージ」n
という風にコミュニティを定義しています。

コミュニティとは、私達の想像の賜物とも言えるでしょう。
これは政治学者ベネディクト・アンダーソンの重要な識見でした。
そして、この想像する力のおかげで、コミュニティという概念は現実世界に反映されていくのです。
カラ・ウォンは彼女の本の中でこのようにも述べています。
「自己定義された共同体意識は、個人の興味、価値やイデオロギーの内容にかかわらず、
共同体のメンバー皆がより良く生きていくという目的に対しての興味、そして責任を促します。 」

9・11以降、南アジア系アメリカ人のコミュニティはあらゆる困難に直面してきました。
(テロを理由に中東系の者に対するヘイト・クライムが多発したため)
他者と、社会的主張を共有していく課程で、私達は自分達自身がもっと大きい存在であると想像することを学びました。
アフリカン・アメリカンのライター、グレッグ・テイトは、2001年に私に向かってこう言いました。
「人種別尋問の世界へようこそ。」

私達は、自分達自身の宗教的、文化的多様性を自覚し、認めざるをえませんでした。
シーク教徒、ムスリム、キリスト教徒、ジャイナ教徒、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人、ネパール人、インド人、アフガニスタン人、ブータン人、そしてアラブ、中東、アフリカの北と東、東アジア及び東南アジア、すべてのディアスポラ、そしてもちろん、アフリカン・アメリカンにラティーノ。
有色人種の他のコミュニティも含めた、圧倒的な多様性です。
私達が共有していたのは、困難とそこから生まれる主張、恐れや監視、疑惑、パラノイア、円満する不平等の雰囲気でした。

さらに、1960年代以降のアメリカの人口統計において、成功をおさめ、富裕層となり、
急激にコミュニティの中の財産を築いていった私達は、私達が世界の中でどういう立ち位置にあり、どこに特権を持っているかということを理解するために、
新しい共同意識を発展させる必要がありました。
その最中でも、私達は日々、他者からの微妙な人種的発言や行動の猛襲を受け、
未だに私達はメインストリームの文化からは忘れられ、求められていない、という事実を噛みしめてきました。
マーチン・ルーサー・キング牧師はマハトマ・ガンジーのやり方を見習ったことを、
そして私達アジア系アメリカ人は、この国を造り上げてきたアフリカン・アメリカンと、他のマイノリティーの正義の為の葛藤から、精神的には切り離すことのできない場所にいるということを、
決して忘れてはならないのです。

今朝私はフロリダから飛行機でここへ来ました。
フロリダという州は、武器を持たない黒人の子供を撃って殺すことが、違法ではない州のひとつです。(トレイボン・マーティン事件のこと)
私は今日、我々自身に疑問を投げかけたいと思います。
この恐ろしいアメリカの実体と、私達自身はどのような関わりがあると思いますか?


去年の秋、私は家族と共にアトランタに行き、キング牧師の歴史的跡地を訪れました。
そこには、美しいガンジーの像が立っていました。
ディスプレイには、キング牧師の痛烈な言葉が刻まれていました。
「人生における最も絶え間なく、且つ答えが急がれる疑問とは、自分は他者の為に何をしているか、ということである。」
 私があなた達に知ってほしいのは、どんな肩書きがあっても、私はまずひとりのアーティストであるということです。
アーティストとして、私は先に述べたキング牧師の質問を毎日自らに投げかけます。

私は他者の為に何をしているか?


これまで私は3つの目標を追いかけてきました。
ひとつに、文化的背景の中に、継続的な、注目せざるをえない、複雑な存在を創りだすことです。
ポール・ローブソンやニナ・シモン、ジョン・コルトレーンそしてジミー・ヘンドリックスなどのアフリカン・アメリカンの開拓者達も経験したことだと思いますが、
自分というアーティストを(人種を理由に)否定し得る文化を前にして、
西欧社会における有色人種のアーティストは、「私は事実である。」と、力強く宣言する必要があるのです。

このように、境界線からの咆哮とも呼ぶべき、挑戦的な存在感の芸術家には、
文化を掻き乱し、変貌させる力があります。
その力は、新しいアメリカの息吹に耳をかたむけ、その誕生をうながすことでしょう。
そしてまた、この挑戦的な存在は、私達の様な「他者」の想像力を突き動かす力も持っています。
ディアスポラである若いアジア系アメリカ人達は、ついに、文化背景に自分達の代表がポジティブな受容をされ、自分達も大きな夢を持つことができる、と勇気づけてもらえたのです。

二つ目の目標は、アミリ・バラカやハイレ・ゲリマ(エチオピア出身の映画監督)、テジュ・コール(ナイジェリア出身の小説家)そしてマイク・ラッド(詩人)に代表される、マイノリティーのアーティスト達との協力関係をスタートさせ、そして継続することです。
そうすることで、私達は、伝統や国家、信念を超越したコミュニティという概念を想像し、構築し、 動かすことができると思うのです。
そうすれば、私達は否定しようのないフォースとなり、良い意味で物事をひっくり返していける、
ひとつのグループとして、新しい現実を想像し、創りだしていけるのではないでしょうか。

三つ目の目標は、

正義ある社会に対して参加していくことの重要性を強調し、示していくことです。
ヨーヨーマも言及していますし、私自身も生徒にいつも言い聞かせることですが、
芸術的人生とは、献身的人生です。
あなた達の中に、もし政治的活動家やコミュニティのオーガナイザーが居れば、
積極的に周りのアーティスト達と協力し仕事をしていくことを勧めます。
私達のミッションがあなた達のミッションに貢献するためにです。
そうして私達は、必要な行動を起こしていくための革命的な想像力をお互いに喚起していくことができると思います。

あなた達そして私自身にどうか努力していってほしいことがあります。
それは、私達自身の「贅沢の共謀」 に関しての問いかけをいつも自分にすることです。
私達の意志には関係ないところで、時に、コミュニティが他の誰かの苦しみをもとにした支配のシステムを包括し得るということを頭において、常に注意深くいて下さい。

私達は、地球上に生きるすべての人々の平等と正義のため改革的な献身をできるでしょうか?
もし私達が自分達のことをアジア系アメリカ人と呼ぶのであれば、
このアメリカという国家が過去に犯してきた過ちを認めることを拒むようなアメリカ人になるのではなく、すぐには私達の社会に属するようには見えない人々や移民のためにもより良いアメリカになるための手助けをしませんか?

「私達」とは誰のことでしょうか?
私にとっては、何らかの連合やコミュニティに自分が属することを決めた時、
それは、「過去を忘れない我々」、「未来のことを気にかける我々」、 「思いやりをもち、懐深く、忍耐強く、 他者の繁栄のために献身する我々」、「『私達』という呼びかけをすることは終わりではなく始まりであることに賛同する我々」のことを意味します。
正義の為にこれからも奮闘していきましょう。
ありがとうございました。

       
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