2014年1月22日水曜日

セシル・テイラーとメアリー・ルー・ウィリアムス

メアリー・ルー・ウィリアムスとセシル・テイラーが共演したライブ録音、Embracedというアルバムについて少し感想を書きたいと思う。


メアリー・ルー・ウィリアムスには私は多大な影響を受けているのだけれど、
それは当時本当に数えるほどしかいなかった女性ミュージシャンとして数々の偉業をおさめたことに加え、彼女の弾くピアノのオーセンティックな音色、そして彼女がジャズの歴史とともに進化し、ブギウギからフリーまで、あらゆる形の音楽を信念を持って演奏したことに帰する。

ただ、イメージとしてはメアリー・ルーの素晴らしさはやはり、ブルースのフィーリングにつきると思う。




シンプルで、女性的な柔らかさを表現しつつ、ブルースのフィーリング、ソウルフルなフィーリングを素晴らしく力強くまた表現する。まさに彼女にしかない音を持っていた、アメリカのジャズピアノの潮流の母体とでも呼ばれてしかるべき人だと私は思っている。


一方で、京都賞受賞が記憶に新しいセシル・テイラーはいうまでもなくフリージャズの先駆者の様な人で、言ってみればその時代の先端を突っ走ってきたミュージシャン。
エッジーで、そのハーモニーや音楽的構造を理解しようとする評論家がいれば、ただ、「Listen to THIS!!」と体当たりしてくるような裸の音楽を弾く。




この二人が共演することになった経過がメアリー・ルー・ウィリアムスによってライナーノーツに書かれている。
60年代に互いの演奏を見て、同じように衝撃を受け、
後に お互いがそれぞれのインスピレーションとなっていることを知り、一緒に演奏することを決めたのだそうだ。

テイラーの縦横無尽な音の羅列の中にこだまの様に聞こえるウィリアムスのオールドスクールなジャズやブルースの言葉達。
ふたりが共鳴したのも、わかる気がした。暖かさと情熱、それがすべてを繋げている。
2台のピアノと四本の手が奏でるだけの無数の音があるにも関わらず、不思議とすべての音が共生しているのだ。
これは是非、生でコンサートを鑑賞したかったと思った。
ジャズの壮大な歴史とそれを取り巻く嵐の様な様々な経験と感情を一斉に耳から受け取る、もはや儀式的な一枚、と私は思う。

「ジャズ」という言葉について、ウィリアムスはこう言っている。

『JAZZという差別的な呼び方が、このような素晴らしく精神的な音楽、魂にとっての癒しとなる音楽、につけられた。それぞれの年代のミュージシャン達が、この名前を変えようと努力したわ。20年代には私たちは自分達自身のことを「シンコペイター」と呼んだし、30年代にはこの音楽を「スイング」と呼んで、40年代には、「バップ」とか、「モダン・ミュージック」と呼んだ。徐々に私は呼び名のことにはこだわらずにただシンプルに音楽を弾こうと思うようになったの。
結局は、「芸術」という傘の下の、ひとつの表現の形なのだから。
私たちの魂にとって良いものなのだから、この音楽は、あらゆる場所で演奏され、聞かれるべき。学校、大学、ストリート、コンサートホールにクラブ、教会、ラジオ、テレビやレコード、そしてビリヤード場で。人々の手に届くところで音楽を弾ける場所ならばどこでも。』



今私たちがJAZZと呼んでいる音楽はなんだろう?
その精神は果たしてどこに、どのようにして存在しているだろう?
 私はまたしてもFrank LoweやAlbert Aylerが創り出した世界を、憧れ、こころの中で探し求めている。



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