2014年7月31日木曜日

「方向の変化」以上のものを 〜つづき〜

このインタビューを読んで、私は穏やかな感嘆を覚えた。
ヴィジョン・フェスティバルでのマシュー・シップ・トリオの演奏は、まさにシップ自身がインタビューで述べている内容通りの表情を私達に見せてくれていたからだ。
ピアノ、ドラム、ベースという伝統的なピアノトリオの構成。
今までの彼の作品よりも、もっと「馴染みやすい」、「ジャズ的」サウンド。
きっと彼は、とても頭の冴えた、そして優しい人なのだろうと、つい私などは想像してしまうのだけれど、
感性の細やかな人だからこそ、オーディエンスへの橋渡し、という感覚を音楽的実験の中に取り入れたりできるのかもしれない。
しかも、マシュー・シップはそれを、自身の音楽的理想を犠牲にせず、限りなく繊細なバランスを保って成し遂げている。
彼の少し以前の演奏は、もうすこし荒いというか、どすのきいたフリージャズピアノという感じがあった。そこから、今のもう少しオーディエンスにとっては入り込みやすい演奏への試みをする課程において、どういう心境の変化があったのだろう?

フリーのピアノトリオ演奏で、私がすぐに思いつくのは、セシル・テイラー、そして菊地雅章のふたりだ。
セシル・テイラー:フィール・トリオの混沌と舞踏、 または菊地雅章:テザード・ムーンの静謐さとエレガンスとも違う、独自のスタイルをマシュー・シップ・トリオは持っている。
トリオのメンバーそれぞれが独立した、個々の音の表情を演出する。
それでいて、そのバランスや一体感は研ぎ澄まされていた。
演奏の中で、静寂や激情といった表情の変化は豊富にあるのだけれど、そこで決して遠くへ行き過ぎない、統制を保っているのだ。
大人のする恋愛ってこういう感じだろうか。
特に印象に残っているのだが、 ドラマー、ウィット・ディッキーが、大きな体の背筋を伸ばし、 目を瞑って、ただスネアドラムだけを長い間叩き続ける様子はまるでどこかの僧侶が一心に瞑想をしながら木魚をたたく姿の様であった。
それくらい、内省的な音楽だ、という印象を得たということだが、
内省的であると同時に、音のエネルギーは確実に聞く側に差し出されている。

インタビューの中で、彼はこう言っている。
「ひどい文化、社会の状態とのバランスをとるためにも、音楽家達は、例え自分達が稼げなくても、
この種類の音楽(主にフリージャズのことだろう)を継続していかなくてはならない」と。

世の中の人々の多くの眼が利益とコンフォート(居心地の良さ)に向いている中で、
純粋に芸術への専心、という活動をする芸術家、音楽家の存在は、
大げさではなく、そういった世の中のバランスをとるはずだと私も思う。

少し前に書いたものの中で、自己決定権という話をしたが、これはもちろん音楽に対する姿勢に関しても同じことが言える。
演奏する側は、利益が例えでなくとも、自分がその作品を信じている限り、魂を投じて演奏すればいいのだし、演奏を聞く側も、他者からの評判を頼らずに、自分の感性と判断のみを信じて鑑賞するしないを決定する、そういうスタンスがこの種の音楽においては求められる。
そしてそういう姿勢こそ、「大衆」というひと括りの枠が価値基準になっている現在の世界で、私達が今見直していかなければいけないことだと思うのだ。


最後に、与謝野晶子の、「愛、理性及び勇気」より以下を引用したい。

ほんとうに芸術を愛そうとすると、世間の評判なんかに拘泥して居る余裕はありません。
寧ろ世間の評判なんか害こそあれ何にもならないという気が起こります。
自分のまだ知らずに居る 漠然とした大きな生命を ー真実をー 一寸よりは二寸、一尺よりは二尺と云う風に深く掘り下げて覗かせてくれる芸術ほど好い芸術だと思います。
そう云う芸術を余計な仲介者無しに自分自身で発見しようと心掛けることが芸術を鑑賞する唯一の態度でしょう。
鑑賞とは、芸術の奥に宇宙の真実を透感し体験することです。
芸術家の特異な心意気や巧妙な言い回しやに感服することでは無い、断じて無いと思います。
真実は無限、無量無際です。如何なる芸術家でも真実の全部を窺うことは出来ません。
その一角を誇張して、その一角に繋がった奥行を或程度まで深く浮き出させることが芸術の使命です。





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