2012年8月16日木曜日

変容

Alice Coltrane - Transfiguration (1978)-


久しぶりに聞いた、アリス・コルトレーンの音楽。
他のどんな音楽とも違う、濃密で精神的、宗教的な世界が繰り広げられている。
澄み渡る、寺院の神聖な空気を憶わせる音もあれば、人間の宗教的世界観における、ある種の恐ろしさというものを、神聖と畏れとの境界線ぎりぎりの所で、美とブルースを以てして確実に包括し、我々を圧倒するのだ。




私が京都の伏見稲荷神社を訪れた時、境内の池を眺めていたら、二匹で交わりながら池のほとりの草地を動き回る蛇を見た。

それから私は蛇について読んだり考えたりしている。
神道においては、神社のしめ縄の形からも蛇が神聖な動物とみなされてきたことがわかる。
それは、多神教的である神道においては予見されることなのである。
より古代的、大地に根付いた古代ギリシャ、エジプトなどの多神教宗教においては、大地母神のシンボルとして頻繁に蛇はあがめられてきた。
その昔、西アジアの気候が乾燥化したことにより、大地の豊かさは蛇が象徴する大地母神ではなく、空からの雨の恵みを司る天候神、すなわち、より男性的、一神教的な神であるという思想が生まれる。これは、砂漠文化と一神教のアルマゲドン思想とも関連する。
一神教的な男神の存在において、「掟」というものが重要視されるのに対し、
多神教的な大地母神は極めてシャーマニックなイメージがあり、ある種の「掟破り」とも言える。
そのような性質ゆえに、蛇というシンボルに姿を変えて、おそろしい、人をそそのかす、という悪のイメージを植え付けられてしまったのだろう。


なぜこんな話を書こうかと思ったかというと、
アリス・コルトレーンの音楽から私は幾度もこのシャーマニックな女性の神のイメージを享受してきたのだ。
音楽における理論上の形やルールというものを制限しない柔軟さがそこにはある。
しかし、その「柔軟」は理論上の「掟」、または確固たる「形成」 に、耳に聞こえる概念として負けないのだ。なぜ負けないのかと言うと、きっとそれは極めて洗練された音楽における精神性の主張であり、私(や第三者の誰か)はそれを求めて音楽を聴くからである。



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