2014年8月9日土曜日

音楽と信仰 

悲しいニュースばかり左から右へと流れていく毎日の中で、
私はいつも、芸術という鳥をこころの中の枝にとめていたい。
歌、詩、色彩、旋律、それらはいつも、重く沈んだ精神に羽をつけてくれる。
争いを生み出し続ける強欲、民族・同胞意識、宗教、そういうもの達から芸術は解放されている。

エマホイ・ツェゲ・マリアム・ゴブルーという、エチオピアのピアニストについての話をしたい。

彼女は、60年代に、エチオピークのシリーズからソロピアノ録音を発表している。
エチオピアの音階も充分に聞こえるその音楽からはラグタイムの欠片のようなものも聞こえてくるし、
またブルースも聞こえてくる。
その丸みを帯びたタッチは、メアリー・ルー・ウィリアムスのタッチによく似ている。
だけど、エマホイの演奏には、メアリー・ルーの弾く様なユーモラスで悲しいという味のブルースは存在しておらず、代わりに、アフリカの広い大地を思わせる様な明るい響きが音楽全体を形作っている、というイメージを受ける。




彼女は、1923年生まれ、現在91歳。イスラエルに住む。
80年代にイスラエルに移住してから、エルサレムにあるエチオピア正教の修道院で、日々祈り、
ピアノに向かう生活を送ってきた。
宗教に携わる者として、表に出る華やかな音楽家、という道を選択することのなかった彼女は、
演奏の場を公に探すことをせず、日々、ただ神に捧げるためだけにピアノを弾いた。
そんな時、つい数年前に、イスラエルに住む若者が、エチオピークのアルバムを聞き感銘を受け、
同時にエマホイがエルサレムに住んでいることを知る。
彼らは修道院を訪れ、エマホイの了承を得て、彼女の書いた膨大な枚数の譜面をかき集め、
ついにエマホイの作曲集として出版した。
さらに感銘を受けた人々は、エマホイの作曲した曲を若い音楽家達で演奏するコンサートを催し、
大成功をおさめ、エマホイは一躍、90歳にしてイスラエルの「時の人」となったのだ。


エマホイが生まれたのはアジス・アベバ。
父は政治家で、母はハイレ・セラシエ皇帝の二番目の妻、メネン皇后の家系の出であった。
エマホイは6歳の時にスイスに渡り、教育を受け、バイオリンを始めた。
1933年に、10歳で一端エチオピアに戻るものの、すぐに第二次エチオピア戦争が始まる。
ムッソリーニ政権のイタリアがエチオピアに軍事侵攻し、イタリアの独裁的な占領軍に反抗的な立場をとったエマホイの家族は捕虜としてイタリアのアシナラという島に送られてしまう。
戦争が終わり、1944年に家族はアフリカへ帰還。
彼女はエジプトへ移り、アレクサンダー・コントロウィッツというポーランド移民のバイオリニストに師事し、音楽をさらに勉強した。この頃はまだ、バイオリンを主に弾いていたようだ。
のちにエマホイはコントロウィッツと共にエチオピアに戻り、エマホイ自身はエチオピア外務省のアシスタントとして働き、コントロウィッツはハイレ・セラシエ皇帝じきじきに使命され、宮廷音楽隊の音楽監督に就任する。

その後、エマホイはロンドンで音楽の勉強をする奨学金を与えられるも、エチオピアの権威は彼女の出国を許さなかった。
希望を断たれ、深いショックを受けたエマホイは何日間も絶食し、死の淵を彷徨った後に、神との聖餐を望んだ。
エマホイは、エチオピア北部、岩窟教会群のあるウォロ州へと移り、修道院での暮らしを始め、
21歳の時に修道女となった。のちにゴンダルという古都にも住んだようだ。
ところで、このゴンダルという場所は、タナ湖の北部にあり、ベータ・イスラエルと呼ばれるエチオピアのユダヤ人集団が住んだ場所だ。少し調べれば分かることだが、エチオピアの皇室はソロモン王の系譜であることを主張しており、紀元前、古代ユダヤ教を宗教としていたが、4世紀頃にキリスト教に改宗している。9世紀にユダヤ教がほぼ完全に淘汰されるまで、ふたつの宗教は競り合いながら共存していた。イスラエルと同じように、ゴンダルという場所でも、異なる宗教を持った人間がすぐ隣同士で、神に祈りを捧げてきた。


1960年代、エマホイは修道女として神に献身する一方で、 熱心にエチオピアの宗教音楽を学び、作曲もした。
この時期に、裸足で教会の外に寝泊まりしながら教会に勉強をしにきていた子供達を多く見たエマホイは、自分の音楽でこの子供達の教育の手助けをしたいという思いに駆られる。
結果、ハイレ・セラシエ皇帝の援助により、1967年にデビュー・レコードを出し、その売上をすべて子供達の教育のために寄付したという。
これは丁度、ハイレ・セラシエ皇帝がジャマイカを訪れ、ジャーという生き神としてセラシエ皇帝を崇めるラスタファリアン達に熱烈な歓迎を受けた、次の年のことだった。

1970年代になると、エチオピアはオイルショックや飢饉による混乱に見まわれ、
兵士達によるクーデターで皇帝は捉えられ、退位後、殺害された。
1974年政府は独裁体制のメンギスツの支配下となる。
メンギスツは彼の政策に反抗するものを次々と捉え、投獄、処刑していった。
この混乱の中で、60、70年代に活躍したEthiopiquesを始めとするエチオピアジャズは急激に衰退していった。
自由な即興演奏を主体とするジャズという音楽をメンギスツが危険要素とみなし、音楽家達を攻撃しはじめたために、身の危険を感じた音楽家達が外国へ亡命していった結果のことであった。

このような政治的混乱の最中、独裁者メンギスツのマルクス主義的政策が自身の宗教的献身を侵害すると考えたエマホイは、母の死後、 1984年にエルサレムへ逃亡。
今まで、エルサレムのエチオピア正教会に修道女として暮らしてきた。

この1984年というのは、モーセ作戦というイスラエル政府の帰還法に基づき、のべ八千人ほどのベータ・イスラエル、つまりエチオピアのユダヤ人がエチオピアからイスラエルに移送され、帰化を許された年である。現代版の出エジプトだ。詳細は定かではないが、エマホイ自身も、このモーセ作戦によりイスラエルに移住したという可能性がある。

ピアニストの修道女。エチオピアからイスラエルへ。
何という波乱万丈な人生だろうか。
これだけ様々な事が周囲で起きる中で、彼女は「信仰と音楽」という一点だけを見つめて、
91年間生きてきたのである。
現在も侵略と戦争に隣り合わせで生きる彼女は何を思い、日々を過ごしているだろうか。

パレスチナは、イスラエルは、エチオピアは、オキナワは、「誰の」土地だろう?
所有するのは、侵略するのは、占領するのは誰のためだろう?
わたしはこの国の人間で、あの子はあちらの国の人間で?
何がそれを決めるんだろう?
生まれた国、肌の色、宗教、言葉、血筋?
自己防衛のために、わたしは武器を持って、あちらも武器を持って、みんな武器を持って安心?

人間の本質は決してそんなところにはないと思う。


エマホイの歩いてきた人生に思いを馳せ、
平和の意味をいま一度考える。






参考資料:
http://wemezekir.blogspot.com/2012/12/happy-birthday-emahoy.html
http://www.theguardian.com/world/2013/aug/18/ethiopian-nun-music-holy-enrapture
http://www.ethiopianstories.com/component/content/article/37-editors-choice/79-emahoy-tsegue-mariam-gebrou
http://www.tadias.com/07/08/2008/historic-concert-by-ethiopian-nun-pianist-composer-in-dc/





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