2013年3月28日木曜日

ブルースの心理

今回のコンサートでは、日本の唄を題材にしてフリーの即興をするという試みをした。

私はもともと音楽を勉強しに渡米し、アメリカの音楽を聴き、そのアメリカの音楽をアカデミックに分析した 観点からの音楽教育を受けた。
必死にジャズまたはアメリカ音楽というものを理解しようと切磋琢磨してきたものだから、
その盲目的な献身の副産物として、少なからず私の音楽についての理解はアメリセントリックなものになってしまっていたように思う。

アメリカの音楽は確かに素晴らしく魅力的で、
民族移動の歴史と文化的、あるいは社会的摩擦によって育てられたその創造的モーメンタムが作り出してきた蒼々たる音楽の系図は圧倒的な存在感を持つ。

その中でも私はいつもブルースという音楽的側面に心を揺さぶられるのが常で、
何度も聴いてきたのはメアリー・ルー・ウィリアムスであり、アルバート・アイラー だった。両者ともにジャズミュージシャンであるけれども、彼らのサウンドはとても土着的であり、それと同時にディアスポラ的洗練を持っている。それは純粋芸術の様なもので、大衆芸術的なアプローチをする類のジャズとはまったく違っているように思う。


でも、同じものは弾けない。


 フリーインプロビゼーションが素晴らしいのは、形式がないこと。
形が決まっていない、ルールがない、ということは、先代の奏者達の影にとらわれることがない。ただ、例えば私がメアリー・ルーのピアノがとても好きで、そのエレメントを自分の音楽の中に表現したいと思えば、音楽理論を超えたもっと空間的な部分でそれは表現できると思う。

今回演奏したインプロビゼーションのテーマにした曲は「島原の子守唄」と「りんご追分」。
興味をひかれたのはこの二つの曲の起源をたどっていくと、両方に娼婦の存在があることだ。島原の子守唄はモチーフのなかに「からゆきさん」という異国の娼館で働いた娘達のことが描かれているし、「追分」という民謡が伝わった背景にも、「飯盛り女」と呼ばれた私娼達が居たようだ。

 ビリーホリデイのことが頭に浮かぶけれど、、最悪な状況に置かれたとき人はブルースを唄った。ブルースは理論的にはメジャーコードの上でマイナースケールを弾くものであるけど、その二元的な性質がどこか、前にも書いたリチャード・プライヤーのことをビル・コズビーがあらわした、「悲劇と喜劇の間の限りなく薄い線」という言葉を思い出させる。

ブルースについて、それからブルースの中の女性性について、もっと深く考えてみることにする。



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