2014年8月22日金曜日

George Cables Trio @ The Village Vanguard



八月の中旬から終わりにかけてのニューヨークは、少し閑散としている。
ニューヨーカー達は、来る長い冬を乗り越える覚悟を持って過ごすために、夏の間は休暇を思い切り楽しむ。
彼らは暑苦しい街を出て、ニューヨーク郊外やボストンやカリブ海に行き、自然に囲まれた夏の思い出を作るのだ。そういう彼らの口癖は、「街を出たい。」「街を出なきゃ。」
だけれど、このニューヨーカーにとっての「街を出る。」は、大体いつも一時的にそうする、ということを意味していて、その言葉の裏には、「それでも僕達はニューヨークを愛しているけどね。」という暗黙の了解が潜んでいる。

一方で、街中に残ることを選んだ別のニューヨーカー達は、心地よい夏の夜に、いつもより人通りの少ない静かな通りを大股を開いてゆっくりと闊歩する特権を得る。
さらっとした晩夏の夜風を受けながら、七番街を下っていくと、
そこには見慣れた赤いドアが待ち受けている。
ヴィレッジ・ヴァンガードという場所はやっぱり、すごく特別な場所だ。
老舗の店ということもあるし、歴史を紡いできた重みもある。
何よりも、ここはとてもロマンチックな場所だ。それは、恋人達の交わす愛のためだけに使うロマンスという意味ではなくて、ありとあらゆる人間模様とそこに付随する感情をそっくりそのまま、万人の記憶の片隅に印刷してしまうという類のロマンスである。


ここで昨晩、私はジョージ・ケイブルス・トリオの演奏を見た。
ベースはエシエット・エシエット。そしてドラムはヴィクター・ルイス。

トリオの演奏はボビー・ハッチャーソンの曲で始まり、 二曲目はYou're My Everythingだった。
この曲を聞くと、どうしても、テザード・ムーンの演奏したバージョンが頭の中に響いてしまう。
最後にポール・モチアンと菊地雅章が一緒に演奏するのを見たのもヴァンガードだったのだ。
それでもやっぱり、演奏が盛り上がるにつれて、ジョージの演奏するスタンダードの素晴らしさを私は徐々に思い出していた。
私が恩師と呼ぶふたりのピアニストはジョージ・ケイブルスとジョン・ヒックスで、この二人の演奏は、全く違うといえば全く違うのだけれど、その流れる様なフレージングと秀逸なタッチにはどこか共通するものがある。
するすると流れていく細やかな音、そのうしろにしっかりと根をはったブルース、
スタンダードに、「歌」を感じさせる情感、ああ、これが私は大好きだったなぁ、とあらためて思った。なにしろ最近はフリー・ジャズと呼ばれるものばかり聞いていたので、ジョージのピアノを聴くのはなおさら新鮮だった。
他にもバンドはBody and Soulやジョージの作曲した曲をいくつか演奏した。
どれも聴き応えのある、見事な演奏だった。
椅子に沈み込んで、ヴォッカトニックを啜りながら私は考えていた。
「音楽を演奏すると、自分の本当の姿を隠すことはできない。」と言ったのはメアリー・ルー・ウィリアムスだっただろうか。
ジョージの演奏からは、暖かさ、明るさ、ユーモア、美しさ、深み、そういうものが溢れ出していた。
音楽を通して、観客席の私達は、彼の素晴らしい人柄に触れ、人間の素晴らしい創造力に触れ、幸せな気持ちになり、家路につく。
音楽を演奏するというのは、そういうことなんだよなぁ、と、しみじみと感じたのだった。
ヴィクター・ルイスの演奏も素晴らしかった。
彼のドラムは、シンプルなのに饒舌で、繊細だけどワイルドで、太陽の光を浴びた土の匂いがした。
口では多くを語らないのに、表情や仕草から、滲みだす存在感と深い味わいは隠し切れない、そういう人っている。
ヴィクター・ルイスは、きっとそんな人なんじゃないだろうか。
途中、彼はスティックをおろし、素手で長い間ドラムソロを取った。
言うまでもなく、素晴らしかった。

新しい世代のジャズも素敵なものがたくさんあるけれど、
こうやって長い間、自分が愛すると決めた曲をとことん愛して、弾きこんで、
ただ純粋に音楽を演奏してきた、そういうオールド・スクールな渋さを目の当たりにすると、
やっぱりジャズの素晴らしさはこれだな、と思う。
自分以外の何者にもなろうとしない。飾り立てることなしに、率直に、自分の生身のままを弾く。
ぐちゃぐちゃのどろどろの世界から、楽器を通して叫んで、歌って、夢見てきた、そういうリアリズムが、ジャズを魅力的なものにしてきたのだ。

帰り際に、長い間借りたままだったマハリア・ジャクソンのレコードをジョージに手渡し、
素晴らしい演奏だったと告げた。
私の記憶の中のヴィレッジ・ヴァンガードには、またもう一ページ、新しい色の思い出が加わった。





2014年8月9日土曜日

音楽と信仰 

悲しいニュースばかり左から右へと流れていく毎日の中で、
私はいつも、芸術という鳥をこころの中の枝にとめていたい。
歌、詩、色彩、旋律、それらはいつも、重く沈んだ精神に羽をつけてくれる。
争いを生み出し続ける強欲、民族・同胞意識、宗教、そういうもの達から芸術は解放されている。

エマホイ・ツェゲ・マリアム・ゴブルーという、エチオピアのピアニストについての話をしたい。

彼女は、60年代に、エチオピークのシリーズからソロピアノ録音を発表している。
エチオピアの音階も充分に聞こえるその音楽からはラグタイムの欠片のようなものも聞こえてくるし、
またブルースも聞こえてくる。
その丸みを帯びたタッチは、メアリー・ルー・ウィリアムスのタッチによく似ている。
だけど、エマホイの演奏には、メアリー・ルーの弾く様なユーモラスで悲しいという味のブルースは存在しておらず、代わりに、アフリカの広い大地を思わせる様な明るい響きが音楽全体を形作っている、というイメージを受ける。




彼女は、1923年生まれ、現在91歳。イスラエルに住む。
80年代にイスラエルに移住してから、エルサレムにあるエチオピア正教の修道院で、日々祈り、
ピアノに向かう生活を送ってきた。
宗教に携わる者として、表に出る華やかな音楽家、という道を選択することのなかった彼女は、
演奏の場を公に探すことをせず、日々、ただ神に捧げるためだけにピアノを弾いた。
そんな時、つい数年前に、イスラエルに住む若者が、エチオピークのアルバムを聞き感銘を受け、
同時にエマホイがエルサレムに住んでいることを知る。
彼らは修道院を訪れ、エマホイの了承を得て、彼女の書いた膨大な枚数の譜面をかき集め、
ついにエマホイの作曲集として出版した。
さらに感銘を受けた人々は、エマホイの作曲した曲を若い音楽家達で演奏するコンサートを催し、
大成功をおさめ、エマホイは一躍、90歳にしてイスラエルの「時の人」となったのだ。


エマホイが生まれたのはアジス・アベバ。
父は政治家で、母はハイレ・セラシエ皇帝の二番目の妻、メネン皇后の家系の出であった。
エマホイは6歳の時にスイスに渡り、教育を受け、バイオリンを始めた。
1933年に、10歳で一端エチオピアに戻るものの、すぐに第二次エチオピア戦争が始まる。
ムッソリーニ政権のイタリアがエチオピアに軍事侵攻し、イタリアの独裁的な占領軍に反抗的な立場をとったエマホイの家族は捕虜としてイタリアのアシナラという島に送られてしまう。
戦争が終わり、1944年に家族はアフリカへ帰還。
彼女はエジプトへ移り、アレクサンダー・コントロウィッツというポーランド移民のバイオリニストに師事し、音楽をさらに勉強した。この頃はまだ、バイオリンを主に弾いていたようだ。
のちにエマホイはコントロウィッツと共にエチオピアに戻り、エマホイ自身はエチオピア外務省のアシスタントとして働き、コントロウィッツはハイレ・セラシエ皇帝じきじきに使命され、宮廷音楽隊の音楽監督に就任する。

その後、エマホイはロンドンで音楽の勉強をする奨学金を与えられるも、エチオピアの権威は彼女の出国を許さなかった。
希望を断たれ、深いショックを受けたエマホイは何日間も絶食し、死の淵を彷徨った後に、神との聖餐を望んだ。
エマホイは、エチオピア北部、岩窟教会群のあるウォロ州へと移り、修道院での暮らしを始め、
21歳の時に修道女となった。のちにゴンダルという古都にも住んだようだ。
ところで、このゴンダルという場所は、タナ湖の北部にあり、ベータ・イスラエルと呼ばれるエチオピアのユダヤ人集団が住んだ場所だ。少し調べれば分かることだが、エチオピアの皇室はソロモン王の系譜であることを主張しており、紀元前、古代ユダヤ教を宗教としていたが、4世紀頃にキリスト教に改宗している。9世紀にユダヤ教がほぼ完全に淘汰されるまで、ふたつの宗教は競り合いながら共存していた。イスラエルと同じように、ゴンダルという場所でも、異なる宗教を持った人間がすぐ隣同士で、神に祈りを捧げてきた。


1960年代、エマホイは修道女として神に献身する一方で、 熱心にエチオピアの宗教音楽を学び、作曲もした。
この時期に、裸足で教会の外に寝泊まりしながら教会に勉強をしにきていた子供達を多く見たエマホイは、自分の音楽でこの子供達の教育の手助けをしたいという思いに駆られる。
結果、ハイレ・セラシエ皇帝の援助により、1967年にデビュー・レコードを出し、その売上をすべて子供達の教育のために寄付したという。
これは丁度、ハイレ・セラシエ皇帝がジャマイカを訪れ、ジャーという生き神としてセラシエ皇帝を崇めるラスタファリアン達に熱烈な歓迎を受けた、次の年のことだった。

1970年代になると、エチオピアはオイルショックや飢饉による混乱に見まわれ、
兵士達によるクーデターで皇帝は捉えられ、退位後、殺害された。
1974年政府は独裁体制のメンギスツの支配下となる。
メンギスツは彼の政策に反抗するものを次々と捉え、投獄、処刑していった。
この混乱の中で、60、70年代に活躍したEthiopiquesを始めとするエチオピアジャズは急激に衰退していった。
自由な即興演奏を主体とするジャズという音楽をメンギスツが危険要素とみなし、音楽家達を攻撃しはじめたために、身の危険を感じた音楽家達が外国へ亡命していった結果のことであった。

このような政治的混乱の最中、独裁者メンギスツのマルクス主義的政策が自身の宗教的献身を侵害すると考えたエマホイは、母の死後、 1984年にエルサレムへ逃亡。
今まで、エルサレムのエチオピア正教会に修道女として暮らしてきた。

この1984年というのは、モーセ作戦というイスラエル政府の帰還法に基づき、のべ八千人ほどのベータ・イスラエル、つまりエチオピアのユダヤ人がエチオピアからイスラエルに移送され、帰化を許された年である。現代版の出エジプトだ。詳細は定かではないが、エマホイ自身も、このモーセ作戦によりイスラエルに移住したという可能性がある。

ピアニストの修道女。エチオピアからイスラエルへ。
何という波乱万丈な人生だろうか。
これだけ様々な事が周囲で起きる中で、彼女は「信仰と音楽」という一点だけを見つめて、
91年間生きてきたのである。
現在も侵略と戦争に隣り合わせで生きる彼女は何を思い、日々を過ごしているだろうか。

パレスチナは、イスラエルは、エチオピアは、オキナワは、「誰の」土地だろう?
所有するのは、侵略するのは、占領するのは誰のためだろう?
わたしはこの国の人間で、あの子はあちらの国の人間で?
何がそれを決めるんだろう?
生まれた国、肌の色、宗教、言葉、血筋?
自己防衛のために、わたしは武器を持って、あちらも武器を持って、みんな武器を持って安心?

人間の本質は決してそんなところにはないと思う。


エマホイの歩いてきた人生に思いを馳せ、
平和の意味をいま一度考える。






参考資料:
http://wemezekir.blogspot.com/2012/12/happy-birthday-emahoy.html
http://www.theguardian.com/world/2013/aug/18/ethiopian-nun-music-holy-enrapture
http://www.ethiopianstories.com/component/content/article/37-editors-choice/79-emahoy-tsegue-mariam-gebrou
http://www.tadias.com/07/08/2008/historic-concert-by-ethiopian-nun-pianist-composer-in-dc/