2014年10月31日金曜日

"LOVE AND GHOSTS" FARMERS BY NATURE





例えば、真夏の湿った空気の中で鴨川の土手に座って青空を見あげ、汗をかきつつヘッドフォンで聴くのもいい。
または、しんしんと雪の降る寒い夜に山小屋の中で暖炉にあたたまりながら大きなスピーカーで聴くのもきっといい。

すべてコレクティブ・インプロビゼーションに基づいたFARMERS BY NATUREの音楽。
この録音、"LOVE AND GHOSTS"は2011年にフランスのフェスティバルで演奏されたライブ録音だ。


衝動が音を突き動かし、経験と感覚が統制を取る。

ピアニスト、クレイグ・テイボーンの弾くピアノは都会的な響き方をする。
都会のエレガンス、思考、レジスタンスと制御、多面的構造、枯渇することのない創造性。

ウィリアム・パーカーの太いベース音はテイボーンの弾くピアノの音の間をうねるように通りぬけ、まるで大きな織り物を縫い上げる糸の様に音と音を繋いでいく。

そこに加わるジェラルド・クリーヴァーのドラム、パーカッションの自然なサウンドが、一気に音楽をまとまりのあるオーセンティックなものに仕上げる。彼の叩くドラムの音は音響的にも本当に素晴らしく、
このグループの音楽性を確固たるものにしている、と私は思う。

その音楽の構成は、大きな部分が『感触』に基づいているのではないだろうか。
仕立屋があらゆる布を手にとって、その感触を元に様々な服を仕上げていくように、
音楽家達も、音のあらゆる感触を、記憶と感覚に刻みこみ、または瞬間的に創造しながら表現し、
その感触のバリエーションのコントラストを音楽の構成にしていく。
それは多くの場合、楽譜にはしにくいものである。
二次元的に、メロディーはこれで、コードはこうで、リズムはこうなる、という決め事をせずに、
音の響き方を立体的に吟味しながら、作り上げていく類のものだから。

文字が好きな私はどうしてもファーマーズ・バイ・ネイチャーという名前の意味を考えてしまったりする。
「生来、農民である」というのは、
自ら畑を耕し、自らの食べ物を育てるように生まれた、ということだ。
つまり、自ら音楽的アイディアの畑を耕して、自らの創造性を持って芸術への空腹を満たしていく、というところだろうか。
紛れもなく、3人はそのようなテーマにふさわしい音楽の作り方をしていると思う。
農民というのは、本来、とても自由な職業なのだ。
これくらいの大きさで、こんな甘さで、こんな酸っぱさのりんごを食べたい、と想像した時に、じゃあ、作ってみようじゃないか、といって実際にりんごを形にする。
そういう自由さと行動力を持った、「農民」でありたいと願うのは、優れた芸術家にとって、
きっとあたりまえのことなのかもしれない。





2014年10月25日土曜日

DUKE ELLINGTON'S CONCERT OF SACRED MUSIC (1966)



デューク・エリントンを持って「自分の達成した仕事の中で一番大事な作品」と言わしめたこのコンサート録音は、65年に初めてサンフランシスコで上演され、翌年の66年のニューヨーク公演で録音された。
まず、音が良い。ビッグバンドに合唱隊もつけた大編成のコンサートでも、天井の高い大きな教会での録音には臨場感とまとまり、適度な響き具合がある。
音楽的には少し実験的なところが感じられる。
合唱隊のところどころユーモラスな感じもする歌の入り方や、リズミカルなポエトリー・リーディング、タップダンスなどが織り込まれていて、単純に音楽として聴くよりも、ひとつの壮大なテーマを持った舞台として鑑賞する方がしっくりくるものかもしれない
そして、その舞台のテーマというのは、聖書と信仰なのだ。
そういったテーマとアルバムタイトルだけを見ると、このレコードはものすごく重厚なスピリチュアル音楽であってもおかしくはない。
だけどそこはデューク。テンポ良く話の進む物語の様に、少し驚く様なエンターテイメント性も織り込み、同時にジャズの伝統を駆使して見事なオーケストレーションとアレンジメントを繰り広げている。

イントロでのハリー・カーニーのバリトンの音から、ジミー・ハミルトンのクラリネット・ソロへの流れは美しく、いかにデューク・エリントン楽団がデュークの作曲・編曲の才能だけでなく、人選の質の良さの賜物であるかを実感させられる。
A面で4曲中3曲を歌い上げているのが、エスター・マロウというシンガーで、彼女はデュークに才能を認められ、この舞台でデビューしたのだそうだ。マハリア・ジャクソンをとても尊敬していた様で、
ジャズ・シンガーというよりも、生粋のゴスペル出身という歌いまわし。
バンドのジャズの演奏と、エスター・マロウのあまりジャズっぽくない歌い方のコントラストが新鮮だ。

ここで、ライナー・ノーツのデューク自身の言葉を引用したい。

コミュニケーションというのは、大勢の人々を困惑させるものである。
それはとてつもなく難しいと同時に、とてつもなく単純明快である。
人間の持つ恐れの中で、私達が一番恐れているものとは、実に私達自身ではないだろうか。
世の中全体との直接的なコミュニケーションの中で、もっとも個人的なレベルでの報復、つまり理解されないということを深く恐れているのだ。
それでも、神を信じた者達が誠実さを求めて恐れを投げ打ち、理解されようがされまいが意思疎通を試みた時に、いつも奇跡は起きる。
人間は「叡智」というものの恩恵を部分的に享受しているものの、すべての叡智を持つのはただひとりだけである。
神は全体を理解している。
ひとつの言語を喋る者もいれば、複数の言語を喋る者もいる。
人間は皆、それぞれの言語で祈り、そのすべての祈りを神は理解している。
昔、ある男がジャグリングをしながら神に祈りを捧げたという。
彼は世界一のジャグラーという訳ではなかったが、彼にとってはジャグリングは一番の特技だった。
神は男のジャグリングと祈りをそのまま受け入れた。
あるドラマーやサックス奏者の技術がどれほどのものであったとしても、もしその楽器を演奏することが彼らの特技で、深い信仰心に由来するものであれば、その演奏が楽器の種類によって神に否定されるということはない。その楽器が例えトムトムであっても、ただのパイプであってもだ。
悩み事がある時、人は祈りを捧げながら呻き、泣くだろう。
神の恩恵があって初めて自分の人生が存在することに気づいた時に、人は歓喜し、歌い、踊るだろう。
この演目では、言葉の存在しない様々な声明が聴かれるが、6つのトーンからなるフレーズには意味が込められている。それは、聖書の最初の4文字、In the beggining Godというフレーズの中にある6つの発声音のシンボルなのだ。この曲は何度も、違うやり方でそのシンボルを繰り返している。

私の持つ印象では、ジャズという音楽は宗教との深い関わりを持っている様には思えない。
地理、時代的背景を考えて、ここではキリスト教のことになるけれど、教義の様なものを全面に押し出したジャズ・レコードというのはあまり聞いたことがない。
その時代のアメリカでは、ジャズという音楽が生まれ始めた頃、「そんな野蛮な音楽を聴くな」と両親が子供に告げることもあったくらい、「危険」な音楽だと認識されていたこともあった様だから、教会で演奏されるゴスペル・ミュージックとストリートや酒場で演奏されたジャズの間には明確な一線が引かれていたのかもしれない。それに加えて、ジャズという音楽そのものが論理的、芸術的深みを増していくにつれて、ミュージシャン達は音楽そのものを信仰するようになった、とも考えられる。

そういう印象もあって、デューク・エリントンのこの音楽的試みは何かとても新鮮な輝きを持って私に迫ってきた。
何か深い精神性を包括するような、ぐちゃぐちゃ、どろどろ、したものを想像していた私には、
拍子抜けするくらい、デュークの"Sacred Music"、『聖なる音楽』は、あっけらかんとしているように感じた。
これだったら、アルバートアイラーの音楽の方が随分「宗教的」「スピリチュアル」だと思う。

とにもかくにも、この作品は、ジャズにすっかり慣れてきつつあった60年代のアメリカの大衆に、大変高い評価を持って受け入れられた様だ。
デューク・エリントンの作品には、ものすごく高度なエンターテイメント性と、ものすごく高度な芸術性が奇跡的なバランスで共存している。これはすごいことだと思う。

私はキリスト教についてほとんど何も知らないけれど、
デュークが、キリスト教の「神」という存在を通じて話している内容は、よく理解できる気がする。
理解されないかもしれない、という恐れを乗り越えて表現し続ける、というのは芸術の本質だと私も思うのだ。理解されないかもしれないが、自分にはそれを表現したいという自然な欲求がある。
その欲求に誠実に、表現する、ということが、宗教的な意味での「祈り」と同義であるということだ。

コメディの神聖さについてもジャグリングの話を通じて彼は話しているが、
もしかしたら、デューク・エリントンは、音楽家としての自分がエンターテイナーであり、ある意味での道化師である、ということを考えていたのかもしれない。