2014年3月6日木曜日

日本芸能史に見る音楽と平和(其の三)

さて、

傀儡子の信仰した、百神、すなわち『夫婦和合の神信仰』についての話をすすめたい。

私がなんとなく腑に落ちないと思ったことがひとつあった。
傀儡女つまり傀儡子集団の女達が、ある種の形で春をひさいでいたのであれば、 なぜこの集団が夫婦和合の神、百神を信仰したのか、ということである。
現代人であれば誰だって、自分の配偶者が他人と体を交えるのを拒むだろう。
つまり、信仰と行いが相反しているのだ。

しかし、仮定として、傀儡子がなんらかの形で縄文文化を受け継いできた存在であると考えるとなんと辻褄が合うのだ。


以下「縄文と古代文明を探求しよう」より引用
 
縄文時代は総偶婚によって集団内の男女が分け隔てなく交わり合い、そこでは集団を破壊し、充足を妨げる自我を“完全に”封印したことが特筆されます。いわば、縄文の女とは集団と共にある事で安心も安定も充足も得る事ができたのです。

(中略)

 しかし、渡来民が伝えた生産手法、稲作技術だけは互いの利益に適い、やがて大きな集団を作った一派が水争いを制圧し、クニを形成します。そういった中で弥生時代の最大の課題は渡来民と縄文人が争わずに一つになる事でした。
 これらが融合する為に用いられたのが婚姻でしたが、そこでは「誓約」という概念が作られ、その誓約を導く存在が巫女だったのです。

 日本民族の精神の根底にある「誓約(うけい)」という概念。 相手を否定し征服するのではなく、相手を受け入れ和合する事でその安寧を保ってきた日本人のこの精神は、略奪闘争から隔絶された島国ゆえに醸成された独特の文化です。一 つの国家内に様々な部族・民族が存在する状況は世界的に見て珍しい事では有りませんが、和合と同化、共同性をもって統合を成し遂げてきた日本のこの考え方 はきわめて独特、かつ人類としての普遍性を持っています。「性」を中心に据えた力に頼らない集団統合、この発想の柔軟性には見るべきものがあると思いま す。



争いを避ける為に、性を通して、血の繋がりを通して、民族の和合を得る。
それは、「受け入れる」という女性性の持つ最大の力だと思う。
まるで太陽と北風の話みたいだ。
体を他者と交えるというのは、究極の平和の象徴となりえるということ。
 その和合の精神が、平和を追求する精神が、宗教的儀式となり、
もっと抽象的な形で人々に伝えていける芸能となり、
集団から集団へと伝わっていくなかで変化しつつ、
古代から中世、そして現代へと受け渡されてきたのかもしれない。

これで、アメノウズメが日本芸能の源流の神であり、
彼女を中心とした物語に、
「性」=「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」と、
「死」=「天照大神が天の岩戸に『隠れ』世界が暗闇に包まれるという、もがりと死を想起させる状況」と、
「神と笑ひゑらぐ」= 「感情の昂ぶり、神懸りをするためのトランスに入る状況」
という象徴的なイメージがくくりつけられていることをより深く理解できるようになった。




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