2014年3月4日火曜日

日本芸能史に見る音楽と平和(其の一)

日本の音楽に興味を持ってからというもの、
後白河法皇の編纂した『梁塵秘抄』について色々と読み物をしてきた。

この『梁塵秘抄』に書き記された日本中世の流行歌、今様や古曲を謡ったのは、傀儡女(くぐつめ)、遊女(あそびめ)と呼ばれるその時代の女性達だ。
なんでも、今様狂いの後白河法皇は、津々浦々から傀儡女や遊女を呼び寄せて、今様を謡わせ、それを夜を徹して聞いたのだそうだ。
音楽の素晴らしさに心を奪われ、今様を追求し、自らも研究し、歌い手達と歌沙汰をし、
今様の本までしたためてしまったという後白河法王の音楽漬けの生活の様子を思い浮かべる度に、
時代を乗り越えて深く共感の意を覚えると共に、芸術を愛する人間の本質というのは何百年の時差があっても変わらないのだなと、笑ってしまう。



以下Wikipediaより抜粋。

 傀儡子(くぐつ し、かいらい し)とは、当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。
平安時代(9世紀)にはすでに存在し、それ以前からも連綿と続いていたとされる。当初は、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。
寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護され、猿楽に昇華し、操り人形は人形浄瑠璃となり、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎となっていった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。



 また、大江匡房 の傀儡子記においては、このような記述もある。

一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らずして、故に縣官にも属さず。皆土民に非じ、自ら浪人と限ず。上は王公を知らずして、傍の牧宰も怕れず。課役の無きを以て一生の樂と為す。夜は則ち百神を祭り、鼓舞喧嘩を以て福助を祈る。

(以下訳:脇田晴子著『女性芸能の源流』より)
 彼らは一畝の田も耕さないし、一枝の桑の葉も摘まない。したがって、県官(ここでは国司・郡司)に所属しない。土民ではなくて、浪人と同じである。上は王公も知らない、牧宰も恐れない。課税がないので、一生の生活がしやすい。夜は百神を祭って、鼓舞喧嘩して、以て福助を祈っている。



面白いのは、傀儡集団というのが、ジプシー的な存在であり、封建制社会からはじきだされ、自由になった物たちで、そこに
『芸能』という要素、
『「呪術」を介在した売春』という要素、
そして百神=百太夫=道祖神=『夫婦和合の神 信仰』という要素があることだ。


長い間考えていて何かがあるのにしっくりこなかったことが、
すべてなんとなく意味をなしたのは、縄文文化に意識が向いてからだった。



つづく

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