2011年3月3日木曜日

すきま

地下鉄の電車が、暗いトンネルを抜けてマンハッタン橋に差し掛かった。

真っ青な空と白い雲と、車窓から見えるイーストリバーの景色。

午後2時、
がらんとした車内の、私の向かいの席には、若い黒人青年がふてくされた顔で座っている。

その青年の表情に、アメリカという国の憂いというものを見た気がした。


両手を使って、手のひらの中に溜めてきたものが、少し指を開けば、さらさらとあっという間に消失してしまう、
そんな 「隙間」 がアメリカには沢山ある。

私の生まれ育った国、日本には、その「隙間」がほとんどないと思う。
指のすきまから、何かの欠片がこぼれ落ちていく時に、下から無数の手、無数の張り巡らされた網が、すべて受け止めていく、そんな感覚がある。
そうやって、ひとつもこぼさないように、受け止めなくたっていいんじゃないだろうか。。と皮肉な私は思ったりもするけれど。


「隙間」のあるアメリカは、いつも 失う という恐怖と隣合わせなんではないかと思う。
しっかりと自分で、自分の人生のパズルのピースを拾い集めていかないと、
「隙間」の空虚感に蝕まれて、あっという間に自分を見失ってしまう。


私がこの場所を離れられないのは、
多分、その「隙間」がつくる、こころもとなさを好んでいる自分がいるから。

異国に若い時移り住んで、
こわかったし、
不安だったし、
絶望したし、
葛藤した。

ただ、その、一寸先は闇かもしれない、という切迫感に、いつも後押しされてきた。

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