2013年4月13日土曜日

ディアスポラ的な洗練

先日書いた記事で、「ディアスポラ的な洗練」という表現をした。

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ある集団の属する文化、社会の持つ性格は、
その集団が生活している大陸という土地の持つエネルギーに精神的な影響を受けるだろう。

 土着的な文化、その土地で何百年の時間をかけて培われた文化は、
その土地のエネルギーに長い時間を包まれて、素晴らしい創造物を作り上げる。
それはそのエネルギーに密着した形の建造物であったり、そのエネルギーの形を表すような音楽やダンスとなってあらわれるだろう。
そういった創造物というのは、母の存在をいつも確実に感じて育った子供のように、地に足がついた、落ち着いた性格を持っているように思う。

一方で、ディアスポラの集団によって生み出される文化はどうだろう?
人が、生まれ育った土地を離れ、帰る場所を持たない者として生活するということは、
いうまでもなく極端に困難なことであるのは間違いない。
生来の土地のエネルギーから切り離された状況でも、創造を続けていくのが、
人間の自然な姿だろう。
そういった状況で、故郷を手放した者は容易にアイデンティティー・クライシスに陥るかもしれない。私達のアイデンティティーは、生まれ育った土地と言語に、多くの場合大きな比重を置いている。
そのような方法でアイデンティティーを確立しない場合、
人間は、ただ自分の中に「あるもの」と向き合うしかない。
そこにあるものは、名前やラベルをはって簡単に理解することができる類のものでは全くなく、
もっと本質的であり、宗教的な感覚をもっていると思う。
もちろん、口承で伝えられた、伝統の欠片はところどころにちりばめられていても、そこからもっと完成されたものを新しい土地で形作るときには、自身の直観的な創造性が求められるはずだ。

そういうプロセスを経てつくられた音楽が、アメリカの音楽なのだと思う。
このような意味で、「ディアスポラ的な洗練」という表現をした。
私にとって直観ほど洗練されたものはないと、感覚的に理解しているからだ。

 ジャズという音楽について言うと、その歴史は約1世紀弱。
その文化が、土地のものとして根付き、母性的な文化的印象をつくりあげることも可能なだけの時間がすぎているように思える。
しかし、そうならないように見えるのは、ジャズがもともとディアスポラ的な精神から生まれたものであるからかもしれない。
ディアスポラ的な洗練は、言い換えれば、「飽くことなき創造への欲求」である。
それゆえに、同じ形のまま、伝統を大事に伝えていく、というやり方がそぐわない。

ジャズは、ある意味では特殊な文化で、創造への欲求というモーメンタムを受け渡していく、「自己の内側へと深く入り込むことによって、外側とより広く繋がっていく」、そういうもののような気がする。