2015年12月15日火曜日

MATANA ROBERTS "Coin Coin Chapter Three"


マタナ・ロバーツのコイン・コイン・チャプター・スリー:リヴァー・ラン・ディー(2015, Constellation Records)を聞いた。

古めかしく懐かしくも、未来的で真新しくも聞こえるこのアルバムは、あらゆる種類のフィールド・レコーディング、サックスのオーヴァーダブ、マタナ自身のヴォイス、ノイズ音などのコラージュからなるキャンバスに、ところどころ遠くで響く様な聞こえ方でサックスのソロが入り込んでくるという不思議な構成を持っている。
構築された「リズム」という側面がほとんどないことがひとつの特徴と言えるかもしれない。全体の基盤を形作るのはドローンの様な音で、その音はアルバム全体に大きなひとつの織り物のような、または音で描かれた絵画のようなイメージを与えている。
それぞれの音の奥行きと、グレゴリー聖歌のようなコーラスの残響には宗教音楽的なものも感じられた。
一方で、聞けば聞くほどに、これはある種のフォーク・ミュージックなのではないかという思いも浮かび上がる。
マタナのサックス演奏はブルースに満たされているし、ところどころに聞こえる子守唄の様な歌声や静かな話し声を聞いているとトニ・モリスンの物語の世界にトリップしたような感覚さえ覚える。
どこかに、フォーク・テイル(おとぎ話)の風情があるのだ。
もしかすると、この音楽を聞く人は、どこか恐ろしく、覗いてはいけないような気分にさせられる一方で、懐かしく暖かい気持ちにもなるという複雑な二重の感覚を経験するかもしれない。


クリストファー・スタックハウス氏によるマタナ・ロバーツへのインタビュー内容がとても興味深いのでBOMB Magazineの許可を得て、下記に訳文を掲載する。
創作における「純粋さ」の可能性、そしてAACMの潮流を受け継ぐ新世代のシカゴミュージシャンとしてのアプローチ、アメリカ黒人史における社会的変遷とアクティビズムからの影響などについてロバーツは話している。要約した箇所もあるので、気になる方は下記のリンクより英語での原文も読んでみてほしい。

スタックハウス(以下S):会話という手段が使われず、そこに音楽と音のみが存在する状況では、時代を経た物語はどのように表現され得るでしょうか?純粋な音そのものによって、先祖代々の歴史的な経験を包括し、明瞭化してそれを「現在」に持ち込むことは可能だと思いますか?パフォーマンスだけではなくて、音楽全般において、ということです。

ロバーツ(以下R):純粋な音がそういったものを反映できるかどうかはわかりませんが、抽象作品にはできると確信しています。私には歴史というものが様々な点で無意味なものに思えることがあります。私にとって歴史は直線的なものではありません。いつも円環的に繰り返すものです。
このトピックは私が今研究している音と伝統を使った作品制作において注目していることでもあります。
プロジェクト自体は直線的に進むように形作られているけれども、実はそうではない。直線的なやり方であれば、このソロ作品が最初に発表され、チャプター・ワンが次に、そしてチャプター・トゥーがその後にくるはずです。音によって伝達される感情の純粋さそのものが、聞く側を、そしてパフォーマーとしての私自身を明らかに導いてくれます。
音は感情を再生することができ、それにより「違い」と「苦難」のあらゆる境界線を超えることもできます。
音というのは、私の呼ぶ「経験の子宮」というものの中で様々なものを縫い合わせることもできます。私は、作品をライブで仕上げていく、または、ライブにおいて作品を作品足らしめるということに挑戦しています。完全であることは決してないのです。音楽家や、アーティストの参加者、そして目撃者としての参加者、皆をひとつに集めて、この経験の子宮を通過し、その音を見つけるというのは、私にとっては純粋さに立ち戻るということになります。このような種類の音の持つ純粋さが包括する感情が、私の試みの根幹にあるものに人々を引き寄せてくれるのです。

S:シカゴという街はあなたの音楽や性格、エトスに影響を与えていますね。あなたが育ったところは人種分離された街で、さらに興味深いのはその街が商業用の倉庫街としてハイチ系の黒人であったジャン・バプティスト・ドゥサブルによって作られたということです。シカゴは、深い意味でのアフロセントリズム(黒人中心主義)に根付いた沢山の音楽とアートを創りだしてきました。この街は黒人中心主義的な文化の生まれた場所であり、労働における政治運動や革命的思想の中心地でもあります。フレッド・ハンプトン(黒人社会運動家でブラックパンサー党の指導者)も、ここで政治的に成長し、そして暗殺されました。この街にハウス・ミュージックが育ち、ブルースが帰りつきました。あなたにとって、精神的な面で、そしてインテレクチュアルな面でシカゴはどのような影響を与えましたか?
現在もあなたの中にシカゴは存在していますか?

R:私のシカゴでの経験は色々な顔を持っています。私の家系の者の多くは、30年代、そして40年代にシカゴへ移ってきました。私の両親ともにシカゴ生まれですが、父は研究者で、私が10代の時にシカゴに戻る前まではニューヨーク州のイサカや、ノースカロライナのダーハムなどを転々としていました。 シカゴ独特の政治的な気風から出てきたアーティストとしてのプライドを私は持っています。
両親がその当時シカゴで運動が始まっていた黒人ユダヤ教に傾倒していた為に、私はマタナという名前をつけられました。マタナには、ヘブライ語でギフトという意味があります。私の兄もヘブライ語の名前をつけられました。だけど弟だけは、ほんの一時期だけ両親がネーション・オブ・イスラムに傾倒したためにアラビア語の名前を持っています。
私はこの時期の私の家族の物語が好きです。その後、私の両親は少しだけブラック・パンサーとも関わりを持ちました。彼らは若かったのです。母は18歳の時に私を産みました。私は両親がそうやってシカゴのアフリカ系アメリカ人にとっての重要な政治的変遷を渡り歩いていくのを目撃することができたのです。
私の祖父母そして総祖父母も、投票権と共同体の編成のための草の根運動を支援していました。
南部からシカゴへ移動してきた最初の世代として、シカゴのアフリカ系アメリカ人達には一種の自尊心というものが芽生えていました。
去年私はミシシッピ、ルイジアナ、テネシーなどの場所に旅をして、子供の頃に経験し、(シカゴの様な)中西部にはそぐわない様に思えたシニフィアンやコードについて初めて理解することができました。

ー中略ー

S:アミリ・バラカがブラック・アーツ・ムーヴメントに対して定義したところの黒人のラディカルな伝統という枠組みの中にあなたの音楽は含まれると思いますか?

R:どちらとも言えません。何故人々が私とブラック・アーツ・ムーヴメントを結び付けたがるのかに関して理解はできますが、私の作品はアメリカにおいてあらゆる境界線を跳躍するラディカルな経験に対する信条なのです。バラカを始めとする、最初の波に乗った沢山のアーティスト達の創造なしには、私の作品が生まれることはありませんでした。
私は最後の時まで彼らのようなアーティスト達と繋がりを持っていたいですが、それと同時に、私の作品を、ただの黒人歴史月間のためだけのものでなく、ある種の「アメリカらしさ」という感覚として理解して欲しいとも願っています。
私の作品が、黒人歴史月間以外においてとりあげられることがないとすれば、それは私にとっては受け入れがたいことです。アフリカ系アメリカ人のアーティスト達が、彼らの作品の多面性や複雑さを無視され、一箇所に追いやられてしまうというのが私は好きでありません。それはまるでオークションにかけられるようなものです。アメリカ史の早い時期に起きた出来事とだけ自分を関連付けて存在することは不可能です。そういう捉え方には精神的にとても疲れてしまうようになりました。

S:アメリカという国家を、アフリカ系アメリカ人の経験したことと切り離して考えることは不可能だと私は考えています。文化的にも、政治的にも、そして社会的にも、その経験こそがアメリカをひとつに束ね、革新的に現代的社会を作り上げたと思います。
私達の社会はこの黒人的、アフリカン・アメリカン的側面のおかげで、所謂「モダン」という定義を超える何かの最先端に位置することができています。
ここで審美的な話になりますが、文化的な偏見なしに、完全に客観的で、音そのもの以外の何物とも一切の関係を持たない、純粋な音というものは存在すると思いますか?

R: そうですね、おそらく、ある意味では。私はほとんどの自由時間を小さな舟の上で過ごしています。今は近くにある運河に浮かんだ舟に住んでいます。舟に乗っている時は、純粋さに包まれた音を経験することができます。でも仕事中に私が奏でる「純粋な音」というものは、アフリカン・アメリカンの経験との関連性へと繋がっていきます。私にとってこのような純粋さとは、歴史の持つ「痛み」という種類の音です。
その生々しさは、文化という枠組みを越え、人間らしさという枠組みの中へと入っていくのです。
それはあるいは矛盾であるかもしれません。モダニスト的な審美眼というレンズを通す時、そこからアメリカの歴史はどこかに押しやられてしまいます。そういうやり方にはリスペクトがないのではないでしょうか。モダニズムは、過去の信仰や宗教などを理解しようと努めてきました。しかしアメリカの歴史、中でもアフリカン・アメリカンの歴史は、忌々しい宗教的歴史を基盤としています。白人、男性的、父権的な宗教という基盤です。
私は、アメリカにおいて黒人で女性であることに対しての自分の感覚に基づいた感覚的な行動のルールに基づいて活動しています。


ー中略ー

 R:この国でアフリカン・アメリカンの女性の持つ特権と、アフリカン・アメリカンの男性が持つそれの深い溝に関しては話が長くなりそうです。
実際にこのけだものの腹の中に入ってしまわなければ決して気づくことのない溝です。
若い世代の人々がデモを引っ張っているし、最前列にいるのは若いアフリカン・アメリカン女性達です。私が若い時に母や祖母、叔母のサポートを受けて経験した黒人のフェミニスト運動とはわけが違います。 
新しい何かが育まれつつあるのです。私の作品は、盲目な現代社会を生き延びるための杖の様なものです。 何が起こるのかは分からないけれど、ひとつだけ歴史において希望が持てることは、歴史はいつも解決を提示してくれたということです。この国が、否定に基づいて建国されたということをきちんと理解しない限りは、永久的な解決さくなどは何もありませんが。
すぐには変化は訪れないでしょう。ですから、アメリカのアーティスト達は、私達が前に進む責任があるということを思い出させられるような作品を作ることが大事です。 私がアーティストとして選ぶ物事にはこういったことが関係しています。


Bomb Magazine

http://bombmagazine.org/article/742833/matana-roberts
 
The interview with Matana Roberts by Christopher Stackhouse was commissioned by and first published in Bomb Magazine, issue 131, Spring 2015. © Bomb Magazine, New Art Publications, and its Contributors.
クリストファー・スタックハウスによるマタナ・ロバーツへのインタビューはBomb Magazineにより委託され、2015年春の第131号で発行されている。訳文:蓮見令麻)




2015年12月7日月曜日

DUKE ELLINGTON "The Pianist"


デュークの演奏するピアノには、いつでも音楽の向かう道筋に灯る絶対的な光の様なものが存在している。
それは、演奏における「迷いの無さ」という奏者の主体的な感覚としての印象というよりも、音楽を通して何かに「奉仕する」という、ピアノの向こう側に居る対象の存在を浮かび上がらせるようなイメージである。そのピアノの向こう側の対象というのは、彼の音楽に耳を傾けるオーディエンスなのかもしれないし、あるいはデュークの言うところの「たったひとりの神」そのものであるのかもしれない。

このアルバム、"The Pianist"は、1966年のニューヨーク録音と、1970年のラスヴェガスでの録音を合わせたもので、すべてピアノ・トリオの編成での演奏が収録されている。
ニューヨークではJohn Lamb(bass)、Sam Woodyard(drums) 、ラスヴェガスではVictor Gaskin/Paul Kondziela (bass)とRufus Jones(drums)という顔ぶれになっている。
ラスヴェガス録音の部分は、ニューヨークのものよりも若干ピアノの聞こえ方が遠いのが惜しい気がするけれど、そんな思いを掻き消すくらいにデュークの演奏は圧倒的だ。

Duck Amok での厚い和音を重ねていく演奏には確実にオーケストラの残響が聞こえ、
そのブルースとリズムの感覚は「ジャズ」という言葉を辞書で引いたらそのままの音が聞こえてきそうなくらいに断定的だ。
かと思えば、そのすぐ後の Never Stop Remembering Bill の演奏において、デュークは優しさ、エレガンスとロマンチシズムというほとんど別人とも思えるような全く異なった表情を見せている。
それぞれの演目における雰囲気の対比の明瞭さは、悲劇と喜劇の限りなく薄い境界線についてきちんと知っている、才能ある俳優を思わせる。

デュークのピアノ演奏はとてもシンプルだ。
彼ほどに、たった一音で多くを語れるピアニストはそうそういない。
デュークの叩く鍵盤から響くひとつの音には、その一音が持ちうる最大限の「意味合い 」が詰まっている。それはできれば小説にして読みたいくらいに魅力的なストーリーの数々の欠片の様なものだ。
デレック・ジュウェル著「デューク:ポートレイト・オブ・デューク・エリントン」に、こんなデュークの言葉が記されている。
「私はジャズ(の曲)を書いているのではない。黒人の民族音楽を書いているんだ。」
「我々は長い間、ジャズという旗の下で働き、戦ってきたけれど、(ジャズという)言葉そのものには何の意味もない。ジャズという言葉にはある種の謙遜のようなものがある。」と、デュークは1968年にラジオで述べた。
彼はまぎれもなく大衆の持つジャズにおけるブラック・ゲットーのイメージを暗喩していた。

デューク・エリントンほどにエレガンス、知性、才能、そしてカリスマを兼ね備えた音楽家にとっては、ひとつのラベルによって彼自身の音楽がひとくくりにされてしまうのはひどく息苦しいことだったのかもしれない。そう考えると、エリントンという名前が今も「ジャズ」の代名詞の様にうたわれることは皮肉なものである。

ジュウェルは第一章をこのように締めくくっている。

デュークが亡くなった時、 何万人もの人々にとっての灯火が消えた。
彼らは、デュークがステージでいつも声高に宣言したのと同じくらいの愛を、デューク・エリントンという人とその音楽に対して持っていた。キャラバンは止まった。だが、音楽と、彼の残した文化的遺産は継続していく。

 デューク・エリントンのピアノ演奏は、一見すれば、様々なやり方で綺麗にラッピングされ、開けれられるのを待っているギフトボックスの様であるとも思う。
計算されつくしたわかりやすさ、まるで「あなたのために」とでも書いてあるかのように愛と奉仕精神に満ちた曲と演奏の数々。そのエレガンスと器の大きさという包装紙を何枚もめくっていくと、内側には何が隠されているのだろう?そんな私達の愚鈍な疑問を優雅な笑みでかわし続けるデュークの弾く先にはやはりいつも圧倒的な光が照らしだされ、その音楽を聞く私達は彼を通してその光を知ることができるのだ。