2014年11月22日土曜日

VINICIUS CANTUARIA @ JAZZ STANDARD



そろそろ冬が訪れなければいけないことを、ふと急に思い出したかの様に、ニューヨークが心地良い晩秋の日々から氷点下の肌を刺すような寒さへと変化したのがその日だった。

分厚いコートを着込んだ私達は、寒さを言い訳に、少しだけ遅れて到着した。
私達を迎えた会場のドアマンは、すごく紳士的な青年で、「お二人ですね。」とチケットを手配した後に、
「今宵はお越し頂き幸いです。」と付け加えた。
その訳は、扉を開いて席へと案内されて少し分かった気がした。
その夜の最後のセットとは言え、場内はかなり空席が目立ったのだ。

ヴィニシウス・カントゥアリアは、ギターを抱え込み、Insensatezを歌っていた。
聞き慣れた旋律。ジョビンへの堅実な解釈。主張する魅力的な憂鬱。
なんだかわからないうちに私は彼の独特な雰囲気に惹きこまれていた。

耳に聞こえる音楽自体は、そこはかとなく明るい。
ドラムとパーカッションで軽快に刻まれるリズムと、淡々と流れる様にヴィニシウスが歌うジョビンの曲達。ヴィトー・ゴンサルヴェスのピアノは繊細ながらもゴージャスなサウンドで、それぞれの曲を表情豊かなものにしていく。

それなのに、歌うヴィニシウスの表情には、響いてくる音楽とはおよそ符合しない類の、
鬼気迫る「何か」があったのだ。
あくまでも私個人の印象だけれど、彼の風貌と表情からは、何かもっと、労働歌だとか、反戦歌だとか、そういうぎりぎりのところに立っている者の訴えかける音楽、つまりブルースが聞こえてくる気がした。もちろん、音楽自体は生粋のブラジリアン・ジャズなのだけれど、ヴィニシウスの表情を見ていると、どうもブルース・シンガーを見ているような気がしてしょうがなかった。
ブルースというのは、もしかしたら必ずしもブルースとして私達の耳に届くわけではないのかもしれない、と私は自分の頭の中で結論づけた。

考えてみれば、「憂鬱」を歌うシンガーというのは、今も昔も、どれ程存在しただろう?
ニナ・シモンと山崎ハコしか今は思いつかない。
聞いているうちに楽しくなって、踊れて、笑顔になるような音楽が主流の世の中で、
憂鬱を歌うのは決して楽なことではないと思う。
しかし、誰かがその役を買って出てくれないことには、世の中のバランスが取れないと私は思うのだ。
ヴィニシウス・カントゥアリアは、そういう風に、何かとても不思議な形で、世の中のバランスを取っているタイプの音楽家なのかもしれない。





2014年11月13日木曜日

Rema Hasumi Solo : "Patterns of Duplicity"

今回のソロ・コンサートは、
テーマとして、宮沢賢治の『春と修羅』を選んだ。

ここ数カ月間、私は即興の演奏をすることと、言葉を話す行為との関係について考えていた。
即興演奏の世界には、私はもともとジャズという媒体を通じて入っていったけれど、
ジャズの即興には意外に沢山のきまりごとがあって、私はそれをきちんと全部守って流暢に弾くことができなかった。または、ある程度はできていたとしても、そうする課程において、コンファタブルと感じることができなかった。
一定の理論的ルールを守っての即興、という演奏方法に対して感じたフラストレーションは、私が言語に対して感じてきたフラストレーションに通じるものがあった。
考えてみれば、私が一番『流暢に』言葉を話すことができていたのは、 高校生くらいの時じゃないかと思う。
それは、会話する言語として英語を使い始める前のことだ。
その時期が一番、伝えたいことを的確に、躊躇せず会話の中の言葉で表現することができていたと思う。


例えば生まれたばかりの赤ん坊が、母親に伝えたいことを伝えるために あうあうあう という音を発する。
例えば言葉を持つ前の原始人類が、仲間同士で意思伝達するために、声を使い、試行錯誤して何らかの音的シンボルを作り出す。

このとてもプリミティブな声を伴った表現とそれを誘発する人間の共有意識、
それが、私がインプロビゼーションの根本に据えているものだ。

コンサートでは、『春と修羅』の英語訳を朗読しながらインプロヴァイズし、
日本語の原詩の朗読、即興言語での同詩の表現に続く。
第一言語と第二言語での朗読、それぞれにおいて、もちろん即興の媒体となる私自身の言語的経験が濃密に音楽的表現にも反映されていく。
これを練習する課程において、
いかにリズムとイントネーションが言語表現において重要な役割を担っているかを再確認した。
結果的に、自分が普段、会話においては使わない音韻的表現を、朗読しながら初体験し、
自らのオルターエゴを発見するような、不思議な経験をすることになった。

推測される通り、三つ目の、創作言語を使った即興演奏においては、
原詩において表現される世界観を視覚的に認知したものを抽象表現する。
既存の言語的枠組みからの解放、及び、既存の音楽理論からの解放を二重に経験する。
演奏者はもちろん、可能性として、オーディエンスもをそれを感じることができるかもしれない。


もうひとつ、パフォーマンスの一部としてのインスタレーションに、
パブロ・ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』からの詩の一部を引用を使う。

偶然なのだが、ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』と、
宮沢の『春と修羅』は同じ1924年に出版されていた。

1924年。
日本では大正デモクラシーが収束を迎え、文化という言葉がもてはやされた。
ニューヨークではガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』が初演。
サラ・ヴォーンやマックス・ローチ、そしてジェームス・ボールドウィンが誕生した。
今からさかのぼって90年前のこと。
 

=== November 14, 2014 ===


• 7pm: Rema Hasumi solo "Patterns of Duplicity - The Poetry and Sound of Kenji Miyazawa”: piano & vocals


• 8pm: Jen Shyu’s “Solo Rites: Seven Breaths”: vocals, Taiwanese moon lute, gayageum, piano, dance, directed by Garin Nugroho


• 9pm: Jade Tongue’s “Sounds and Cries of the World” 1st Fold: "Wehali: Birds from Inside"
John Hébert, bass
Ben Monder, guitar
Satoshi Haga, dance
Val-Inc, electronics
Jen Shyu, vocals, instruments, dance



@ Shapeshifter Lab
18 Whitwell Place, Brooklyn, NY 11215
Tix: http://www.brownpapertickets.com/event/896655
$15 ($12 w/ student ID)