2015年4月29日水曜日
REMA HASUMI "UTAZATA"
2013年に録音をしてからというもの、編集をゆっくりとしてきたもので、割と長い期間が経ってしまったけれど、いよいよ5月3日にリリースする。
この作品は、結論から言うと、コンセプト・アルバムという形になった。
日本の伝統音楽から、「東遊」、「筑前今様」、「御詠歌」、「竹田の子守唄」を取り上げ、それぞれのテーマをキャンバスにして、インプロビゼーションで抽象画を描いていく様に演奏したものだ。
正直に言って、自分が、最初の作品を創るにあたって、「日本風」のものを取り入れるという考えは、
初めは私の頭の中に微塵もなかった。
録音の構想を始める前の数年間は、かなり深くアリス・コルトレーンの音楽にのめり込んでいたし、
60〜70年代のスピリチュアルジャズと呼ばれるようなものが好きで、ファラオ・サンダースやサンラなんかをよく聞いていた。
この時期私は、ダリウス・ジョーンズと一緒にアリス・コルトレーンの曲を演奏するコンサートを重ねていたのだけど、彼女の創りあげたコンポジションの持つ魅力へより深く潜り、彼女の音楽的軌跡を辿るうちに、音楽の独創性は自分自身の内側を見ることでしか得られないのだということをアリスに教えられた気がした。
同時に、女性特有の表現をしたいという気持ちも、メアリー・ルー・ウィリアムスやアミナ・クローディン・マイヤースを聴きながら日に日に私の内側で育っていた。
そういう感覚というのは、アメリカで、「ジャズ」という言葉でくくられる種類の音楽を演奏する経験の中で感じた強い違和感を発端にしたひとつの着地点であったと思う。
理論や格好良さを武器にしたものばかりではなく、抽象や「いびつ」さが中心になる世界観が表現されてもいいのではないかと感じていた。
インプロビゼーションという奏法の奥へ奥へと足を踏み入れる程に、
「自分ではないもの」を弾くことができなくなっていた。
私はジャズを弾きたくて今までやってきたけれど、だいたい、自分の表現は何を根幹としているだろうかという素朴な疑問に私はその頃ぶつかっていた。
その時に初めて、きちんと自分の生まれた場所の芸能と一度向き合ってみようと思い、
日本の芸能、女性史、土着文化、信仰を焦点とした様々な資料を読んだ。
そのひとつのまとめとして、日本芸能史に見る音楽と平和 を書いた。
そういった探索の中で、私は桃山晴衣の音楽と出会い、日本の唄の素晴らしさを知った。
同時に、西洋的な音楽の解釈や理論に呑み込まれて、非西洋的音楽が少しずつその姿を消していくことに恐ろしさを感じていたし、自分がそういう潮流に何も考えずに身をまかせてきたことにも落胆した。
その頃、同時に素晴らしい音楽家達との出会いもあった。
タイショーン・ソーリーの「公案」は特に、このアルバムを創るにあたっての大きなインスピレーションになっている。
初めて「公案」を聞いた時、そのミニマリズム、静謐さの中に同時に存在する緊張と緩和の絶妙なバランスに圧倒された。タイトルからも分かる様に、意図的に東洋的アプローチをした音楽であるように思えるが、そこには所謂オリエンタリズムと呼ばれる類のものとは一線を画す、洗練された「何か」があった。
「公案」でソーリーと共演しているギタリスト、トッド・ニューフェルドとベーシスト、トーマス・モーガンの演奏、そして彼らを経由して聴き始めた菊地雅章さんの音楽。
ジェン・シューの祭祀音楽、民族音楽をインプロビゼーションに持ち込んだパフォーマンス。
彼らはそれぞれに非常に個性的な音楽へのアプローチを持っていて、
このままあらゆるものすべてが一面化されていってしまうかもしれないという現代社会の本質的な脆さ、そこに一石を投じるインパクトを持つように感じられた。
彼らからの鼓舞、影響ははかり知れない。
このアルバムに私がつけたタイトルは『UTAZATA』といって、「女性芸能の源流(脇田晴子著)」という本の中で述べられている「歌沙汰」という表現から来ている。
今様狂いであった後白河院と今様唄いであった傀儡女たちの間で交わされた「正しい歌の旋律」を決める熱心な音楽談義の事をさす言葉として、著書の中では使われている。
この話を読んだ時に、ふと私が思ったのは、
そういう音楽談義というのは、「何がジャズで何がジャズではない」、とか、「誰々がジャズを弾くにふさわしく、誰々がふさわしくない」という話し合い、つまり「正しいジャズとは何か」という現代のディスカッションと割と似ているんじゃないだろうか、ということだった。
フリー・インプロビゼーションの手法を持って、平均律にとらわれない演奏を求め、切磋琢磨している音楽家のひとりであるからこそ、私は「正しい旋律」や「正しいジャズ」というテーマを持ったディスカッションに対して不条理的な見方をしている。
と、同時に、そういったテーマについて何時間も話しあえるというのは、ある意味では素晴らしく平和的、人間的行為だという称賛の思いも持っている。
この様なテーマのディスカッションを喚起する様な側面が、UTAZATAには少なからずあるんじゃないかと思う。そういう意味合いがアルバムタイトルに込められている。
「歌沙汰」という言葉は、音楽狂いの我々を、不条理と滑稽と愛着をもって俯瞰する。
先に述べたテーマに見る人間の「形状の継受」への執着と、
その反動としてのインプロビゼーションという対比は面白いし、私はその今その渦中にいる。
もしどこかの誰かがこのアルバムを聞いてくれた時に、
「どうして日本の歌をテーマにしたんだろう。」という疑問がきっと湧くと思ったので、
そういう時にこの文章にたどり着いて参考にしてくれたら、と思っている。
"UTAZATA" CD Release Concert
5/3 sunday
8pm @ ShapeShifter Lab
Rema Hasumi (piano/keyboard/vocal)
Todd Neufeld (guitar)
Thomas Morgan (bass)
Billy Mintz (drums)
Sergio Krakowski (pandeiro/adufo)
Ben Gerstein (trombone)
CD Available at Ruweh Records Website
2014年11月13日木曜日
Rema Hasumi Solo : "Patterns of Duplicity"
今回のソロ・コンサートは、
テーマとして、宮沢賢治の『春と修羅』を選んだ。
ここ数カ月間、私は即興の演奏をすることと、言葉を話す行為との関係について考えていた。
即興演奏の世界には、私はもともとジャズという媒体を通じて入っていったけれど、
ジャズの即興には意外に沢山のきまりごとがあって、私はそれをきちんと全部守って流暢に弾くことができなかった。または、ある程度はできていたとしても、そうする課程において、コンファタブルと感じることができなかった。
一定の理論的ルールを守っての即興、という演奏方法に対して感じたフラストレーションは、私が言語に対して感じてきたフラストレーションに通じるものがあった。
考えてみれば、私が一番『流暢に』言葉を話すことができていたのは、 高校生くらいの時じゃないかと思う。
それは、会話する言語として英語を使い始める前のことだ。
その時期が一番、伝えたいことを的確に、躊躇せず会話の中の言葉で表現することができていたと思う。
例えば生まれたばかりの赤ん坊が、母親に伝えたいことを伝えるために あうあうあう という音を発する。
例えば言葉を持つ前の原始人類が、仲間同士で意思伝達するために、声を使い、試行錯誤して何らかの音的シンボルを作り出す。
このとてもプリミティブな声を伴った表現とそれを誘発する人間の共有意識、
それが、私がインプロビゼーションの根本に据えているものだ。
コンサートでは、『春と修羅』の英語訳を朗読しながらインプロヴァイズし、
日本語の原詩の朗読、即興言語での同詩の表現に続く。
第一言語と第二言語での朗読、それぞれにおいて、もちろん即興の媒体となる私自身の言語的経験が濃密に音楽的表現にも反映されていく。
これを練習する課程において、
いかにリズムとイントネーションが言語表現において重要な役割を担っているかを再確認した。
結果的に、自分が普段、会話においては使わない音韻的表現を、朗読しながら初体験し、
自らのオルターエゴを発見するような、不思議な経験をすることになった。
推測される通り、三つ目の、創作言語を使った即興演奏においては、
原詩において表現される世界観を視覚的に認知したものを抽象表現する。
既存の言語的枠組みからの解放、及び、既存の音楽理論からの解放を二重に経験する。
演奏者はもちろん、可能性として、オーディエンスもをそれを感じることができるかもしれない。
もうひとつ、パフォーマンスの一部としてのインスタレーションに、
パブロ・ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』からの詩の一部を引用を使う。
偶然なのだが、ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』と、
宮沢の『春と修羅』は同じ1924年に出版されていた。
1924年。
日本では大正デモクラシーが収束を迎え、文化という言葉がもてはやされた。
ニューヨークではガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』が初演。
サラ・ヴォーンやマックス・ローチ、そしてジェームス・ボールドウィンが誕生した。
今からさかのぼって90年前のこと。
=== November 14, 2014 ===
• 7pm: Rema Hasumi solo "Patterns of Duplicity - The Poetry and Sound of Kenji Miyazawa”: piano & vocals
• 8pm: Jen Shyu’s “Solo Rites: Seven Breaths”: vocals, Taiwanese moon lute, gayageum, piano, dance, directed by Garin Nugroho
• 9pm: Jade Tongue’s “Sounds and Cries of the World” 1st Fold: "Wehali: Birds from Inside"
John Hébert, bass
Ben Monder, guitar
Satoshi Haga, dance
Val-Inc, electronics
Jen Shyu, vocals, instruments, dance
@ Shapeshifter Lab
18 Whitwell Place, Brooklyn, NY 11215
Tix: http:// www.brownpapertickets.com/ event/896655
$15 ($12 w/ student ID)
テーマとして、宮沢賢治の『春と修羅』を選んだ。
ここ数カ月間、私は即興の演奏をすることと、言葉を話す行為との関係について考えていた。
即興演奏の世界には、私はもともとジャズという媒体を通じて入っていったけれど、
ジャズの即興には意外に沢山のきまりごとがあって、私はそれをきちんと全部守って流暢に弾くことができなかった。または、ある程度はできていたとしても、そうする課程において、コンファタブルと感じることができなかった。
一定の理論的ルールを守っての即興、という演奏方法に対して感じたフラストレーションは、私が言語に対して感じてきたフラストレーションに通じるものがあった。
考えてみれば、私が一番『流暢に』言葉を話すことができていたのは、 高校生くらいの時じゃないかと思う。
それは、会話する言語として英語を使い始める前のことだ。
その時期が一番、伝えたいことを的確に、躊躇せず会話の中の言葉で表現することができていたと思う。
例えば生まれたばかりの赤ん坊が、母親に伝えたいことを伝えるために あうあうあう という音を発する。
例えば言葉を持つ前の原始人類が、仲間同士で意思伝達するために、声を使い、試行錯誤して何らかの音的シンボルを作り出す。
このとてもプリミティブな声を伴った表現とそれを誘発する人間の共有意識、
それが、私がインプロビゼーションの根本に据えているものだ。
コンサートでは、『春と修羅』の英語訳を朗読しながらインプロヴァイズし、
日本語の原詩の朗読、即興言語での同詩の表現に続く。
第一言語と第二言語での朗読、それぞれにおいて、もちろん即興の媒体となる私自身の言語的経験が濃密に音楽的表現にも反映されていく。
これを練習する課程において、
いかにリズムとイントネーションが言語表現において重要な役割を担っているかを再確認した。
結果的に、自分が普段、会話においては使わない音韻的表現を、朗読しながら初体験し、
自らのオルターエゴを発見するような、不思議な経験をすることになった。
推測される通り、三つ目の、創作言語を使った即興演奏においては、
原詩において表現される世界観を視覚的に認知したものを抽象表現する。
既存の言語的枠組みからの解放、及び、既存の音楽理論からの解放を二重に経験する。
演奏者はもちろん、可能性として、オーディエンスもをそれを感じることができるかもしれない。
もうひとつ、パフォーマンスの一部としてのインスタレーションに、
パブロ・ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』からの詩の一部を引用を使う。
偶然なのだが、ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』と、
宮沢の『春と修羅』は同じ1924年に出版されていた。
1924年。
日本では大正デモクラシーが収束を迎え、文化という言葉がもてはやされた。
ニューヨークではガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』が初演。
サラ・ヴォーンやマックス・ローチ、そしてジェームス・ボールドウィンが誕生した。
今からさかのぼって90年前のこと。
=== November 14, 2014 ===
• 7pm: Rema Hasumi solo "Patterns of Duplicity - The Poetry and Sound of Kenji Miyazawa”: piano & vocals
• 8pm: Jen Shyu’s “Solo Rites: Seven Breaths”: vocals, Taiwanese moon lute, gayageum, piano, dance, directed by Garin Nugroho
• 9pm: Jade Tongue’s “Sounds and Cries of the World” 1st Fold: "Wehali: Birds from Inside"
John Hébert, bass
Ben Monder, guitar
Satoshi Haga, dance
Val-Inc, electronics
Jen Shyu, vocals, instruments, dance
@ Shapeshifter Lab
18 Whitwell Place, Brooklyn, NY 11215
Tix: http://
$15 ($12 w/ student ID)
2014年7月12日土曜日
満月のコンサート
明日のコンサートについて。
まづは私の出番においては、トッド・ニューフェルドのギターとビリー・ミンツのドラムとの3人の編成で、フリーでの演奏をする。
今回は12月に行ったレコーディングでの内容の継続という形で、
テーマに雅楽の東遊びや、八重山の古謡などを唄い、インプロビゼーションのボイスも入れてみようと思っている。
この試みを始めたのは、アメリカの音楽を学んできて、ふと振り返った時に、
自分の生まれ育った土地の音楽がどうしようもなく置き去りにされているように感じたことがきっかけだ。音程の感覚も、楽譜の書かれ方も、リズムの感覚も、私は日本の音楽について何もしらなかった。
近世の家元の伝統や、戦後の商業音楽よりも、もっと前の、土地の信仰に基づいたものを知りたいと思った。
日本の古い音楽、唄をモダンなインプロビゼーションに混ぜ込むことは、
所謂12音階に基づいた「ジャズ」というやり方と日本音楽を混ぜることよりも自然に成すことができるのではないかという実験である。
なぜなら私の弾くインプロビゼーションは、調性と無調性の間を行き来するものなので、
理論に基づく和音よりも、ひとつひとつの自立した音の有機的な集まりを主体とする。
で、これは日本の音楽の特徴であるヘテロフォニーとの相性が良いのではないかと思っている。
ジェン・シューのソロオペラ公演を見て衝撃を受けた私は、
トッドを通じて知り合ったジェンに、思い切って共同コンサートを持ちかけ、今回の演奏も決まった。
正直言ってものすごくプレッシャーはあるけれど、彼女の様な素晴らしい音楽家とステージを共にすることに抑えきれない興奮もある。
ジェンの研究してきたものは、韓国やインドネシアの祭祀音楽であるようなので、
インプロビゼーションとアジアの土着音楽の融合という点でテーマは同じだ。
私としては、どうしてもヨーロッパ中心主義や、黒人中心主義になってしまう傾向のある音楽の世界に、多様性をいまいちど提示したいという気持ちがあり、
そうするために「フリー」またはインプロビゼーションという演奏方法は最適のキャンバスである。
まづは私の出番においては、トッド・ニューフェルドのギターとビリー・ミンツのドラムとの3人の編成で、フリーでの演奏をする。
今回は12月に行ったレコーディングでの内容の継続という形で、
テーマに雅楽の東遊びや、八重山の古謡などを唄い、インプロビゼーションのボイスも入れてみようと思っている。
この試みを始めたのは、アメリカの音楽を学んできて、ふと振り返った時に、
自分の生まれ育った土地の音楽がどうしようもなく置き去りにされているように感じたことがきっかけだ。音程の感覚も、楽譜の書かれ方も、リズムの感覚も、私は日本の音楽について何もしらなかった。
近世の家元の伝統や、戦後の商業音楽よりも、もっと前の、土地の信仰に基づいたものを知りたいと思った。
日本の古い音楽、唄をモダンなインプロビゼーションに混ぜ込むことは、
所謂12音階に基づいた「ジャズ」というやり方と日本音楽を混ぜることよりも自然に成すことができるのではないかという実験である。
なぜなら私の弾くインプロビゼーションは、調性と無調性の間を行き来するものなので、
理論に基づく和音よりも、ひとつひとつの自立した音の有機的な集まりを主体とする。
で、これは日本の音楽の特徴であるヘテロフォニーとの相性が良いのではないかと思っている。
ジェン・シューのソロオペラ公演を見て衝撃を受けた私は、
トッドを通じて知り合ったジェンに、思い切って共同コンサートを持ちかけ、今回の演奏も決まった。
正直言ってものすごくプレッシャーはあるけれど、彼女の様な素晴らしい音楽家とステージを共にすることに抑えきれない興奮もある。
ジェンの研究してきたものは、韓国やインドネシアの祭祀音楽であるようなので、
インプロビゼーションとアジアの土着音楽の融合という点でテーマは同じだ。
私としては、どうしてもヨーロッパ中心主義や、黒人中心主義になってしまう傾向のある音楽の世界に、多様性をいまいちど提示したいという気持ちがあり、
そうするために「フリー」またはインプロビゼーションという演奏方法は最適のキャンバスである。
2014年6月20日金曜日
Rema Hasumi / Darius Jones / Dan Weiss @ Spectrum
6月18日の演奏。
ダリウス・ジョーンズとダン・ワイスとのトリオ編成。
最初から最後まで即興で通した。
ダリウス・ジョーンズとは共演し始めて約2年程経っていて、
色んな内容の音楽を、色んな編成で一緒に弾いてきたけれど、
根本で彼と私の音楽が繋がるのは、ブルースのフィーリングと、スピリチュアルな音の探求だと思う。
今回の即興で一番手応えを感じたのは、ひとつのアイディアに深く沈み込んでいくことで、
即興の中に、作曲されたもののような必然的な部分を刷り出して即興の構造をもっと立体的にする、というプロセス。
これは、家でソロピアノでずっと弾いていたものを、トリオでも応用することができた。
ドラムのダン・ワイスも、まったく媚びず、彼のユニークな弾き方でそのまま正直に絡んできたので、
私が頭の中で描いていたものとは少し違う演奏になったのだけれど、
それが即興というものだし、そこからどれだけ音楽を開いていけるか、というのは本当にやりがいのあることだと思う。
私達のすぐ後には、アイヴァンド・オプスヴィクがアンジェリカ・サンチェスをキーボードに、
クリス・デイヴィスをプリペアド・ピアノに従えた新しいバンドで演奏した。
その後は、ベルギー出身のドラマー、フリン・ヴァン・ヘメンのバンド。
パスカル・ニッゲンケンパーがプリペアド・ベースを弾き、ピアノはフェンダー・ローズのソロパフォーマンス作品を発表しているジョゼフ・ドゥモウリンだった。
どれも素晴らしい演奏。
いつも謙虚さを忘れないように。
少しずつ、変化している。
ダリウス・ジョーンズとダン・ワイスとのトリオ編成。
最初から最後まで即興で通した。
ダリウス・ジョーンズとは共演し始めて約2年程経っていて、
色んな内容の音楽を、色んな編成で一緒に弾いてきたけれど、
根本で彼と私の音楽が繋がるのは、ブルースのフィーリングと、スピリチュアルな音の探求だと思う。
今回の即興で一番手応えを感じたのは、ひとつのアイディアに深く沈み込んでいくことで、
即興の中に、作曲されたもののような必然的な部分を刷り出して即興の構造をもっと立体的にする、というプロセス。
これは、家でソロピアノでずっと弾いていたものを、トリオでも応用することができた。
ドラムのダン・ワイスも、まったく媚びず、彼のユニークな弾き方でそのまま正直に絡んできたので、
私が頭の中で描いていたものとは少し違う演奏になったのだけれど、
それが即興というものだし、そこからどれだけ音楽を開いていけるか、というのは本当にやりがいのあることだと思う。
私達のすぐ後には、アイヴァンド・オプスヴィクがアンジェリカ・サンチェスをキーボードに、
クリス・デイヴィスをプリペアド・ピアノに従えた新しいバンドで演奏した。
その後は、ベルギー出身のドラマー、フリン・ヴァン・ヘメンのバンド。
パスカル・ニッゲンケンパーがプリペアド・ベースを弾き、ピアノはフェンダー・ローズのソロパフォーマンス作品を発表しているジョゼフ・ドゥモウリンだった。
どれも素晴らしい演奏。
いつも謙虚さを忘れないように。
少しずつ、変化している。
2011年7月28日木曜日
7/21、
演奏することによって、自分のスピリットが浄化されるということを経験した。
今まで、少し無理をしてでも、何かしらの形に入ろうと頑張ってきた事柄について、
もう無理をしなくてもいいんだと、ストンと理解できるようになった。
自然体で、そのままでいればそれでいいんだ、っていうことを、体で感じた。
形に入ろうとしなくてもいい。
自分が形をつくれば、窮屈じゃなくなる。
そして、そのピースフルなヴァイブレーションは、魂の内側からじわじわと生まれてくるものだということ。
自分を愛してみることは、そのまま他人を愛すること、大切にすることに繋がっていて、
それが平和のヴァイブレーションに繋がっていること。
好きなことを、自由にやっていい。
リミットー限界 という思考は、自分が自分の頭の中で作っている。
私のライブに、
沢山の人が来てくれた。
ひとりひとりに話しかけて、
私の音楽を聞いてもらって、
・・・こんなに溢れるくらいの愛情を、私は受け取っていいのだろうか? と自問した。
嬉しくて、
恥ずかしくて、
照れくさかった。
その時に、ごく自然に、その受け取った愛や想いを、みんなに転写/反射できた。
そして、みんなが、みんな、この壮大なストーリーの主役として生きているということを、手に取るように感じた。
そう思うと、それぞれの存在がとても愛おしく、大切に感じた。
その気持ちでひとりひとりの存在と接するごとに、場のエネルギーが強くなるのがわかった。
その感覚というのが、oneness と呼ばれるものにきっと限りなく近い。
演奏することによって、自分のスピリットが浄化されるということを経験した。
今まで、少し無理をしてでも、何かしらの形に入ろうと頑張ってきた事柄について、
もう無理をしなくてもいいんだと、ストンと理解できるようになった。
自然体で、そのままでいればそれでいいんだ、っていうことを、体で感じた。
形に入ろうとしなくてもいい。
自分が形をつくれば、窮屈じゃなくなる。
そして、そのピースフルなヴァイブレーションは、魂の内側からじわじわと生まれてくるものだということ。
自分を愛してみることは、そのまま他人を愛すること、大切にすることに繋がっていて、
それが平和のヴァイブレーションに繋がっていること。
好きなことを、自由にやっていい。
リミットー限界 という思考は、自分が自分の頭の中で作っている。
私のライブに、
沢山の人が来てくれた。
ひとりひとりに話しかけて、
私の音楽を聞いてもらって、
・・・こんなに溢れるくらいの愛情を、私は受け取っていいのだろうか? と自問した。
嬉しくて、
恥ずかしくて、
照れくさかった。
その時に、ごく自然に、その受け取った愛や想いを、みんなに転写/反射できた。
そして、みんなが、みんな、この壮大なストーリーの主役として生きているということを、手に取るように感じた。
そう思うと、それぞれの存在がとても愛おしく、大切に感じた。
その気持ちでひとりひとりの存在と接するごとに、場のエネルギーが強くなるのがわかった。
その感覚というのが、oneness と呼ばれるものにきっと限りなく近い。
2011年7月19日火曜日
solo concert
Rema Hasumi Solo
7/21 Thursday 8pm
at Gershwin Hotel (7 E27st between 5th and Madison Ave)
Admission : $10
Instrumentation : Grand Piano, Nord Electro 3 and Electro Harmonix 2880
Music of Alice Coltrane, Mary Lou Williams, little bit of John Cage and free improvisations...
7/21 Thursday 8pm
at Gershwin Hotel (7 E27st between 5th and Madison Ave)
Admission : $10
Instrumentation : Grand Piano, Nord Electro 3 and Electro Harmonix 2880
Music of Alice Coltrane, Mary Lou Williams, little bit of John Cage and free improvisations...
2011年5月12日木曜日
my blue print
ずっと ずっと
何度も 何度も
試行錯誤して
考え続けてること。
本当に、ずっと考えている。
どの表現方法を自分は選ぶか。
今年に入ってから、フリーの即興演奏を始めたこともあって、
あまり弾いていなかったスタンダードジャズの演奏を今日してみたら、意外に気持ちが良かった。
だけど、やっぱり自分に合っている奏法、自分が一番臆する事無く表現できる方法は、フォームのない即興演奏だと、思う。きっと。
アメリカの音楽を勉強してきて、その文化、歴史を尊敬し、愛してはいるけれど、
私は決して、その真似事がしたいわけではない。
多分、私にとって、音楽を弾く至高の(そして無意識の)目的は、感情の、深みのある側面を思い切り音楽という媒体を通して表現することだ。。。
だから、音楽を、商業的に捉えることはもしかしたら一生できないかもしれない。
職業音楽家としては駄目なのかもしれない。
多分、悩んでる、焦る、といつも思ってはいるけれど、
やりたいことは奥底ではわかっている。
人間の感情の、様々なレベルの立体感を、表すこと。
いわばシャーマニズム。
ということを、自分の演奏の音源を聞きながら書いた。
何かが生まれつつある。
卵をあたためている親鳥の気分。
何度も 何度も
試行錯誤して
考え続けてること。
本当に、ずっと考えている。
どの表現方法を自分は選ぶか。
今年に入ってから、フリーの即興演奏を始めたこともあって、
あまり弾いていなかったスタンダードジャズの演奏を今日してみたら、意外に気持ちが良かった。
だけど、やっぱり自分に合っている奏法、自分が一番臆する事無く表現できる方法は、フォームのない即興演奏だと、思う。きっと。
アメリカの音楽を勉強してきて、その文化、歴史を尊敬し、愛してはいるけれど、
私は決して、その真似事がしたいわけではない。
多分、私にとって、音楽を弾く至高の(そして無意識の)目的は、感情の、深みのある側面を思い切り音楽という媒体を通して表現することだ。。。
だから、音楽を、商業的に捉えることはもしかしたら一生できないかもしれない。
職業音楽家としては駄目なのかもしれない。
多分、悩んでる、焦る、といつも思ってはいるけれど、
やりたいことは奥底ではわかっている。
人間の感情の、様々なレベルの立体感を、表すこと。
いわばシャーマニズム。
ということを、自分の演奏の音源を聞きながら書いた。
何かが生まれつつある。
卵をあたためている親鳥の気分。
2011年1月29日土曜日
音楽の空間
今晩の演奏は、準備万端で臨んだにもかかわらず、玉砕。
初めて一緒に弾くドラマーとのトリオ。
合わないタイプの演奏家で、弾いててちょっときつかった。
固い、、固い、、音で、ガシガシ弾いてくる感じが私はやっぱり苦手だ。
音の柔軟さは、絶対に必要。
例え静かに弾いていてもグルーブ感があって、空間を上手く活用することのできるドラマーが好き。
なかなか、そういうドラマーには出会わない。
昨日、先輩達の素晴らしい演奏を見て、やっぱりこの感じだ、って思って、
音楽の方向性みたいなものを掴めた感触があったの。
だからこそ、、、
今までの私だったら、自分の力量が足りないからしっくりこないんだと思っていたところ、
生意気にも今は、私の演奏のやり方と合わない、と解釈するようになった。
即興演奏をしている時に、意識して、空間を置いて、ひとつひとつの音に意味を持たせれるように弾こうとしているんだけれど、
まだまだ、相手が「聞かない」奏者だと、その「間」というのを、自分ひとりで保っていくのは難しい。
尊敬してる奏者がこう言ってたの。
「ストレートな弾き方をするドラマーでも、良いドラマーはいるけど、
僕がやりたいと思っているのは、ある音楽の形やフォームの中で、即興によってどれだけ自由に、オープンになれるかを常にチャレンジし続けること。それをできるドラマーとやるのがやっぱり楽しい。」
本当に純粋な芸術として音楽を捉えていないとできないことだと思う。
私、すごくすごくこういう音楽家達と演奏したいと熱望している。
アバンギャルドな音楽にすごく惹かれる。
多分、、、彼らは、開拓者だから。
芸術の開拓者というのは、大抵の場合、マジョリティーの大衆の注目を浴びることがないし、
その先鋭的な芸術に対しての理解を得ることもない。
だからこそ、自分の芸術性に関してクリアーなイメージとコンセプトがなければ続けられないことだと思う。
どうしたらそういう領域に行けるだろう??
初めて一緒に弾くドラマーとのトリオ。
合わないタイプの演奏家で、弾いててちょっときつかった。
固い、、固い、、音で、ガシガシ弾いてくる感じが私はやっぱり苦手だ。
音の柔軟さは、絶対に必要。
例え静かに弾いていてもグルーブ感があって、空間を上手く活用することのできるドラマーが好き。
なかなか、そういうドラマーには出会わない。
昨日、先輩達の素晴らしい演奏を見て、やっぱりこの感じだ、って思って、
音楽の方向性みたいなものを掴めた感触があったの。
だからこそ、、、
今までの私だったら、自分の力量が足りないからしっくりこないんだと思っていたところ、
生意気にも今は、私の演奏のやり方と合わない、と解釈するようになった。
即興演奏をしている時に、意識して、空間を置いて、ひとつひとつの音に意味を持たせれるように弾こうとしているんだけれど、
まだまだ、相手が「聞かない」奏者だと、その「間」というのを、自分ひとりで保っていくのは難しい。
尊敬してる奏者がこう言ってたの。
「ストレートな弾き方をするドラマーでも、良いドラマーはいるけど、
僕がやりたいと思っているのは、ある音楽の形やフォームの中で、即興によってどれだけ自由に、オープンになれるかを常にチャレンジし続けること。それをできるドラマーとやるのがやっぱり楽しい。」
本当に純粋な芸術として音楽を捉えていないとできないことだと思う。
私、すごくすごくこういう音楽家達と演奏したいと熱望している。
アバンギャルドな音楽にすごく惹かれる。
多分、、、彼らは、開拓者だから。
芸術の開拓者というのは、大抵の場合、マジョリティーの大衆の注目を浴びることがないし、
その先鋭的な芸術に対しての理解を得ることもない。
だからこそ、自分の芸術性に関してクリアーなイメージとコンセプトがなければ続けられないことだと思う。
どうしたらそういう領域に行けるだろう??
2011年1月26日水曜日
meditation in music
たまたま時間が出来て、
昨日と今日と、久しぶりにジャムセッションに行って、
やっぱり違うって気づいた。
目指してる音楽の種類が、違うんだと思う。
というか、音楽を弾く過程においての、姿勢が違うんだと思う。
やっぱり私、瞑想したいんだと思う、音楽で。
瞑想する演奏家が好きなんだ。
ジャムセッションで、聞いてられない時があった。
何かを喋ることと、音楽で即興することはすごく似てるけれど、
口を開くのであれば、mean what you say でしょう。
もし、話す内容がないのならば、静かにしていればよい。
その「静寂」「無」というのも音のひとつだし。
と、すごく思うの。
こういう風に客観的に冷静にジャムセッションの音を見ることができるようになったのは、
成長したと思う。
アバンギャルドの音楽を聞き出して、確実に耳が肥えてきたと思う。
‥…
結局は、自分自身が、本当に惚れ込めるくらいに美しいと思える演奏をできるようになればいい。
きっと人からのフィードバックはrelativeだから、当てにならないし。
芸術というのは、本来は自分自身のためのものであるべきなんだ。
そして、その芸術に込める自分の美意識というものが、どういうものに帰しているか、
そこなんだと思う。。
昨日と今日と、久しぶりにジャムセッションに行って、
やっぱり違うって気づいた。
目指してる音楽の種類が、違うんだと思う。
というか、音楽を弾く過程においての、姿勢が違うんだと思う。
やっぱり私、瞑想したいんだと思う、音楽で。
瞑想する演奏家が好きなんだ。
ジャムセッションで、聞いてられない時があった。
何かを喋ることと、音楽で即興することはすごく似てるけれど、
口を開くのであれば、mean what you say でしょう。
もし、話す内容がないのならば、静かにしていればよい。
その「静寂」「無」というのも音のひとつだし。
と、すごく思うの。
こういう風に客観的に冷静にジャムセッションの音を見ることができるようになったのは、
成長したと思う。
アバンギャルドの音楽を聞き出して、確実に耳が肥えてきたと思う。
‥…
結局は、自分自身が、本当に惚れ込めるくらいに美しいと思える演奏をできるようになればいい。
きっと人からのフィードバックはrelativeだから、当てにならないし。
芸術というのは、本来は自分自身のためのものであるべきなんだ。
そして、その芸術に込める自分の美意識というものが、どういうものに帰しているか、
そこなんだと思う。。
2010年5月4日火曜日
borderless people
ひとつずっと時間がかかっていた曲を書き終わった。
この曲のテーマは、境界線のない人々。
端的に言うと、これから先、境界線のない人々、ボーダレスピープルの時代だと感じている。
様々な観念的なもの、システム、権威、そういうものは崩壊していっている。
柔軟で、そして可能な限りinclusive、つまり包括的、多様でいることで、どんどん、私達はEVOLVEしていける。
EVOLUTION > REVOLUTION
私達は常に進化していくものであって、その進化の過程においても今はとても重要な時期だというのは私にでもわかる。
REVOLUTIONというのは、REBELLIONの意味を含んでいる故、体制や組織、政府に対する抵抗を暗喩する。
私達が今体験していることは、そういう「抵抗」の意図を全く含まないものであると思う。
自然な流れとしての進化。「抵抗」しなくても、起こすことのできる変化。
それは、水のように、変幻自在に、何にでも柔軟に適応できる者達が最初に経験していくものかもしれない。
自分自身が何人だとか、どこに住んでいるとか、どういう肩書きであるとか、そういう風に自分自身にレベルを切り貼りして、見えない檻に自分を閉じ込めて、ふぅ、安心。そういう時代は終わった。
自由。
自由を手に入れることは、ある種の怖れを乗り越えること。。。
存在から与えられた、創造性というフォースを最大限に活用し、そして無から有を創り出し、有を無にすることを厭わない(なぜなら有と無は循環しているというか同時存在するはずであるから)、
そういう姿勢を持ちたい。
そういう円環的世界観、うまく表現できているといい。。。
少しずつだけれど、焦らないでいることに慣れてきている。
幸せを感じる。
クリエイトしていることがとても幸せ。
この曲のテーマは、境界線のない人々。
端的に言うと、これから先、境界線のない人々、ボーダレスピープルの時代だと感じている。
様々な観念的なもの、システム、権威、そういうものは崩壊していっている。
柔軟で、そして可能な限りinclusive、つまり包括的、多様でいることで、どんどん、私達はEVOLVEしていける。
EVOLUTION > REVOLUTION
私達は常に進化していくものであって、その進化の過程においても今はとても重要な時期だというのは私にでもわかる。
REVOLUTIONというのは、REBELLIONの意味を含んでいる故、体制や組織、政府に対する抵抗を暗喩する。
私達が今体験していることは、そういう「抵抗」の意図を全く含まないものであると思う。
自然な流れとしての進化。「抵抗」しなくても、起こすことのできる変化。
それは、水のように、変幻自在に、何にでも柔軟に適応できる者達が最初に経験していくものかもしれない。
自分自身が何人だとか、どこに住んでいるとか、どういう肩書きであるとか、そういう風に自分自身にレベルを切り貼りして、見えない檻に自分を閉じ込めて、ふぅ、安心。そういう時代は終わった。
自由。
自由を手に入れることは、ある種の怖れを乗り越えること。。。
存在から与えられた、創造性というフォースを最大限に活用し、そして無から有を創り出し、有を無にすることを厭わない(なぜなら有と無は循環しているというか同時存在するはずであるから)、
そういう姿勢を持ちたい。
そういう円環的世界観、うまく表現できているといい。。。
少しずつだけれど、焦らないでいることに慣れてきている。
幸せを感じる。
クリエイトしていることがとても幸せ。
2010年4月20日火曜日
たくらみ
"Stop categorizing music"と、静かに言われた。
その頃は、私は50年代60年代の、所謂ハードボップと言われるジャズばかり聞いていて、
そういうものを弾きたいと思っていた。
Rebel Music。 反抗精神と社会的プロパガンダ。
あの、炎のような、狂った、ブルースとヘロインに育てられた音楽。
最近になって、後期のマイルスとか、Experimental, Alternative, Free Jazz, そういう風にdescribeされる音楽をよく聞くようになって、音楽の境界線の曖昧さについてよくわかるようになったような気がする。
Do you wanna be a 'Jazz Musician' or a 'Musician'?"と聞かれたのだった。
前の私だったらたぶん、間違いなくジャズミュージシャンって答えていたけど、
今は迷わず後者を選ぶ。
それは、私が音楽を弾く至高の目的は、「自由」だから。。。
ジャズミュージシャンになりたければ、そこである程度、キャリアを積む為のカリキュラムは決まっているんだ。
例えば、何万曲ある、スタンダードを覚えること、
頭の中で曲を転調してすぐに弾けること、
そしてジャムセッションに行く事?
でも、それはあまりにも何十年も繰り返されてきたクリシェであって、
形どおりに何かを再現することは、例えその再現にいくらかのオリジナリティー、自分らしさやクリエイティブさがあったとしても、完全に自分の世界を表現することはできないと思う。
自分の世界を何もないところから創り出すことは、自分の作曲または即興しているものを最大限の完成度の高さをもって演奏することでしかできないものだと私は思う。
そこで、ある程度、道を選ぶことになる。
私は、スタンダードの曲をただ綺麗に演奏するミュージシャンになりたいかと自問したら、絶対そうじゃないの。
もちろんスタンダードを弾くのはすごく好きだし楽しいのだけれど、
直観が私に伝えているのは、自分の奥底からでてくるものを伝達するのだということ。
私の持っている本当のアーティストリーの概念は、完全オリジナルであることだ。。。。
でも、作曲することがどれくらい骨の折れる作業かも、知りかけている。
ただ、書いたものは、ずっと愛おしい。
タイトルとコンセプトだけ、もう頭の中に存在している曲もいくつかある。
それが私のBrain Children。
ただ、今回は、この曲達をすべて、自分が満足できる完成度に仕上げて、曲の全体像がきちんとクリアになってから、表に出そうと思う。
それが今年中にできたらいい。
その頃は、私は50年代60年代の、所謂ハードボップと言われるジャズばかり聞いていて、
そういうものを弾きたいと思っていた。
Rebel Music。 反抗精神と社会的プロパガンダ。
あの、炎のような、狂った、ブルースとヘロインに育てられた音楽。
最近になって、後期のマイルスとか、Experimental, Alternative, Free Jazz, そういう風にdescribeされる音楽をよく聞くようになって、音楽の境界線の曖昧さについてよくわかるようになったような気がする。
Do you wanna be a 'Jazz Musician' or a 'Musician'?"と聞かれたのだった。
前の私だったらたぶん、間違いなくジャズミュージシャンって答えていたけど、
今は迷わず後者を選ぶ。
それは、私が音楽を弾く至高の目的は、「自由」だから。。。
ジャズミュージシャンになりたければ、そこである程度、キャリアを積む為のカリキュラムは決まっているんだ。
例えば、何万曲ある、スタンダードを覚えること、
頭の中で曲を転調してすぐに弾けること、
そしてジャムセッションに行く事?
でも、それはあまりにも何十年も繰り返されてきたクリシェであって、
形どおりに何かを再現することは、例えその再現にいくらかのオリジナリティー、自分らしさやクリエイティブさがあったとしても、完全に自分の世界を表現することはできないと思う。
自分の世界を何もないところから創り出すことは、自分の作曲または即興しているものを最大限の完成度の高さをもって演奏することでしかできないものだと私は思う。
そこで、ある程度、道を選ぶことになる。
私は、スタンダードの曲をただ綺麗に演奏するミュージシャンになりたいかと自問したら、絶対そうじゃないの。
もちろんスタンダードを弾くのはすごく好きだし楽しいのだけれど、
直観が私に伝えているのは、自分の奥底からでてくるものを伝達するのだということ。
私の持っている本当のアーティストリーの概念は、完全オリジナルであることだ。。。。
でも、作曲することがどれくらい骨の折れる作業かも、知りかけている。
ただ、書いたものは、ずっと愛おしい。
タイトルとコンセプトだけ、もう頭の中に存在している曲もいくつかある。
それが私のBrain Children。
ただ、今回は、この曲達をすべて、自分が満足できる完成度に仕上げて、曲の全体像がきちんとクリアになってから、表に出そうと思う。
それが今年中にできたらいい。
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