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2016年5月31日火曜日

フリーダム・ミュージック 第四回

ロン・カーターと言えば、その経歴の幅の広さは目が回るほどで、マイルス・デイビスをはじめとする錚々たるジャズ・ミュージシャンとの共演からエルメート・パスコワール、ロベルタ・フラックにトライブ・コールド・クエストとの共演まで、とにかくあらゆる種類の音楽を万能にこなしてきたベーシストだ。
ただ、彼がフリーな演奏に関わった形跡は、私の知る限りはほとんどないように思う。
真っ白なキャンバスに自由に絵を描くよりも、すでにかたどられたものに色彩を加えていくことに長けたタイプの演奏家のひとりかもしれない。今回はそんなロン・カーターの話に耳を傾けてみたい。
引き続きアーサー・テイラーによるインタビューから。


「電子楽器が演奏に使われることに関してどう思いますか?」というテイラーの質問に対して。

音楽は巡りつづけるもので、またスイングに立ち返るはずです。
今は色んなバンドがロックの道を模索してあてどもなく彷徨っているけれど。
私は、「フリーダム」 が流行りだす約一年ほど前にニューヨークに来ました。
その頃と同じ音楽を弾いていて未だにやっていけているバンドがどれくらいいるか数えてみると、
その数の少なさにきっと驚きますよ。
そのひとりはアーチー・シェップで、もうひとりはオーネットだけど、彼はあまりにも不規則にライブをするものだから、数には入りませんね。
彼はもう一週間のうちに6日間はギグをやるようなやり方をしなくなりました。
フリーダムが始まった頃からやっていて、今もそれを続けることができている音楽家っていうのはこの二人くらいしか思いつきません。
フリーダムをやったバンド達は、ニューヨークだけでも1000枚ほどのレコードを出したかもしれませんが、もう流行らないから棚の上に置きっぱなしのものが沢山あるでしょうね。
今あるのは、1953年から55年のビバップ、63年から65年のマイルス、69年のビートルズなんかのロック、そしてオーネットのアヴァンギャルドぐらいでしょう。

アヴァンギャルドはゆっくりと消滅しつつあります。
その痕跡、確実な痕跡は歴史に残るはずですが、アヴァンギャルドが始まった頃に比べると、こういうものを弾く奏者の数が圧倒的に減りました。
今でもフリーを弾いているミュージシャン達の仕事はどんどん減っています。オーディエンスはこれまで我慢してそういうのを聞いてきましたが、もう潮時でしょう。
オーディエンスの人たちは、ライブの後家に帰ってからこう言いたいんですよ。
「(ライブの時の)あのフレーズを思い出せるぞ。」 って。
ものすごく耳が長けたリスナーであるか、あるいはライブの出来がものすごく良くない限り、
慣れていない人にとってはフリーダムはなかなか理解し難いものなんですよ。
ビバップやスイングのフィールを知らない奏者がフリーダムを弾いたって、それはただ単に頭から出てくるものをそのまま垂れ流してるだけです。
もっと音楽的な経験を積んだ人より自由になることはできないと思います。

でもフリーに反対しているわけじゃありません。私だって時にはフリーの演奏をします。
だけど私はフリーダムをもっと理論的に演奏します。
もともとある音楽的知識、そこから構築できるものがあるからです。
最近では、完全なるフリーダムを聞くためには、10歳や12歳そこらの子供が弾く演奏を聞きたいという人さえ居ます。(オーネットのことだろうか?)
だけど、そんな限界的な次元でどうして自由になんてなれると思うのでしょうか?
まるで、「この部屋をどんな色に塗ってもいいけれど、この部屋から出てはいけません。」と言っているようなものです。そうするとあなたの手にする自由は、その部屋のみでしか行使されないということです。どれだけでもフリーに演奏すべきだと思いますが、ただその演奏内容のどこかは、あなたの持つ音楽的背景につながっている必要があるのです。
でなければ、隅っこに自分を追いやってしまうことになります。
 
もし私に選択の余地があるのなら、私はいつでもスイングすることを選びます。
音楽史の中で、フリーダムにはきちんとその居場所があります。ブラック・パワーや、ゲフィルテ・フィッシュや、ピザや、冬場の帽子とコートなんかと同じくらいに確実な居場所が。
あなたの音楽に対する姿勢がどんなものかによります。
もし瞬間的に、音楽への姿勢を変えることができるのなら、それは素晴らしいことです。
ドラマーの中にもスイングできない人は居るし、 フリーダムを弾くベーシストでコード・チェンジを弾けない人も居る。そんなベーシストにF7のコードを弾いてと言っても、弾けないんです。
コード進行の複雑な曲の譜面なんかあげても、その譜面通りには全然弾けないということです。
そういった場合に、彼らの言うところの「音楽的創造性」を表現するためには、結局なんらかの形でフリーを弾くしかないという状況になっているわけです。
フリーダムは彼らにとっては妥当なものかもしれないが、それはひとつの逃げ道のようにも見えます。
彼らが音楽的にやれることはそれしかないんです。

マイルス・デイヴィス・クインテットが演奏した1955年のビバップはフリーでしたよ。
一小節のコードを二小節のものにしたり。決めごとをしても、変化が必要だと思えば、自由に変えていました。「なんだ今のは?」なんて言って止めたりしませんでした。

<中略>

ひとつ気づいたことがあるのですが、ジャズの中で大きな変化が起こると、そのすぐ後に必ずと言っていいほど他の様々なものにも変化が訪れるのです。例えば絵画、彫刻や建築において。
驚くぐらいにいつもそうです。
フリーダム・ミュージックが私にとって意味するのは、若い世代のミュージシャン達が主流派に対して飽きてしまっているということです。その主流派、体制というのは、コード進行と32小節のフォームです。過激派の学生達は、フリーダムのジャズ・ミュージシャンのようなもので、ひとつの曲を弾くために、たくさんのスタンダード曲を素通りしていきます。
彼らは9小節のフレーズを弾いて満足していたいのです。
学生が、学校に行きたくないといって一週間欠席しても、テストで合格点をとる限り、退学にはならないのと一緒です。
1959年、オーネット・コールマンがニューヨークに来たとき、彼は社会的変化を音楽を通して予言しました。チャーリー・パーカーの時もそうでした。ディキシーランド、ルイ・アームストロングのスタイルもまた、奴隷制度からの解放を求める黒人の動きを象徴したのです。



今回もなかなか辛辣な意見だ。最後の方はなんだか支離滅裂だが、ロン・カーターの述べていることの中には、確かに、とうなずける部分もあれば、随分と保守的だと感じる部分もあった。
このシリーズでは、ジャズ・ミュージシャンには必読とされているアーサー・テイラーの著書、Notes and Tonesを参考に、ランディ・ウェストン、フィリー・ジョー、アート・ブレイキー、ロン・カーターのフリーダム・ミュージックに関する考えをまとめてきたけれども、どのインタビューにおいても一貫していたのは彼らがフリーダム・ミュージックに対してあまり良いイメージを持っていないということだった。
これは、インタビューが行われた1968年から1972年の間の音楽家達の考えの一般的傾向だったのか、それとも著者であるアーサー・テイラーの個人的な見解が反映された結果なのかは分かりかねる。 もしかすると、彼らの言う「フリーダム・ミュージック」のくくりは、我々が今日理解している「フリー・ジャズ」とまた少し違うものである可能性もなきにしもあらずだ。
オーネットやアイラーについての言及はあるものの、セシル・テイラーの名前が出てこないことも少し不思議ではある。
今年春にウィットニー・ミュージアムで行われたセシル・テイラーのレジデンシーでは、彼はひとりの偉大なる「アーティスト」として大々的に紹介され、 歴代のレコード、そして楽譜にポスターが会場一面に展示されたのに加えて、コンサートでは熱狂的なファンに迎えられ、次の日には各新聞の芸術欄にこぞってレビューが載った。現在生きているジャズ・ミュージシャンの中で、この様に「美術館」で「アーティスト」として取り上げられる人はいるだろうか、と考えてみたが、なかなか思いつかない。
セシル・テイラーはそれぐらいに稀有な才能であって、そんなアーティストを生んだフリー・ジャズというムーヴメントが現代のジャズ・シーンにも及ぼしている影響を考えると、私は前述のインタビューの内容に関してどうしても首をひねってしまうところがある。

ただ、彼らの話している内容は、フリーの演奏を試みる誰もがある程度は心にとめておく必要があることでもあると思う。インプロビゼーションにおいて、イディオムを用いるのか、用いないのか。イディオムを用いない場合、それは音楽における「反体制」的な立場として敢えて自らをイディオムから切り離すのか。では逆に、イディオムを用いる場合、そこから得られる音楽的効果とはなんだろうか?
そんなことをここから少しずつ考えていきたいと思う。





2016年3月5日土曜日

フリーダム・ミュージック 第一回


音楽家による音楽家へのインタビュー。
副題にそう記されているのは、Notes and Tonesという、ドラマーのアーサー・テイラーによる多数のジャズ・ミュージシャンへのインタビューからなる本だ。
この本で紹介されているインタビューは60年代の終わりから70年代の初めにかけて行われた。
テイラーは、様々なミュージシャンに対していくつかの同じ質問を投げかける手法をとっているのだが、その中のひとつで私が最も興味を引かれたものがあった。

What do you think about freedom music?
「フリーダム・ミュージックについてどう思うか?」という質問である。

現在はフリー・ジャズと一般的に呼ばれているものを、彼らはフリーダム・ミュージックと呼ぶこともあったようだ。
 オーネット・コールマンのThe Shape of Jazz to Comeが1959年に発表されてから、60年代初めにはセシル・テイラー、アルバート・アイラーやアート・アンサンブル・オブ・シカゴなどがいわゆるフリージャズを代表する作品群を次々に発表していった。
そんな時代背景の中で、「フリーダム・ミュージック」を痛烈に批判するミュージシャンも少なからず居た、ということを、私はこの本を読みながら初めて実感した。

そこで、自分自身の音楽に対するより深い理解のためにも、この質問の部分だけを切り取って、ミュージシャンごとの回答を訳し、紹介していきたいと思う。
 第一回はランディ・ウェストン。
彼は「フリーダム・ミュージック」をどう思っていただろうか。



まず初めにこの種の音楽に対して私が感じることですが、白人のライター達によってそのイメージが形作られているということです。
ファイブ・スポットでの出来事ですが、私の真向かいで、その夜オーネット・コールマンが演奏していました。
すると、客席に座っていたレオナード・バーンスタインが突然飛び出してきてこう言ったのです。
これこそがジャズの歴史における最高の場面であり、バードなんかは居なかったに等しいと。
まあこのような場面に代表される色々なことです。
私は、音楽を分析したりということは理解できません。
そういうのって、結構荒々しいことだと思いませんか?
初めにオーネットを聞いた時、私は良いと思えなかったのですが、今では彼の音楽が本当に好きです。
   フリーダム・ミュージックの功績というのはいくつかあります。
まず初めに、この音楽は今現在何が起きているかということを如実に反映しています。
ただ、私にとっては、 このフリーダム・ミュージックと俗に言われる音楽が、他の音楽よりも自由であるとは特に思えないのです。
モンクは一音を弾くだけで、信じられないほどの自由をそこに創造することができました。
自由を創造するためには、そんなに沢山の音は必要ないのです。
ひとつの音だけで曲が作れることもあるのです。
私の考えはこれだけです。
ここ数年の間で、音楽を通して、または音楽以外の別の場所で反抗の意思表明をしてきたミュージシャン達を沢山見てきました。
平たく言えば、この「フリーダム」という概念は新しいものでも何もないのです。
ジェリー・ロール・モートンを聞いたとき私はひっくりかえるような思いをしたし、
ファッツ・ウォーラーが弾くものなんて、その辺のアヴァン・ギャルドの奴らが弾いてるものかそれ以上に「自由」です。
「フリーダム」というのは自然な発展のかたちです。(ジャズ史において、という意味だと捉える)
そこから何が始まるのかはわかりませんが、これからもっと多くのアフリカ音楽の影響も我々の音楽に反映されていくでしょう。
もうそれ(アフリカ音楽のジャズへの影響)は起こっていますが、アヴァンギャルドほどに広告宣伝がなされていないだけのことです。
私が聞いたアヴァンギャルドの多くは、初期のヨーロッパの現代音楽の様でした。
聞いた感じこの種の音楽を好きだと思えないので、それらの音楽家の名前をあげられる程の知識は今のところないですね。

追記:
ランディ・ウェストンはブルックリン生まれのアメリカ人で、丁度この頃(インタビューは1968年と1970年の二回にわたって行われた)にアフリカ・ツアーを果たしている。
彼は1954年に初のリーダー作を発表し、ミュージシャンとしての活動を本格的に始めて割とすぐにアフリカへの興味を持ったのかもしれない。
ウェストンの音楽遍歴の中で、最初に明確なアフリカというテーマを主張したのは、Uhuru Africa (Roulette, 1960)だと思われる。「アフリカの自由」と題されたこのアルバムをターニング・ポイントに、ウェストンはアフリカというテーマをジャズを通して表現するというライフワークに足を踏み入れたのではないだろうか。
そんなことも考えると、アフリカをテーマにしたジャズというものが、「フリーダム・ミュージック」ほどに陽の目を浴びていないことをウェストンがもどかしく感じていた様子が伺える。
私の個人的な観点からすると、ランディ・ウェストンのピアノにはかなりアヴァン・ギャルドな要素が入っているように感じていたので、彼自身が、(少なくとも60年代〜70年代当時は)「フリーダム・ミュージック」に対してそれほど興味を持っていなかったということに少し驚いた。




出典:Notes and Tones Musician-to-Musician Interviews, Expanded Edition by Arthur Taylor
(蓮見令麻訳)



2016年2月3日水曜日

自由即興における儀式の場:アルバート・アイラー





アルバート・アイラーの吹くブルースを聞いて、
この人の音は何が違うのだろうと長い間考えてみた。

媚びずに、寄り添っている。
目の前が真っ白になるくらいの最上の喜びと、
哀しみの層を通り過ぎた後の恍惚と、
エネルギーをただ一点に集めて涙と共に流れ続ける怒りと、
全部が一緒くたになって、
マイナーとメジャーの間を鈍い金色の音が行き来する度に、
私達はあらゆる感情を旅する。

即興演奏をするということは、
自分の選択肢を創造することだ。
自分の創造を信じて、選択肢を信じることだ。
そうするためには、自分に嘘はつけない。
即興の演奏は自分の中にあるものをすべて反映するから、
信頼できる選択肢を創造できる人間性を自分の内に育むことだ。

それは極めて内省的なプロセスであるにもかかわらず、
響く音を出すことのできる奏者は、外界とほぼ一体化している。
そして自分を取り巻く世界に対しての信頼がある。
つまるところは、自分に対してもまた、信頼がある。
しかしそのひとは、演奏において醜さも情けなさもすべてをさらけ出す宿命にあるので、
自身への圧倒的信頼が、ナルシシズムに成り下がることがない。
醜さも情けなさもすべてをさらけ出すということは、
人間が、「社会においてあるべき姿」という鎧を脱いで、哀しみや弱さへの受け皿を持つ「信仰」の泉へ飛び込む行為である。
そして、そのような類の演奏行為は、信仰と儀式の持つ感覚に非常に近いものを私達に与える。
伝統音楽が受けおってきた、世界の中の儀式的な場所はほとんど生き残っていないかもしれない。
伝統音楽における儀式にはカタルシスがあり、
カタルシスの体験は私達の膿を洗い流してくれる。
自由即興には、その儀式としての場を作る力がある。

2015年8月17日月曜日

ブラジル、アマゾンの詩と歌(二)




Estatutos Do Homemという、アマゾンの詩人、チアゴ・ヂ・メロの代表作の詩集を、息子であるチアゴ・チアゴ・ヂ・メロからもらったのは、夏も本格的になってきた7月の終わり頃だった。

丁度その頃、休暇のためにマーサズ・ヴィニヤード島に行く直前だった私は、
休暇中に読む本として、『ヤノマミ』(国分拓著)を選んだ。
ずっと昔に、古本屋で見た写真集の中で、ヤノマミの人々が川べりで蝶に囲まれて水浴びをしている写真に魅了されてから、ヤノマミという名前がずっと頭の中にあった。


その本を買って数日後に、チアゴ・チアゴ・ヂ・メロのライブを見に行った時、
チアゴは歌の中でヤノマミを始めとする様々な部族の名前をあげていた。
ポルトガル語だったので、ヤノマミだけは聞き取れたのだけど、それについて何を歌っていたのかは残念ながらわからない。
ライブの後に、「丁度ヤノマミに関する本を買ったところだった。」 という話をしたら、
彼はすごく喜んで、「友情の印に。」と言って、私の手首にアマゾンで作られたという木製の腕輪をはめてプレゼントしてくれた。

マーサズ・ヴィニヤード島についてからも、
ヤノマミやアマゾンのことが頭から離れず、気づけば私は島のネイティブ・アメリカンの歴史館へと足を運んでいた。
残念なことにヴィニヤード島に昔から暮らしていたワンパノアグ族の人々の数は劇的に少なく、ワンパノアグの血を受け継ぐ少数の人々が、ひっそりと集落に暮らしているくらいだ。
この美しい島に、文明化された側の人間として足を踏み入れる自分は、あるいは偽善的であるかもしれない。
だけどそれでも、私にはアメリカ大陸の先住民達のことを考えずにはいられない時がある。
静かな部屋で海の音を聴きながら『ヤノマミ』を読み、
私は ヤノマミの暮らし、人の純粋さ、文明と接しない決断、文明と接する決断、運命を思った。


詩人、チアゴ・ヂ・メロはブラジルにおいて軍事政権が台頭した60年代に投獄され、
国外に亡命した。亡命先のチリで、チリの代表的な詩人、パブロ・ネルーダと出会い、そこでこの詩を書いた。チアゴ・ヂ・メロは現在も、アマゾンの熱帯雨林と、アマゾンに暮らす先住民族の社会的権利を守るための活動を続けている。



 「人間の条項」 チアゴ・ヂ・メロ




第一条
重要なものは真実であり、
重要なものは命である。
我々は互いの手を取りあい、
命の意味について考えることをここに定める。


第二条
平日でも毎日が、
曇り空の火曜日でさえもが、
日曜日の朝になり得る権利を持つことをここに定める。


第三条
これから先ずっと、
すべての窓際にはひまわりがあり、
そのひまわりは日陰で咲く権利を持ち、
その窓は一日中、希望を育む新緑へと向かい開き続けることをここに定める。


第四条
人間は、人間をもう決して疑わないこと、
やしの木が風を信じる様に、
風が空気を信じる様に、
空気が空の青い拡がりを信じる様に、
人間は人間を信じることをここに定める。

 第一項 
 子供がまたひとりの子供を信じる様に、
 大人もまたひとりの大人を信じる。


第五条
人間は、偽りへの隷属から解放され、
誰一人として、沈黙の鎧をまとい、言葉の武器を使う必要はないこと、
人間が曇りのない瞳でテーブルの前に座れば、
デザートの前には、「真実」の皿が出されることをここに定める。


第六条
十世紀もの間、イザヤという預言者が夢に見た習わし、
すなわち、狼が子羊と同じ草原で草を食べる時、
彼らの食事は生命の春の味つけであることをここに定める。


第七条
正義と明瞭さの永続的統治は、撤回し得ない条としてここに定める。
よって、幸福は、人間の魂の中で永久にたなびく寛大な旗となる。


第八条
最上級の痛みとは、これまでも、そしてこれからも、
植物に花咲く奇跡を与えるのは水であると知りながら、
愛すべきひとに愛を与えられない無力さであることをここに定める。


第九条
毎日のパンには、人間の汗の商標が施されることをここに許可するが、
パンはいつでも温かく柔らかな味でいなければならない。 


第十条
すべての人間が、
人生のいかなる時においても、
日曜日用のベストを着用することをここに許可する。


第十一条
人間は、愛を知る動物であると定義し、
よって人間はいかなる夜明けの星よりも美しいということをここに定める。


第十二条
命令、禁止事項というものは存在せず、
サイと戯れることも、巨大なベゴニアの花を襟にさして午後の散歩をすることも、
すべてが許可されることをここに定める。

 第一項
 唯一の禁止事項は、
 愛しながら愛に不感であること。


第十三条
金で夜明けの太陽を買うことは金輪際不可能であり、
恐れの詰まった箱から放り出された時に金は友愛の剣となり、歌歌う権利を守護し、来たる日々を祝福するであろうことをここに定める。


最終条項
自由という言葉の使用をここに禁ずる。
自由という言葉はすべての辞書から、
そして当てにならない「口」というぬかるみからはじきだされる。
よって自由とは、
火、または川の様な、
小麦のひと粒の様な、
目に見えぬ生命体となり、
その帰り着く場所は必ず人間の心となる。



(Estatutos Do Homem by Thiago de Mello(1964) 訳:蓮見令麻)


2015年8月7日金曜日

TONY MALABY GROUP@ RYE


音楽とはイデアそのものであり、この世の中のさまざまな事象とは一線を画すもので、
それは宇宙の外側に理想的なかたちで存在し、「空間」ではなく「時間」のみによって理解される。
その結果として目的論的な仮説により侵食されることもない。
この根本的な音楽の品位は、非純粋的な聞き手が、その理想的でいて視覚的ではない音楽というものに形を与えようとする行為、また、聞き手自身が調度良いと感じる典型にイデアを当てはめるという行為によってねじまげられてしまう。
サミュエル・ベケット、プルースト論より


このような、ベケットの言葉を借りると、「根本的な音楽の品位をねじ曲げる」行為を、私達の多くが日常的に続けている。皮肉なことに、音楽について評論するような立場の者にとっては、
音楽に形や典型、または説明を見出そうとするという構えは、捨てきれない一種の性の様なものなのかもしれない。
私自身も例外に漏れず、 音楽をある大きさ、かたちの額縁に入れて鑑賞する趣きがあることを自覚している。
だがそれは、評論的な類の額縁ではなくて、「ものがたり」の額縁である。
音楽の演奏を目の前にして、音の波に呑まれながら、
私は多くの場合、演奏している人の背景に拡がる膨大な束のものがたりについての想像を膨らませる。
ものがたりの束、それ自体は、イデアとしての音楽的領域を侵すことはないけれども、
演奏する者が経験してきたものがたりは、その人の身体と記憶を通して音楽に色彩を加える。
俗世的なものが音楽にそうやって入り込んでしまえば、あるいはベケットはそれが未だイデアそのものであるとは言わないかもしれない。
圧倒的に純粋であるという魅力、そして同時に俗世的であるのという魅力、
音楽はそのふたつの顔を時と場合によって使い分け、私達を混乱させ、酔わせる。



ここ何日か、セシル・テイラーの音楽を聞き直すことに没頭していたこともあって、
この日のトニー・マラビー・グループの演奏を聴きながら、
私はフリージャズの潮流の中における、セシル・テイラーというひとつの分岐点、
特に、リズムをひとつの大きな母体として形作る、音楽の感触について考えた。
トニー・マラビーはテナーとソプラノを交互に吹いた。
時には聞こえないくらいの小さな音で、時にはこれ以上にないくらいワイルドな咆哮で。
ベースのアイヴァンド・オプスヴィックはくぐもった音のベースで、密度の高い音の粒をはじきだし、デイヴィッド・トロイトのドラムがエッジーな音で空間に裂け目を作った。
クリストファー・ホフマンのチェロは中音域に厚みをもたせたファンタジックな演奏。
ベン・ガースティンのトロンボーンは密林に住むけものの様に本能的だ。

グループの全員が、吹きすさぶ音の嵐の中で、ひとつの舟を沈没させない為に手綱にしているのは、
「感触」なのだろうと私は思う。
それは、メロディックな概念としての、音感よりも、音楽理論の理解よりも、
本能的、プリミティブな音楽の作り方だ。
ざらざらとしていて、掴みどころがない。
音楽は、ただそこにあり、呼吸をし、流れていく。

セシル・テイラーの素晴らしさとは、リミットがないことだと思う。
まず、「ピアノはこんな風に弾くものである。」 というリミットがない。
そして、「私はピアニストである。」というリミットもまたない。
セシル・テイラーは、詩を朗読していても、踊っているときも、同じ躍動で「演奏」している。

トニー・マラビー・グループの奏者達ひとりひとりは、一体これまでにどんな場面でセシル・テイラーの演奏を聞いて、
それについてどんな風に感じてきただろう。
こんな風に直観と衝動に突き動かされる演奏をすること、
そういう精神的な場所から新しいものを構築すること、
この奏法が、彼らにとって、そして彼らを取り巻く小さく、大きな世界にとっての「スタンダード」に 成り得つつあることをどんな風に思っているだろう。
その「スタンダード」の潮流の始まりの一端の、大きな部分を担ったテイラー。
異なった時間枠を通して延々と繋がっていく音楽家達。
セシル・テイラーから、ウィリアム・パーカーに。
ウィリアム・パーカーから、トニー・マラビーに。


ものがたりが、どこまでも、どこまでも続いていく。

2015年2月26日木曜日

非存在としてのインプロビゼーション

インプロビゼーションと呼ばれる音楽は、まるで幻獣の様である。

実体を完全に掴むことはできない。
だから、得体の知れない存在として人々の想像の中に生きる。
時に、得体の知れない存在であるがゆえに美化され、
また時には、得体の知れない存在であるがゆえに拒絶され、
そして時には、得体の知れない存在という名の「存在せぬもの」という扱いを受ける。

実際に演奏する音楽家にとってさえ、完全なる形で捕らえ、乗りこなすことはできないのだから、
聴き手側が簡単に納得するはずがない。

存在の裏付けがされないということが何を意味するかというと、
それはその幻獣についてあなたが想像する、姿や形、動き方や性質には限界がなく、
よってあなたの想像は人間の集合体による観念に完全に支配されることがないということ。

もし幻獣に少しでも興味があるのなら、
同じように幻獣に興味を持つ人々(世間からは「変わり者」と呼ばれたりする)の提示する、
幻獣についての見解を聞いてみるだろう。
それぞれの見解は、ある「存在せぬもの」に関する個性的な翻訳の数々であり、
そこに普遍的なものはほとんど見出されない。

そこで興味を失い、「想像してみること」を放棄し、「理解する」価値を見出さないという道もある。
理解することなんてはなっから期待してはいけないのだ。
幻獣なのだから。
もし、「想像してみる」という道を選べば、
幻獣はあなたのゆく先々で、一瞬姿を見せては去り、
あなたを狂おしい気持ちにさせ、惑わすだろう。






2015年1月18日日曜日

CECIL TAYLOR ON FREEDOM

自由という言葉の意味はいつも履き違われてきた。
外側の世界の人々によって、そしてさらには「運動」の渦中に居たはずの音楽家達によって。

ひとりの音楽家がある旋律を一定の時間奏でる時、そこにはひとつの秩序が芽を出す。
その個人的秩序というものを提示する、あるいはそれについて一種の論争に高じる、
どちらにしても、もしその音楽家が、演奏によって何かを表現しようとすれば、必ず秩序はそこに存在する。
秩序なしには音楽はありえないのだ。
もしその音楽が奏者自身の内側から湧き出ているものであれば。
しかしこの種の秩序というのは、外部から抑圧されてできあがる種類の秩序の基準とは何の関係性もないということを述べておく。

つまり、大事なのは、『自由』の反対側にある『非自由』ではなく、
秩序に関するアイディアと表現を認知することそのものなのだ。
         ーセシル・テイラー(FLY!FLY!FLY!FLY!FLY!(1980)ライナーノーツより抜粋)
    


「表現の自由」について、この頃、ひとびとは考えるだろう。

ディストピアの憂鬱に視界は曇り、根幹と視野を失った「表現」が創造性の柔らかな草地を蹂躙する。
そのような世界では、私達の多くは、「表現の自由」と言う言葉を聞けば、『非自由』の概念を想起し、
あるいは、自由を搾取する存在に対する行き場のない困惑の思いを感じるだろう。

ここでセシル・テイラーが述べていること、「自由」という言葉の理解は、
このような世界に生きる私達にとって、そしてまさに、「フリージャズ」または「自由即興」とも呼ばれる類の音楽を演奏する奏者達にとって、 極めて重要である。

「自由」という言葉は、「抑圧」または「束縛」というような非自由的概念と並べて理解されるべきではなく、
「創造性」そしてそれを芸術的表現たらしめる、そのひと特有の「創造における秩序」、その色彩の豊かさと優美な統制という自発的感覚を持って理解されるべきなのだ。

このような「自由」の側面について、私達は充分に考えることをしてこなかったのかもしれない。
私は、これに、「自由」は詩的であることもつけ加えたい。
創造性そのものを幹にして生まれるものであるが故、「自由」は、詩的であることを避けられないと思うのだ。



2014年8月9日土曜日

音楽と信仰 

悲しいニュースばかり左から右へと流れていく毎日の中で、
私はいつも、芸術という鳥をこころの中の枝にとめていたい。
歌、詩、色彩、旋律、それらはいつも、重く沈んだ精神に羽をつけてくれる。
争いを生み出し続ける強欲、民族・同胞意識、宗教、そういうもの達から芸術は解放されている。

エマホイ・ツェゲ・マリアム・ゴブルーという、エチオピアのピアニストについての話をしたい。

彼女は、60年代に、エチオピークのシリーズからソロピアノ録音を発表している。
エチオピアの音階も充分に聞こえるその音楽からはラグタイムの欠片のようなものも聞こえてくるし、
またブルースも聞こえてくる。
その丸みを帯びたタッチは、メアリー・ルー・ウィリアムスのタッチによく似ている。
だけど、エマホイの演奏には、メアリー・ルーの弾く様なユーモラスで悲しいという味のブルースは存在しておらず、代わりに、アフリカの広い大地を思わせる様な明るい響きが音楽全体を形作っている、というイメージを受ける。




彼女は、1923年生まれ、現在91歳。イスラエルに住む。
80年代にイスラエルに移住してから、エルサレムにあるエチオピア正教の修道院で、日々祈り、
ピアノに向かう生活を送ってきた。
宗教に携わる者として、表に出る華やかな音楽家、という道を選択することのなかった彼女は、
演奏の場を公に探すことをせず、日々、ただ神に捧げるためだけにピアノを弾いた。
そんな時、つい数年前に、イスラエルに住む若者が、エチオピークのアルバムを聞き感銘を受け、
同時にエマホイがエルサレムに住んでいることを知る。
彼らは修道院を訪れ、エマホイの了承を得て、彼女の書いた膨大な枚数の譜面をかき集め、
ついにエマホイの作曲集として出版した。
さらに感銘を受けた人々は、エマホイの作曲した曲を若い音楽家達で演奏するコンサートを催し、
大成功をおさめ、エマホイは一躍、90歳にしてイスラエルの「時の人」となったのだ。


エマホイが生まれたのはアジス・アベバ。
父は政治家で、母はハイレ・セラシエ皇帝の二番目の妻、メネン皇后の家系の出であった。
エマホイは6歳の時にスイスに渡り、教育を受け、バイオリンを始めた。
1933年に、10歳で一端エチオピアに戻るものの、すぐに第二次エチオピア戦争が始まる。
ムッソリーニ政権のイタリアがエチオピアに軍事侵攻し、イタリアの独裁的な占領軍に反抗的な立場をとったエマホイの家族は捕虜としてイタリアのアシナラという島に送られてしまう。
戦争が終わり、1944年に家族はアフリカへ帰還。
彼女はエジプトへ移り、アレクサンダー・コントロウィッツというポーランド移民のバイオリニストに師事し、音楽をさらに勉強した。この頃はまだ、バイオリンを主に弾いていたようだ。
のちにエマホイはコントロウィッツと共にエチオピアに戻り、エマホイ自身はエチオピア外務省のアシスタントとして働き、コントロウィッツはハイレ・セラシエ皇帝じきじきに使命され、宮廷音楽隊の音楽監督に就任する。

その後、エマホイはロンドンで音楽の勉強をする奨学金を与えられるも、エチオピアの権威は彼女の出国を許さなかった。
希望を断たれ、深いショックを受けたエマホイは何日間も絶食し、死の淵を彷徨った後に、神との聖餐を望んだ。
エマホイは、エチオピア北部、岩窟教会群のあるウォロ州へと移り、修道院での暮らしを始め、
21歳の時に修道女となった。のちにゴンダルという古都にも住んだようだ。
ところで、このゴンダルという場所は、タナ湖の北部にあり、ベータ・イスラエルと呼ばれるエチオピアのユダヤ人集団が住んだ場所だ。少し調べれば分かることだが、エチオピアの皇室はソロモン王の系譜であることを主張しており、紀元前、古代ユダヤ教を宗教としていたが、4世紀頃にキリスト教に改宗している。9世紀にユダヤ教がほぼ完全に淘汰されるまで、ふたつの宗教は競り合いながら共存していた。イスラエルと同じように、ゴンダルという場所でも、異なる宗教を持った人間がすぐ隣同士で、神に祈りを捧げてきた。


1960年代、エマホイは修道女として神に献身する一方で、 熱心にエチオピアの宗教音楽を学び、作曲もした。
この時期に、裸足で教会の外に寝泊まりしながら教会に勉強をしにきていた子供達を多く見たエマホイは、自分の音楽でこの子供達の教育の手助けをしたいという思いに駆られる。
結果、ハイレ・セラシエ皇帝の援助により、1967年にデビュー・レコードを出し、その売上をすべて子供達の教育のために寄付したという。
これは丁度、ハイレ・セラシエ皇帝がジャマイカを訪れ、ジャーという生き神としてセラシエ皇帝を崇めるラスタファリアン達に熱烈な歓迎を受けた、次の年のことだった。

1970年代になると、エチオピアはオイルショックや飢饉による混乱に見まわれ、
兵士達によるクーデターで皇帝は捉えられ、退位後、殺害された。
1974年政府は独裁体制のメンギスツの支配下となる。
メンギスツは彼の政策に反抗するものを次々と捉え、投獄、処刑していった。
この混乱の中で、60、70年代に活躍したEthiopiquesを始めとするエチオピアジャズは急激に衰退していった。
自由な即興演奏を主体とするジャズという音楽をメンギスツが危険要素とみなし、音楽家達を攻撃しはじめたために、身の危険を感じた音楽家達が外国へ亡命していった結果のことであった。

このような政治的混乱の最中、独裁者メンギスツのマルクス主義的政策が自身の宗教的献身を侵害すると考えたエマホイは、母の死後、 1984年にエルサレムへ逃亡。
今まで、エルサレムのエチオピア正教会に修道女として暮らしてきた。

この1984年というのは、モーセ作戦というイスラエル政府の帰還法に基づき、のべ八千人ほどのベータ・イスラエル、つまりエチオピアのユダヤ人がエチオピアからイスラエルに移送され、帰化を許された年である。現代版の出エジプトだ。詳細は定かではないが、エマホイ自身も、このモーセ作戦によりイスラエルに移住したという可能性がある。

ピアニストの修道女。エチオピアからイスラエルへ。
何という波乱万丈な人生だろうか。
これだけ様々な事が周囲で起きる中で、彼女は「信仰と音楽」という一点だけを見つめて、
91年間生きてきたのである。
現在も侵略と戦争に隣り合わせで生きる彼女は何を思い、日々を過ごしているだろうか。

パレスチナは、イスラエルは、エチオピアは、オキナワは、「誰の」土地だろう?
所有するのは、侵略するのは、占領するのは誰のためだろう?
わたしはこの国の人間で、あの子はあちらの国の人間で?
何がそれを決めるんだろう?
生まれた国、肌の色、宗教、言葉、血筋?
自己防衛のために、わたしは武器を持って、あちらも武器を持って、みんな武器を持って安心?

人間の本質は決してそんなところにはないと思う。


エマホイの歩いてきた人生に思いを馳せ、
平和の意味をいま一度考える。






参考資料:
http://wemezekir.blogspot.com/2012/12/happy-birthday-emahoy.html
http://www.theguardian.com/world/2013/aug/18/ethiopian-nun-music-holy-enrapture
http://www.ethiopianstories.com/component/content/article/37-editors-choice/79-emahoy-tsegue-mariam-gebrou
http://www.tadias.com/07/08/2008/historic-concert-by-ethiopian-nun-pianist-composer-in-dc/





2014年2月9日日曜日

価値を判断することは

 全聾の天才作曲家と謳われた佐村河内守氏のほぼ全作品が、実のところは新垣隆という別の作曲家の作品であったというニュースが世間を賑わせている頃、
私は指揮者小澤征爾と作曲家武満徹の1984年に発行された対談集、「音楽」を読んでいた。

小澤氏は対談の中でこう述べている。

「音楽の本質は公約数的なものではなく非常に個人的なもので成り立っていると思うんだよ。」
「音楽会へ行って三千人すわっていても、その三千という数が問題なのではなく、一人ひとりとの関係が重要なんだよ。中略 根本的なところから発しているから、受け入れられ方の幅がうんと広いわけ。
だからレコードが何枚売れたとか、有名だとか、超一流だとか二流だとか三流だとか、ヘッポコだとかは重要でないわけ。一番大事なのはね、もしかすると、人間と音楽が根本的にどこでつながるかにあるんじゃないだろうか。」

そして武満氏。
「実際には、音楽家は自分の考えで音楽をやる以外にはない。結局、最初に話に出たように、実際に音楽をやる気がないような、ある種の太平ムードの中で、なしくずしに意欲を失っていては自分の感受性にたとえあり余るものを身に受けていても、自分が積極的になれない以上は、ものをみきわめる力が、どんどん失われていくのはやむを得ない。」


私が怖いと思うのは、現代の資本主義社会において、大衆の目にするもの耳にするものがプロパガンダに支配されたマスメディアという媒体に限定されることにより、人々の嗜好(または思考)の一元化がなされてしまうということである。
または、人々がある一定の思想、つまるところはメディアを筆頭とするマジョリティーの支持する思想やイメージに太平を求め落ち着いてしまうという状態。

こういった状態に私達の社会は一歩も二歩も入り込んでしまっているように思える。
多様性を消してしまうことは、自然界の成り立ちにも反するし、
私達の世界を極めてロボティックにしてしまう恐ろしさを秘めている。

このことを頭の片隅に置いて、私達は何かを「良い」と言う時に、
自分自身にこう問いかける必要があるかもしれない。
「自分は何を根拠にこれを良いと思うのか?」
「何らかの集団に属したいという欲望のために良いと言っていないか?」
「個人としての自分の判断にどれほどの価値を見出すことができるか?」

少なくとも、この問いかけをして、自らの思想を決定する自由を、未だ我々は手にしている。
武満氏の言うように、意欲を持って生き、良いと思うものをみきわめていけたらと思う。





2013年11月2日土曜日

ジャズは幻想であるか

村上春樹と小澤征爾の対談本、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んでいる。

その中で、マーラーの音楽について二人が話をする場面で出てくる会話において、
小澤氏はこう述べている。

「…日本人、東洋人には、独自の哀しみの感情があります。それはユダヤ人の哀しみとも、ヨーロッパ人の哀しみとも、少し成り立ちの違うものです。そういう心のあり方を深いところできちんと把握し、理解すれば、そしてそういう地点に立ってしっかり選択をおこなっていけば、そこには自ずから道が開けると思います。東洋人が西洋人の書いた音楽を演奏する独自の意味も出てくる、ということです。そういうことを試みるだけの価値はあると、僕は考えています。」

「表層的な日本情緒、みたいなことじゃなくて、もっと深いところまで降りていって、それを理解し、取り込まなくてはならない、そういうことですか?」

村上氏の解釈のこの言葉は、より一層感覚的な理解を深めてくれる。


この話を読んで私が思ったのはプーさんことピアニストの菊地雅章氏のことだった。
菊地氏の音楽というのは私にとっては橋の様な存在で、
しばらくの間いわゆるジャズという音楽を弾いてきた私がどうしても払拭できなかったある種の違和感から抜け出すひとつの答えを与えてもらったと思っている。

その違和感というのは、ジャズの背景にある民族性や歴史から自分自身がかけはなれているという事実からくるものだった。
もしかしたら小澤氏も、東洋人としてヨーロッパの歴史と伝統あるクラシック音楽界で指揮者として活躍する中でそういう違和感を感じたことがあったかもしれない。

いわゆるジャズという音楽には、アメリカ黒人の壮絶な歴史がうねるように絡みつき、
そのルーツにはアフリカの土着文化がある。
そういった、ジャズの持つ民族的、歴史的などろどろとした深みを、日本人である私はどう頑張っても体感はできないのだ。

何をジャズと呼ぶかということもテーマになってくる。
私の夫であるギタリストのトッド・ニューフェルドは、「ジャズという概念は幻想だ。」と先日言っていた。
確かに、ジャズという言葉の解釈は非常に主観的になりつつあるかもしれないと思う。

菊地雅章氏の演奏を初めて見たのは確か2年ほど前、場所はVillage Vanguardだった。
初めて目にしたプーさんの演奏はすでにほぼフリーインプロビゼーションで、
そこから私は年代を遡ってTethered Moonを聞いたり、Sustoを聞いたりして、度々感銘を受けたのだった。
 菊地氏はジャズの時代を生きてきた人だから、その音楽性の比較的大きな部分をジャズの伝統的な音楽の成り立ちが占めているのではないかと思うのだけれど、
彼の音楽には、何か得体の知れない、独特、固有の魅力がある。
自分が何を弾いているんだろうと疑問に思った時、菊地氏の音楽を聞くと、
大体いつも、空気がすぅっと通るような気分になるのだ。

世界中には素晴らしい音楽家達がたくさんいて、もちろん学ぶことが沢山ある。
だけれど、私たち音楽家は、自分個人のことをどれほど観察できているだろう?
これだけ情報が溢れているのもあるけれど、他の人がやっていることを賛美し観察しすぎて、肝心な自分自身の音楽と歴史、精神を見失うのは残念だと思う。
日本の音楽を聴き始めて、いかに自分の音楽観がユーロセントリック、またアフロセントリックであったか痛感している。

自分の精神の中に存在するものと、自分の身体が楽器や声を通して演奏するもの、
そのふたつの次元がきちんと繋がっていなければ、自分に嘘をついているような気がしてなんだか気持ちが悪い。
取り越し苦労になってしまったとしても、音楽に繋がっていく精神的な部分は何度も見直していきたい。




2013年10月14日月曜日

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

その技術に感激するのか。
では技術とは何か。
数学的であることか。より複雑であることか。
その音を心地よいと感じるのか。
では心地よさを求める自分とは何か。
心地よさそのものとは何か。
その音を心地悪いと感じるのか。
では心地悪さを回避しようとする自分とは何か。
人間はいつまでも心地よさを追求するか。
心地よい場所にとどまることは何を意味するか。
音楽とは楽しむものか、愉しむものか。

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

誇示する男達の自我か、
媚売る女達の因果か。
男達は自我に武器を与え戦争をつづけ、
女達はハイヒールを履いて資本と欲望に貢献する。
音楽家が楽器に自我を投影する世界では戦争は終わらない。
芸術は、向上しようとする精神の混沌とした泥から生まれる花だ。
そういった純粋な精神の淘汰すべきものは己の自我それだけである。

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

音楽を選ぶ時、人は知らずと思想を選ぶ。
とすると私達の思想はいま、何を提議しているか。



2013年4月13日土曜日

ディアスポラ的な洗練

先日書いた記事で、「ディアスポラ的な洗練」という表現をした。

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ある集団の属する文化、社会の持つ性格は、
その集団が生活している大陸という土地の持つエネルギーに精神的な影響を受けるだろう。

 土着的な文化、その土地で何百年の時間をかけて培われた文化は、
その土地のエネルギーに長い時間を包まれて、素晴らしい創造物を作り上げる。
それはそのエネルギーに密着した形の建造物であったり、そのエネルギーの形を表すような音楽やダンスとなってあらわれるだろう。
そういった創造物というのは、母の存在をいつも確実に感じて育った子供のように、地に足がついた、落ち着いた性格を持っているように思う。

一方で、ディアスポラの集団によって生み出される文化はどうだろう?
人が、生まれ育った土地を離れ、帰る場所を持たない者として生活するということは、
いうまでもなく極端に困難なことであるのは間違いない。
生来の土地のエネルギーから切り離された状況でも、創造を続けていくのが、
人間の自然な姿だろう。
そういった状況で、故郷を手放した者は容易にアイデンティティー・クライシスに陥るかもしれない。私達のアイデンティティーは、生まれ育った土地と言語に、多くの場合大きな比重を置いている。
そのような方法でアイデンティティーを確立しない場合、
人間は、ただ自分の中に「あるもの」と向き合うしかない。
そこにあるものは、名前やラベルをはって簡単に理解することができる類のものでは全くなく、
もっと本質的であり、宗教的な感覚をもっていると思う。
もちろん、口承で伝えられた、伝統の欠片はところどころにちりばめられていても、そこからもっと完成されたものを新しい土地で形作るときには、自身の直観的な創造性が求められるはずだ。

そういうプロセスを経てつくられた音楽が、アメリカの音楽なのだと思う。
このような意味で、「ディアスポラ的な洗練」という表現をした。
私にとって直観ほど洗練されたものはないと、感覚的に理解しているからだ。

 ジャズという音楽について言うと、その歴史は約1世紀弱。
その文化が、土地のものとして根付き、母性的な文化的印象をつくりあげることも可能なだけの時間がすぎているように思える。
しかし、そうならないように見えるのは、ジャズがもともとディアスポラ的な精神から生まれたものであるからかもしれない。
ディアスポラ的な洗練は、言い換えれば、「飽くことなき創造への欲求」である。
それゆえに、同じ形のまま、伝統を大事に伝えていく、というやり方がそぐわない。

ジャズは、ある意味では特殊な文化で、創造への欲求というモーメンタムを受け渡していく、「自己の内側へと深く入り込むことによって、外側とより広く繋がっていく」、そういうもののような気がする。




2013年3月28日木曜日

ブルースの心理

今回のコンサートでは、日本の唄を題材にしてフリーの即興をするという試みをした。

私はもともと音楽を勉強しに渡米し、アメリカの音楽を聴き、そのアメリカの音楽をアカデミックに分析した 観点からの音楽教育を受けた。
必死にジャズまたはアメリカ音楽というものを理解しようと切磋琢磨してきたものだから、
その盲目的な献身の副産物として、少なからず私の音楽についての理解はアメリセントリックなものになってしまっていたように思う。

アメリカの音楽は確かに素晴らしく魅力的で、
民族移動の歴史と文化的、あるいは社会的摩擦によって育てられたその創造的モーメンタムが作り出してきた蒼々たる音楽の系図は圧倒的な存在感を持つ。

その中でも私はいつもブルースという音楽的側面に心を揺さぶられるのが常で、
何度も聴いてきたのはメアリー・ルー・ウィリアムスであり、アルバート・アイラー だった。両者ともにジャズミュージシャンであるけれども、彼らのサウンドはとても土着的であり、それと同時にディアスポラ的洗練を持っている。それは純粋芸術の様なもので、大衆芸術的なアプローチをする類のジャズとはまったく違っているように思う。


でも、同じものは弾けない。


 フリーインプロビゼーションが素晴らしいのは、形式がないこと。
形が決まっていない、ルールがない、ということは、先代の奏者達の影にとらわれることがない。ただ、例えば私がメアリー・ルーのピアノがとても好きで、そのエレメントを自分の音楽の中に表現したいと思えば、音楽理論を超えたもっと空間的な部分でそれは表現できると思う。

今回演奏したインプロビゼーションのテーマにした曲は「島原の子守唄」と「りんご追分」。
興味をひかれたのはこの二つの曲の起源をたどっていくと、両方に娼婦の存在があることだ。島原の子守唄はモチーフのなかに「からゆきさん」という異国の娼館で働いた娘達のことが描かれているし、「追分」という民謡が伝わった背景にも、「飯盛り女」と呼ばれた私娼達が居たようだ。

 ビリーホリデイのことが頭に浮かぶけれど、、最悪な状況に置かれたとき人はブルースを唄った。ブルースは理論的にはメジャーコードの上でマイナースケールを弾くものであるけど、その二元的な性質がどこか、前にも書いたリチャード・プライヤーのことをビル・コズビーがあらわした、「悲劇と喜劇の間の限りなく薄い線」という言葉を思い出させる。

ブルースについて、それからブルースの中の女性性について、もっと深く考えてみることにする。



2013年3月20日水曜日

リチャード・プライヤーとボールドウィン



「リチャード・プライヤーは、悲劇と喜劇の間に可能な限り薄い線を描いた。」


ビル・コズビーはリチャード・プライヤーについてこう語ったといわれている。
最近になって初めて、1977年にNBCで放送され、たったの4シリーズで幻のように終わってしまったリチャード・プライヤー・ショー を見た。
社会を辛辣に風刺するひとつひとつの喜劇の中で、金儲け主義の教会の牧師、アメリカ初の黒人大統領、奇跡を起こすカルト的宗教の教祖などにプライヤーは扮している。
一時間程度の番組を見終わった後に、それは感じた事のない複雑な感情を私に抱かせた。
それは決してコメディを見終わったときに一般的に得る感情ではなくて、
哀しみと愉快さ、どしゃぶりの雨と晴天が全部混ざった様な、なんともいえない不思議な感情だった。
人間が何かに熱狂して我を忘れるということは興味深いもので、
その対象は俗世の辛さを忘れさせてくれる音楽かもしれないし、ただのめりこみ、信仰する以外にない何かの宗教かもしれない。
その熱狂という心理的状態が、時に人間を戦争へ駆り立て、また時には素晴らしくクリエイティブな芸術を創らせる。
そういう人間の性格そのものが、喜劇であり悲劇だ。

リチャード・プライヤーのことを考える時、自然とボールドウィンの世界を思い出す。
社会からの逸脱、疎外、孤独。怒り、愛、性、放蕩、生身の人間。
「俺もあなたのベイビーのひとりじゃないのか、マザーファッカー」と、神に対してつぶやくルーファス。

 プライヤーとボールドウィンの世界観というのは、
人間の持つ性格の幾層の深みを丁寧に観察をし、且つその層の一枚一枚の色の違いを見分ける繊細さのある人間が作り出す類のものだと思う。

雨に降られてずぶ濡れになった人は、止まない雨に悪態をつきながらも、
自身の内面にある限界のない想像の世界のビビッドな色彩を深く愛するのだ。


音楽にこの感覚を呼び起こしたい。
と思う私は、
一見冷静に見えても、まったく冷静じゃないのかもしれない。


2012年10月23日火曜日

ローランド・カークとアルバート・アイラー


ローランド・カークの If I Loved Youを聞いていた。

この人は、なんて直接的な感情を込めて演奏したんだろう。
とてもエモーショナルなのに、オープンで、フリーで、広がっていく、柔軟な音。
変幻自在な音楽のエネルギーの扱い方をマスターした人の演奏だ。
その手法と、ローランド・カークという人の中につまっているあらゆる種類の愛情が結びついて生まれた、まさに魔法のような音楽。

アルバート・アイラーを聞いても、同じ様な感覚を得る。

ドン・チェリーがアイラーについての話をしているインタビューで、こんなことを言ってた。

「商業主義的なやつらが、俺達みたいな音楽家を見つけて、いろいろとビジネス的な後押しをしてくれるようになるまではしばらくかかる。
それでもなにかしら、俺達は毎日演奏してるわけだ。
誰でも音楽家としてやっていこうと思った時に、やっぱり、お金のために音楽を演奏するという状況になる。でも、アルバートっていう人間は、お金のためでもなんでもなく、For the Love of God、神の愛のために演奏する、数えるほどしかいない類のミュージシャンのひとりだった。」


丁度、フリー即興を弾く意味について自分自身も少し考えていたところだった。

バークレーメソッドを大学で習って、理論に沿った弾き方をある程度習得し、
そういう演奏をしている他のミュージシャンの演奏も見たけれど、 違和感を感じずにいられなかった。
結局のところ、私という個人の世界は、反抗精神やヘロインに突き動かされる60年代でもないし、ジャズという文化を解体し、分解してその魂を取り除いてしまったアカデミズムの中でもなかった。

本当に自分が音楽を弾こう、表現しようと思った時に出て来るものが、
理論的な部分と乖離していたというのもある。
正直に言えば、癲癇を持っていたことは少し影響しているかもしれない。

西洋的12音階主義から抜け出した場所で、アメリカ音楽の好きなところをうまく自分なりに表現できるようになればいいと思う。



2012年9月14日金曜日

今日思ったこと

魂で演奏をする音楽家というのは、生と死、そして、時間と空間を跨いで存在する。

録音された形で残った魂の音は、聴く者達に極端な親密さを残す。

それは、実際にフィジカルな形で触れ合ったりだとかした場合の関係性よりも直接的な感覚を聴く者に与えるかもしれない。


とにかく音楽を魂の域で演奏するということは、

物理的な体を有するかどうか、その体がいつの時代のどの場所にあるかも関係なく、

すべての次元にそのバイブレーションを浸透させる生き方なんだ。

2012年9月2日日曜日

草間彌生と60年代

草間彌生展を見てきた。

彼女の作品ももちろんたくさん展示されていたのだけれど、
一番私が見入ったのは、ガラスケースに詰め込まれた彼女の若い頃の写真、新聞等に載せられたアーティクル、そして草間氏自身が送った、または草間氏宛に送られた手紙の数々が陳列された一室だった。

この中に、リチャードニクソンに向けて草間氏が書いた手紙というものがあった。
下記はその手紙の中の一節である。

Let's forget ourselves, dearest Richard, and become one with the Absolute, all together in the altogether. As we soar through the heavens, we'll paint each other with polka dots, lose our egos in timeless eternity, and finally discover the naked truth: You can't eradicate violence by using more violence.

「親愛なるリチャード、我々自身のことなど忘れましょう、そして、すべてと共に、完全なる神との一体化を遂げましょう。天国を飛び回りながら、私達は互いの体に水玉模様を塗り、時間の存在しない永遠の中でエゴを捨て去り、隠しきれない真実というものを発見するのです。その真実とは、暴力撲滅のために更なる暴力を使う事はできない、ということです。」


いかにも、60年代らしい、サイケデリックなイメージをもったロマンチシズムとでも言おうか、私は彼女の書いたこの手紙の文章を気に入った。

そして、60年代に彼女がニューヨークに住み、反戦活動、そして過激なパフォーマンスをしていた時代に、マイルスデイビスはBitches Brewを録音し、ESPがファラオサンダースやアルバートアイラーの音楽を録音していたのか、と思った。
なんという時代だろうか。
 きっと人々はあらゆるものを渇望していたのだろう。
平和への渇望、そして人権への渇望。
繰り返されてきた不平等と戦争に対する嫌悪で渇ききった芸術家達の喉は、
創作という行為によって潤ったに違いない。






人間が誰かの芸術作品に惹かれるというのは、創作者の個性、生き方、そういうものに惹かれるということかもしれない。

ずっとあきらめずに、創作し続けている人というのは、作品に良い意味での一貫性そして個性がある。
その一貫性が表すものが、人が創作において無意識に放っている霊性の表現なのだと思う。



2012年8月26日日曜日

Transfiguration

Alice Coltrane -Transfiguration (1978)-


It has been a while since the last time I listened to Alice Coltran's music.
It is indeed distinctive in it's sound as the music ceaselessly invigorates us to rediscover deeper, broader sense of spirituality that linger in our minds. 

It would remind you of the solemn air of a shrine,
and it would also remind you of a primitive type of fear that a human faces when reading an ancient mythology.
This type of fear is naturally very close in its place to sacredness, and what Alice Coltrane does in her music is to express by sound this mere line between the fear and sacredness, and surely embrace both with her motherly blues to bring us into a shamanic realm.



 I visited the Fushimi-Inari shrine, where they deify white fox, in Kyoto.
As I watched the quiet view of a pond in the shrine site, I witnessed two snakes crawling in the bush, tangling their brown bodies to each other.


In Japanese shintoism, snakes are considered as one of the sacred animals.
This does not surprise us since shintoism is a polytheistic, animisitc religion.
Snakes have been deified as a symbol of Magna Mater, the mother goddess, in polytheisic religion such as in ancient Greece and Egypt.
Along the history, when the weather turned extremely dry in West Asia, there were group of people who began to worship the weather gods, who became the paternal figures in monotheistic religion ("Snakes and the Cross" by Yoshinori Yasuda).
This could also be related to how desert environment may have influenced monotheistic religions and their view of the world.


"Rules" are important in the paternal gods of monotheistic world, while Magna Mater is doubtlessly shamanic "Rule-breaker" in polytheism. The sort of witch-like personality that mother goddesses were entitled to is indeed related to the image that we have of snakes being dreadful and inveigling.

I have received the image of this Magna Mater from Alice Coltrane's music.
Her music holds a type of flexibility that liberates the listener's ears from the rigidity of theoretical rules or formation.
And yet, Coltrane's music does not yield its absolutely unique aesthetic of sound to the "Rules".
I am one person, who listens to Coltrane's music as one artistic abstraction of a yearning.
Yearning for the motherly ground that bears peaceful creation, filled with soils damp and ripe, that would never display, but knows only to play.

2012年8月16日木曜日

変容

Alice Coltrane - Transfiguration (1978)-


久しぶりに聞いた、アリス・コルトレーンの音楽。
他のどんな音楽とも違う、濃密で精神的、宗教的な世界が繰り広げられている。
澄み渡る、寺院の神聖な空気を憶わせる音もあれば、人間の宗教的世界観における、ある種の恐ろしさというものを、神聖と畏れとの境界線ぎりぎりの所で、美とブルースを以てして確実に包括し、我々を圧倒するのだ。




私が京都の伏見稲荷神社を訪れた時、境内の池を眺めていたら、二匹で交わりながら池のほとりの草地を動き回る蛇を見た。

それから私は蛇について読んだり考えたりしている。
神道においては、神社のしめ縄の形からも蛇が神聖な動物とみなされてきたことがわかる。
それは、多神教的である神道においては予見されることなのである。
より古代的、大地に根付いた古代ギリシャ、エジプトなどの多神教宗教においては、大地母神のシンボルとして頻繁に蛇はあがめられてきた。
その昔、西アジアの気候が乾燥化したことにより、大地の豊かさは蛇が象徴する大地母神ではなく、空からの雨の恵みを司る天候神、すなわち、より男性的、一神教的な神であるという思想が生まれる。これは、砂漠文化と一神教のアルマゲドン思想とも関連する。
一神教的な男神の存在において、「掟」というものが重要視されるのに対し、
多神教的な大地母神は極めてシャーマニックなイメージがあり、ある種の「掟破り」とも言える。
そのような性質ゆえに、蛇というシンボルに姿を変えて、おそろしい、人をそそのかす、という悪のイメージを植え付けられてしまったのだろう。


なぜこんな話を書こうかと思ったかというと、
アリス・コルトレーンの音楽から私は幾度もこのシャーマニックな女性の神のイメージを享受してきたのだ。
音楽における理論上の形やルールというものを制限しない柔軟さがそこにはある。
しかし、その「柔軟」は理論上の「掟」、または確固たる「形成」 に、耳に聞こえる概念として負けないのだ。なぜ負けないのかと言うと、きっとそれは極めて洗練された音楽における精神性の主張であり、私(や第三者の誰か)はそれを求めて音楽を聴くからである。



2011年12月11日日曜日

不思議な感覚を抱えている。

満月だからかもしれない。

日本のことを考えている。
アメリカに来て、長い時間が経って、そこに居る自分という感覚が自然だ。
一方で、ニューヨークという都会に住んで、即興音楽をやっている自分、という今の自分のメインの世界を包み込むあらゆる層の自分の化身というか分身の存在について、時に考えることがある。

5年程前に、奄美大島にひとりで旅をしたことがあった。
離島の海辺のコテージに泊まった日は、8月6日だった。
コテージの外からは、波の音がして、月が煌煌と光っており、蟹達が動き回る音が聞こえるようだった。
備え付けの小さなテレビでは、白黒の第二次世界大戦の映像が流れていて、原爆についての話をしていた。
その日、私は、はかりしれない静謐さと共に、おそろしいほどの孤独も感じていた。
その孤独を感じるために私はその旅をしたのだと思う。


また別の時、カリフォルニアのメンドシーノという山の中に暮らしていた時も、
私は孤独を慈しみ、孤独を愛し、孤独をもてあましていた。
私のこころはほとんど少女であった。
その少女の精神は、精霊の存在を感じる取ること、人のこころを汲み取ることに長けていた。
早朝の誰もいない山から谷を見下ろして、薄紫色の雲が波のように空を押し寄せてくるのを眺めた。

この時のことは、まるで前世の物語のように遠い昔に感じる。


我ながら、よく都会にここまで馴染んでいるなぁと感心する。
まあ、何事も慣れではあるし、今やっていることをするには素晴らしい修行の場であるから、ここにいる。

ただ、私は、いま、自分の国のことを考えると、胸がつぶれる思いだ。
どうか物事が少しでもよい方向に向かいますように。

教育が大事だ。
問題提起をできる、自分の頭できちんと考る積極性をみんなが持たなければならない。
みんなが互いを思いやり、気遣える社会であるからこそ、それを生かして、ポジティブで新しい創造をどんどんしていける柔軟さも必要だ。
周りがこう言ってるから、とか、テレビがこう言ってるから、とかは関係ない。
自分で学習して自分の力でその学習した内容を身に付け、それに基づいて行動するのだ。
それはすなわち、教養のある人間になる、ということである。