2014年12月23日火曜日

VIJAY IYER : MUSIC OF TRANSFORMATION


「変容の音楽」と題された、ピアニスト・作曲家、ヴィジェイ・アイヤーのコンサート。


第一部がソロ・ピアノ、第二部が弦楽器カルテットとピアノ、エレクトロニックスのための作品、ミューテーションズI-X、そして第三部が「ラジェ・ラジェ: ライツ・オブ・ホーリー」と題された、プラシャント・バーガルヴァ監督による映画のためにヴィジェイ・アイヤーが書き下ろした組曲が、大きなスクリーンに映る映画をバックグラウンドに、演奏された。

第三部の演奏は、インターナショナル・コンテンポラリー・アンサンブル、通称ICE(アイス)という気鋭のオーケストラで、クラシックやコンテンポラリー音楽とクロス・オーヴァーするジャズ・ミュージシャンと頻繁に共演している。
この12人からなる小さなオーケストラにタイショーン・ソーリーとヴィジェイ・アイヤーが加わった編成。

一番印象に残ったのは第三部の「ラジェ・ラジェ: ライツ・オブ・ホーリー」。

バーガルヴァ監督のこの映画は、春の訪れを祝って色粉や色水を掛け合うインドの祭り、ホーリーでの人々の熱狂をその強烈な色彩とともに記録したものだ。

アイヤーとバーガルヴァ共著の解説によると、 このヒンドゥー教の祭りの起源となった神話の中の一節にこんなものがある。
若く、浅黒い肌をしたクリシュナは、自分の恋焦がれる相手、ラジャ(またはラジェ)の肌の色が薄いことに腹を立て、彼女と彼女の友人達にこっそりと近づき、色粉をかぶせて驚かせた。

「このクリシュナの行為が、肌の色を乗り越えるための少しの悪ふざけ、
または女性と男性の間の力の交錯の瞬間、
または単なる若さゆえの酔狂の行為、
この中のどれであったとしても、
とにかくこの、神話の中のクリシュナの突発的行為が、ホーリー祭におけるカタルシスの儀式の中心となり得たのだ。」

このホーリー祭りにおける色彩豊かな春のカオスとユーフォリアをテーマにしたこの作品は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」におけるカオスと儀式、そして変容というテーマへの芸術的応答なのだそうだ。


演奏が始まってからしばらくは、オーケストラは、クラシカルなサウンドをしばらく保っていた。
映像も、まだ祭りの始まる少し前の村の風景なんかを映したものだったように思う。
ふいに、タイショーン・ソーリーが、今まで弾いていたティンパニからドラムセットへと移って出した音で、全体のサウンドが確実にオーケストラ主体のクラシカルなものから、ジャズの音に変わった。
一時間ほどの組曲の中で、ストラヴィンスキとの対比的なオーケストラの音、
タイショーン・ソーリーとヴィジェイ・アイヤーが「フィールドワーク」などで培ってきた現代ジャズの音、そしてヴィジェイ・アイヤーのルーツで彼が表現し続けようとするインド音楽の音、
大きく言えばこの三つの音が交じり合い、共存していたと思う。

組曲が終盤にさしかかったところで、映像の中で踊り狂う集団のリズム(映画自体は無声映画である)と、オーケストラが演奏するリズムがシンクロナイズした時、
映像に収められた「過去」と、観客が体験する「現在」がリズムを通して異次元で繋がり合っているという感覚を覚えた。
映像自体がまた、とても土着的、民族的、儀式的であるがゆえに、
その感覚が次に呼び起こすものは、体験している「現在」において、「観客がステージのオーケストラを見る」というある種の無機質さと、映像の中の「過去」のまぎれもない儀式の中で酔狂しながら踊る人間達のプリミティブな芸術体験の力強さとの対比であった。

アリス・コルトレーンは、インド人ではなかったものの、60−70年代にかけてインド音楽に影響された作品を多数発表した。

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男性的、またユーロセントリック(もしくはアフロセントリック)になりがちなアメリカのジャズ音楽界において、東洋音楽との融合に精神の赴くままに取り組んだアリスのこの作品群を、私は言うまでもなく素晴らしく、歴史的意義のあるものだと思っている。
しかし、この同じ側面に対し、安易なexoticism(異国趣味)であるという批判をした評論家も居たらしい。

ジャズという音楽と、ディアスポラの定義を考える時に、最近はいつもこのことが頭に浮かぶ。
異国の音楽、文化的なものをジャズという枠組みの中に取り入れること。
その根本的な動機とは何か、そしてリスナーはそれをどう捉え理解するか、ということだ。

ヴィジェイ・アイヤーも、アリス・コルトレーンもディアスポラの子孫で、
ジャズをそのままの形ではなく、民族的ルーツまたは精神的ルーツに繋がる場所の音楽と交差させて新しい表現方法を掴んでいる。

現代のジャズは幅広くクロスオーヴァーしているし、ポップスという「グローバリズム的」音楽とも交差するわけだが、
反グローバリズム的(超資本主義のために一様化されていくという意味でのグローバリズム)な立場をとっている私としては、世界各地の伝統的音楽がジャズと融合し、
変容し、継承されていく、という過程は重要なものであると感じている。
そして、そういった「文化的変容」に対して非常に柔軟であるという意味で、ジャズと即興演奏には現代に生きる人間にとってとても重要な何かが残されているとも思う。



ネイティブ・アメリカンが淘汰された後のアメリカには、儀式がなく、神話がなく、土着宗教もない。
そういった現代社会の淋しさと同時に、変容への積極性と柔軟性も、アメリカという国は兼ね備えている。そういうことを私はこのコンサートから感じた。


先に述べた神話の一節の神々の肌の色についての話も人種的なことを想起させるが、
実は第一部では「黒人の命にも意味がある」という標語がスクリーンに映しだされた。
これは最近のアメリカでの人種差別問題でのデモで頻繁に使われてきた標語で、
明らかにアメリカ社会への批判が込められていた。
かなり政治的な意見を取り込んだパフォーマンスであった、という一面もあり、
そのことについてはまた考えてみたいと思う。




















2014年12月13日土曜日

TONY MALABY QUINTET @ CORNELIA STREET CAFE

マンハッタンに数少なく残る、アンダーグラウンドな雰囲気のクラブ、コーネリア・ストリート・カフェ。

天井の低い地下のスペースに窮屈にテーブルと椅子が並べられて、青い壁とステージの赤いカーテンが照明に照らされる。
変に気取っていない、オールド・スクールな場所だ。


この場所は、ジャズだけでなくクラシックやポエトリー・リーディングなど幅広いパフォーマンスをホストしている。ジャズに関していうと、フリーっぽいものや、実験的要素の強いコンテンポラリーなミュージシャン達が沢山演奏している場所だ。
あとはブルックリン派と呼ばれる様なミュージシャン達がマンハッタンで演奏する足場になっている様なイメージもある。
新しいスタイルやインプロビゼーションなどに対してかなり積極的でオープンなクラブだ。
 
今晩はここで、トニー・マラビー率いるクインテットを見てきた。
ビリー・ミンツ(drums)、アイヴァンド・オプスヴィック(bass)、ダン・ペック(tuba)、クリストファー・ホフマン(cello)をバックに、トニー・マラビーがブロウするという、とても魅力的なプロジェクトだ。
チューバとチェロが入っていることで、通常の予測されるジャズ・クインテットのイメージの枠は容易に破壊される。
ふたつの強力な弦楽器の音は、アンサンブル全体の音に厚みを持たせ、
少しくぐもった様なチューバの音は、不思議な存在感を持って全体音の周りを浮遊する。
ビリー・ミンツの出すドラムの音が、その浮遊感を補足しつつ、音楽の舟から錨をするすると下ろしていく。
インプロビゼーションを演奏するビリーのドラミングには、ほとんどの場合、明確なビートは刻まれない。
明確なビートを主張してこない、究極的ミニマリズム。それは、逆に言うと、音楽的に素晴らしく柔軟である、ということで、音響を主体とする演奏には特に、最高のキャンバスを用意してくれる。
彼の表現は、テクスチュアを中心にしたもので、とにかく繊細で綺麗な音をドラムから出す。

トニー・マラビーの演奏は期待していた通り素晴らしかった。
彼ほどひとつの楽器から変幻自在にあらゆる音を出す奏者を私はあまり見たことがない。
そして、どの音も、絶妙な加減でコントロールされている。

グループ全体でインプロビゼーションを演奏した時には、その細やかな音の粒、ざらざらした感じと大きな一体感が、レヴォリューショナリー・アンサンブルの様だった。
かと思うと、楽譜を取り出して弾いた曲では、基本に流れるメロディーのヘテロフォニックな感じと、
その周りを流れる少し、ほんの少しだけ狂った感じの音の層に、エリントン・オーケストラの残響が聞こえた。

このグループの演奏は是非もう一度聞いてみたいと思う。
是非アルバムも作って欲しい。



2014年11月22日土曜日

VINICIUS CANTUARIA @ JAZZ STANDARD



そろそろ冬が訪れなければいけないことを、ふと急に思い出したかの様に、ニューヨークが心地良い晩秋の日々から氷点下の肌を刺すような寒さへと変化したのがその日だった。

分厚いコートを着込んだ私達は、寒さを言い訳に、少しだけ遅れて到着した。
私達を迎えた会場のドアマンは、すごく紳士的な青年で、「お二人ですね。」とチケットを手配した後に、
「今宵はお越し頂き幸いです。」と付け加えた。
その訳は、扉を開いて席へと案内されて少し分かった気がした。
その夜の最後のセットとは言え、場内はかなり空席が目立ったのだ。

ヴィニシウス・カントゥアリアは、ギターを抱え込み、Insensatezを歌っていた。
聞き慣れた旋律。ジョビンへの堅実な解釈。主張する魅力的な憂鬱。
なんだかわからないうちに私は彼の独特な雰囲気に惹きこまれていた。

耳に聞こえる音楽自体は、そこはかとなく明るい。
ドラムとパーカッションで軽快に刻まれるリズムと、淡々と流れる様にヴィニシウスが歌うジョビンの曲達。ヴィトー・ゴンサルヴェスのピアノは繊細ながらもゴージャスなサウンドで、それぞれの曲を表情豊かなものにしていく。

それなのに、歌うヴィニシウスの表情には、響いてくる音楽とはおよそ符合しない類の、
鬼気迫る「何か」があったのだ。
あくまでも私個人の印象だけれど、彼の風貌と表情からは、何かもっと、労働歌だとか、反戦歌だとか、そういうぎりぎりのところに立っている者の訴えかける音楽、つまりブルースが聞こえてくる気がした。もちろん、音楽自体は生粋のブラジリアン・ジャズなのだけれど、ヴィニシウスの表情を見ていると、どうもブルース・シンガーを見ているような気がしてしょうがなかった。
ブルースというのは、もしかしたら必ずしもブルースとして私達の耳に届くわけではないのかもしれない、と私は自分の頭の中で結論づけた。

考えてみれば、「憂鬱」を歌うシンガーというのは、今も昔も、どれ程存在しただろう?
ニナ・シモンと山崎ハコしか今は思いつかない。
聞いているうちに楽しくなって、踊れて、笑顔になるような音楽が主流の世の中で、
憂鬱を歌うのは決して楽なことではないと思う。
しかし、誰かがその役を買って出てくれないことには、世の中のバランスが取れないと私は思うのだ。
ヴィニシウス・カントゥアリアは、そういう風に、何かとても不思議な形で、世の中のバランスを取っているタイプの音楽家なのかもしれない。





2014年11月13日木曜日

Rema Hasumi Solo : "Patterns of Duplicity"

今回のソロ・コンサートは、
テーマとして、宮沢賢治の『春と修羅』を選んだ。

ここ数カ月間、私は即興の演奏をすることと、言葉を話す行為との関係について考えていた。
即興演奏の世界には、私はもともとジャズという媒体を通じて入っていったけれど、
ジャズの即興には意外に沢山のきまりごとがあって、私はそれをきちんと全部守って流暢に弾くことができなかった。または、ある程度はできていたとしても、そうする課程において、コンファタブルと感じることができなかった。
一定の理論的ルールを守っての即興、という演奏方法に対して感じたフラストレーションは、私が言語に対して感じてきたフラストレーションに通じるものがあった。
考えてみれば、私が一番『流暢に』言葉を話すことができていたのは、 高校生くらいの時じゃないかと思う。
それは、会話する言語として英語を使い始める前のことだ。
その時期が一番、伝えたいことを的確に、躊躇せず会話の中の言葉で表現することができていたと思う。


例えば生まれたばかりの赤ん坊が、母親に伝えたいことを伝えるために あうあうあう という音を発する。
例えば言葉を持つ前の原始人類が、仲間同士で意思伝達するために、声を使い、試行錯誤して何らかの音的シンボルを作り出す。

このとてもプリミティブな声を伴った表現とそれを誘発する人間の共有意識、
それが、私がインプロビゼーションの根本に据えているものだ。

コンサートでは、『春と修羅』の英語訳を朗読しながらインプロヴァイズし、
日本語の原詩の朗読、即興言語での同詩の表現に続く。
第一言語と第二言語での朗読、それぞれにおいて、もちろん即興の媒体となる私自身の言語的経験が濃密に音楽的表現にも反映されていく。
これを練習する課程において、
いかにリズムとイントネーションが言語表現において重要な役割を担っているかを再確認した。
結果的に、自分が普段、会話においては使わない音韻的表現を、朗読しながら初体験し、
自らのオルターエゴを発見するような、不思議な経験をすることになった。

推測される通り、三つ目の、創作言語を使った即興演奏においては、
原詩において表現される世界観を視覚的に認知したものを抽象表現する。
既存の言語的枠組みからの解放、及び、既存の音楽理論からの解放を二重に経験する。
演奏者はもちろん、可能性として、オーディエンスもをそれを感じることができるかもしれない。


もうひとつ、パフォーマンスの一部としてのインスタレーションに、
パブロ・ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』からの詩の一部を引用を使う。

偶然なのだが、ネルーダの『二十の愛の詩とひとつの絶望の歌』と、
宮沢の『春と修羅』は同じ1924年に出版されていた。

1924年。
日本では大正デモクラシーが収束を迎え、文化という言葉がもてはやされた。
ニューヨークではガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』が初演。
サラ・ヴォーンやマックス・ローチ、そしてジェームス・ボールドウィンが誕生した。
今からさかのぼって90年前のこと。
 

=== November 14, 2014 ===


• 7pm: Rema Hasumi solo "Patterns of Duplicity - The Poetry and Sound of Kenji Miyazawa”: piano & vocals


• 8pm: Jen Shyu’s “Solo Rites: Seven Breaths”: vocals, Taiwanese moon lute, gayageum, piano, dance, directed by Garin Nugroho


• 9pm: Jade Tongue’s “Sounds and Cries of the World” 1st Fold: "Wehali: Birds from Inside"
John Hébert, bass
Ben Monder, guitar
Satoshi Haga, dance
Val-Inc, electronics
Jen Shyu, vocals, instruments, dance



@ Shapeshifter Lab
18 Whitwell Place, Brooklyn, NY 11215
Tix: http://www.brownpapertickets.com/event/896655
$15 ($12 w/ student ID)
















2014年10月31日金曜日

"LOVE AND GHOSTS" FARMERS BY NATURE





例えば、真夏の湿った空気の中で鴨川の土手に座って青空を見あげ、汗をかきつつヘッドフォンで聴くのもいい。
または、しんしんと雪の降る寒い夜に山小屋の中で暖炉にあたたまりながら大きなスピーカーで聴くのもきっといい。

すべてコレクティブ・インプロビゼーションに基づいたFARMERS BY NATUREの音楽。
この録音、"LOVE AND GHOSTS"は2011年にフランスのフェスティバルで演奏されたライブ録音だ。


衝動が音を突き動かし、経験と感覚が統制を取る。

ピアニスト、クレイグ・テイボーンの弾くピアノは都会的な響き方をする。
都会のエレガンス、思考、レジスタンスと制御、多面的構造、枯渇することのない創造性。

ウィリアム・パーカーの太いベース音はテイボーンの弾くピアノの音の間をうねるように通りぬけ、まるで大きな織り物を縫い上げる糸の様に音と音を繋いでいく。

そこに加わるジェラルド・クリーヴァーのドラム、パーカッションの自然なサウンドが、一気に音楽をまとまりのあるオーセンティックなものに仕上げる。彼の叩くドラムの音は音響的にも本当に素晴らしく、
このグループの音楽性を確固たるものにしている、と私は思う。

その音楽の構成は、大きな部分が『感触』に基づいているのではないだろうか。
仕立屋があらゆる布を手にとって、その感触を元に様々な服を仕上げていくように、
音楽家達も、音のあらゆる感触を、記憶と感覚に刻みこみ、または瞬間的に創造しながら表現し、
その感触のバリエーションのコントラストを音楽の構成にしていく。
それは多くの場合、楽譜にはしにくいものである。
二次元的に、メロディーはこれで、コードはこうで、リズムはこうなる、という決め事をせずに、
音の響き方を立体的に吟味しながら、作り上げていく類のものだから。

文字が好きな私はどうしてもファーマーズ・バイ・ネイチャーという名前の意味を考えてしまったりする。
「生来、農民である」というのは、
自ら畑を耕し、自らの食べ物を育てるように生まれた、ということだ。
つまり、自ら音楽的アイディアの畑を耕して、自らの創造性を持って芸術への空腹を満たしていく、というところだろうか。
紛れもなく、3人はそのようなテーマにふさわしい音楽の作り方をしていると思う。
農民というのは、本来、とても自由な職業なのだ。
これくらいの大きさで、こんな甘さで、こんな酸っぱさのりんごを食べたい、と想像した時に、じゃあ、作ってみようじゃないか、といって実際にりんごを形にする。
そういう自由さと行動力を持った、「農民」でありたいと願うのは、優れた芸術家にとって、
きっとあたりまえのことなのかもしれない。





2014年10月25日土曜日

DUKE ELLINGTON'S CONCERT OF SACRED MUSIC (1966)



デューク・エリントンを持って「自分の達成した仕事の中で一番大事な作品」と言わしめたこのコンサート録音は、65年に初めてサンフランシスコで上演され、翌年の66年のニューヨーク公演で録音された。
まず、音が良い。ビッグバンドに合唱隊もつけた大編成のコンサートでも、天井の高い大きな教会での録音には臨場感とまとまり、適度な響き具合がある。
音楽的には少し実験的なところが感じられる。
合唱隊のところどころユーモラスな感じもする歌の入り方や、リズミカルなポエトリー・リーディング、タップダンスなどが織り込まれていて、単純に音楽として聴くよりも、ひとつの壮大なテーマを持った舞台として鑑賞する方がしっくりくるものかもしれない
そして、その舞台のテーマというのは、聖書と信仰なのだ。
そういったテーマとアルバムタイトルだけを見ると、このレコードはものすごく重厚なスピリチュアル音楽であってもおかしくはない。
だけどそこはデューク。テンポ良く話の進む物語の様に、少し驚く様なエンターテイメント性も織り込み、同時にジャズの伝統を駆使して見事なオーケストレーションとアレンジメントを繰り広げている。

イントロでのハリー・カーニーのバリトンの音から、ジミー・ハミルトンのクラリネット・ソロへの流れは美しく、いかにデューク・エリントン楽団がデュークの作曲・編曲の才能だけでなく、人選の質の良さの賜物であるかを実感させられる。
A面で4曲中3曲を歌い上げているのが、エスター・マロウというシンガーで、彼女はデュークに才能を認められ、この舞台でデビューしたのだそうだ。マハリア・ジャクソンをとても尊敬していた様で、
ジャズ・シンガーというよりも、生粋のゴスペル出身という歌いまわし。
バンドのジャズの演奏と、エスター・マロウのあまりジャズっぽくない歌い方のコントラストが新鮮だ。

ここで、ライナー・ノーツのデューク自身の言葉を引用したい。

コミュニケーションというのは、大勢の人々を困惑させるものである。
それはとてつもなく難しいと同時に、とてつもなく単純明快である。
人間の持つ恐れの中で、私達が一番恐れているものとは、実に私達自身ではないだろうか。
世の中全体との直接的なコミュニケーションの中で、もっとも個人的なレベルでの報復、つまり理解されないということを深く恐れているのだ。
それでも、神を信じた者達が誠実さを求めて恐れを投げ打ち、理解されようがされまいが意思疎通を試みた時に、いつも奇跡は起きる。
人間は「叡智」というものの恩恵を部分的に享受しているものの、すべての叡智を持つのはただひとりだけである。
神は全体を理解している。
ひとつの言語を喋る者もいれば、複数の言語を喋る者もいる。
人間は皆、それぞれの言語で祈り、そのすべての祈りを神は理解している。
昔、ある男がジャグリングをしながら神に祈りを捧げたという。
彼は世界一のジャグラーという訳ではなかったが、彼にとってはジャグリングは一番の特技だった。
神は男のジャグリングと祈りをそのまま受け入れた。
あるドラマーやサックス奏者の技術がどれほどのものであったとしても、もしその楽器を演奏することが彼らの特技で、深い信仰心に由来するものであれば、その演奏が楽器の種類によって神に否定されるということはない。その楽器が例えトムトムであっても、ただのパイプであってもだ。
悩み事がある時、人は祈りを捧げながら呻き、泣くだろう。
神の恩恵があって初めて自分の人生が存在することに気づいた時に、人は歓喜し、歌い、踊るだろう。
この演目では、言葉の存在しない様々な声明が聴かれるが、6つのトーンからなるフレーズには意味が込められている。それは、聖書の最初の4文字、In the beggining Godというフレーズの中にある6つの発声音のシンボルなのだ。この曲は何度も、違うやり方でそのシンボルを繰り返している。

私の持つ印象では、ジャズという音楽は宗教との深い関わりを持っている様には思えない。
地理、時代的背景を考えて、ここではキリスト教のことになるけれど、教義の様なものを全面に押し出したジャズ・レコードというのはあまり聞いたことがない。
その時代のアメリカでは、ジャズという音楽が生まれ始めた頃、「そんな野蛮な音楽を聴くな」と両親が子供に告げることもあったくらい、「危険」な音楽だと認識されていたこともあった様だから、教会で演奏されるゴスペル・ミュージックとストリートや酒場で演奏されたジャズの間には明確な一線が引かれていたのかもしれない。それに加えて、ジャズという音楽そのものが論理的、芸術的深みを増していくにつれて、ミュージシャン達は音楽そのものを信仰するようになった、とも考えられる。

そういう印象もあって、デューク・エリントンのこの音楽的試みは何かとても新鮮な輝きを持って私に迫ってきた。
何か深い精神性を包括するような、ぐちゃぐちゃ、どろどろ、したものを想像していた私には、
拍子抜けするくらい、デュークの"Sacred Music"、『聖なる音楽』は、あっけらかんとしているように感じた。
これだったら、アルバートアイラーの音楽の方が随分「宗教的」「スピリチュアル」だと思う。

とにもかくにも、この作品は、ジャズにすっかり慣れてきつつあった60年代のアメリカの大衆に、大変高い評価を持って受け入れられた様だ。
デューク・エリントンの作品には、ものすごく高度なエンターテイメント性と、ものすごく高度な芸術性が奇跡的なバランスで共存している。これはすごいことだと思う。

私はキリスト教についてほとんど何も知らないけれど、
デュークが、キリスト教の「神」という存在を通じて話している内容は、よく理解できる気がする。
理解されないかもしれない、という恐れを乗り越えて表現し続ける、というのは芸術の本質だと私も思うのだ。理解されないかもしれないが、自分にはそれを表現したいという自然な欲求がある。
その欲求に誠実に、表現する、ということが、宗教的な意味での「祈り」と同義であるということだ。

コメディの神聖さについてもジャグリングの話を通じて彼は話しているが、
もしかしたら、デューク・エリントンは、音楽家としての自分がエンターテイナーであり、ある意味での道化師である、ということを考えていたのかもしれない。




2014年9月30日火曜日

the world is a mill



私はカルトーラの歌うサンバが大好きだ。
彼の歌は、正直に、淀みのない、迷いのない音で、 私達に語りかけてくる。

この O mundo e um muinho - the world is a mill - という曲は、
ブラジルでの当時の風の噂では、娘が売春婦になってしまったということを知った時にカルトーラが作曲した曲だと言われている。

そして、
この映像の中でカルトーラが歌を聞かせている相手は、40年間ほどもの間会うことのなかったカルトーラの父親である。長い間の息子との別離にも関わらず、カルトーラの父は彼の歌をよく知っていた。
「何が聞きたい?」と聴くカルトーラに、「サンバがいいね。」と何気なく呟き、
O mundo e um muinhoを聞きたいと言った父親に、息子は歌い始める。 



愛しいひとよ、まだ早い
人生についてやっと知り始めたばかりなのに
もうすでに旅立つ時だとあなたは云う
これから先にある道筋を知りもせずに

愛しいひとよ、どうかあたりを見渡して
もうすでにあなたの気持ちが決まっているのは知っているけれど
隅々から、あなたの人生は少しずつこぼれている
ほんの一瞬で あなたがあなたじゃなくなってしまう

愛しいひとよ、どうかよく聞いて
注意深くしていないと
世界はまるで粉挽き器のようなものだから
悲しいけれど、あなたの夢さえ粉々に挽き飛ばしてしまう
あなたの幻想も埃へとすり減らしてしまう

愛するひとよ、どうかあたりを見渡して
それぞれの愛の経験から皮肉だけを受け取って
気づいた時には深淵のふちに立つだろう
自分の足で掘った底知れない穴のふちに


 こうやってこの曲の歌詞を訳してみた時に、
私は自分も含めた世界中の若い音楽家達のことを思う。
現代に生きる私達にとって、音楽家になるとはどういうことだろうか。
その根本にあるものは、昔も今もきっとそんなには変わらないのかもしれない。

音楽を演奏するということは、ある意味ではとても個人的な行為であるけれど、
その個人的な活動、探究が深ければ深いほどに、地球の裏側の誰かと、同じ深さから音楽を媒体とした感覚の叡智を共有することができる。

音楽とは本来愛の経験であるのに、それを皮肉に変えてしまうものとは、資本主義に喰われる名声と欲だ。
そうやって、音楽の行為と商業的成功を混同してしまい、どこまでも靴を泥まみれにして深い穴を掘ってしまう人もいるだろう。
何かのきっかけで穴を掘り始めるのは、いたって容易なことなのだ。
そんな時にこの歌を聞いて
私達はきちんと大地に足をつけることができるだろう。
大事なことは何か。
どういったものを芯ととらえて、音楽を演奏するか。
そういうことをカルトーラは底抜けに明るい響きの歌を通して、私達に問いかける。






2014年8月22日金曜日

George Cables Trio @ The Village Vanguard



八月の中旬から終わりにかけてのニューヨークは、少し閑散としている。
ニューヨーカー達は、来る長い冬を乗り越える覚悟を持って過ごすために、夏の間は休暇を思い切り楽しむ。
彼らは暑苦しい街を出て、ニューヨーク郊外やボストンやカリブ海に行き、自然に囲まれた夏の思い出を作るのだ。そういう彼らの口癖は、「街を出たい。」「街を出なきゃ。」
だけれど、このニューヨーカーにとっての「街を出る。」は、大体いつも一時的にそうする、ということを意味していて、その言葉の裏には、「それでも僕達はニューヨークを愛しているけどね。」という暗黙の了解が潜んでいる。

一方で、街中に残ることを選んだ別のニューヨーカー達は、心地よい夏の夜に、いつもより人通りの少ない静かな通りを大股を開いてゆっくりと闊歩する特権を得る。
さらっとした晩夏の夜風を受けながら、七番街を下っていくと、
そこには見慣れた赤いドアが待ち受けている。
ヴィレッジ・ヴァンガードという場所はやっぱり、すごく特別な場所だ。
老舗の店ということもあるし、歴史を紡いできた重みもある。
何よりも、ここはとてもロマンチックな場所だ。それは、恋人達の交わす愛のためだけに使うロマンスという意味ではなくて、ありとあらゆる人間模様とそこに付随する感情をそっくりそのまま、万人の記憶の片隅に印刷してしまうという類のロマンスである。


ここで昨晩、私はジョージ・ケイブルス・トリオの演奏を見た。
ベースはエシエット・エシエット。そしてドラムはヴィクター・ルイス。

トリオの演奏はボビー・ハッチャーソンの曲で始まり、 二曲目はYou're My Everythingだった。
この曲を聞くと、どうしても、テザード・ムーンの演奏したバージョンが頭の中に響いてしまう。
最後にポール・モチアンと菊地雅章が一緒に演奏するのを見たのもヴァンガードだったのだ。
それでもやっぱり、演奏が盛り上がるにつれて、ジョージの演奏するスタンダードの素晴らしさを私は徐々に思い出していた。
私が恩師と呼ぶふたりのピアニストはジョージ・ケイブルスとジョン・ヒックスで、この二人の演奏は、全く違うといえば全く違うのだけれど、その流れる様なフレージングと秀逸なタッチにはどこか共通するものがある。
するすると流れていく細やかな音、そのうしろにしっかりと根をはったブルース、
スタンダードに、「歌」を感じさせる情感、ああ、これが私は大好きだったなぁ、とあらためて思った。なにしろ最近はフリー・ジャズと呼ばれるものばかり聞いていたので、ジョージのピアノを聴くのはなおさら新鮮だった。
他にもバンドはBody and Soulやジョージの作曲した曲をいくつか演奏した。
どれも聴き応えのある、見事な演奏だった。
椅子に沈み込んで、ヴォッカトニックを啜りながら私は考えていた。
「音楽を演奏すると、自分の本当の姿を隠すことはできない。」と言ったのはメアリー・ルー・ウィリアムスだっただろうか。
ジョージの演奏からは、暖かさ、明るさ、ユーモア、美しさ、深み、そういうものが溢れ出していた。
音楽を通して、観客席の私達は、彼の素晴らしい人柄に触れ、人間の素晴らしい創造力に触れ、幸せな気持ちになり、家路につく。
音楽を演奏するというのは、そういうことなんだよなぁ、と、しみじみと感じたのだった。
ヴィクター・ルイスの演奏も素晴らしかった。
彼のドラムは、シンプルなのに饒舌で、繊細だけどワイルドで、太陽の光を浴びた土の匂いがした。
口では多くを語らないのに、表情や仕草から、滲みだす存在感と深い味わいは隠し切れない、そういう人っている。
ヴィクター・ルイスは、きっとそんな人なんじゃないだろうか。
途中、彼はスティックをおろし、素手で長い間ドラムソロを取った。
言うまでもなく、素晴らしかった。

新しい世代のジャズも素敵なものがたくさんあるけれど、
こうやって長い間、自分が愛すると決めた曲をとことん愛して、弾きこんで、
ただ純粋に音楽を演奏してきた、そういうオールド・スクールな渋さを目の当たりにすると、
やっぱりジャズの素晴らしさはこれだな、と思う。
自分以外の何者にもなろうとしない。飾り立てることなしに、率直に、自分の生身のままを弾く。
ぐちゃぐちゃのどろどろの世界から、楽器を通して叫んで、歌って、夢見てきた、そういうリアリズムが、ジャズを魅力的なものにしてきたのだ。

帰り際に、長い間借りたままだったマハリア・ジャクソンのレコードをジョージに手渡し、
素晴らしい演奏だったと告げた。
私の記憶の中のヴィレッジ・ヴァンガードには、またもう一ページ、新しい色の思い出が加わった。





2014年8月9日土曜日

音楽と信仰 

悲しいニュースばかり左から右へと流れていく毎日の中で、
私はいつも、芸術という鳥をこころの中の枝にとめていたい。
歌、詩、色彩、旋律、それらはいつも、重く沈んだ精神に羽をつけてくれる。
争いを生み出し続ける強欲、民族・同胞意識、宗教、そういうもの達から芸術は解放されている。

エマホイ・ツェゲ・マリアム・ゴブルーという、エチオピアのピアニストについての話をしたい。

彼女は、60年代に、エチオピークのシリーズからソロピアノ録音を発表している。
エチオピアの音階も充分に聞こえるその音楽からはラグタイムの欠片のようなものも聞こえてくるし、
またブルースも聞こえてくる。
その丸みを帯びたタッチは、メアリー・ルー・ウィリアムスのタッチによく似ている。
だけど、エマホイの演奏には、メアリー・ルーの弾く様なユーモラスで悲しいという味のブルースは存在しておらず、代わりに、アフリカの広い大地を思わせる様な明るい響きが音楽全体を形作っている、というイメージを受ける。




彼女は、1923年生まれ、現在91歳。イスラエルに住む。
80年代にイスラエルに移住してから、エルサレムにあるエチオピア正教の修道院で、日々祈り、
ピアノに向かう生活を送ってきた。
宗教に携わる者として、表に出る華やかな音楽家、という道を選択することのなかった彼女は、
演奏の場を公に探すことをせず、日々、ただ神に捧げるためだけにピアノを弾いた。
そんな時、つい数年前に、イスラエルに住む若者が、エチオピークのアルバムを聞き感銘を受け、
同時にエマホイがエルサレムに住んでいることを知る。
彼らは修道院を訪れ、エマホイの了承を得て、彼女の書いた膨大な枚数の譜面をかき集め、
ついにエマホイの作曲集として出版した。
さらに感銘を受けた人々は、エマホイの作曲した曲を若い音楽家達で演奏するコンサートを催し、
大成功をおさめ、エマホイは一躍、90歳にしてイスラエルの「時の人」となったのだ。


エマホイが生まれたのはアジス・アベバ。
父は政治家で、母はハイレ・セラシエ皇帝の二番目の妻、メネン皇后の家系の出であった。
エマホイは6歳の時にスイスに渡り、教育を受け、バイオリンを始めた。
1933年に、10歳で一端エチオピアに戻るものの、すぐに第二次エチオピア戦争が始まる。
ムッソリーニ政権のイタリアがエチオピアに軍事侵攻し、イタリアの独裁的な占領軍に反抗的な立場をとったエマホイの家族は捕虜としてイタリアのアシナラという島に送られてしまう。
戦争が終わり、1944年に家族はアフリカへ帰還。
彼女はエジプトへ移り、アレクサンダー・コントロウィッツというポーランド移民のバイオリニストに師事し、音楽をさらに勉強した。この頃はまだ、バイオリンを主に弾いていたようだ。
のちにエマホイはコントロウィッツと共にエチオピアに戻り、エマホイ自身はエチオピア外務省のアシスタントとして働き、コントロウィッツはハイレ・セラシエ皇帝じきじきに使命され、宮廷音楽隊の音楽監督に就任する。

その後、エマホイはロンドンで音楽の勉強をする奨学金を与えられるも、エチオピアの権威は彼女の出国を許さなかった。
希望を断たれ、深いショックを受けたエマホイは何日間も絶食し、死の淵を彷徨った後に、神との聖餐を望んだ。
エマホイは、エチオピア北部、岩窟教会群のあるウォロ州へと移り、修道院での暮らしを始め、
21歳の時に修道女となった。のちにゴンダルという古都にも住んだようだ。
ところで、このゴンダルという場所は、タナ湖の北部にあり、ベータ・イスラエルと呼ばれるエチオピアのユダヤ人集団が住んだ場所だ。少し調べれば分かることだが、エチオピアの皇室はソロモン王の系譜であることを主張しており、紀元前、古代ユダヤ教を宗教としていたが、4世紀頃にキリスト教に改宗している。9世紀にユダヤ教がほぼ完全に淘汰されるまで、ふたつの宗教は競り合いながら共存していた。イスラエルと同じように、ゴンダルという場所でも、異なる宗教を持った人間がすぐ隣同士で、神に祈りを捧げてきた。


1960年代、エマホイは修道女として神に献身する一方で、 熱心にエチオピアの宗教音楽を学び、作曲もした。
この時期に、裸足で教会の外に寝泊まりしながら教会に勉強をしにきていた子供達を多く見たエマホイは、自分の音楽でこの子供達の教育の手助けをしたいという思いに駆られる。
結果、ハイレ・セラシエ皇帝の援助により、1967年にデビュー・レコードを出し、その売上をすべて子供達の教育のために寄付したという。
これは丁度、ハイレ・セラシエ皇帝がジャマイカを訪れ、ジャーという生き神としてセラシエ皇帝を崇めるラスタファリアン達に熱烈な歓迎を受けた、次の年のことだった。

1970年代になると、エチオピアはオイルショックや飢饉による混乱に見まわれ、
兵士達によるクーデターで皇帝は捉えられ、退位後、殺害された。
1974年政府は独裁体制のメンギスツの支配下となる。
メンギスツは彼の政策に反抗するものを次々と捉え、投獄、処刑していった。
この混乱の中で、60、70年代に活躍したEthiopiquesを始めとするエチオピアジャズは急激に衰退していった。
自由な即興演奏を主体とするジャズという音楽をメンギスツが危険要素とみなし、音楽家達を攻撃しはじめたために、身の危険を感じた音楽家達が外国へ亡命していった結果のことであった。

このような政治的混乱の最中、独裁者メンギスツのマルクス主義的政策が自身の宗教的献身を侵害すると考えたエマホイは、母の死後、 1984年にエルサレムへ逃亡。
今まで、エルサレムのエチオピア正教会に修道女として暮らしてきた。

この1984年というのは、モーセ作戦というイスラエル政府の帰還法に基づき、のべ八千人ほどのベータ・イスラエル、つまりエチオピアのユダヤ人がエチオピアからイスラエルに移送され、帰化を許された年である。現代版の出エジプトだ。詳細は定かではないが、エマホイ自身も、このモーセ作戦によりイスラエルに移住したという可能性がある。

ピアニストの修道女。エチオピアからイスラエルへ。
何という波乱万丈な人生だろうか。
これだけ様々な事が周囲で起きる中で、彼女は「信仰と音楽」という一点だけを見つめて、
91年間生きてきたのである。
現在も侵略と戦争に隣り合わせで生きる彼女は何を思い、日々を過ごしているだろうか。

パレスチナは、イスラエルは、エチオピアは、オキナワは、「誰の」土地だろう?
所有するのは、侵略するのは、占領するのは誰のためだろう?
わたしはこの国の人間で、あの子はあちらの国の人間で?
何がそれを決めるんだろう?
生まれた国、肌の色、宗教、言葉、血筋?
自己防衛のために、わたしは武器を持って、あちらも武器を持って、みんな武器を持って安心?

人間の本質は決してそんなところにはないと思う。


エマホイの歩いてきた人生に思いを馳せ、
平和の意味をいま一度考える。






参考資料:
http://wemezekir.blogspot.com/2012/12/happy-birthday-emahoy.html
http://www.theguardian.com/world/2013/aug/18/ethiopian-nun-music-holy-enrapture
http://www.ethiopianstories.com/component/content/article/37-editors-choice/79-emahoy-tsegue-mariam-gebrou
http://www.tadias.com/07/08/2008/historic-concert-by-ethiopian-nun-pianist-composer-in-dc/





2014年7月31日木曜日

「方向の変化」以上のものを 〜つづき〜

このインタビューを読んで、私は穏やかな感嘆を覚えた。
ヴィジョン・フェスティバルでのマシュー・シップ・トリオの演奏は、まさにシップ自身がインタビューで述べている内容通りの表情を私達に見せてくれていたからだ。
ピアノ、ドラム、ベースという伝統的なピアノトリオの構成。
今までの彼の作品よりも、もっと「馴染みやすい」、「ジャズ的」サウンド。
きっと彼は、とても頭の冴えた、そして優しい人なのだろうと、つい私などは想像してしまうのだけれど、
感性の細やかな人だからこそ、オーディエンスへの橋渡し、という感覚を音楽的実験の中に取り入れたりできるのかもしれない。
しかも、マシュー・シップはそれを、自身の音楽的理想を犠牲にせず、限りなく繊細なバランスを保って成し遂げている。
彼の少し以前の演奏は、もうすこし荒いというか、どすのきいたフリージャズピアノという感じがあった。そこから、今のもう少しオーディエンスにとっては入り込みやすい演奏への試みをする課程において、どういう心境の変化があったのだろう?

フリーのピアノトリオ演奏で、私がすぐに思いつくのは、セシル・テイラー、そして菊地雅章のふたりだ。
セシル・テイラー:フィール・トリオの混沌と舞踏、 または菊地雅章:テザード・ムーンの静謐さとエレガンスとも違う、独自のスタイルをマシュー・シップ・トリオは持っている。
トリオのメンバーそれぞれが独立した、個々の音の表情を演出する。
それでいて、そのバランスや一体感は研ぎ澄まされていた。
演奏の中で、静寂や激情といった表情の変化は豊富にあるのだけれど、そこで決して遠くへ行き過ぎない、統制を保っているのだ。
大人のする恋愛ってこういう感じだろうか。
特に印象に残っているのだが、 ドラマー、ウィット・ディッキーが、大きな体の背筋を伸ばし、 目を瞑って、ただスネアドラムだけを長い間叩き続ける様子はまるでどこかの僧侶が一心に瞑想をしながら木魚をたたく姿の様であった。
それくらい、内省的な音楽だ、という印象を得たということだが、
内省的であると同時に、音のエネルギーは確実に聞く側に差し出されている。

インタビューの中で、彼はこう言っている。
「ひどい文化、社会の状態とのバランスをとるためにも、音楽家達は、例え自分達が稼げなくても、
この種類の音楽(主にフリージャズのことだろう)を継続していかなくてはならない」と。

世の中の人々の多くの眼が利益とコンフォート(居心地の良さ)に向いている中で、
純粋に芸術への専心、という活動をする芸術家、音楽家の存在は、
大げさではなく、そういった世の中のバランスをとるはずだと私も思う。

少し前に書いたものの中で、自己決定権という話をしたが、これはもちろん音楽に対する姿勢に関しても同じことが言える。
演奏する側は、利益が例えでなくとも、自分がその作品を信じている限り、魂を投じて演奏すればいいのだし、演奏を聞く側も、他者からの評判を頼らずに、自分の感性と判断のみを信じて鑑賞するしないを決定する、そういうスタンスがこの種の音楽においては求められる。
そしてそういう姿勢こそ、「大衆」というひと括りの枠が価値基準になっている現在の世界で、私達が今見直していかなければいけないことだと思うのだ。


最後に、与謝野晶子の、「愛、理性及び勇気」より以下を引用したい。

ほんとうに芸術を愛そうとすると、世間の評判なんかに拘泥して居る余裕はありません。
寧ろ世間の評判なんか害こそあれ何にもならないという気が起こります。
自分のまだ知らずに居る 漠然とした大きな生命を ー真実をー 一寸よりは二寸、一尺よりは二尺と云う風に深く掘り下げて覗かせてくれる芸術ほど好い芸術だと思います。
そう云う芸術を余計な仲介者無しに自分自身で発見しようと心掛けることが芸術を鑑賞する唯一の態度でしょう。
鑑賞とは、芸術の奥に宇宙の真実を透感し体験することです。
芸術家の特異な心意気や巧妙な言い回しやに感服することでは無い、断じて無いと思います。
真実は無限、無量無際です。如何なる芸術家でも真実の全部を窺うことは出来ません。
その一角を誇張して、その一角に繋がった奥行を或程度まで深く浮き出させることが芸術の使命です。





2014年7月29日火曜日

「方向の変化」以上のものを

ヴィジョン・フェスティバルで感銘を受けたマシュー・シップのトリオ。
リリースされたトリオのアルバムや、マシュー・シップの歩いてきた音楽シーンについての、
Jazz Right Nowのシスコ・ブラドリーによる、ピアニスト、マシュー・シップのインタビュー。
(2014年3月)


ブラドリー:
マイケル・ビシオとウィット・ディッキーとの共演でリリースしたアルバム、Root of Things(Relative Pitch, 2014)は何か新しい方向性というもの示しましたか?

シップ:
新しい方向性というのが正しい表現かはわからない。もしかしたら、もっと強烈な形での融合というのが合った見方かもしれない。
私は確実に、以前よりももっと「ジャズ」のサウンドに足を踏み込んでいる。
このトリオは、伝統的なピアノ・トリオのような、馴染みやすい種類の音の世界への見せかけの橋渡しをしているが、音楽的方向性そのものは、音と律動の連続体だ。
それは、より深く、違った角度から、ただの「方向の変化」以上のものを導き出すということ。
今回書きだしたいくつかの素材のフォーカスは、私が今まで書いた曲のテーマとは少しエネルギーも方針も違う。


ブラドリー:
ウィット・ディッキー、そしてマイケル・ビシオと、ここ何年か一緒に仕事をしてきたのはどのような経験でしたか?

 シップ:
ウィット・ディッキーのことは80年代の終わり頃から知っていて、それ以来ずっと親しい仲なので、その間の細かい課程とかそういうことは覚えていない。家族の様な感じだから。
彼は私の演奏スタイルにとってパーフェクトなドラマーだ。
マイケル・ビシオと私は何年もの間知り合いで、実際に一緒に演奏するまでに何度も共演の話はしていた。共に演奏した最初の一音を聞いた瞬間に、互いに家族の様に感じた。
ふたりとも、とても親しい間柄だ。

ブラドリー:

80年代頃から今まで、ウィリアム・パーカーやデイヴィッド・S・ウェアなどとの共演でシーンの潮流を起こしてきましたが、その当時のニューヨークのシーンや雰囲気について話してもらえますか?

シップ:
80年代の初めの頃は、ダウンタウンのアヴァンギャルド・シーンでは、いわゆる黒人派と白人派が分離されていた。ニッティングファクトリーで白人も黒人も皆が演奏するようになって、ダウンタウンのアヴァン・シーンというアイディアがより一体となった感じがする。それまでは、ウィリアム・パーカー派とジョン・ゾーン派という風に分かれていたし、それ以外にもアップタウンのウィントン・マーセリスを筆頭とする伝統派とダウンタウン派の黒人と白人両方の間の分離もあった。
こういった種類の分離は未だ存在している。
ダウンタウンの黒人派は、80年代初め、3つの出来事が起こるまで、全く注目されなかった。
ひとつめに、スウェーデンのシルクハート・レコードが来て、チャールズ・ゲイルやデイヴィッド・ウェア、Other Dimetions in Music、私自身や他のミュージシャン達を録音し始めた。
ふたつめは、オルタナティブやパンク・ロックのレーベルが、フリージャズを録音しはじめ、さらにオルタナティブ、パンク・ロックのミュージシャン、サーストン・ムーアやヘンリー・ロリンスがダウンタウン派のミュージシャンを起用して録音したこと。
最後に、ヴィジョン・フェスティバルが立ち上がり、成長していったことで、この種類の音楽への国際的評価が得られたこと。
この3つの出来事のおかげで、デイヴィッド・ウェア、ウィリアム・パーカー、私自身、ウィリアム・フーカー、ロイ・キャンベルなどは色々な事をできるようになった。
もちろん、ウィリアム・パーカーの成功はものすごい仕事への熱意と数えきれないほどのプロジェクトへの専心によって得られたものだ。
デイヴィッド・ウェアは一匹狼で、ダウンタウンの黒人ミュージシャンの傘下にはいなかった。
だけど、やはりこの一連の動きからの恩恵は受けていると思う。

ブラドリー:
クリエイティブな音楽をやっているミュージシャンにとっては、ニッティングファクトリーの時代とダイナミックなシーンを懐かしむことは珍しいことではないと思いますが、どうしたらそのようなダイナミックなシーンを再築することができると思いますか?それとも違った方向へと押し進めるのが良いのでしょうか?

シップ:
新しい方向へ進んで、何か違ったことを始動させる方がいいだろうね。
ニッティングファクトリーはとにかく中心的な場所そしてイメージになったし、あるレベルではその場所と音楽における継続性を創ったけれど、アーティストそれぞれがそこから抜け出す方法も創りださなければいけない。

ブラドリー:
この5年間で、ニューヨークのクリエイティブな音楽シーンは良くなったと思いますか、悪くなったと思いますか?

シップ:
私は自分自身のプロジェクトにフォーカスしているし、生き残っていくためにはいろいろとやることがあるので、シーン全体のことを知ることは難しいし、この質問は答えにくい。
私は50代半ばなので、20代や30代の時の様に外を遊び歩くことはないんだ。家にいるのが好きだし。ブルックリンに沢山クラブがあるのは知っているけど、ほとんどは行ったこともない。
色々な音楽的活動もあるようだけれど、よくは知らない。
私が思うに、社会全体がとても嫌な場所になってきているし、文化全般が浅はかなものに成り下がっている今、この種類の音楽は、ミュージシャン達が稼げていてもいなくても、継続していかなければならないものだ。ひどい社会文化の状態とバランスを取るためにね。
たとえ天気が悪かったとしても、ーいつも悪いものだけどー 一番重要なことは、人々がそれぞれの活動を活動するということだ。
こういった動き全体にはもしかしたら宇宙意志なんてものが働いていて、
私達がお金を稼げるかどうか、またはダウンビート誌に評価されるかどうかというのは、
宇宙意志の計画にとっては重要ではないのかもしれない。
質問に答えるとしたら、もちろん、今のこの音楽シーンの状態は悪いよ。
文化そのものがバランスを欠き、フェイクなものになっている中で、このシーンだけが良い状態でいれることなんて無理だろう。けれど、だからといって、そういう状況が、本物のアーティストが活動をしていくことの妨げにはならないはずだ。

ブラドリー:
これからリリースされる予定のもの、グループなどありますか?

シップ: トリオのRoot of Things、イヴォ・パレルマンとの共作がふたつ、ダリウス・ジョーンズとのライブ録音、それからゲストとして参加している、The Core Trio、ドラマーのジェフ・コズグローブのグループ、それからサースティー・イヤーのためのソロ録音もする。

ブラドリー:
ダリウス・ジョーンズとのCDについてもう少し聞かせてもらえますか?

シップ:いくつかのギグでライブ録音したものを厳選したCDが数カ月後にリリースされます。もちろん、AUM Fidelityから。ダリウス・ジョーンズと演奏するのは大好きだ。彼はこの音楽における輝く光のひとつだ。多くのリスナーがまだ聞いたことはないと思うが、彼は音を引き伸ばしたり伸縮させたりすることができるんだ。まるで巣を編む蜘蛛の様にだ。彼の音は、本当にオーガニックな可能性を秘めている。ひとつの言語とも呼べるものだ。

ブラドリー:
もしニューヨークのクリエイティブ音楽シーンでひとつ変えることのできるものがあるとすれば、何でしょう?

シップ:私達がしていることが、他の音楽に比べて「out」(はみ出している、おかしい)と思ってしまう感覚。アーティストが、自身の感じている本物の感情をもとに創造しているのであれば、その創造物は「out」ではなく、ただそれはありのままにそういうものなのだ。




引用:Jazz Right Now 
訳:蓮見令麻


2014年7月12日土曜日

満月のコンサート

明日のコンサートについて。

まづは私の出番においては、トッド・ニューフェルドのギターとビリー・ミンツのドラムとの3人の編成で、フリーでの演奏をする。
今回は12月に行ったレコーディングでの内容の継続という形で、
テーマに雅楽の東遊びや、八重山の古謡などを唄い、インプロビゼーションのボイスも入れてみようと思っている。

この試みを始めたのは、アメリカの音楽を学んできて、ふと振り返った時に、
自分の生まれ育った土地の音楽がどうしようもなく置き去りにされているように感じたことがきっかけだ。音程の感覚も、楽譜の書かれ方も、リズムの感覚も、私は日本の音楽について何もしらなかった。
近世の家元の伝統や、戦後の商業音楽よりも、もっと前の、土地の信仰に基づいたものを知りたいと思った。
日本の古い音楽、唄をモダンなインプロビゼーションに混ぜ込むことは、
所謂12音階に基づいた「ジャズ」というやり方と日本音楽を混ぜることよりも自然に成すことができるのではないかという実験である。
なぜなら私の弾くインプロビゼーションは、調性と無調性の間を行き来するものなので、
理論に基づく和音よりも、ひとつひとつの自立した音の有機的な集まりを主体とする。
で、これは日本の音楽の特徴であるヘテロフォニーとの相性が良いのではないかと思っている。 

ジェン・シューのソロオペラ公演を見て衝撃を受けた私は、
トッドを通じて知り合ったジェンに、思い切って共同コンサートを持ちかけ、今回の演奏も決まった。
正直言ってものすごくプレッシャーはあるけれど、彼女の様な素晴らしい音楽家とステージを共にすることに抑えきれない興奮もある。
ジェンの研究してきたものは、韓国やインドネシアの祭祀音楽であるようなので、
インプロビゼーションとアジアの土着音楽の融合という点でテーマは同じだ。

私としては、どうしてもヨーロッパ中心主義や、黒人中心主義になってしまう傾向のある音楽の世界に、多様性をいまいちど提示したいという気持ちがあり、
そうするために「フリー」またはインプロビゼーションという演奏方法は最適のキャンバスである。





2014年7月1日火曜日

ベン・ウェブスターの膝の上で



ベン・ウェブスターの掠れたビブラートを聞く時、私はベンの膝の上に座っている空想をする。 

彼のテナーからは、ほとんど完璧に近い父性がむせかえるほどに溢れ出している。
大きな両腕を拡げて私を包み込む深い懐、くゆる煙草のけむり、そういうものが音を伝い、迫ってくる。
ベン・ウェブスターの生涯の中で彼が愛した女性がきっと何人かいただろう。
もしその女性達の中に、ベンが膝に座らせて耳元で掠れた音でバラードを聞かせたひとがいたとしたら、
彼女にとって、それは魂に深く刻まれるほどの強烈な経験であっただろうと思う。

例えば、"Tell Me When"というバラード。聞きこむほどに、本当にぞくぞくする。
そこには、ブルースがあって、物語があって、愛があって、哀しみがある。
生粋のロマンティシズムには、偽物の恥ずかしさは微塵も介在しない。


こういうレコードは、古く静かなジャズ喫茶で聞きたいものだ。
オリーブの入ったジンのマティーニを少しずつ啜りながら、ベン・ウェブスターが流れるのを聞く時には、レコードの薀蓄を語るひとではなくて、ただ、うーん、やっぱり、いいねぇ、、、 と一緒に唸ることのできる類のひとに隣にいてほしい。


"Gerry Mulligan meets Ben Webster"(1959 Verve)





2014年6月21日土曜日

Folhas Secas






ノスタルジックな情景の夢を見た。
子供の頃の純粋な遊びと、自由の感覚の夢。

ネルソン・カヴァキーニョのこの名曲と夢の内容が混じり合う。


 



マンゴーの木から落ちた 乾いた葉の絨毯の上を歩く時

学校のこと そして 詩人達のことを 思い出す

歌いながら丘を登ったのは 数えきれないくらい

太陽に焼かれて 時間を食べ尽くした

いつか もう歌えないと 時が私に告げたら

私はギターの横で 子供の頃の時間を追憶するだろう












2014年6月20日金曜日

Rema Hasumi / Darius Jones / Dan Weiss @ Spectrum

6月18日の演奏。
ダリウス・ジョーンズとダン・ワイスとのトリオ編成。
最初から最後まで即興で通した。

ダリウス・ジョーンズとは共演し始めて約2年程経っていて、
色んな内容の音楽を、色んな編成で一緒に弾いてきたけれど、
根本で彼と私の音楽が繋がるのは、ブルースのフィーリングと、スピリチュアルな音の探求だと思う。

今回の即興で一番手応えを感じたのは、ひとつのアイディアに深く沈み込んでいくことで、
即興の中に、作曲されたもののような必然的な部分を刷り出して即興の構造をもっと立体的にする、というプロセス。
これは、家でソロピアノでずっと弾いていたものを、トリオでも応用することができた。

 ドラムのダン・ワイスも、まったく媚びず、彼のユニークな弾き方でそのまま正直に絡んできたので、
私が頭の中で描いていたものとは少し違う演奏になったのだけれど、
それが即興というものだし、そこからどれだけ音楽を開いていけるか、というのは本当にやりがいのあることだと思う。

私達のすぐ後には、アイヴァンド・オプスヴィクがアンジェリカ・サンチェスをキーボードに、
クリス・デイヴィスをプリペアド・ピアノに従えた新しいバンドで演奏した。
その後は、ベルギー出身のドラマー、フリン・ヴァン・ヘメンのバンド。
パスカル・ニッゲンケンパーがプリペアド・ベースを弾き、ピアノはフェンダー・ローズのソロパフォーマンス作品を発表しているジョゼフ・ドゥモウリンだった。


どれも素晴らしい演奏。
いつも謙虚さを忘れないように。
少しずつ、変化している。




2014年6月14日土曜日

Charles Gayle Quartet @ Vision Festival 2014



息を切らして辿り着いた扉の向こうからは、駆け狂う様なサックスの音が溢れていた。
はやる気持ちで重い扉を開けると、そこには、人々の、初夏の訪れへの祝福と、暴力的な雨雲への鬱憤が混じり合った興奮が、濃密な空気を作り出していた。
もしかするとその空気は、そのまま、純粋な音楽への陶酔と、商業主義に対しての蓄積した芸術的不満に置き換えることができたかもしれない。

私は、まるで60年代にタイムトリップした様な感覚を覚えていた。
音楽の内側から響く、熱心さ、素朴さをこんなに直接的に感じるコンサートで、
大きな会場が満員になっている。そういう場面にはしばらく出会えていなかった。
熱狂する観客の拍手や歓声に、顔色ひとつ変えずに、
音楽へ献身していたその男は、チャールズ・ゲイルという人であり、またの名を、道化師「ストリーツ」といった。


チャールズ・ゲイルは、つぎはぎのあるよれよれのスーツを着て、鈍く光るサックスを吹いた。
Tシャツの上につけたネクタイも、長身の体躯のせいか、不思議とスタイリッシュだ。
ピエロの赤いつけ鼻が、彼の白い顎ひげとともに漆黒の肌から浮き立っていた。

ウィリアム・パーカーが、大木の幹を連想させる太いベースを弾き、
デイヴ・バレルのミニマルかつエッジーなピアノはモンクの様な響きで空間を覚醒させ、
マイケル・ウィンバーリーの雷の轟音の様なドラムが高揚を持続させた。
素晴らしいリズムセクションを後ろに、淡々と、しかし確実に熱を持って演奏するゲイル。
後にも先にも、私は、あんなに粋な道化師を見たことはなかった。

以下は、ゲイル自身が、彼の演じる道化師「ストリーツ」について語った内容だ。

そうだな。彼の格好を見てみれば分かると思うが、彼はぼろぼろの服を着た奴だ。
愛、痛み、喜び、生きていく中で起こるすべてのことに反応するんだ。
心がずたずたになって、俺もその心をずたずたに破って、泣き始めるさ、
そしてそれをピアノとか、サックスで弾こうとしてみるんだ。
その中には社会的、政治的な理由だってある。 何かの結果を招く原因を作ろうとかじゃないんだ。
ただ、心の中にあるもの、それだけだよ。
いくつかの問題は、他の問題よりも少しやっかいだ。だけど俺はそれも演じる。
たまに小道具を使ったりするときもあるし、使わない時もある。
だいたいはパントマイムだ。伝統的なものとは少し違う。言葉は使わない。 
そうして、ストリーツを動かして、遊ばせるんだ。
愛の演目もある。小さな赤ん坊のことだったり、ただ誰かを手助けすることだったり。
または暴力の演目もある。ピアノの上に血が滴る様なね。まあ、目には見えない形で、だけど。
ただ演奏しようとするんじゃなくて、何か他の形の見えるものを演奏に取り入れたかった。
そんなにだいそれたものだとは思っていないけれど、
俺の心の中にはずっとあったものだ。
ずっと、ただ演奏するだけでは自分には充分じゃないと感じていた。
特に、ストリートでの生活を経験してからは。
ストリートでは、演奏するだけじゃなくて、食事もしたし、ぶらぶらしたし、時には寝たよ。
パフォーマンスや演奏っていう、フォーマルなことだけに意味があるとは思わない。
多くの場合は、それ以外にもたくさんの要素が混じっている。
ストリートで演奏する奴の多くは、家に帰っても演奏できる。
だが、本当にストリートで生活してる場合は、曲をパフォーマンスするっていうことだけじゃないんだ。
他の色んな事が、マインドにも演奏にも関わってくる。
色んな人と話をするだろうし、時にはサイレンを追いかけてるかもしれない。
救急車を追いかけるってことじゃなくて、サイレンと音で遊ぶっていうことだよ。
見た目の面白さのためにそういうことをするのではなくて、
演奏しているその瞬間に、そういう色んな出来事が周りで起こっているから。
少なくとも俺の場合は、そう、演奏するだけじゃ充分じゃないんだ。

ゲイルは、過去に20年近く、ホームレス生活をしていた。
ストリートをただひたすら歩き、サックスを吹く生活、を送っていたのだそうだ。
私が興味を引かれるのは、音楽家として彼が経験してきたであろう、人間の「評価」というもののめまぐるしさである。同じ人間が、同じ楽器を弾いて、ある時は路上の片隅で見過ごされ、
またある時は豪奢なステージで拍手喝采を浴びるのだ。
その様子をゲイルは、どんな気持ちで眺めてきたのだろうか。

自由に即興をすることと、自由であることは別物だと思うんだ。
誰だって自由な即興はできるさ、だけど、精神は自由か?
そうでなければ、ただ自由即興のための音楽的語彙を学ぶだけ。
個人的な話だが、自慢じゃないけど、私は自由な人間だ。
だけど、それが必ずしも良いこととは言わない。
時には自由であるということは障害にもなるけれど、
私はそういう人間だから、それでいい。
これは、自由のための声明だ。そこには、喜びもあるし、悲しみもある。


超資本主義を人間の無知さが容認する世相において、芸術も商業と同じ程度の生産性を期待される。どれだけのお金に還元されるかという物差しで芸術を評価してしまいがちな私達現代人は、
まるで夢を喰い尽くしてしまう盲目の獏(ばく)の集まりだ。
この安易な評価基準に甘んじることなく、個人の経験と感受性を反映した独特の基準を維持できるように、私達は注意深くいなければならないと思う。

ゲイルの演奏が私に教えてくれたことは、
ミニマルな表現の一端を深く、忍耐強く、掘り下げていくことで、
そこに、あらゆる事象を包括するひとつの小宇宙を見出すことができる、ということだった。





引用:チャールズ・ゲイル ジェームス・リンドブルームによるインタビュー
             ケン・ワイスによるインタビュー 
              

2014年6月3日火曜日

ヴィジェイ・アイヤーのスピーチ 



ピアニスト、ヴィジェイ・アイヤーのスピーチが最近話題になった。
ジャズの世界で市民権を握る黒人ではなく、まして白人でもない、
アジア系マイノリティのアーティストであるアイヤーの視点から見た、ジャズ批評について、
コミュニティを作り、社会活動と芸術活動と連動させていくことの重要さなどについて話している。


私自身は、アメリカに来た2002年当時、アメリカ黒人史の講義を受けたりして、
ジャズとアメリカという国における歴史的背景との関連性をできるだけ理解しようと努めてきた。
その当時はその作業に夢中だったのだが、在米5年を過ぎたあたりからは、
音楽に集中し、そのような社会的な事を考える機会は年々減っていたように思える。
アメリカにおいては、人種について何か言及することは、ある種のクリシェであり、
所謂リベラルな人々にとって、人種差別などというのはもってのほかの古臭い話題であるという風潮もある一方で、未だに社会的な場面では人種の問題が声高に論議される一面もある。

ジャズの世界での話をすれば、
音楽の評価における人種的偏見は、極めて微妙な形でだが、存在していると感じる。

在学時代に教えを受けたピアニスト、ジョージ・ケイブルスに、私はジャズと人種の関係についての問いを投げかけたことがあった。
その時に、ジョージは少し間をおいてから、優しい物腰でこう言った。
「ジャズは、黒人の所有する音楽ではないけれど、黒人の経験から生まれたものだよ。」
「この曲を教えてあげよう。」と言って彼が弾きだしたのは、
Lift Every Voice and Singという、アフリカン・アメリカンの国歌とも言うべき曲だった。

ジャズのすべてを吸収したかった私は、この曲も習得したし、ブルースもひたすら勉強した。
だけれど、ある時点で、所謂「ジャズ」と呼ばれるもの、スタンダードやブルースを弾くことに面白みを感じなくなっていった。そういうものを弾く時、表現の根本とも言える、私の精神の深みに存在する『何か』と、音楽の響きそのものが符合しなくなっていた。
その時に初めて、自分はアジア人で、日本人なのだということを客観視しはじめたと思う。

今自分が生きている社会の中で、自分の生まれ育った背景に忠実な形で、
純粋な表現をしたい、そう思った時に、目の前に開いていたのはインプロビゼーションの世界だった。
何年か、インプロビゼーションジャズの世界に身を置いてきたが、
特に最近、夫とそのような話をよくすることもあって、社会的興味と自分のアーティストとしてのスタンスが繋がり始めていた感じがあった。

今この時期にジェン・シューがやっていることや、ヴィジェイ・アイヤーのスピーチの内容なんかは、
私が感じていることとの繋がりもあるし、なんだか大事なことの様な気がしている。

ジャズという音楽は、アメリカ社会の根底にあるものを反映してきた。
奴隷制度があり、市民権運動があり、資本主義大国アメリカのアメリカ中心主義があり、
人種の多様性があり、そのひとつひとつがジャズの中になにかしらの形で反映されていった。

移民のルーツを持ったコミュニティとして、アジア人として、私達はこうやって表現していく、という
自らのアイデンティティを尊重した表現の提示をしていくことは、私達自身と他者、両方の想像力を育ててくれると思う。

音楽や表現というものが存在しなかったら、政治にも社会にも希望を持てないのではないか。
だからこそ、音楽家・芸術家は、芸術作品が人間のラディカルな発想の喚起を促す可能性を持っている、ということを自覚した上で表現していくことが必要とされる時代なのかもしれない。


 以下がスピーチの内容です。

(翻訳:蓮見令麻)
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皆さん、
今回初めて、アジア系アメリカ人のイエール大学卒業生として、世代を越えて集まった皆さんとお会いできたことを、嬉しく、誇りに思います。

ご存知ない方のために説明しますが、
私はピアニスト、作曲家、即興演奏家、バンドリーダー、エレクトロニック・ミュージシャン、そしてプロデューサーです。おそらくジャズの世界では私のことを知る人が多いと思いますが、
同時に私はそのジャズというカテゴリーにあてはまる内容と、そうでない内容を両方創作してきたアーティストとして一般的には知られています。ごく最近、私はハーバード大学の音楽学部の教授にも就任しました。

私は、皆さんとまったく変わらない、ひとりのアジア系アメリカ人ですし、
これまでに、このような機会において様々な人々によって述べられてきた物事以外に、私が提供できる叡智などは特にありませんが、
今日は、「私達」についてのお話をしたいと思います。

イエール大学というのは、インドで財産を築きあげた、特権階級の、裕福な帝国主義者、エリフ・イエールの名前から由来しています。
そのような場所に戻ってくるということは、私にとっても非常に面白いことです。
 1687年から1692年まで、エリフ・イエールは、イギリスの東インド会社のインド、マドラス(現チェンナイ)の交易所Fort St. Georgeの知事でした。
そしてこの土地は、私の祖先が生まれた場所でもあります。
後に、イエールは、不正所得と東インド会社に対する数々の冒涜により、知事を退任させられました。

この様な事実により、エリフ・イエールのことをイギリス東インド会社のジョージ・ブッシュまたはミット・ロムニーと呼べるかはわかりませんが、
とにかく、監視の目のない状況での、彼の帝国主義的略奪は、様々な物事を動かす動機となりました。
エリフ・イエールは、1700年代の始め、
この学校(イエール大学)に多額の寄付をできるほど裕福になり、
結果として学校の正門に彼の名前がつきました。
私達が何をして、どのような機関を設立しようと、私達イエール大学の卒業生は、エリフ・イエールの家元にいるというわけです。

現在、私自身も、何世紀という歴史のあるもうひとつの教育機関会社(ハーバード大学のこと)に毎週趣き、教鞭を取るわけです。
その度に私は、ナイジェリア系イギリス人のアーティスト、インカ・ ショニバレの、
"complicity with excess"ー「贅沢の共謀」いう言葉を思い出します。

私達がアメリカ人としての道すじというものを考え、構築し、それを応用していくプロセスにおいて、私は自分自身がこのような国のシステムの中の共謀者のひとりであるという事実を考えずにはいられません。
構造のなかの不平等性、支配のパターン、恐ろしい奴隷と暴力の歴史。
そういったものすべてにおいてです。
いまこの場所にいる私達のほとんどが、そのようなシステムにおいて「成功」した結果、ここにいるわけです。
そうやって私達はイエール大学に入学し、 周りの人々に「最も成功した人」ともてはやされます。
もしかすると、私達の中には、自身の成功の証明を確認するため、今週末ここに集まってきた者さえいるかもしれない。(中略)
アメリカで成功するということは、アメリカという国家の意義にある意味では賛成することにもなり、
また、アメリカの醜い過去を認め、消化したということにもなるのです。

そういった事も考慮にいれながら、とりあえずは「成功」という話を置いておき、
別の観点から我々について話してみましょう。

あなた達と同じように、私自身も、大人になってからのほとんどの間、「私達(アジア系アメリカ人のこと)」について考えてきました。
コミュニティについて、どこに属するかということ、アイデンティティー、連合。
アメリカ人らしさ、アジア人らしさ。
法学者カレン・シマカワの近年の研究において、彼女がアジア系アメリカ人の状況・経験を理論的に説明する為に使っている「国民的消沈」という言葉が非常に興味深いのです。
それは、私達のここでの生活というのは、
アメリカ人らしさを尊重した上でなお、常に人種的境界線に立ち、
「アメリカ人であることはどういうことか」を考えるフロンティアでいなければならないというものです。


この「私達」に関する問いは、私にとっては、ただなんとなしに考える思考の羅列以上の意味があります。
1992年にイエール大学を卒業してから、私はずっと外の世界で文化的な仕事をしてきました。
18のアルバムをリリースし、何百ものコンサートをこなし、
アルバムやパフォーマンスはテレビ・ラジオでブロードキャストされ、
いかにも何千という批評を受けてきました。
その結果として、私がアイディアを形にし、探求し、提議し、繋がっていくものを作ってきたものに対する、ローカルなものと国際的なもの、両方の反応をリアルタイムで経験してきました。

この私自身の経験は、主に北アメリカとヨーロッパが舞台でした。
さらにこの経験は、ジャズという、アメリカにおいてもっとも人種的な葛藤を孕んだ文化的表現を背景にしていました。この不可思議で、ごちゃごちゃしていて、競争的でもある、ジャズという文化です。
この音楽は、一般的には、ブラック・パワー、またはリベラルな白人の「カラー・ブラインドネス(人種間の軋轢に対し、精神的に関与しない)というスタンスの間で理解されてきたものです。

アフリカン・アメリカンのコミュニティの力、
または、アメリカ黒人の「ブラックネス(社会的、文化的、黒人らしさ)」に対する、白人、または外国人によるフェティシズムに寄り掛かった、文化理解、芸術理解というわけです。


過去20年間の間に、幾度となく、私は人種についての会話に参加してきました。
今となっては、私はジャズの世界において、安定した継続的な位置を獲得することができました。
私はジャズ界におけるサクセス・ストーリーの一員となったわけで、それに関しての文句は何もありません。ただ、その「物語」が、どのように語られるか、ということを観察しているのです。

例えば、何度も、(ほとんどの場合、ジャズの世界で発言する立場にある白人男性によって)
私の作品は、「数学的」で、「技巧的」、「偽物のジャズ」、「コンセプチュアルすぎる」、「オタクのためのジャズ」、「不協和音」、「アカデミック」、そしてつい最近、「失敗作」と呼ばれました。

数年経つうちに、人種的な内容がこのような批評の中に付随するようになりました。

『アジア人にはソウルがないので、アーティストになろうと努力するだけ無駄であり、
特に「ブラックネス」というイメージの直結する(ジャズの様な)分野においては、見込みがない。 』
しかしこれは白人の純粋に直観的でインテレクチュアルではない批評であり、
多く存在する白人のジャズミュージシャンに対してはこのような批評は無縁なのです。

1990年代の初めに、私はUCバークリー大学で、物理学専攻の博士課程にありました。
同時に、オークランドでアフリカン・アメリカンのミュージシャンをメンターとして音楽の勉強もしていました。 また同時に、Asian Improv Arts(アジア人即興芸術)というアジア系アメリカ人の活動家アーティストのコミュニティの一員でもありました。
この団体は、30年以上前に、ジョー・ジャン、フランシス・ワン、マーク・イズ、フレッド・ホーなどの面々により設立されたものです。

そしてこの団体は、アフリカン・アメリカンの連合体としての政治、そしてアクティビズムの功績から直接的な影響を受けました。
音楽業界の上部構造を回避し、彼らは自分達自身のレーベルを立ち上げます。
私は彼らの恩恵を受け、最初の二枚のアルバムをこのレーベルから出すことができました。
ベイエリアの大きなアジア系アメリカ人のコミュニティの期待を受け、
San Francisco Asian American Jazz Festivalを始めとする様々なイベントも運営しています。
アジア系である、という共通点を彼らは様々な形で利用してきました。
それは、異国風のアジア・ジャズ・フュージョンを作るとかではなくて、
創造的探求の場所のため、多様性を分かりやすく表現するため、フェティシズムからの脱却、
アンチ・オリエンタリズムの改造、そしてコミュニティ運営の実践という形で、です。
そうやって、Asian Improv Artsは、アジア系アメリカ人のコミュニティメンバーが集まり、様々なものを作り上げる場所と機会を提供してきたのです。

彼らは、若くクリエイティブなアジア系アメリカ人のミュージシャンのひとりとして私を暖かく迎え入れてくれました。
その当時、私にとっては、「アジア系アメリカ人」の連合に私のような南アジア人が入り込むことができるかどうか疑問でした。

西海岸の人種的構造は今と少し違い、何世代も続く日系アメリカ人と中国系アメリカ人のコミュニティに、わずか30年あまりしか存在しない南アジア系アメリカ人のコミュニティは圧倒されていました。
シリコンバレーとクイーンズを除いては、私達の数は圧倒的に少なかったのです。
さらに言うと、南アジア系と東アジア系の間には、連帯感の様なものはまるで存在しませんでした。
ですから、最初は、私達が同じ困難を共にする者として自分達をひとくくりにするのには、
まだ早いのではないかと、戸惑いを感じたのを覚えています。

それは、北カリフォルニアにおける、インド由来のものすべてに対する傲慢な文化的関連性とも混ざり合った感情でした。
ヨガや瞑想、お香やタンプーラ(ドローンの一種)、タブラ、インド風ネックレスに腕輪にビーズ、
そういうものすべてに魅了されるアメリカ人にとって、 北カリフォルニアは聖地の様な場所でした。
もしこの数週間のうちにベイエリアに行く機会があれば、アジアン・アート美術館に行ってみてください。興味深いヨガについての展示があります。
この展示に、私の友人でアーティスト、デザイナーのチラーグ・バクタが参加し、膨大な数のエフェメラのコレクションを出しています。その名も、『ヨガをする白人』という、物議を醸すタイトルです。

この作品は、20年前に私が南アジア系アメリカ人として通りぬけ、抵抗してきた物を象徴しています。それは、異国風のものを好み、取り入れようとしてきた白人の文化的雑食性の傾向のことです。
アーティストとして旅をし、様々な場所を見た結果、ベイエリアの白人が、ジャズやヒップホップ、そしてすべての黒人文化に対して、同じようなスタンスで接していることに気付きました。
黒人のアイデンティティやコミュニティを提示するという強気な態度ではなく、
白人が身につけたり、収集したり、または白人の主観性に取り込んでしまうというフェティシズムという形で、です。


南アジア系のアメリカ人という存在自体がアメリカ社会において新しく、
人々は私達が誰で、どんな背景を持っているかをよく知りませんでした。
私達がひとつの集団として主流文化に初めて登場しだしたのは、1990年代、私の世代が成人した頃のことです。
私達は、1965年以降の、西欧圏の外からやってきた移民の医者、科学者、エンジニアなどの両親のもとに生まれた最初の世代の子供達でした。
私達は、言ってみれば、希望を持ち、ある程度の教育を受ける特権と階級を持ち、
またある程度の文化的な不透明さを持った、新しいタイプのアメリカ人だったのです。


私が最初のアルバムをAsian Improvのレーベルから出すという話をアングロ・アメリカンのパーカッショニストにした時のことをよく覚えています。
彼は、まるで私が重大な間違いをおかしたような表情でこう言いました。
「インドがアジアの一部だなんて知らなかったな。」
私は、インドは南アジアに位置しており、それはアジアのうちに入るのだと思うと言いました。
彼の返事はこうでした。
「だったら、僕は北西のアジア人だな。そのレーベルから僕もレコードを出せるかな。」
それは、8年生の時に、クラスメイト達が私に向かって「サンチェス」とか「フィリッペ」とかいう南米風の名前を叫んできた時の感じによく似ていました。
私達は、基本的には、異なった経験の額ぶちに入れられ、認められず、存在を認識されることもほとんどない、「謎」の種族でした。

Asian Improvの仲間達、それから敬愛するアフリカン・アメリカンのメンター達に育てられ、
90年代に私のアーティストとしてのプロジェクトは始動していきました。
めぐり合わせ、コラボレーション、コミュニティ、そういったものに突き動かされて、
私はあらゆる種類のことを試しました。

他のアジア系アメリカ人や、アフリカン・アメリカン、異なった人種の人と様々な共同プロジェクトを行ったのも、コミュニティという概念を熟考し、動かし、試し、また時には批判するためでした。
コミュニティとは何か?
私の友人で政治科学者のカラ・ウォンは、彼女の「義務の境界線」という本の中で、
「個人のマインドの中にある、類似性、従属、仲間意識を感じさせる集団に対してのイメージ」n
という風にコミュニティを定義しています。

コミュニティとは、私達の想像の賜物とも言えるでしょう。
これは政治学者ベネディクト・アンダーソンの重要な識見でした。
そして、この想像する力のおかげで、コミュニティという概念は現実世界に反映されていくのです。
カラ・ウォンは彼女の本の中でこのようにも述べています。
「自己定義された共同体意識は、個人の興味、価値やイデオロギーの内容にかかわらず、
共同体のメンバー皆がより良く生きていくという目的に対しての興味、そして責任を促します。 」

9・11以降、南アジア系アメリカ人のコミュニティはあらゆる困難に直面してきました。
(テロを理由に中東系の者に対するヘイト・クライムが多発したため)
他者と、社会的主張を共有していく課程で、私達は自分達自身がもっと大きい存在であると想像することを学びました。
アフリカン・アメリカンのライター、グレッグ・テイトは、2001年に私に向かってこう言いました。
「人種別尋問の世界へようこそ。」

私達は、自分達自身の宗教的、文化的多様性を自覚し、認めざるをえませんでした。
シーク教徒、ムスリム、キリスト教徒、ジャイナ教徒、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人、ネパール人、インド人、アフガニスタン人、ブータン人、そしてアラブ、中東、アフリカの北と東、東アジア及び東南アジア、すべてのディアスポラ、そしてもちろん、アフリカン・アメリカンにラティーノ。
有色人種の他のコミュニティも含めた、圧倒的な多様性です。
私達が共有していたのは、困難とそこから生まれる主張、恐れや監視、疑惑、パラノイア、円満する不平等の雰囲気でした。

さらに、1960年代以降のアメリカの人口統計において、成功をおさめ、富裕層となり、
急激にコミュニティの中の財産を築いていった私達は、私達が世界の中でどういう立ち位置にあり、どこに特権を持っているかということを理解するために、
新しい共同意識を発展させる必要がありました。
その最中でも、私達は日々、他者からの微妙な人種的発言や行動の猛襲を受け、
未だに私達はメインストリームの文化からは忘れられ、求められていない、という事実を噛みしめてきました。
マーチン・ルーサー・キング牧師はマハトマ・ガンジーのやり方を見習ったことを、
そして私達アジア系アメリカ人は、この国を造り上げてきたアフリカン・アメリカンと、他のマイノリティーの正義の為の葛藤から、精神的には切り離すことのできない場所にいるということを、
決して忘れてはならないのです。

今朝私はフロリダから飛行機でここへ来ました。
フロリダという州は、武器を持たない黒人の子供を撃って殺すことが、違法ではない州のひとつです。(トレイボン・マーティン事件のこと)
私は今日、我々自身に疑問を投げかけたいと思います。
この恐ろしいアメリカの実体と、私達自身はどのような関わりがあると思いますか?


去年の秋、私は家族と共にアトランタに行き、キング牧師の歴史的跡地を訪れました。
そこには、美しいガンジーの像が立っていました。
ディスプレイには、キング牧師の痛烈な言葉が刻まれていました。
「人生における最も絶え間なく、且つ答えが急がれる疑問とは、自分は他者の為に何をしているか、ということである。」
 私があなた達に知ってほしいのは、どんな肩書きがあっても、私はまずひとりのアーティストであるということです。
アーティストとして、私は先に述べたキング牧師の質問を毎日自らに投げかけます。

私は他者の為に何をしているか?


これまで私は3つの目標を追いかけてきました。
ひとつに、文化的背景の中に、継続的な、注目せざるをえない、複雑な存在を創りだすことです。
ポール・ローブソンやニナ・シモン、ジョン・コルトレーンそしてジミー・ヘンドリックスなどのアフリカン・アメリカンの開拓者達も経験したことだと思いますが、
自分というアーティストを(人種を理由に)否定し得る文化を前にして、
西欧社会における有色人種のアーティストは、「私は事実である。」と、力強く宣言する必要があるのです。

このように、境界線からの咆哮とも呼ぶべき、挑戦的な存在感の芸術家には、
文化を掻き乱し、変貌させる力があります。
その力は、新しいアメリカの息吹に耳をかたむけ、その誕生をうながすことでしょう。
そしてまた、この挑戦的な存在は、私達の様な「他者」の想像力を突き動かす力も持っています。
ディアスポラである若いアジア系アメリカ人達は、ついに、文化背景に自分達の代表がポジティブな受容をされ、自分達も大きな夢を持つことができる、と勇気づけてもらえたのです。

二つ目の目標は、アミリ・バラカやハイレ・ゲリマ(エチオピア出身の映画監督)、テジュ・コール(ナイジェリア出身の小説家)そしてマイク・ラッド(詩人)に代表される、マイノリティーのアーティスト達との協力関係をスタートさせ、そして継続することです。
そうすることで、私達は、伝統や国家、信念を超越したコミュニティという概念を想像し、構築し、 動かすことができると思うのです。
そうすれば、私達は否定しようのないフォースとなり、良い意味で物事をひっくり返していける、
ひとつのグループとして、新しい現実を想像し、創りだしていけるのではないでしょうか。

三つ目の目標は、

正義ある社会に対して参加していくことの重要性を強調し、示していくことです。
ヨーヨーマも言及していますし、私自身も生徒にいつも言い聞かせることですが、
芸術的人生とは、献身的人生です。
あなた達の中に、もし政治的活動家やコミュニティのオーガナイザーが居れば、
積極的に周りのアーティスト達と協力し仕事をしていくことを勧めます。
私達のミッションがあなた達のミッションに貢献するためにです。
そうして私達は、必要な行動を起こしていくための革命的な想像力をお互いに喚起していくことができると思います。

あなた達そして私自身にどうか努力していってほしいことがあります。
それは、私達自身の「贅沢の共謀」 に関しての問いかけをいつも自分にすることです。
私達の意志には関係ないところで、時に、コミュニティが他の誰かの苦しみをもとにした支配のシステムを包括し得るということを頭において、常に注意深くいて下さい。

私達は、地球上に生きるすべての人々の平等と正義のため改革的な献身をできるでしょうか?
もし私達が自分達のことをアジア系アメリカ人と呼ぶのであれば、
このアメリカという国家が過去に犯してきた過ちを認めることを拒むようなアメリカ人になるのではなく、すぐには私達の社会に属するようには見えない人々や移民のためにもより良いアメリカになるための手助けをしませんか?

「私達」とは誰のことでしょうか?
私にとっては、何らかの連合やコミュニティに自分が属することを決めた時、
それは、「過去を忘れない我々」、「未来のことを気にかける我々」、 「思いやりをもち、懐深く、忍耐強く、 他者の繁栄のために献身する我々」、「『私達』という呼びかけをすることは終わりではなく始まりであることに賛同する我々」のことを意味します。
正義の為にこれからも奮闘していきましょう。
ありがとうございました。

       
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2014年5月30日金曜日

Jen Shyu "Solo Rites"



私達は、音楽を儀式として演奏する喜びを、どこかに忘れてきてしまっていた。

そもそも、私達が音楽を演奏し、聞く理由は何だろうか?


ジェン・シューのソロ・オペラ、「Solo Rites」は圧倒的な存在感を持って私達観客を引き込んだ。
布を使ったインスタレーションと、
その布を美しく活用したジェンの舞踏。
古楽器とピアノの演奏もさることながら、彼女のボーカルの素晴らしさはまた言葉にできない程の深みで、迫りくるものがあった。
ジェン・シューを聞くというのは、ただ美しい音楽を聞く、という経験ではない。
人間の醜さ、魂の叫び、そういうもの一切を、「声」という裸の楽器で、
直接的に表現してくる。
彼女の歌を聞いていると、
ザワザワと、精神の奥底をえぐられるような感覚を掻き立てられる。
その感覚こそが、音とシャーマニズムの原点にある感覚ではないだろうか。

すべての演奏が終わった後に、
ジェンは静かにそれぞれの楽器に布をかぶせていった。
そして最後に、後ろに束ねていた髪をほどき、舞台の真中に座った。
静かに語り、歌いながら、彼女は自らの髪を鋏で切り落とし、
舞台は幕を閉じたのだった。

ジェン・シューの何が素晴らしいか、というと、彼女の作品は、
私達の中にある、凝り固まった思い込みや思想を一度解体し、解き放ってくれるのだ。

例えば彼女は自分自身を「実験的ジャズボーカリスト」であると説明するが、
このオペラを見て一般的な意味でのジャズだと受け取る人はほぼいないだろう。
そこで喚起される疑問とは、「ジャズ」は何であるか?ということだ。

ピアニスト、ビジェイ・アイヤーも言及しているが、アジア系のアメリカ人(または非アメリカ人)が、
長い間白人と黒人の葛藤をシンボライズしてきた、アメリカの文化、「ジャズ」を演奏するということはどういうことか、という命題も、彼女のパフォーマンスは提議すると思う。

このオペラでの多くの音楽的コンセプトは、彼女のルーツであるインドネシア、東ティモール、韓国の伝統音楽から生まれたものであった。
アジア文化をこれだけ豊富に取り入れた内容の作品を、
ジャズ・インプロビゼーション的なスタンスを用いて、
しかもボーカルという声をメインにして演奏したことは、
私達ミュージシャンにとっても非常に刺激的なものになった。

伝統における、儀式としての音楽、シャーマニズム。
音楽を、精神の成長の為、または献身への没頭の為に純粋に演奏するというスタンスもあるということを、商業主義に翻弄されてしまう、私達、都市の音楽家達はいま一度教えられた。

西洋と東洋の壁、人種の壁、音楽と踊りの壁、
演劇と音楽の壁、アートと音楽の壁、
楽器と声の壁、
すべての見えない壁は、私達のマインドにある「限界」というイマジネーションが創りだしたもの。
実際には存在しない壁に、無意識のうちに、線を引いて、私達はその線を超えないようにしているのかもしれない。
創造においては、限界は存在しない、
ただ必要なのは、柔軟な発想と、それを経験しようとする姿勢だ。



2014年5月28日水曜日

Susie Ibarra + Matana Roberts Duo @ Stone



スージー・イバラの演奏の魅力は、彼女がドラムとパーカッションで紡ぎだす民族音楽的な音とリズムの数々にある。
アメリカで生まれ育った彼女は、10年程前から、両親の故郷であるフィリピンへ度々渡り、現地の希少民族音楽の研究、録音を行ってきた。



シンバルやゴングの音は、まるでガムランのような率直でためらいのない響きで室内を包み、
スージーがマレットのミュートされた音で祭祀音楽の様なヒプノティックなリズムを刻んだ。
その土着的なリズムに乗せるマタナ・ロバーツのサックスは完全にブルースだった。


ディアスポラのルーツを持つ者が、自分という人間の中に脈打つ系譜と自分の音楽を統合するというのは、自然な成り行きであると思う。
音楽というものは、自分の精神そのものから生まれてくるものであるから、
良い音楽家は、常に自分自身が何者であるか、何を音楽にしているかということを探求している。



ブルースの響きと、民族音楽の響きの融合には、新しい発見があった。


民族音楽には、地に足のついた一種の明るさがある。
民族が一体となり、共に歌い踊り、神を祭祀する。
先祖代々生まれ育った土地で、血の繋がった者達、食料を分かち合う者達同士で、
同じ神にすべてを委ねるという絶対的な安心感がそこにはある。


ブルースに関しては、ラングストン・ヒューズの言葉を。



あなたが女たちの一部分をつかまえると、他の一部分があなたから逃げます。
悲しくておかしい歌、
おかしがるには悲しすぎ、悲しがるにはおかしすぎる。

スピリチュアルズは集団の歌だが、ブルースはあなたがひとりで歌う歌だ。
スピリチュアルズは天幕の集会や、遠隔の農園地方で生まれた宗教歌だ。
だがブルースは、大都会のごみごみした通りから発生する街の歌だ。
あるいはまた、あなたが眠ることのできない狭い安部屋の淋しい壁にぶつかって鳴り出してくる。
スピリチュアルズは、天に、明日に、神にむかう、逃亡の歌だ。
だがブルースは、現世で、いま、あなたが心に悩みをもち、
どうしていいかわからず、誰もかまってくれないとき、破れかぶれで、
心を打ち砕かれた、今日の歌だ。
(訳:木島始 「詩 黒人 ジャズ」より抜粋)


ブルースは、個人的な、神への直接的な訴えと言えるかもしれない。
生来の地から切り離された人間は、神の存在に対し、具体性を持たない。
土着の神社や、祭りというものを通して神を経験することがもはやないのだ。
だからこそ、ブルースを歌う個人にとっての神の存在とは、
あたかも、何処かに存在する「もうひとりの個人」の様に感じられるのかもしれない。
そうやって、ブルースは、
「どうしてなんだ?おかしくて悲しくて涙が出てしまうよ。」と、
訴え、語りかけるのだ。

こんな風にまったく異なった「神に対してのスタンス」から生まれる音楽の断片が相互に交わり、
互いの領域を侵略することなく、空間をうまく共有することができるのは、
インプロビゼーションという表現技法の柔軟性を持ってして、であるように思える。 




それにしても、
マタナ・ロバーツがサックスをかけたままで、クラリネットを手に持って吹き出した時、
頭にまとめたドレッドロックスとサングラスのせいもあってか、
今は亡き、素晴らしき音楽家ローランド・カークの影を見た気がした。

   

2014年5月19日月曜日

Matthew Shipp / William Parker "DNA" (1999)



1999年の、マシュー・シップとウィリアム・パーカーのデュオ録音「DNA」。

マシュー・シップ自身の綴ったライナーノーツが、即興演奏についてのシンプルで的を得た解説をしているので、ここに日本語訳を記しておきたいと思う。

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即興のプロセスというものは、まるである種の生態系の様である。
その多様性と 視野は無限であり、
しかしながら即興をする者によって、その表現方法はそれぞれ違ってくる。
即興というものは、必要に応じて生み出されるものだ。
すなわち、即興演奏者は、即興をしなければ、という深い欲望または必要性を感じていなければならない。
「即興とは作曲である」という前提に対する理解があって、
初めてマインドは膨大な量の音楽的情報を処理し始めるのである。


才能と成熟を兼ね備えた即興演奏者というのは、あらゆる疑問に対して真剣な考慮をした上で、
ゲシュタルトに行き着くのである。
そのゲシュタルト(意味のある全体性)というのは、
奏者が論理的な音楽の構造と生き生きとした情熱を合わせ持った、語彙としてのリズムや音を瞬時に紡ぎだすことを可能にする言語システムとしての音楽の臨界質量を指している。
作曲とは、有機的なものだ。
人間の深層心理のまた深い奥底から生まれるものであるから、
それはある種の生き物であるとも言える。
しかしあくまでもそれは人間が一生という時間をかけて習得する、瞬時に知性的な主題の提示をするための方法論であるから、「作曲」と呼べるのである。


成熟した即興演奏家は、常に深層心理から言語システムを生み出している。
よって、パフォーマンスというのはそのプロセスの結果として自然に表面に出てくるものであって、
パフォーマンスを目的とするパフォーマンスというものは存在しない。
良い即興演奏におけるエレガンスは、「集合体」となり、私達リスナーを満たしてくれる。
それはまるで、原子がくっつきあったり、離れたりして、夢の中のような連鎖運動で泳ぎまわり、
私達の深層心理の奥の奥底から飛び出して、
ひとつのスピリットが自然の一部分へと変化する様そのものである。





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私自身が即興演奏の魅力に取り憑かれているのはやはり、
この不完全な形態ながら、ゲシュタルトを獲得する言語システムとしての音楽表現の深さ、自由さを知ったからである。
即興演奏(フリーインプロビゼーション)をする時、奏者同士の間には形態化された言語システムの共有というものは存在しない。
なぜなら、各々の作り上げてきた即興演奏の言語システムは唯一無二、個人的なものなのだ。
共有言語がないという非常にプリミティブな状況で、
ひとり(と観客)、または誰かと共同してあるひとつの世界観を作り上げるというのは、
創造意欲を持つ人間にとってはとてつもなく魅力的な作業である。

言語学者ノーム・チョムスキーによると、言語というものは、根本的な部分で人間を人間足らしめる文化的遺産である。言語の種類の数だけ、私達人間の作り出す世界観がある。
その世界観の多様性にもかかわらず、人間の生き様、言葉で紡ぎだす世界には普遍性というものが存在する。
それを、私達は共有言語なしにひとつの音楽をつくりあげるという芸術の形で確認することができるのだ。
もうひとつチョムスキーを引用するが、生物学的観点からすると、
言語はコミュニケーションを目的にデザインされているものではなく、
実体の証明、解釈のためにデザインされているのだそうだ。
即興演奏においては、究極的には音楽的言語の境界線はない。
とても個人的で、それでいて、どこまでも開放的だ。
つまり即興演奏を以って音楽家同士はコミュニケーションもできるけれども、
個人的な世界観の提示、解釈なしには、せっかくの音楽的交流も空虚なものに成り下がってしまう。
マシュー・シップの言う、あらゆる疑問に対する真剣な考慮というのは、この世界観の提示を的確にできるための精神的鍛錬であると言えるだろう。

現代社会において私達がこれからさらに進化していくためには、
既存のものに「共感する」という姿勢よりも、新しいものを「創造する」という姿勢を持つ者が増えなければいけないと私は思っている。
そういう意味で、即興演奏の世界には静かな勢いがある。
人間の道徳的成長と、アーティスト達の芸術活動は、未だ完全に乖離はしていないと、そう思うのだ。

2014年4月25日金曜日

RITE - Russ Lossing / Louie Belogenis / Kenny Wollesen

三人の熱量は、丸々一時間半ずっと変わらない。
ラス・ロッシングがグランドピアノの弦をはじいて最初の音を出してから、ドラムのケニー・ウォルセン、テナーのルイ・ベロジニスはおろか、
私達客席の数人も、音の洪水にひたりきったまま、誰も休むことを赦されていない。
静謐さが、二十人も入ればいっぱいになってしまう小さな箱を包み込んだ。
三人が瞬間ごとに造り出す音のかたまりは、あたかも波のように、満ちては引き、満ちては引きを繰り返していた。
波そのもののように、一体として動きつつも、一度として同じ波はない。
その中で、顔色を変えないまま、熱量の高い演奏をし続けている音楽家達を見ながら、
私はぼんやりと考えるのだった。

この、冷静さの中に遠慮がちに見え隠れする感情の昂ぶり。
洗練されたコントロールと、少しずつ確実にあらわになる、手なずけられた狂気。
アメリカの人は、本当に真面目で堅苦しく、本当に自由でひらけている。
その自由さは精神の畑を縦横無尽に走り回る。
人工物と自然の共存。
緻密に作り上げられた構成を、惜しげもなくなぎ倒す暴力。
秩序のあるように見えて、秩序もルールも本当はない世界。
秩序のないカオスに見えて、最後にはすべてが交わり合うという秩序がある世界。
どちらが人間で、どちらが自然?

ピアノの中身を覗き込むようにして、あらゆる方法でピアノ内部の弦や金属部から音を作り出していくロッシングの様子を見ながら、
私は、次第に、漆黒に光るそのピアノの脇腹のゆるやかなカーヴに見惚れてしまうのだった。音、静寂、音、静寂。
まるで手術着を着た医師の様に、ロッシングはピアノの12音性を解体し、
もっとプリミティブなやり方で音を出すことで、ピアノの見えない拘束具をはずしていった。弦を使ったりして、とても土着的な音を出す一方で、ピアノの持つ美しい宮廷的金属音をも美しく演出する、ピアニスト、ラス・ロッシング。
なんという創造力と技巧だろうか。
ウォルセンとベロジニスの演奏ももちろんとても良く、上手くロッシングを引き立てていた。ベロジニスは中盤まで綺麗なメロディー、ロングトーンを吹きつづけているだけ、という感じだったのが、途中でソロを取った時に神懸った様にアルバート・アイラーの様な音を出したのが印象的だった。

素晴らしいフリーインプロビゼーションというのは何か、教えてもらった夜。

I Beam Brooklynにて。

2014年4月19日土曜日

Muhal Richard Abrams "afrisong" (1975)

日本から持ち帰ってきたレコードの中で、ひときわ聞くのを心待ちにしていたものがあった。
 厶ハル・リチャード・エイブラムスのソロピアノのアルバム、「afrisong」だ。

確か2年ほど前に、彼のコンサートをマンハッタンにある教会で聞いたのだけど、
その時には多数の若い前衛ジャズミュージシャン達の他に、ヘンリー・スレッドギルやアミナ・クローディン・マイヤーズなどが集まっていて、 彼の人望の厚さを伺わせた。

その後、パイ・レコーディングスから出ているエイブラムスのレコードを聞いて、彼の音楽を知り始めた。
エイブラムスの90年代以降の音源だけを聞いて持った感想としては、
商業的な部分のまったくない、非常に抽象的な前衛・純音楽というイメージだった。
そのイメージというのは、思想・主義・主張というものを感じさせない音楽というものである。「純文学」と同じ定義で使われるところの「純音楽」という言葉がもし成立するのであれば、娯楽性よりも芸術性を重んじる「純音楽」にはイデオロギーは存在しないものと言えるだろう。

だけれど、例えば60年代に台頭したハード・バップには、黒人の人権の確立というある種のプロパガンダが存在したし、
アリス・コルトレーンやファラオ・サンダースは、アメリカにはない異国的な精神性を音楽に追求し、それを聞く人々はスピリチュアリティーの探求を喚起された。
同じ時期にオーネット・コールマンやアルバート・アイラー、阿部薫の吹いていたフリージャズが日本の学生運動とも共鳴していたとも聞くし、
ある視点から見れば、ジャズと呼ばれる音楽とイデオロギーというのは、容易には切り離せない部分があったかもしれない。
ここに、ジャズにおいて、エンターテイメントと純粋芸術という二つの文化的極面がぶつかりあったり交わりあったりしながらそれぞれの世界に枝分かれしていった様子を垣間見ることができる。
そういった音楽家達の葛藤や混乱の中で、意図した、しないにかかわらず、思想が全面に現れて出た音楽もあったし、まったく思想から自由な音楽もあったと思う。
ただ、私の印象では、少なくとも60年代、70年代のジャズにおいては、何らかのイデオロギーを持った音楽がかなり日の目を浴びたように思える。
つまり人々は何らかの思想の提示を音楽に求めていた。


とにもかくにも、私はエイブラムスの音楽にそういった意味での透明さを感じていた。
イデオロギーの不在が、徹底された芸術の純粋さをより明確にしているのだ。

 こうういう経緯もあって、
レコード店で「afrisong」を手にとった時、私はそのジャケットのビビッドな赤、緑、黒(黒人の解放と民族的独立を意味する色)と、アフリカという言葉を思わせるタイトルに大変驚いたのだ。のちに、このジャケットはwhy not レコードから出された他のアルバムすべてに使用されていたものだと知って、少し拍子抜けしたのだけれど。
この意外性と、エイブラムスの70年代のソロピアノの録音ということもあって、どうしても聞かなければと思ったレコードだった。

75年のエイブラムスのピアノは、今のどちらかというと現代音楽的なスタイルよりもかなりジャズピアノの伝統を残したものだった。
このアルバムを聞くと、彼が伝統をきっちりと消化し、その上で自由に実験的なことをしてきたアーティストなのだということがよくわかる。
私は有機的にちりばめられたピアノの音の粒の大群というのがとても好きだ。
それもタッチが丸く優しいものが良くて、アリス・コルトレーンやメアリー・ルー・ウィリアムスをよく聞くのはそのせいなのだけど、エイブラムスもこのテキスチャーを良くこのアルバムで聞かせてくれた。
ジャケットのイメージからして、もしかするとものすごく主張の強い内容なのかもしれないと思っていたのだけれど、結論から言うとやっぱり彼の音楽は75年にも透明だった。
アフロアメリカンの弾くジャズ特有の暗さ、もしくはブルース的な主張というのを私はエイブラムスの音楽に、感じない。もっと、陰陽の陽の部分の大きい、アフリカ的とも言えるサウンドにはアブドゥーラ・イブラヒムを思い起こした。

野口久光氏による"afrisong"のライナーノーツにはAACM (Association for the Advancement of Creative Musicians)についてこう書かれている。

多かれ少なかれコマーシャリズムからの誘惑に乗ったり、あるいはコマーシャリズムに抑圧され、ゆがめられてきたジャズを純粋に自分達の芸術にしたいという意識も強く働いてきた。
(中略)
ニューヨーク派の新進的なジャズメンの動向に対して、シカゴの若い進歩的なジャズメンはニューヨーク派のジャズメンによる演奏の成果を充分認めた上で、ニュージャズ運動に新しい理念、方向づけをし、実践活動を開始した。それがAACMだった。 

 厶ハル・リチャード・エイブラムスという人は、弾いてきた音楽の中で常に実験をし、変容してきた音楽家であると思う。そういう意味で、プーさんこと菊地雅章氏とも重なる。
エイブラムスの弾く音を聞いていると、彼が若かった時代、彼は時代の潮流とは精神的にかなり違う場所に居たのではないかと思った。反抗の時代に作られた彼の音楽はあまりにも平和的で透明なのだ。AACMを発足し、コマーシャリズムに自身の芸術への誠実さを持って対向してきたひとりのアーティストの幾層にも重なる創造の歴史を垣間見て、音楽家としてのあり方を深く考えさせられた。






2014年3月6日木曜日

日本芸能史に見る音楽と平和(其の三)

さて、

傀儡子の信仰した、百神、すなわち『夫婦和合の神信仰』についての話をすすめたい。

私がなんとなく腑に落ちないと思ったことがひとつあった。
傀儡女つまり傀儡子集団の女達が、ある種の形で春をひさいでいたのであれば、 なぜこの集団が夫婦和合の神、百神を信仰したのか、ということである。
現代人であれば誰だって、自分の配偶者が他人と体を交えるのを拒むだろう。
つまり、信仰と行いが相反しているのだ。

しかし、仮定として、傀儡子がなんらかの形で縄文文化を受け継いできた存在であると考えるとなんと辻褄が合うのだ。


以下「縄文と古代文明を探求しよう」より引用
 
縄文時代は総偶婚によって集団内の男女が分け隔てなく交わり合い、そこでは集団を破壊し、充足を妨げる自我を“完全に”封印したことが特筆されます。いわば、縄文の女とは集団と共にある事で安心も安定も充足も得る事ができたのです。

(中略)

 しかし、渡来民が伝えた生産手法、稲作技術だけは互いの利益に適い、やがて大きな集団を作った一派が水争いを制圧し、クニを形成します。そういった中で弥生時代の最大の課題は渡来民と縄文人が争わずに一つになる事でした。
 これらが融合する為に用いられたのが婚姻でしたが、そこでは「誓約」という概念が作られ、その誓約を導く存在が巫女だったのです。

 日本民族の精神の根底にある「誓約(うけい)」という概念。 相手を否定し征服するのではなく、相手を受け入れ和合する事でその安寧を保ってきた日本人のこの精神は、略奪闘争から隔絶された島国ゆえに醸成された独特の文化です。一 つの国家内に様々な部族・民族が存在する状況は世界的に見て珍しい事では有りませんが、和合と同化、共同性をもって統合を成し遂げてきた日本のこの考え方 はきわめて独特、かつ人類としての普遍性を持っています。「性」を中心に据えた力に頼らない集団統合、この発想の柔軟性には見るべきものがあると思いま す。



争いを避ける為に、性を通して、血の繋がりを通して、民族の和合を得る。
それは、「受け入れる」という女性性の持つ最大の力だと思う。
まるで太陽と北風の話みたいだ。
体を他者と交えるというのは、究極の平和の象徴となりえるということ。
 その和合の精神が、平和を追求する精神が、宗教的儀式となり、
もっと抽象的な形で人々に伝えていける芸能となり、
集団から集団へと伝わっていくなかで変化しつつ、
古代から中世、そして現代へと受け渡されてきたのかもしれない。

これで、アメノウズメが日本芸能の源流の神であり、
彼女を中心とした物語に、
「性」=「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」と、
「死」=「天照大神が天の岩戸に『隠れ』世界が暗闇に包まれるという、もがりと死を想起させる状況」と、
「神と笑ひゑらぐ」= 「感情の昂ぶり、神懸りをするためのトランスに入る状況」
という象徴的なイメージがくくりつけられていることをより深く理解できるようになった。




日本芸能史に見る音楽と平和(其の二)

まず傀儡子の生業とした『芸能』について。

彼らの芸能は、操り人形の芸である。
傀儡女達に巫女的な役割があったとすると、この操り人形のもともとの由来として、
日本古来から巫女達が(おそらく鎮魂の儀式の為に)舞わした人形(ひとがた)が関係していたと考えるのは自然のことに感じられる。

世阿弥によって日本芸能の源流として位置づけられているアメノウズメの天の岩戸での踊りが象徴するものは、死者の鎮魂を仕事とする「殯(もがり)」の儀式である。
「遊部(あそびべ)」という集団が居て、彼らは死者をもがりの宮において同伴し、歌や舞をして鎮魂の儀式とした。すなわち、音楽と舞を中心としたこの宗教的儀式を昔の言葉で「遊び」と呼んだのだ。

これに関連する信仰の例としてあげておきたいのが 、東北地方のオシラ様だ。
巫女が、木製のオシラ様というひとがたを祭ることを「オシラ遊び」と呼ぶそうだ。
しかも、この信仰は女性性とも深く関係がある様である。


このようなことを並べて考えてみると、次の「呪術の介在する売春」という点がわかりやすくなる。

以下「るいネット」より引用

  
御託宣(ごたくせん)の神事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて、「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では呪詛行為の術で恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。



現代の私達の住む世界においては、性に対しての膨大なネガティブなイメージ、
タブー意識、妊娠への渇望または恐れが蔓延していて、
「性」が、精神の「精」でありまた神聖の「聖」であることにまでおおよそ考えが及ばないようになっている。

想像してみるのは容易ではないけれど、何百年、何千年も昔の世界では、
完全に異なった性への意識があったのかもしれない。

中世からさらに遡って、縄文時代の話へ。



其の三へつづく


2014年3月4日火曜日

日本芸能史に見る音楽と平和(其の一)

日本の音楽に興味を持ってからというもの、
後白河法皇の編纂した『梁塵秘抄』について色々と読み物をしてきた。

この『梁塵秘抄』に書き記された日本中世の流行歌、今様や古曲を謡ったのは、傀儡女(くぐつめ)、遊女(あそびめ)と呼ばれるその時代の女性達だ。
なんでも、今様狂いの後白河法皇は、津々浦々から傀儡女や遊女を呼び寄せて、今様を謡わせ、それを夜を徹して聞いたのだそうだ。
音楽の素晴らしさに心を奪われ、今様を追求し、自らも研究し、歌い手達と歌沙汰をし、
今様の本までしたためてしまったという後白河法王の音楽漬けの生活の様子を思い浮かべる度に、
時代を乗り越えて深く共感の意を覚えると共に、芸術を愛する人間の本質というのは何百年の時差があっても変わらないのだなと、笑ってしまう。



以下Wikipediaより抜粋。

 傀儡子(くぐつ し、かいらい し)とは、当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。
平安時代(9世紀)にはすでに存在し、それ以前からも連綿と続いていたとされる。当初は、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。
寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護され、猿楽に昇華し、操り人形は人形浄瑠璃となり、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎となっていった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。



 また、大江匡房 の傀儡子記においては、このような記述もある。

一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らずして、故に縣官にも属さず。皆土民に非じ、自ら浪人と限ず。上は王公を知らずして、傍の牧宰も怕れず。課役の無きを以て一生の樂と為す。夜は則ち百神を祭り、鼓舞喧嘩を以て福助を祈る。

(以下訳:脇田晴子著『女性芸能の源流』より)
 彼らは一畝の田も耕さないし、一枝の桑の葉も摘まない。したがって、県官(ここでは国司・郡司)に所属しない。土民ではなくて、浪人と同じである。上は王公も知らない、牧宰も恐れない。課税がないので、一生の生活がしやすい。夜は百神を祭って、鼓舞喧嘩して、以て福助を祈っている。



面白いのは、傀儡集団というのが、ジプシー的な存在であり、封建制社会からはじきだされ、自由になった物たちで、そこに
『芸能』という要素、
『「呪術」を介在した売春』という要素、
そして百神=百太夫=道祖神=『夫婦和合の神 信仰』という要素があることだ。


長い間考えていて何かがあるのにしっくりこなかったことが、
すべてなんとなく意味をなしたのは、縄文文化に意識が向いてからだった。



つづく

2014年2月9日日曜日

価値を判断することは

 全聾の天才作曲家と謳われた佐村河内守氏のほぼ全作品が、実のところは新垣隆という別の作曲家の作品であったというニュースが世間を賑わせている頃、
私は指揮者小澤征爾と作曲家武満徹の1984年に発行された対談集、「音楽」を読んでいた。

小澤氏は対談の中でこう述べている。

「音楽の本質は公約数的なものではなく非常に個人的なもので成り立っていると思うんだよ。」
「音楽会へ行って三千人すわっていても、その三千という数が問題なのではなく、一人ひとりとの関係が重要なんだよ。中略 根本的なところから発しているから、受け入れられ方の幅がうんと広いわけ。
だからレコードが何枚売れたとか、有名だとか、超一流だとか二流だとか三流だとか、ヘッポコだとかは重要でないわけ。一番大事なのはね、もしかすると、人間と音楽が根本的にどこでつながるかにあるんじゃないだろうか。」

そして武満氏。
「実際には、音楽家は自分の考えで音楽をやる以外にはない。結局、最初に話に出たように、実際に音楽をやる気がないような、ある種の太平ムードの中で、なしくずしに意欲を失っていては自分の感受性にたとえあり余るものを身に受けていても、自分が積極的になれない以上は、ものをみきわめる力が、どんどん失われていくのはやむを得ない。」


私が怖いと思うのは、現代の資本主義社会において、大衆の目にするもの耳にするものがプロパガンダに支配されたマスメディアという媒体に限定されることにより、人々の嗜好(または思考)の一元化がなされてしまうということである。
または、人々がある一定の思想、つまるところはメディアを筆頭とするマジョリティーの支持する思想やイメージに太平を求め落ち着いてしまうという状態。

こういった状態に私達の社会は一歩も二歩も入り込んでしまっているように思える。
多様性を消してしまうことは、自然界の成り立ちにも反するし、
私達の世界を極めてロボティックにしてしまう恐ろしさを秘めている。

このことを頭の片隅に置いて、私達は何かを「良い」と言う時に、
自分自身にこう問いかける必要があるかもしれない。
「自分は何を根拠にこれを良いと思うのか?」
「何らかの集団に属したいという欲望のために良いと言っていないか?」
「個人としての自分の判断にどれほどの価値を見出すことができるか?」

少なくとも、この問いかけをして、自らの思想を決定する自由を、未だ我々は手にしている。
武満氏の言うように、意欲を持って生き、良いと思うものをみきわめていけたらと思う。





2014年1月31日金曜日

アミナ・クローディン・マイヤーズ

気鋭のドラマー作曲家のタイショーン・ソーリーがアミナ・クローディン・マイヤーズに対話形式でインタビューするというなんだか凄いイベントに参加した。


アミナ・クローディン・マイヤーズの音楽を知ったのは本当にここ何年かのことで、
十分に彼女の音楽性を熟知しているとはとても言いきれないのだけれど、
彼女の作品の多岐にわたる内容は素晴らしく興味深い。
確かきっかけはフランク・ロウの「Exotic Heartbreak」というレコードだった。
それからしばらくして、プーさんが「The Circle of Time」を貸してくれてそれを聞いたりしていた。
タイショーン・ソーリーはというと、近年話題にもなったオブリークの様なジャズの曲を書く一方で素晴らしく緻密なクラシックの作曲もする人。モートン・フェルドマンやシュトックハウゼンという名前もよく話にでてくる、本当に多種多様な音楽を聞いている人だ。そういう意味で、このインタビューの組み合わせはとっても面白いと思った。


今日のインタビューでも話していたけれど、マイヤーズ氏はまずクラシックピアノから音楽を弾きはじめて、その後に教会でゴスペルをやったのだそうだ。
オルガンもすごかったり、歌も素晴らしいのは、そういうバックグラウンドから来ているみたいだ。しかし彼女が面白いのは、その後教師の仕事を探してたどり着いたシカゴで、
AACMに参加するということだ。彼女自身のアルバムは、割とリズム&ブルースやゴスペルの影響が強い曲が目立つものの、サイドマンとしてはヘンリー・スレッドギルやArt Ensemble of Chicago、厶ハル・エイブラハム・リチャードソンなどの錚々たるミュージシャンと共演しているところからも、彼女の多才さをうかがえる。

これは、シカゴの当時の先鋭ジャズシーンにマイヤーズ氏を紹介したその人、レスター・ボウイーとの共演。




当のマイヤーズ氏は、なんだかとてもお茶目で気さくで面白い、少女の様な人、という印象を受けた。色々な話をしていたけれど、中でも印象に残ったのは、
自分はシカゴに引っ越した当時も音楽家になろうとは思っていなかった。と言っていたこと。
それからまだジャズを弾き始めてまもない頃に、クラブでの演奏の仕事をもらったマイヤーズ氏がステージでやっとの思いでオルガンを弾いているところで、ジミー・スミスが客席に居るのを見て心臓が口から飛び出るかと思った、というエピソード。
その後ジミー・スミスから「はじまりとおわりはなんとかちゃんと出来ていたから良いと思う。」というなんともいえない励ましをもらったそうだ。

それにしても、いいね、声や表情が素敵で、魅力的な経験をしてきた人のお話を聞くっていうのは。

私は質疑応答で、ブルースについてどう思うか、という質問をしたかったのだけど、
勇気が出ず断念。。
次の機会があることを願おう。
とっても良い時間だった。













2014年1月26日日曜日

巫女と遊び

一、申楽、神代の始まりといふは、

天照大神、天の岩戸に籠り給ひし時、

天下常闇になりしに、八百萬の神達、天の香具山に集まり、

大神の御心をとらんとて、神楽を奏し、細男を初め給ふ。

中にも、天の鈿女の尊、進み出で給ひて、榊の枝に幣を附けて、 

聲を挙げ、火処焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ、舞ひ、奏で給ふ。

その御ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。

国土また明白たり。神達の御面、白かりけり。
 

その時の御遊び、申楽のはじめと、云々。


世阿弥
『風姿花伝』神儀篇 



日本の芸能の歴史を辿っていくと、その先にあるのはこの場面だ。
あめのうずめが半裸でこっけいな舞をし、神々は それを笑った。
この場面が本当に面白いと思うのは、この神話の一面に、性、死、高揚感(笑いという形の)が一挙に描かれていることである。

「遊び」という言葉は、その昔、死者の魂降り、鎮魂のため、「もがり」という儀礼を行った際の歌や舞のことを表した。

そこにはきっと、現代で言うイタコのように憑依されて踊るシャーマンの存在もあっただろうと思う。
生と死の境界線で、魂の導くままに音楽を奏し、舞う。
それはきっと、おそろしく、畏れ多き光景であり、古代人の精神性の核となるものであったに違いないと感じるのだ。

もがりにおける儀礼を隠喩したものが、この神話の一場面であるとすれば、
あめのうずめが性的な芸能の表現をしているのは、なぜであろうか?

中世において、巫女、くぐつめ、遊女などが、儀式を司る立場であり、
同時に性的な存在であると位置づけられているのはなぜだろうか?
性の神聖さ、というのを、私達現代人は見直す時かもしれない。
性が虐げられ、搾取される時代には、真の精神性は見出されないのではないか。

この巫女と中世芸能について今勉強しているのだけれど、
脇田晴子という人が本当に面白い本を書いている。
その序文から、こういった一節がある。

「女性史の問題としては、家内に包含される女性、そこからはじきだされる尼僧、娼婦・芸能者、その三者に分断され、鼎立して存在する女性のあり方を、「家」をユニットとして成り立つ社会構造のなかに位置づけることこそ肝要であると考えている。」


このテーマはこれからしばらく続く。
 

 



 
 

2014年1月22日水曜日

セシル・テイラーとメアリー・ルー・ウィリアムス

メアリー・ルー・ウィリアムスとセシル・テイラーが共演したライブ録音、Embracedというアルバムについて少し感想を書きたいと思う。


メアリー・ルー・ウィリアムスには私は多大な影響を受けているのだけれど、
それは当時本当に数えるほどしかいなかった女性ミュージシャンとして数々の偉業をおさめたことに加え、彼女の弾くピアノのオーセンティックな音色、そして彼女がジャズの歴史とともに進化し、ブギウギからフリーまで、あらゆる形の音楽を信念を持って演奏したことに帰する。

ただ、イメージとしてはメアリー・ルーの素晴らしさはやはり、ブルースのフィーリングにつきると思う。




シンプルで、女性的な柔らかさを表現しつつ、ブルースのフィーリング、ソウルフルなフィーリングを素晴らしく力強くまた表現する。まさに彼女にしかない音を持っていた、アメリカのジャズピアノの潮流の母体とでも呼ばれてしかるべき人だと私は思っている。


一方で、京都賞受賞が記憶に新しいセシル・テイラーはいうまでもなくフリージャズの先駆者の様な人で、言ってみればその時代の先端を突っ走ってきたミュージシャン。
エッジーで、そのハーモニーや音楽的構造を理解しようとする評論家がいれば、ただ、「Listen to THIS!!」と体当たりしてくるような裸の音楽を弾く。




この二人が共演することになった経過がメアリー・ルー・ウィリアムスによってライナーノーツに書かれている。
60年代に互いの演奏を見て、同じように衝撃を受け、
後に お互いがそれぞれのインスピレーションとなっていることを知り、一緒に演奏することを決めたのだそうだ。

テイラーの縦横無尽な音の羅列の中にこだまの様に聞こえるウィリアムスのオールドスクールなジャズやブルースの言葉達。
ふたりが共鳴したのも、わかる気がした。暖かさと情熱、それがすべてを繋げている。
2台のピアノと四本の手が奏でるだけの無数の音があるにも関わらず、不思議とすべての音が共生しているのだ。
これは是非、生でコンサートを鑑賞したかったと思った。
ジャズの壮大な歴史とそれを取り巻く嵐の様な様々な経験と感情を一斉に耳から受け取る、もはや儀式的な一枚、と私は思う。

「ジャズ」という言葉について、ウィリアムスはこう言っている。

『JAZZという差別的な呼び方が、このような素晴らしく精神的な音楽、魂にとっての癒しとなる音楽、につけられた。それぞれの年代のミュージシャン達が、この名前を変えようと努力したわ。20年代には私たちは自分達自身のことを「シンコペイター」と呼んだし、30年代にはこの音楽を「スイング」と呼んで、40年代には、「バップ」とか、「モダン・ミュージック」と呼んだ。徐々に私は呼び名のことにはこだわらずにただシンプルに音楽を弾こうと思うようになったの。
結局は、「芸術」という傘の下の、ひとつの表現の形なのだから。
私たちの魂にとって良いものなのだから、この音楽は、あらゆる場所で演奏され、聞かれるべき。学校、大学、ストリート、コンサートホールにクラブ、教会、ラジオ、テレビやレコード、そしてビリヤード場で。人々の手に届くところで音楽を弾ける場所ならばどこでも。』



今私たちがJAZZと呼んでいる音楽はなんだろう?
その精神は果たしてどこに、どのようにして存在しているだろう?
 私はまたしてもFrank LoweやAlbert Aylerが創り出した世界を、憧れ、こころの中で探し求めている。