2010年8月5日木曜日

きつねの夢

昨晩、アメノウズメについて、調べていました。

日本最古の芸能の神であり、

女性性、そのセクシュアリティーを臆面無く出し切った神。

半裸で踊る、その姿に八百万の神々が笑い出しても、そのまま踊り続け、

天照大神を岩戸から引き出したのが彼女である。


アメノウズメの、シャーマン的ともコメディアン的ともとれるその芸能の精神にとても鼓舞されている自分がいる。

不思議なことに、
その晩に見た夢が、白いものをまとった狐と自分が戦っている夢だった。

今調べてみたら、
狐は女神を意味するらしい。。
そして、アメノウズメ、は道祖神として、昔から稲荷のそばに奉られてきた。

狐が女神を意味するのならば、
私は、アメノウズメに憧れることによって自らの女性性とその可能性に陶酔すると同時に、
その女性性を否定し、自らの性そのものと戦おうとしている気持ちがあるということかもしれない。

2010年7月22日木曜日

Everytime We Say Goodbye

Everytime We Say Goodbye..

というバラードを、明日弾こうと思います。

大事な人が、昨晩、旅立ちました。

子供の頃から、とてもとても、数えきれないくらいお世話になりました。

明るくて、カラッとした性格の彼女が大好きでした。

子供達と一緒にいる時の、嬉しそうな笑顔を良く覚えています。



何をどう言葉に表現して、誰に伝えればよいのか、はっきり言ってわからない、未熟者の私です。

明日、ひとつ私にとって大事な演奏の機会があるので、

彼女への感謝と愛の気持ちを込めて演奏してみたいと思います。


Thank you.

I love you.

and See you Again.

2010年7月13日火曜日

芸術

其れが何かしらの舞踏であれ、

何かしらの球技であれ、

またはもてなしの美であれ、

もしくは本人によってのみ賞賛される類の才であれ、

ただひとつのことに専心し、そのことに秀でるということは、

芸術という、非常に魅力的な、宗教的または精神的な道である。

2010年6月23日水曜日

迷子を楽しむ

ここのところ、リアルな夢ばかり見続けているせいか、
この世界でのできごとの方が夢のように感じる。

何かが足りない。

その足りない何かは、きっと純粋で敏感な精神。

水のように繊細で、柔軟で、それでいてワイルドな精神。

その精神を養う時間を、持てていないように感じる。
言ってみれば、その精神なくしては、音楽家としての道を胸を張っては進めない。



今日、話をした知り合いのギタリストに、

「今、(音楽的に)迷子になっています。」と言ったら

帰り際の彼に、「迷子でいる時間を楽しみなさい。」と言われて、

心の底から嬉しかった。


落ち込んでいて、自分の才能や将来に自信がなくなっている時、

「いや、君は才能があるよ」とか「大丈夫だよ」という言葉を言われても身に染みなかったりするのに、

「迷子を楽しみなさい」に、底知れない包容力と、愛を感じた、初夏の今日でした。

2010年5月31日月曜日

宣誓

なにがあっても

なにがあっても

なにがあっても

夢をあきらめない。

2010年5月28日金曜日

天使が飛べるわけ

今夜は、Ahmad Jamalの素晴らしき演奏を、目で、肌で、耳で、私の体と魂全身で聞くことができた。

もう、なんというか、神の領域の演奏だった。
美しくて、ファンキーで、先鋭的で、オリジナルで、リズミカルで、
彼は、、「すべて」だった。

音楽というものの素晴らしさを、語り尽くすような演奏。

初心に戻らされた。
彼の演奏には、いつもいつも、こんな気持ちにさせられる。

ひとつのことを極めることに、近道なんてない。
ただ、専心すること。
それだけ。
人の評価には、踊らされずに。期待もせずに。


帰り道、地下鉄で電車を待っていた。

プラットホームの柱によりかかって、本をぱらぱら読んでいた時、
ふと、誰か、知っている人がいる、と思って、振り返った。

そうしたら、本当に、知り合いのミュージシャンがいた。

彼は、憧れのギタリストで、最近、よく偶然会う。

こんなに頻繁に偶然会うということは、縁があるということだと今日直観した。

最高の笑顔の、謙虚な彼。


神様がくれた最高の夜。


楽しいぜ。

Angels can fly because they take themselves lightly.

という格言を今日読んで、なるほどな〜と思ったの。

自分自身を、良質のユーモアのセンスで軽んじる、だから、飛べるほどに心が軽いのよ。って、

素晴らしいアイディアだと思うの。

2010年5月25日火曜日

馬に乗っている夢を見た。

草原で、小さめの馬に乗って駆け回っていた。

馬の首の後ろの、固い骨格と、毛並みの手触りをとても鮮明に覚えている。



どう生きたいか。そのためにはどうすればいいか、、毎日考えている。

きっと灯台下暗し、

すべては感じ方次第。

2010年5月4日火曜日

borderless people

ひとつずっと時間がかかっていた曲を書き終わった。

この曲のテーマは、境界線のない人々。

端的に言うと、これから先、境界線のない人々、ボーダレスピープルの時代だと感じている。
様々な観念的なもの、システム、権威、そういうものは崩壊していっている。
柔軟で、そして可能な限りinclusive、つまり包括的、多様でいることで、どんどん、私達はEVOLVEしていける。

EVOLUTION > REVOLUTION 

私達は常に進化していくものであって、その進化の過程においても今はとても重要な時期だというのは私にでもわかる。

REVOLUTIONというのは、REBELLIONの意味を含んでいる故、体制や組織、政府に対する抵抗を暗喩する。
私達が今体験していることは、そういう「抵抗」の意図を全く含まないものであると思う。

自然な流れとしての進化。「抵抗」しなくても、起こすことのできる変化。

それは、水のように、変幻自在に、何にでも柔軟に適応できる者達が最初に経験していくものかもしれない。
自分自身が何人だとか、どこに住んでいるとか、どういう肩書きであるとか、そういう風に自分自身にレベルを切り貼りして、見えない檻に自分を閉じ込めて、ふぅ、安心。そういう時代は終わった。


自由。

自由を手に入れることは、ある種の怖れを乗り越えること。。。

存在から与えられた、創造性というフォースを最大限に活用し、そして無から有を創り出し、有を無にすることを厭わない(なぜなら有と無は循環しているというか同時存在するはずであるから)、
そういう姿勢を持ちたい。


そういう円環的世界観、うまく表現できているといい。。。


少しずつだけれど、焦らないでいることに慣れてきている。
幸せを感じる。
クリエイトしていることがとても幸せ。

2010年4月20日火曜日

たくらみ

"Stop categorizing music"と、静かに言われた。

その頃は、私は50年代60年代の、所謂ハードボップと言われるジャズばかり聞いていて、
そういうものを弾きたいと思っていた。
Rebel Music。 反抗精神と社会的プロパガンダ。
あの、炎のような、狂った、ブルースとヘロインに育てられた音楽。

最近になって、後期のマイルスとか、Experimental, Alternative, Free Jazz, そういう風にdescribeされる音楽をよく聞くようになって、音楽の境界線の曖昧さについてよくわかるようになったような気がする。

Do you wanna be a 'Jazz Musician' or a 'Musician'?"と聞かれたのだった。

前の私だったらたぶん、間違いなくジャズミュージシャンって答えていたけど、
今は迷わず後者を選ぶ。

それは、私が音楽を弾く至高の目的は、「自由」だから。。。

ジャズミュージシャンになりたければ、そこである程度、キャリアを積む為のカリキュラムは決まっているんだ。
例えば、何万曲ある、スタンダードを覚えること、
頭の中で曲を転調してすぐに弾けること、
そしてジャムセッションに行く事?

でも、それはあまりにも何十年も繰り返されてきたクリシェであって、
形どおりに何かを再現することは、例えその再現にいくらかのオリジナリティー、自分らしさやクリエイティブさがあったとしても、完全に自分の世界を表現することはできないと思う。
自分の世界を何もないところから創り出すことは、自分の作曲または即興しているものを最大限の完成度の高さをもって演奏することでしかできないものだと私は思う。


そこで、ある程度、道を選ぶことになる。
私は、スタンダードの曲をただ綺麗に演奏するミュージシャンになりたいかと自問したら、絶対そうじゃないの。
もちろんスタンダードを弾くのはすごく好きだし楽しいのだけれど、
直観が私に伝えているのは、自分の奥底からでてくるものを伝達するのだということ。

私の持っている本当のアーティストリーの概念は、完全オリジナルであることだ。。。。


でも、作曲することがどれくらい骨の折れる作業かも、知りかけている。
ただ、書いたものは、ずっと愛おしい。
タイトルとコンセプトだけ、もう頭の中に存在している曲もいくつかある。
それが私のBrain Children。
ただ、今回は、この曲達をすべて、自分が満足できる完成度に仕上げて、曲の全体像がきちんとクリアになってから、表に出そうと思う。
それが今年中にできたらいい。

2010年4月9日金曜日

音楽と学校

音楽家達が学校に行って音楽を学ぶ必要性がもう無くなってきているように思う。

理論や歴史を学ぶことに価値はあるかもしれないけれど、
音楽学校では肝心の一番大切なところを教えてくれない。
それはクリエイティブであること。
音楽、芸術の新しい形を模索して発表していくことによって、人類の意識に貢献する。
人類の歴史の中で、時代背景や環境に影響されて、自分が芸術を模倣ではなく、真に創造することで、足跡を残す。statementを残す。


耳に簡単なポップスもそれはそれで素晴らしい価値があるけれど、
私達が「進化」する過程において、今まで聞いたこともない音楽を耳にすることで、閉ざされていた魂の扉のひとつが開かれることはあると思う。
そういう風に、人の感性に挑戦的なものは、アルケミストの音楽と言えるかもしれない。


私は子供に学校でピアノを教えている。
教本通りに教えることに教師の私がとまどっている。。
今はある程度のルールがある中で、自由に弾かせてあげることしかできない。
将来、子供達にimprovisationを教えることは、私のもうひとつの夢。
でも私自身がまだimprovisationについてよくわかっていない今の段階では準備ができていない。
でもいつか、是非やってみたい。

音楽家達は音楽の道を志して音大へと進学するけれども、
そこで理論などを学んでいざ卒業してしまうと、実際に音楽というものがいかに生業となりにくいかということに気づく。
自分としては、音楽で大学の学位をとっているという自負があるにもかかわらず、
実際の世界に出てみると、学位では演奏の仕事は取っていけない。
インターネットで音楽を買える時代になって、ますます、それは難しくなっている。
そこで彼らはアイデンティティークライシスに陥る。
音楽家としての自分。学位では食べていけない。
教師になってもいい。でもそれが必ずしも音楽家になる夢と並行するとは限らない。

私は、、、
食べていけるだけのお金があればいい。それと、欲しい楽器を買うお金。。
ただ、もうやりたくない音楽は弾かないことにした。
やりたい音楽を弾く。自分の魂から出てくる音楽を弾く。
それで、お金じゃない何かを、手に入れるために。魂のために。