Song of Solomon(1977) by Toni Morrison
トニ・モリソンの作品3冊目を読み終えた。
Song of Songs, Song of Solomonというのは、古代イスラエルの王、ソロモンが書いたと言われる恋愛詩である。
そのソロモンの雅歌において描写されるぶどう畑というのは、女性の性の象徴なのだそう。
雅歌の、ざくろやぶどうを始めとした果物、狐、雌羊、子鹿などの官能的なイメージのある動物の描写、
その性的な雰囲気というものが、モリソンの小説にはとても上手く昇華されている。
私が最も興味を引かれたのは、
この物語の中での「ソロモン」という人物が、アフリカから奴隷としてアメリカ大陸に辿りつき、
その土地に定住し、子孫を残していった、
ブラック・ディアスポラであるという点である。
そのソロモンという人物が、「空を飛んだ」というのが、物語の大きな軸になっている。
ただ飛んだのではなく、飛んでいなくなってしまったのである。
残された妻は正気を失い、その息子はインディアンの家に養子にもらわれ、その子孫達というのが、
物語の主人公になっているという壮大な話なのだ。
「その当時、黒人の男性が「空を飛び」いなくなってしまう、ということはよく聞く話だったのだ」
という趣旨のことが物語の中で語られている。
それは、私個人の解釈では、奴隷制度というトラジェディーにより離散を強いられたブラック・ディアスポラの、
昇華しきれなくなった哀しみと苦難に人間の尊厳が重ねられた思いの民話化であると感じる。
空を飛ぶという行為の、「自由」さ、神秘性とそのイメージは彼らにとってもはやRevelation(天啓)と感じられた可能性もある。
「ソロモンが飛んだ」という民話は、物語の中で、やがて土地の子供の遊び歌となり、不可解な歌詞とともに歌い継がれていくのだ。
土地、文化、人の関わりによって紡がれる、
こんな物語が、世界中にたくさんあるのだろうという想像は、
なんともいえずロマンティックな気分を喚起する。
この題名からインスパイアされた曲を書いた。
どうしてもブルース的なイメージになるのだけれど、そこに少しアフリカの民族音楽的要素を入れた。
それも、子供達のあそびうたのような雰囲気の。
その「飛ぶ」という神秘的なイメージも入れたかった。
もうひとつこの物語によって私が考えたことは、ひとりの人間の歴史と名前についてである。
この世に生まれて、名前をもらい、ニックネームをもらい、その名前で毎日人に呼ばれ、私達は生きる。
そして、私達の前には気が遠くなりそうなくらいの人々が関わっているのだ。
そこになにかしらのストーリーが、ずっと受け継がれている、と思うと、
それも果てしなくロマンティックではないか。
2012年3月7日水曜日
Sula
Sula by Toni Morrison (1973)
今まで読んだものの中で、最も衝撃的で美しい小説だった。
私達が生きていく、その壮大な物語は、必ずしもいつもハッピーエンドであったりすべてが簡潔では決してない。
人間というのは、感情を堀りさげるほどに、自らのうちに鬱蒼と森のようにいかにも自然な形で存在している狂気の濃淡を、苦く、甘く、味わうことになるだろう。
その、甘さと苦さ、という味覚のジレンマ、それがもたらす恍惚感のようなものを、読んだ気がした。
物語自体を客観的に表現すると、とても苦いのだ。
だけれども、そこに絶対的に甘さが存在しているのは、時間の密度、愛情の密度、人間性の密度、感覚の密度、
それらすべてが飽和するほどに濃いからなのだと思う。
スラという主人公は、所謂現代的な魔女として描かれている。
世間の常識を畏れない女。
子供の持つ恐ろしさ、純粋さ、を同時にもてあまして大人になった女。
自分としては大した意図のない行動が、なぜかいつも劇的な結末をもたらしてしまう女。
彼女の哀しみを思った。
ひとり、意図せずして、ベッドで孤独の死を呑み込んだひとつの魂を。
彼女の死を喜び安堵した、村の者達の安易で悪意のない排他的精神を。
それでも、スラは甘く苦く、色彩のあくまでも濃い人生を送ったことを。
今まで読んだものの中で、最も衝撃的で美しい小説だった。
私達が生きていく、その壮大な物語は、必ずしもいつもハッピーエンドであったりすべてが簡潔では決してない。
人間というのは、感情を堀りさげるほどに、自らのうちに鬱蒼と森のようにいかにも自然な形で存在している狂気の濃淡を、苦く、甘く、味わうことになるだろう。
その、甘さと苦さ、という味覚のジレンマ、それがもたらす恍惚感のようなものを、読んだ気がした。
物語自体を客観的に表現すると、とても苦いのだ。
だけれども、そこに絶対的に甘さが存在しているのは、時間の密度、愛情の密度、人間性の密度、感覚の密度、
それらすべてが飽和するほどに濃いからなのだと思う。
スラという主人公は、所謂現代的な魔女として描かれている。
世間の常識を畏れない女。
子供の持つ恐ろしさ、純粋さ、を同時にもてあまして大人になった女。
自分としては大した意図のない行動が、なぜかいつも劇的な結末をもたらしてしまう女。
彼女の哀しみを思った。
ひとり、意図せずして、ベッドで孤独の死を呑み込んだひとつの魂を。
彼女の死を喜び安堵した、村の者達の安易で悪意のない排他的精神を。
それでも、スラは甘く苦く、色彩のあくまでも濃い人生を送ったことを。
2012年1月9日月曜日
Kafka on the shore
海辺のカフカを読了し考える。
村上春樹独特の世界観を持って彼がこの作品の中に書き込んだものは、
時に「バタフライ・エフェクト」、時に「聖なる一体」そしてまたある時には「存在」とか「神」と呼ばれるものであるように思える。
少なくとも私にとっては、そういった部分のディスクリプションの緻密さが非常に印象を残した小説である。
私達は普段の生活の中で、どれだけ起こりうる事象の範囲を想定(または限定)しているだろうか。
そして、そうすることによって、あらゆる事象のあらゆる側面をどれほど見落としているのだろうか。
様々な場面で、「聖なる一体」が動いている、と感じる時がある。
すべてが一体であり、一体であるがゆえに、個別である。
別個としての意識があるからこそ、一体を認識できる。
現代社会において、人間がその一体性ということを再認識するために、
社会におけるミスティシズムの再生が必要となる。
それはすなわち、失われたシャーマニズムである。
土着文化から分離してしまった現代の社会において、そのシャーマニズムを体現できるのは音楽家、舞踏家が主であるだろう。
‥‥ 神秘性が無視された世界ほどつまらない世界はないのだ。
村上春樹はこのようなことを意識して海辺のカフカを書いただろうか?
「入り口の石」というコンセプトなどは、とても神道的な、まるで天の岩戸の話のような響きである。
考えてみれば日本の神話などは「自然」というモチーフにあくまでも基づいたミスティシズムに溢れている。
そしてそこに、性があり、踊りがあり、音楽がある。
すべて、「一体」と繋がるツール。
静謐でありながら、饒舌である。
森林の文化、そのものであると思う。
村上春樹独特の世界観を持って彼がこの作品の中に書き込んだものは、
時に「バタフライ・エフェクト」、時に「聖なる一体」そしてまたある時には「存在」とか「神」と呼ばれるものであるように思える。
少なくとも私にとっては、そういった部分のディスクリプションの緻密さが非常に印象を残した小説である。
私達は普段の生活の中で、どれだけ起こりうる事象の範囲を想定(または限定)しているだろうか。
そして、そうすることによって、あらゆる事象のあらゆる側面をどれほど見落としているのだろうか。
様々な場面で、「聖なる一体」が動いている、と感じる時がある。
すべてが一体であり、一体であるがゆえに、個別である。
別個としての意識があるからこそ、一体を認識できる。
現代社会において、人間がその一体性ということを再認識するために、
社会におけるミスティシズムの再生が必要となる。
それはすなわち、失われたシャーマニズムである。
土着文化から分離してしまった現代の社会において、そのシャーマニズムを体現できるのは音楽家、舞踏家が主であるだろう。
‥‥ 神秘性が無視された世界ほどつまらない世界はないのだ。
村上春樹はこのようなことを意識して海辺のカフカを書いただろうか?
「入り口の石」というコンセプトなどは、とても神道的な、まるで天の岩戸の話のような響きである。
考えてみれば日本の神話などは「自然」というモチーフにあくまでも基づいたミスティシズムに溢れている。
そしてそこに、性があり、踊りがあり、音楽がある。
すべて、「一体」と繋がるツール。
静謐でありながら、饒舌である。
森林の文化、そのものであると思う。
2011年10月27日木曜日
Baldwin
ジェームス・ボールドウィンの著作を二冊。
Giovanni's Room と If Beale Street Could Talk。
人間と人間の、細かな感情の交わり合い。
情景が、手に取る様に伝わってくるような表現の仕方。
すごくリアルなのだ。
例えば地下鉄の電車に乗り込んで座った時に、目の前に座っているひとが居る。
そのひとのことは、何も知らないし、ただ脳に情報として入ってくるのは、彼/彼女の風貌のみである。
通常の感覚であれば、そのひとの人生に起こっていることに敢えて興味は持たないし、
ましてそのひとの感情のバリエーションなどには考えも及ばないものだ。
だけれど、
ボールドウィンを読んだ後は、その、他人と自分の世界を隔てるシールドの様なものを自分のマインドがいとも簡単に通り抜けてしまう感覚がある。
淡々と送られていく人生の中で、
感情を掻き乱されるという経験をひとはどれくらいするだろうか。
例えば、愛する人がある日ジェイルに行ってしまったら。
例えば、自分の、ぬるいものに包み隠された冷酷さに突然気づいてしまったら。
私は、幸せなことに、哀しみを生み出すたぐいの感情の揺れにはしばらく会っていない。
ただ、素晴らしい音楽を聞く時の高揚感は、知っている。
哀しみの陣痛も、悦びの高揚も、私達の内側から生まれる場所は、同じところのような気がする。
そして、その場所に存在するものは、時間と空間を超越する種類のものなのだと思う。
Giovanni's Room と If Beale Street Could Talk。
人間と人間の、細かな感情の交わり合い。
情景が、手に取る様に伝わってくるような表現の仕方。
すごくリアルなのだ。
例えば地下鉄の電車に乗り込んで座った時に、目の前に座っているひとが居る。
そのひとのことは、何も知らないし、ただ脳に情報として入ってくるのは、彼/彼女の風貌のみである。
通常の感覚であれば、そのひとの人生に起こっていることに敢えて興味は持たないし、
ましてそのひとの感情のバリエーションなどには考えも及ばないものだ。
だけれど、
ボールドウィンを読んだ後は、その、他人と自分の世界を隔てるシールドの様なものを自分のマインドがいとも簡単に通り抜けてしまう感覚がある。
淡々と送られていく人生の中で、
感情を掻き乱されるという経験をひとはどれくらいするだろうか。
例えば、愛する人がある日ジェイルに行ってしまったら。
例えば、自分の、ぬるいものに包み隠された冷酷さに突然気づいてしまったら。
私は、幸せなことに、哀しみを生み出すたぐいの感情の揺れにはしばらく会っていない。
ただ、素晴らしい音楽を聞く時の高揚感は、知っている。
哀しみの陣痛も、悦びの高揚も、私達の内側から生まれる場所は、同じところのような気がする。
そして、その場所に存在するものは、時間と空間を超越する種類のものなのだと思う。
2011年7月4日月曜日
la melancolina e la sensualita
倍音が好き。
アイヌの口琴、ムックリやアボリジナル音楽、ディジリドゥ、それからガムランの音。
キーボードの音にエフェクトをかけた、ひずんだ感じの音も良い。
イメージで言うと、カラフルな砂嵐。
模様が混ざっていく感じ。有機的な感じ。
そういう音楽を創りたいなあ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
菊池成孔著の「憂鬱と官能を教えた学校」を読み始めた。
私は最近もっぱらピアノに向かうとバッハの平均律を何曲か2時間程弾き、
その後、キーボードで色々な音とエフェクトを試している。
菊池氏の本の中でも話が出て来る、ヨーロッパ的な音階に関する概念と、それ以前の、人間の音楽に対する感覚。
この本を読んで、何かものすごく腑に落ちたの。
私はクラシックピアノから入り、ジャズを大学で学んだ。
それは12音階という概念に基づいた勉強。
大学では、ほぼバークリーメソッドに忠実に従ったハーモニーの勉強をした。
その頃聞いていたのは、ハードボップ、ビーボップを中心とする、所謂ストレートアヘッドなジャズ。
それから数年後、
ケネディーセンターで演奏した時の映像を見た友人が、私がアリスコルトレーンを好きなのかと聞いた。
そこから、新しいものが生まれて、坂を転がり落ちる球体のように、色々なものを付着させながら、
その物体は大きくなってきている。
友人が私の中にアリスコルトレーンの様な要素を見つけたとすれば、そういうエレメントはすでに私の中にあったんだと思う。
だから、今、これまでになかった、精神=音楽のフィット感がある。
ニューヨークに来ていなかったら、こういう音楽的成長はできなかったかもしれない。
12音階のヨーロッパ的アプローチでピアノを弾くことと、
その概念をいかに打破するか、ということを今は同時にやっている感じだ。
二週間後のライブでは、今までにやったことのない新しいことをやろうと思っている。
それと、Alice Coltrane、 Mary Lou Williamsの曲をフィーチャーする、というアイディアは決まっている。
なんとか構成として合うのであれば、John Cageの曲も弾きたい。
何日か前に、友人の友人に、「どんなスタイルのピアノを弾くの?」と聞かれて、
言葉に詰まった自分が居た。
もう、即答でジャズって言えない。
でも、多分それはすごく良いことな気がする。
アイヌの口琴、ムックリやアボリジナル音楽、ディジリドゥ、それからガムランの音。
キーボードの音にエフェクトをかけた、ひずんだ感じの音も良い。
イメージで言うと、カラフルな砂嵐。
模様が混ざっていく感じ。有機的な感じ。
そういう音楽を創りたいなあ。
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菊池成孔著の「憂鬱と官能を教えた学校」を読み始めた。
私は最近もっぱらピアノに向かうとバッハの平均律を何曲か2時間程弾き、
その後、キーボードで色々な音とエフェクトを試している。
菊池氏の本の中でも話が出て来る、ヨーロッパ的な音階に関する概念と、それ以前の、人間の音楽に対する感覚。
この本を読んで、何かものすごく腑に落ちたの。
私はクラシックピアノから入り、ジャズを大学で学んだ。
それは12音階という概念に基づいた勉強。
大学では、ほぼバークリーメソッドに忠実に従ったハーモニーの勉強をした。
その頃聞いていたのは、ハードボップ、ビーボップを中心とする、所謂ストレートアヘッドなジャズ。
それから数年後、
ケネディーセンターで演奏した時の映像を見た友人が、私がアリスコルトレーンを好きなのかと聞いた。
そこから、新しいものが生まれて、坂を転がり落ちる球体のように、色々なものを付着させながら、
その物体は大きくなってきている。
友人が私の中にアリスコルトレーンの様な要素を見つけたとすれば、そういうエレメントはすでに私の中にあったんだと思う。
だから、今、これまでになかった、精神=音楽のフィット感がある。
ニューヨークに来ていなかったら、こういう音楽的成長はできなかったかもしれない。
12音階のヨーロッパ的アプローチでピアノを弾くことと、
その概念をいかに打破するか、ということを今は同時にやっている感じだ。
二週間後のライブでは、今までにやったことのない新しいことをやろうと思っている。
それと、Alice Coltrane、 Mary Lou Williamsの曲をフィーチャーする、というアイディアは決まっている。
なんとか構成として合うのであれば、John Cageの曲も弾きたい。
何日か前に、友人の友人に、「どんなスタイルのピアノを弾くの?」と聞かれて、
言葉に詰まった自分が居た。
もう、即答でジャズって言えない。
でも、多分それはすごく良いことな気がする。
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