2015年12月15日火曜日

MATANA ROBERTS "Coin Coin Chapter Three"


マタナ・ロバーツのコイン・コイン・チャプター・スリー:リヴァー・ラン・ディー(2015, Constellation Records)を聞いた。

古めかしく懐かしくも、未来的で真新しくも聞こえるこのアルバムは、あらゆる種類のフィールド・レコーディング、サックスのオーヴァーダブ、マタナ自身のヴォイス、ノイズ音などのコラージュからなるキャンバスに、ところどころ遠くで響く様な聞こえ方でサックスのソロが入り込んでくるという不思議な構成を持っている。
構築された「リズム」という側面がほとんどないことがひとつの特徴と言えるかもしれない。全体の基盤を形作るのはドローンの様な音で、その音はアルバム全体に大きなひとつの織り物のような、または音で描かれた絵画のようなイメージを与えている。
それぞれの音の奥行きと、グレゴリー聖歌のようなコーラスの残響には宗教音楽的なものも感じられた。
一方で、聞けば聞くほどに、これはある種のフォーク・ミュージックなのではないかという思いも浮かび上がる。
マタナのサックス演奏はブルースに満たされているし、ところどころに聞こえる子守唄の様な歌声や静かな話し声を聞いているとトニ・モリスンの物語の世界にトリップしたような感覚さえ覚える。
どこかに、フォーク・テイル(おとぎ話)の風情があるのだ。
もしかすると、この音楽を聞く人は、どこか恐ろしく、覗いてはいけないような気分にさせられる一方で、懐かしく暖かい気持ちにもなるという複雑な二重の感覚を経験するかもしれない。


クリストファー・スタックハウス氏によるマタナ・ロバーツへのインタビュー内容がとても興味深いのでBOMB Magazineの許可を得て、下記に訳文を掲載する。
創作における「純粋さ」の可能性、そしてAACMの潮流を受け継ぐ新世代のシカゴミュージシャンとしてのアプローチ、アメリカ黒人史における社会的変遷とアクティビズムからの影響などについてロバーツは話している。要約した箇所もあるので、気になる方は下記のリンクより英語での原文も読んでみてほしい。

スタックハウス(以下S):会話という手段が使われず、そこに音楽と音のみが存在する状況では、時代を経た物語はどのように表現され得るでしょうか?純粋な音そのものによって、先祖代々の歴史的な経験を包括し、明瞭化してそれを「現在」に持ち込むことは可能だと思いますか?パフォーマンスだけではなくて、音楽全般において、ということです。

ロバーツ(以下R):純粋な音がそういったものを反映できるかどうかはわかりませんが、抽象作品にはできると確信しています。私には歴史というものが様々な点で無意味なものに思えることがあります。私にとって歴史は直線的なものではありません。いつも円環的に繰り返すものです。
このトピックは私が今研究している音と伝統を使った作品制作において注目していることでもあります。
プロジェクト自体は直線的に進むように形作られているけれども、実はそうではない。直線的なやり方であれば、このソロ作品が最初に発表され、チャプター・ワンが次に、そしてチャプター・トゥーがその後にくるはずです。音によって伝達される感情の純粋さそのものが、聞く側を、そしてパフォーマーとしての私自身を明らかに導いてくれます。
音は感情を再生することができ、それにより「違い」と「苦難」のあらゆる境界線を超えることもできます。
音というのは、私の呼ぶ「経験の子宮」というものの中で様々なものを縫い合わせることもできます。私は、作品をライブで仕上げていく、または、ライブにおいて作品を作品足らしめるということに挑戦しています。完全であることは決してないのです。音楽家や、アーティストの参加者、そして目撃者としての参加者、皆をひとつに集めて、この経験の子宮を通過し、その音を見つけるというのは、私にとっては純粋さに立ち戻るということになります。このような種類の音の持つ純粋さが包括する感情が、私の試みの根幹にあるものに人々を引き寄せてくれるのです。

S:シカゴという街はあなたの音楽や性格、エトスに影響を与えていますね。あなたが育ったところは人種分離された街で、さらに興味深いのはその街が商業用の倉庫街としてハイチ系の黒人であったジャン・バプティスト・ドゥサブルによって作られたということです。シカゴは、深い意味でのアフロセントリズム(黒人中心主義)に根付いた沢山の音楽とアートを創りだしてきました。この街は黒人中心主義的な文化の生まれた場所であり、労働における政治運動や革命的思想の中心地でもあります。フレッド・ハンプトン(黒人社会運動家でブラックパンサー党の指導者)も、ここで政治的に成長し、そして暗殺されました。この街にハウス・ミュージックが育ち、ブルースが帰りつきました。あなたにとって、精神的な面で、そしてインテレクチュアルな面でシカゴはどのような影響を与えましたか?
現在もあなたの中にシカゴは存在していますか?

R:私のシカゴでの経験は色々な顔を持っています。私の家系の者の多くは、30年代、そして40年代にシカゴへ移ってきました。私の両親ともにシカゴ生まれですが、父は研究者で、私が10代の時にシカゴに戻る前まではニューヨーク州のイサカや、ノースカロライナのダーハムなどを転々としていました。 シカゴ独特の政治的な気風から出てきたアーティストとしてのプライドを私は持っています。
両親がその当時シカゴで運動が始まっていた黒人ユダヤ教に傾倒していた為に、私はマタナという名前をつけられました。マタナには、ヘブライ語でギフトという意味があります。私の兄もヘブライ語の名前をつけられました。だけど弟だけは、ほんの一時期だけ両親がネーション・オブ・イスラムに傾倒したためにアラビア語の名前を持っています。
私はこの時期の私の家族の物語が好きです。その後、私の両親は少しだけブラック・パンサーとも関わりを持ちました。彼らは若かったのです。母は18歳の時に私を産みました。私は両親がそうやってシカゴのアフリカ系アメリカ人にとっての重要な政治的変遷を渡り歩いていくのを目撃することができたのです。
私の祖父母そして総祖父母も、投票権と共同体の編成のための草の根運動を支援していました。
南部からシカゴへ移動してきた最初の世代として、シカゴのアフリカ系アメリカ人達には一種の自尊心というものが芽生えていました。
去年私はミシシッピ、ルイジアナ、テネシーなどの場所に旅をして、子供の頃に経験し、(シカゴの様な)中西部にはそぐわない様に思えたシニフィアンやコードについて初めて理解することができました。

ー中略ー

S:アミリ・バラカがブラック・アーツ・ムーヴメントに対して定義したところの黒人のラディカルな伝統という枠組みの中にあなたの音楽は含まれると思いますか?

R:どちらとも言えません。何故人々が私とブラック・アーツ・ムーヴメントを結び付けたがるのかに関して理解はできますが、私の作品はアメリカにおいてあらゆる境界線を跳躍するラディカルな経験に対する信条なのです。バラカを始めとする、最初の波に乗った沢山のアーティスト達の創造なしには、私の作品が生まれることはありませんでした。
私は最後の時まで彼らのようなアーティスト達と繋がりを持っていたいですが、それと同時に、私の作品を、ただの黒人歴史月間のためだけのものでなく、ある種の「アメリカらしさ」という感覚として理解して欲しいとも願っています。
私の作品が、黒人歴史月間以外においてとりあげられることがないとすれば、それは私にとっては受け入れがたいことです。アフリカ系アメリカ人のアーティスト達が、彼らの作品の多面性や複雑さを無視され、一箇所に追いやられてしまうというのが私は好きでありません。それはまるでオークションにかけられるようなものです。アメリカ史の早い時期に起きた出来事とだけ自分を関連付けて存在することは不可能です。そういう捉え方には精神的にとても疲れてしまうようになりました。

S:アメリカという国家を、アフリカ系アメリカ人の経験したことと切り離して考えることは不可能だと私は考えています。文化的にも、政治的にも、そして社会的にも、その経験こそがアメリカをひとつに束ね、革新的に現代的社会を作り上げたと思います。
私達の社会はこの黒人的、アフリカン・アメリカン的側面のおかげで、所謂「モダン」という定義を超える何かの最先端に位置することができています。
ここで審美的な話になりますが、文化的な偏見なしに、完全に客観的で、音そのもの以外の何物とも一切の関係を持たない、純粋な音というものは存在すると思いますか?

R: そうですね、おそらく、ある意味では。私はほとんどの自由時間を小さな舟の上で過ごしています。今は近くにある運河に浮かんだ舟に住んでいます。舟に乗っている時は、純粋さに包まれた音を経験することができます。でも仕事中に私が奏でる「純粋な音」というものは、アフリカン・アメリカンの経験との関連性へと繋がっていきます。私にとってこのような純粋さとは、歴史の持つ「痛み」という種類の音です。
その生々しさは、文化という枠組みを越え、人間らしさという枠組みの中へと入っていくのです。
それはあるいは矛盾であるかもしれません。モダニスト的な審美眼というレンズを通す時、そこからアメリカの歴史はどこかに押しやられてしまいます。そういうやり方にはリスペクトがないのではないでしょうか。モダニズムは、過去の信仰や宗教などを理解しようと努めてきました。しかしアメリカの歴史、中でもアフリカン・アメリカンの歴史は、忌々しい宗教的歴史を基盤としています。白人、男性的、父権的な宗教という基盤です。
私は、アメリカにおいて黒人で女性であることに対しての自分の感覚に基づいた感覚的な行動のルールに基づいて活動しています。


ー中略ー

 R:この国でアフリカン・アメリカンの女性の持つ特権と、アフリカン・アメリカンの男性が持つそれの深い溝に関しては話が長くなりそうです。
実際にこのけだものの腹の中に入ってしまわなければ決して気づくことのない溝です。
若い世代の人々がデモを引っ張っているし、最前列にいるのは若いアフリカン・アメリカン女性達です。私が若い時に母や祖母、叔母のサポートを受けて経験した黒人のフェミニスト運動とはわけが違います。 
新しい何かが育まれつつあるのです。私の作品は、盲目な現代社会を生き延びるための杖の様なものです。 何が起こるのかは分からないけれど、ひとつだけ歴史において希望が持てることは、歴史はいつも解決を提示してくれたということです。この国が、否定に基づいて建国されたということをきちんと理解しない限りは、永久的な解決さくなどは何もありませんが。
すぐには変化は訪れないでしょう。ですから、アメリカのアーティスト達は、私達が前に進む責任があるということを思い出させられるような作品を作ることが大事です。 私がアーティストとして選ぶ物事にはこういったことが関係しています。


Bomb Magazine

http://bombmagazine.org/article/742833/matana-roberts
 
The interview with Matana Roberts by Christopher Stackhouse was commissioned by and first published in Bomb Magazine, issue 131, Spring 2015. © Bomb Magazine, New Art Publications, and its Contributors.
クリストファー・スタックハウスによるマタナ・ロバーツへのインタビューはBomb Magazineにより委託され、2015年春の第131号で発行されている。訳文:蓮見令麻)




2015年12月7日月曜日

DUKE ELLINGTON "The Pianist"


デュークの演奏するピアノには、いつでも音楽の向かう道筋に灯る絶対的な光の様なものが存在している。
それは、演奏における「迷いの無さ」という奏者の主体的な感覚としての印象というよりも、音楽を通して何かに「奉仕する」という、ピアノの向こう側に居る対象の存在を浮かび上がらせるようなイメージである。そのピアノの向こう側の対象というのは、彼の音楽に耳を傾けるオーディエンスなのかもしれないし、あるいはデュークの言うところの「たったひとりの神」そのものであるのかもしれない。

このアルバム、"The Pianist"は、1966年のニューヨーク録音と、1970年のラスヴェガスでの録音を合わせたもので、すべてピアノ・トリオの編成での演奏が収録されている。
ニューヨークではJohn Lamb(bass)、Sam Woodyard(drums) 、ラスヴェガスではVictor Gaskin/Paul Kondziela (bass)とRufus Jones(drums)という顔ぶれになっている。
ラスヴェガス録音の部分は、ニューヨークのものよりも若干ピアノの聞こえ方が遠いのが惜しい気がするけれど、そんな思いを掻き消すくらいにデュークの演奏は圧倒的だ。

Duck Amok での厚い和音を重ねていく演奏には確実にオーケストラの残響が聞こえ、
そのブルースとリズムの感覚は「ジャズ」という言葉を辞書で引いたらそのままの音が聞こえてきそうなくらいに断定的だ。
かと思えば、そのすぐ後の Never Stop Remembering Bill の演奏において、デュークは優しさ、エレガンスとロマンチシズムというほとんど別人とも思えるような全く異なった表情を見せている。
それぞれの演目における雰囲気の対比の明瞭さは、悲劇と喜劇の限りなく薄い境界線についてきちんと知っている、才能ある俳優を思わせる。

デュークのピアノ演奏はとてもシンプルだ。
彼ほどに、たった一音で多くを語れるピアニストはそうそういない。
デュークの叩く鍵盤から響くひとつの音には、その一音が持ちうる最大限の「意味合い 」が詰まっている。それはできれば小説にして読みたいくらいに魅力的なストーリーの数々の欠片の様なものだ。
デレック・ジュウェル著「デューク:ポートレイト・オブ・デューク・エリントン」に、こんなデュークの言葉が記されている。
「私はジャズ(の曲)を書いているのではない。黒人の民族音楽を書いているんだ。」
「我々は長い間、ジャズという旗の下で働き、戦ってきたけれど、(ジャズという)言葉そのものには何の意味もない。ジャズという言葉にはある種の謙遜のようなものがある。」と、デュークは1968年にラジオで述べた。
彼はまぎれもなく大衆の持つジャズにおけるブラック・ゲットーのイメージを暗喩していた。

デューク・エリントンほどにエレガンス、知性、才能、そしてカリスマを兼ね備えた音楽家にとっては、ひとつのラベルによって彼自身の音楽がひとくくりにされてしまうのはひどく息苦しいことだったのかもしれない。そう考えると、エリントンという名前が今も「ジャズ」の代名詞の様にうたわれることは皮肉なものである。

ジュウェルは第一章をこのように締めくくっている。

デュークが亡くなった時、 何万人もの人々にとっての灯火が消えた。
彼らは、デュークがステージでいつも声高に宣言したのと同じくらいの愛を、デューク・エリントンという人とその音楽に対して持っていた。キャラバンは止まった。だが、音楽と、彼の残した文化的遺産は継続していく。

 デューク・エリントンのピアノ演奏は、一見すれば、様々なやり方で綺麗にラッピングされ、開けれられるのを待っているギフトボックスの様であるとも思う。
計算されつくしたわかりやすさ、まるで「あなたのために」とでも書いてあるかのように愛と奉仕精神に満ちた曲と演奏の数々。そのエレガンスと器の大きさという包装紙を何枚もめくっていくと、内側には何が隠されているのだろう?そんな私達の愚鈍な疑問を優雅な笑みでかわし続けるデュークの弾く先にはやはりいつも圧倒的な光が照らしだされ、その音楽を聞く私達は彼を通してその光を知ることができるのだ。


2015年10月5日月曜日

拡張されたマインド

ジョン・ケージの本、『A Year From Monday』の初めに書かれているこの文にものすごく惹かれた。

I believe -and am acting upon-Marshall Mcluhan's statement that we have through electronic technology produced an extension of our brains to the world formerly outside of us. To me that means that the disciplines, gradual and sudden (principally Oriental), formerly practiced by individuals to pacify their minds, bringing them into accord with ultimate reality, must now be practiced socially -that is, not just inside our heads, but outside of them, in the world, where our central nervous system effectively now is.

 「電子テクノロジーは、本来私達の外側にあった世界へと、我々の脳を拡張した」、というマーシャル・マクルハンの理論を私は信じているし、その理論に基づいて行動をしている。それが何を意味するかというと、徐々にでも突然でも、もともと個人個人が平和的精神を得る為に行い、本質的な現実と一体になることを可能にしてきた修練というものが、今後は社会的に行われる必要があるということである。つまり、私達の頭の中だけでなく、我々の神経中枢が今では効果的に存在する頭の外側の世界でも、修練がなされなければならない。
John Cage -A Year From Monday

この文章の意味をしばらく考えてみる。


2015年9月5日土曜日

2015 日本公演




2年ぶりに日本で演奏します。

今年の初め頃から挑戦している新しい試み、いわば、詩、言語と即興芸術としての音楽を編み合わせる試みの延長が、今回の日本公演の内容に影響してくると思います。
即興演奏を始めてからというもの、様々な音楽家達との共演、そして会話に刺激を受ける毎日ですが、特に、ピアノという面では今年の7月に亡くなった菊地雅章さん、そして、ボーカルの面ではジェン・シューに教えてもらったこと(音楽の理論的なことでなく、音楽との向き合い方、創造力の面で、ということになりますが)が、深く今の私には沁み入ってる感覚があります。

今回の日本公演は以下の二箇所になります。
会場では、今年リリースしたばかりのアルバム、UTAZATAのCDをお買い求め頂ける他、
同アルバムのLP盤の先行発売を致します。

文章を通して私のことを知っている方にも、
是非実際に音楽をライブで聴いてみて頂きたいと思います。
宜しくお願いします。


9月12日(土)
スピニングミル (大阪)
 7pm start
蓮見令麻ソロ (piano/voice)
2500円 (adv)/ 3000円 (door)
予約:contact@ruweh.com

9月14日(月)

荻窪ベルベットサン (東京)

蓮見令麻 (piano/voice)
菅原崇志 (bass)
本田珠也 (drums)

7:30 door/ 8pm start
3000円 (with 1drink)



スピニングミル(大阪)
住所: 590-0912 大阪府堺市堺区並松町45
南海本線 七道駅から徒歩7分  
阪堺電車 高須神社駅から徒歩5分


ベルベットサン(東京)
住所:杉並区荻窪3-47-21 サンライズ ビル1F
荻窪駅南口を出て目の前の線路に沿った道を新宿方面へ。
青梅街道に合流してから約100M。
荻窪駅から徒歩約8分。


2015年8月17日月曜日

ブラジル、アマゾンの詩と歌(一)





チアゴ・チアゴ・ヂ・メロの音楽は、とても親しみやすい。
一度聞いたら、ずっと頭の中で響き続け、気づけば口ずさんでしまう種類の音楽だ。
そういったブラジル音楽特有の親密さのある一方で、リズムやメロディーには洗練されたディテールが散りばめられている。
カートゥラが書いてきた歌の様に、チアゴ・チアゴ・ヂ・メロの心地よいメロディーに乗せられた歌詞には、燃えるような力強さと物語がある。

チアゴ・ヂ・メロというアーティストは、私の知る限りでも全部で4人居る。
アマゾンの詩人で、素晴らしい作品を発表してきたアマドゥ・チアゴ・ヂ・メロ。
作曲家でマルチ・インストゥルメンタリストのガデンシオ ・チアゴ・ヂ・メロ。
実験的フォーク・ミュージックのシンガー、マンドゥカ・チアゴ・ヂ・メロ。
そして、シンガーソングライターのチアゴ・チアゴ・ヂ・メロだ。
詩人のアマドゥはチアゴ・チアゴの父であり、シンガーのマンドゥカは兄、作曲家のガデンシオは叔父にあたる。

先日、チアゴ・チアゴと話をする機会があった。
彼はとても誇らしげに父、アマドゥについて語った。
アマドゥ・チアゴ・ヂ・メロは、1926年に生まれ、パブロ・ネルーダを始め、チェ・ゲバラやフィデル・カストロなど、ラテンアメリカを代表するアーティスト、政治家と交流を持ち、制作活動を続けてきた。
そんな父を持ち、音楽家の兄と叔父を持つ彼は、このような活動の系譜を受け継いでいくことに情熱的だ。
 音楽家達の感性が豊かであり続けること、メディアを介したジャーナリズムだけに頼らないこと、
伝統的な楽器で新しい音楽を弾く、または、新しい楽器で伝統的な音楽を弾くこと、
そしてそこに、「story-telling ものがたりを伝える」という淡々とした深遠なる流れがあること。
チアゴは私達にそんなことを語った。

チアゴと、パンデイロ奏者のセルジオ・クラコウスキは、同じくブラジル音楽に新しい潮流を送り込むため、実験的な音楽を演奏する同志のミュージシャン達と共に、コレクチボ・シャマ(炎の集団)をたちあげた。
このコレクティブを結成した当初、
「今、手を繋いでひとつの『集団』にならないと、僕達はつぶされて消えてしまう。」という風に感じていたとチアゴは言った。
コレクティブを結成してから最初の三ヶ月、彼らはそれぞれの楽器を手にすることなく、まず互いの思想を交換するために話し合いを続けたという。
以下は、nprのコレクチボ・シャマについての記事より抜粋。

ブラジルの楽曲は、想像の世界を見事に表現する。
中でも、リオデジャネイロはそういった楽曲の宝庫と言っていい。
19世紀のマシーシェやショロに始まり、20世紀のサンバやボサノバに繋がっていった、リズムと深い叙情性の素晴らしい融合がリオにはある。
ブラジル人にとって、このような楽曲の数々は特に大きな意味を持っている。
ブラジルでは正式な教育が万人に開かれていないために、人気のある曲がある種の教育になることがあるのだ。

「ほとんどのブラジル人は、ソングライターの曲を聞いて、話し方、書き方、そして感じ方さえも学ぶんだ。」チアゴ・チアゴ・ヂ・メロは言う。
チアゴは、リオのソングライターの中でも新しい世代で、ブラジルの音楽について真剣に考えている。
チアゴは、アマゾンの詩人、アマドゥ・チアゴ・ヂ・メロの息子であり、
ブラジルの豊かな文学的伝統とサンバやフォホ、パゴヂの様なアフリカ的リズムを、ジャズ、ロック、エレクトロニカと融合させてきた。

チアゴと彼の仲間は、彼らの試みている新しいブラジル音楽の形を、「explorative-探求的なもの」と呼ぶ。
トム・ジョビンとジョアオ・ジルベルトがボサノバのムーヴメントを、
あるいは、カエタノ・ベローソとジルベルト・ジルがトロピカリアというムーヴメントを牽引し、音楽として発展してきた時の様に、
今の時点でこの「explorative」 という言葉を、うまく英語に訳すことは難しいかもしれないが、この言葉はブラジルのユートピア的系譜と野望を確実に思い起こさせる。




(npr jazz "In time for world cup, explorative new music from Brazil" by Tim Wilkins
http://www.npr.org/sections/ablogsupreme/2014/06/13/320978456/in-time-for-the-world-cup-explorative-new-music-from-brazil

ブラジル、アマゾンの詩と歌(二)




Estatutos Do Homemという、アマゾンの詩人、チアゴ・ヂ・メロの代表作の詩集を、息子であるチアゴ・チアゴ・ヂ・メロからもらったのは、夏も本格的になってきた7月の終わり頃だった。

丁度その頃、休暇のためにマーサズ・ヴィニヤード島に行く直前だった私は、
休暇中に読む本として、『ヤノマミ』(国分拓著)を選んだ。
ずっと昔に、古本屋で見た写真集の中で、ヤノマミの人々が川べりで蝶に囲まれて水浴びをしている写真に魅了されてから、ヤノマミという名前がずっと頭の中にあった。


その本を買って数日後に、チアゴ・チアゴ・ヂ・メロのライブを見に行った時、
チアゴは歌の中でヤノマミを始めとする様々な部族の名前をあげていた。
ポルトガル語だったので、ヤノマミだけは聞き取れたのだけど、それについて何を歌っていたのかは残念ながらわからない。
ライブの後に、「丁度ヤノマミに関する本を買ったところだった。」 という話をしたら、
彼はすごく喜んで、「友情の印に。」と言って、私の手首にアマゾンで作られたという木製の腕輪をはめてプレゼントしてくれた。

マーサズ・ヴィニヤード島についてからも、
ヤノマミやアマゾンのことが頭から離れず、気づけば私は島のネイティブ・アメリカンの歴史館へと足を運んでいた。
残念なことにヴィニヤード島に昔から暮らしていたワンパノアグ族の人々の数は劇的に少なく、ワンパノアグの血を受け継ぐ少数の人々が、ひっそりと集落に暮らしているくらいだ。
この美しい島に、文明化された側の人間として足を踏み入れる自分は、あるいは偽善的であるかもしれない。
だけどそれでも、私にはアメリカ大陸の先住民達のことを考えずにはいられない時がある。
静かな部屋で海の音を聴きながら『ヤノマミ』を読み、
私は ヤノマミの暮らし、人の純粋さ、文明と接しない決断、文明と接する決断、運命を思った。


詩人、チアゴ・ヂ・メロはブラジルにおいて軍事政権が台頭した60年代に投獄され、
国外に亡命した。亡命先のチリで、チリの代表的な詩人、パブロ・ネルーダと出会い、そこでこの詩を書いた。チアゴ・ヂ・メロは現在も、アマゾンの熱帯雨林と、アマゾンに暮らす先住民族の社会的権利を守るための活動を続けている。



 「人間の条項」 チアゴ・ヂ・メロ




第一条
重要なものは真実であり、
重要なものは命である。
我々は互いの手を取りあい、
命の意味について考えることをここに定める。


第二条
平日でも毎日が、
曇り空の火曜日でさえもが、
日曜日の朝になり得る権利を持つことをここに定める。


第三条
これから先ずっと、
すべての窓際にはひまわりがあり、
そのひまわりは日陰で咲く権利を持ち、
その窓は一日中、希望を育む新緑へと向かい開き続けることをここに定める。


第四条
人間は、人間をもう決して疑わないこと、
やしの木が風を信じる様に、
風が空気を信じる様に、
空気が空の青い拡がりを信じる様に、
人間は人間を信じることをここに定める。

 第一項 
 子供がまたひとりの子供を信じる様に、
 大人もまたひとりの大人を信じる。


第五条
人間は、偽りへの隷属から解放され、
誰一人として、沈黙の鎧をまとい、言葉の武器を使う必要はないこと、
人間が曇りのない瞳でテーブルの前に座れば、
デザートの前には、「真実」の皿が出されることをここに定める。


第六条
十世紀もの間、イザヤという預言者が夢に見た習わし、
すなわち、狼が子羊と同じ草原で草を食べる時、
彼らの食事は生命の春の味つけであることをここに定める。


第七条
正義と明瞭さの永続的統治は、撤回し得ない条としてここに定める。
よって、幸福は、人間の魂の中で永久にたなびく寛大な旗となる。


第八条
最上級の痛みとは、これまでも、そしてこれからも、
植物に花咲く奇跡を与えるのは水であると知りながら、
愛すべきひとに愛を与えられない無力さであることをここに定める。


第九条
毎日のパンには、人間の汗の商標が施されることをここに許可するが、
パンはいつでも温かく柔らかな味でいなければならない。 


第十条
すべての人間が、
人生のいかなる時においても、
日曜日用のベストを着用することをここに許可する。


第十一条
人間は、愛を知る動物であると定義し、
よって人間はいかなる夜明けの星よりも美しいということをここに定める。


第十二条
命令、禁止事項というものは存在せず、
サイと戯れることも、巨大なベゴニアの花を襟にさして午後の散歩をすることも、
すべてが許可されることをここに定める。

 第一項
 唯一の禁止事項は、
 愛しながら愛に不感であること。


第十三条
金で夜明けの太陽を買うことは金輪際不可能であり、
恐れの詰まった箱から放り出された時に金は友愛の剣となり、歌歌う権利を守護し、来たる日々を祝福するであろうことをここに定める。


最終条項
自由という言葉の使用をここに禁ずる。
自由という言葉はすべての辞書から、
そして当てにならない「口」というぬかるみからはじきだされる。
よって自由とは、
火、または川の様な、
小麦のひと粒の様な、
目に見えぬ生命体となり、
その帰り着く場所は必ず人間の心となる。



(Estatutos Do Homem by Thiago de Mello(1964) 訳:蓮見令麻)


2015年8月7日金曜日

TONY MALABY GROUP@ RYE


音楽とはイデアそのものであり、この世の中のさまざまな事象とは一線を画すもので、
それは宇宙の外側に理想的なかたちで存在し、「空間」ではなく「時間」のみによって理解される。
その結果として目的論的な仮説により侵食されることもない。
この根本的な音楽の品位は、非純粋的な聞き手が、その理想的でいて視覚的ではない音楽というものに形を与えようとする行為、また、聞き手自身が調度良いと感じる典型にイデアを当てはめるという行為によってねじまげられてしまう。
サミュエル・ベケット、プルースト論より


このような、ベケットの言葉を借りると、「根本的な音楽の品位をねじ曲げる」行為を、私達の多くが日常的に続けている。皮肉なことに、音楽について評論するような立場の者にとっては、
音楽に形や典型、または説明を見出そうとするという構えは、捨てきれない一種の性の様なものなのかもしれない。
私自身も例外に漏れず、 音楽をある大きさ、かたちの額縁に入れて鑑賞する趣きがあることを自覚している。
だがそれは、評論的な類の額縁ではなくて、「ものがたり」の額縁である。
音楽の演奏を目の前にして、音の波に呑まれながら、
私は多くの場合、演奏している人の背景に拡がる膨大な束のものがたりについての想像を膨らませる。
ものがたりの束、それ自体は、イデアとしての音楽的領域を侵すことはないけれども、
演奏する者が経験してきたものがたりは、その人の身体と記憶を通して音楽に色彩を加える。
俗世的なものが音楽にそうやって入り込んでしまえば、あるいはベケットはそれが未だイデアそのものであるとは言わないかもしれない。
圧倒的に純粋であるという魅力、そして同時に俗世的であるのという魅力、
音楽はそのふたつの顔を時と場合によって使い分け、私達を混乱させ、酔わせる。



ここ何日か、セシル・テイラーの音楽を聞き直すことに没頭していたこともあって、
この日のトニー・マラビー・グループの演奏を聴きながら、
私はフリージャズの潮流の中における、セシル・テイラーというひとつの分岐点、
特に、リズムをひとつの大きな母体として形作る、音楽の感触について考えた。
トニー・マラビーはテナーとソプラノを交互に吹いた。
時には聞こえないくらいの小さな音で、時にはこれ以上にないくらいワイルドな咆哮で。
ベースのアイヴァンド・オプスヴィックはくぐもった音のベースで、密度の高い音の粒をはじきだし、デイヴィッド・トロイトのドラムがエッジーな音で空間に裂け目を作った。
クリストファー・ホフマンのチェロは中音域に厚みをもたせたファンタジックな演奏。
ベン・ガースティンのトロンボーンは密林に住むけものの様に本能的だ。

グループの全員が、吹きすさぶ音の嵐の中で、ひとつの舟を沈没させない為に手綱にしているのは、
「感触」なのだろうと私は思う。
それは、メロディックな概念としての、音感よりも、音楽理論の理解よりも、
本能的、プリミティブな音楽の作り方だ。
ざらざらとしていて、掴みどころがない。
音楽は、ただそこにあり、呼吸をし、流れていく。

セシル・テイラーの素晴らしさとは、リミットがないことだと思う。
まず、「ピアノはこんな風に弾くものである。」 というリミットがない。
そして、「私はピアニストである。」というリミットもまたない。
セシル・テイラーは、詩を朗読していても、踊っているときも、同じ躍動で「演奏」している。

トニー・マラビー・グループの奏者達ひとりひとりは、一体これまでにどんな場面でセシル・テイラーの演奏を聞いて、
それについてどんな風に感じてきただろう。
こんな風に直観と衝動に突き動かされる演奏をすること、
そういう精神的な場所から新しいものを構築すること、
この奏法が、彼らにとって、そして彼らを取り巻く小さく、大きな世界にとっての「スタンダード」に 成り得つつあることをどんな風に思っているだろう。
その「スタンダード」の潮流の始まりの一端の、大きな部分を担ったテイラー。
異なった時間枠を通して延々と繋がっていく音楽家達。
セシル・テイラーから、ウィリアム・パーカーに。
ウィリアム・パーカーから、トニー・マラビーに。


ものがたりが、どこまでも、どこまでも続いていく。

2015年7月13日月曜日

追悼

20周年を迎えたヴィジョン・フェスティバルについて書こうと思ったけれど、

なんだか頭の中が空白で何も浮かんでこない。


プーさんのこの言葉が、鮮明によみがえる。

「俺達はすごくモダンなことをやってるんだ。」

その日に会った、見知らぬ誰かに親しく語りかける彼は、自分のグループのことを、嬉々としてこう説明していた。


この言葉を聞いた時、何かが体中を駆け抜けるような感覚が走った。

モダンという言葉には、ただ単に、今の時代、現代、という意味もあれば、
芸術の枠においては、 伝統的に受け継がれてきたやり方から脱却し、
より個人的、実験的な領域での感性に重きを置いた姿勢、という意味もある。

芸術的な未開の領域における勇敢な開拓者として、
誰もいまだかつて見たことのない領域の美しさを目のあたりにした者にしか、
あれだけ堂々と、 自分の作品はモダンだ、と言い切ることはできないだろうと思うのだ。


素晴らしい音楽の数々をありがとうございました。









2015年4月29日水曜日

REMA HASUMI "UTAZATA"




2013年に録音をしてからというもの、編集をゆっくりとしてきたもので、割と長い期間が経ってしまったけれど、いよいよ5月3日にリリースする。

この作品は、結論から言うと、コンセプト・アルバムという形になった。
日本の伝統音楽から、「東遊」、「筑前今様」、「御詠歌」、「竹田の子守唄」を取り上げ、それぞれのテーマをキャンバスにして、インプロビゼーションで抽象画を描いていく様に演奏したものだ。

正直に言って、自分が、最初の作品を創るにあたって、「日本風」のものを取り入れるという考えは、
初めは私の頭の中に微塵もなかった。
 録音の構想を始める前の数年間は、かなり深くアリス・コルトレーンの音楽にのめり込んでいたし、
60〜70年代のスピリチュアルジャズと呼ばれるようなものが好きで、ファラオ・サンダースやサンラなんかをよく聞いていた。
この時期私は、ダリウス・ジョーンズと一緒にアリス・コルトレーンの曲を演奏するコンサートを重ねていたのだけど、彼女の創りあげたコンポジションの持つ魅力へより深く潜り、彼女の音楽的軌跡を辿るうちに、音楽の独創性は自分自身の内側を見ることでしか得られないのだということをアリスに教えられた気がした。
同時に、女性特有の表現をしたいという気持ちも、メアリー・ルー・ウィリアムスやアミナ・クローディン・マイヤースを聴きながら日に日に私の内側で育っていた。

そういう感覚というのは、アメリカで、「ジャズ」という言葉でくくられる種類の音楽を演奏する経験の中で感じた強い違和感を発端にしたひとつの着地点であったと思う。
理論や格好良さを武器にしたものばかりではなく、抽象や「いびつ」さが中心になる世界観が表現されてもいいのではないかと感じていた。

インプロビゼーションという奏法の奥へ奥へと足を踏み入れる程に、
「自分ではないもの」を弾くことができなくなっていた。
私はジャズを弾きたくて今までやってきたけれど、だいたい、自分の表現は何を根幹としているだろうかという素朴な疑問に私はその頃ぶつかっていた。
その時に初めて、きちんと自分の生まれた場所の芸能と一度向き合ってみようと思い、
日本の芸能、女性史、土着文化、信仰を焦点とした様々な資料を読んだ。
そのひとつのまとめとして、日本芸能史に見る音楽と平和 を書いた。
そういった探索の中で、私は桃山晴衣の音楽と出会い、日本の唄の素晴らしさを知った。
同時に、西洋的な音楽の解釈や理論に呑み込まれて、非西洋的音楽が少しずつその姿を消していくことに恐ろしさを感じていたし、自分がそういう潮流に何も考えずに身をまかせてきたことにも落胆した。
その頃、同時に素晴らしい音楽家達との出会いもあった。
タイショーン・ソーリーの「公案」は特に、このアルバムを創るにあたっての大きなインスピレーションになっている。
初めて「公案」を聞いた時、そのミニマリズム、静謐さの中に同時に存在する緊張と緩和の絶妙なバランスに圧倒された。タイトルからも分かる様に、意図的に東洋的アプローチをした音楽であるように思えるが、そこには所謂オリエンタリズムと呼ばれる類のものとは一線を画す、洗練された「何か」があった。
「公案」でソーリーと共演しているギタリスト、トッド・ニューフェルドとベーシスト、トーマス・モーガンの演奏、そして彼らを経由して聴き始めた菊地雅章さんの音楽。
ジェン・シューの祭祀音楽、民族音楽をインプロビゼーションに持ち込んだパフォーマンス。
彼らはそれぞれに非常に個性的な音楽へのアプローチを持っていて、
このままあらゆるものすべてが一面化されていってしまうかもしれないという現代社会の本質的な脆さ、そこに一石を投じるインパクトを持つように感じられた。
彼らからの鼓舞、影響ははかり知れない。

このアルバムに私がつけたタイトルは『UTAZATA』といって、「女性芸能の源流(脇田晴子著)」という本の中で述べられている「歌沙汰」という表現から来ている。
今様狂いであった後白河院と今様唄いであった傀儡女たちの間で交わされた「正しい歌の旋律」を決める熱心な音楽談義の事をさす言葉として、著書の中では使われている。
この話を読んだ時に、ふと私が思ったのは、
そういう音楽談義というのは、「何がジャズで何がジャズではない」、とか、「誰々がジャズを弾くにふさわしく、誰々がふさわしくない」という話し合い、つまり「正しいジャズとは何か」という現代のディスカッションと割と似ているんじゃないだろうか、ということだった。

フリー・インプロビゼーションの手法を持って、平均律にとらわれない演奏を求め、切磋琢磨している音楽家のひとりであるからこそ、私は「正しい旋律」や「正しいジャズ」というテーマを持ったディスカッションに対して不条理的な見方をしている。
と、同時に、そういったテーマについて何時間も話しあえるというのは、ある意味では素晴らしく平和的、人間的行為だという称賛の思いも持っている。
この様なテーマのディスカッションを喚起する様な側面が、UTAZATAには少なからずあるんじゃないかと思う。そういう意味合いがアルバムタイトルに込められている。
「歌沙汰」という言葉は、音楽狂いの我々を、不条理と滑稽と愛着をもって俯瞰する。
先に述べたテーマに見る人間の「形状の継受」への執着と、
その反動としてのインプロビゼーションという対比は面白いし、私はその今その渦中にいる。


もしどこかの誰かがこのアルバムを聞いてくれた時に、
「どうして日本の歌をテーマにしたんだろう。」という疑問がきっと湧くと思ったので、
そういう時にこの文章にたどり着いて参考にしてくれたら、と思っている。


"UTAZATA" CD Release Concert
5/3 sunday
8pm @ ShapeShifter Lab

Rema Hasumi (piano/keyboard/vocal)
Todd Neufeld (guitar)
Thomas Morgan (bass)
Billy Mintz (drums)
Sergio Krakowski (pandeiro/adufo)
Ben Gerstein (trombone)


CD Available at Ruweh Records Website




2015年4月19日日曜日

MARIA FARANTOURI

音楽というのは、表面的にはひとつの文化的現象に過ぎないように見えることがあっても、
それぞれの異なった音楽が内側で主体としているものにはものすごいバリエーションがあると思う。
例えば、ひとつの社会的階級を象徴する音楽があって、その音楽は誰かにとっては城壁の様な役割をする。
あるいは、また別の音楽は、どこかの誰かにとっては、 過去を走馬灯の様に蘇らせるアルバムの様なものかもしれない。
また別の誰かにとっての音楽は、ただがむしゃらに踊って陶酔するための乗り物で、
その向こう側の誰かにとっては、音楽は恐怖である可能性すらある。


今晩、私はマリア・ファラントゥーリのステージを見た。
ギリシャの伝説的な歌手、政治家であり、文化活動家でもある彼女は、近年チャールズ・ロイドとも共演し、ECMからアルバムを出している。
彼女の、内側から響きわたる歌声の中に聞こえる力強さには、
例えばエリス・レジーナがAtras da Portaを歌った時の様な、聴く側の精神をかき回すざわざわとしたものが存在していた。
2時間半の長いステージの間、歌った曲の多くを、観客席の大半を占めていたギリシャ人達は一緒に口ずさんでいた。
後にわかるのだけれど、ファラントゥーリの存在というのは、
ギリシャという国とその人々にとってはただの音楽家以上のものであるようだった。
ファラントゥーリは、70年代頃から、ギリシャの代表的作曲家、ミキス・テオドロキスと共に活動し、
ギリシャの軍事政権に対しての批判的な姿勢をとって、音楽を制作し続け、国の民主化に貢献した。
テオドロキスはレジスタンスとして投獄され、彼の楽曲が国内で禁止されたことさえあった。

ファラントゥーリの歌は、ステージの上から歌われる歌ではなかった。
彼女は、ステージの横に、同じ高さに、すぐ隣にいるすべての人へ向けて歌を歌い、
観客と、そのこころにどこまでも寄り添っていた。

その当時の政治的状況の渦中では、音楽を純粋に音楽として楽しむという需要よりも、
より良い明日への希望を持ち、苦境を乗り込むための音楽という需要の方がずっと強かったのかもしれない。
そういった政治的背景、イデオロギーがあったにもかかわらず、
ファラントゥーリの歌は、とても率直に「歌」であり続け、人々はその歌を通して、
ノスタルジアや、苦境を乗り越えた者同士の団結を感じている様に見えた。
根源的な、人間の肉声、「歌」の持つパワー、そういうものを目の当たりにした日だった。







2015年4月17日金曜日

TOM RAINEY TRIO@ Clemente Soto Velez

クレメンテ・ソト・ヴェレズというプエルトリコの詩人がニューヨークに居た。
彼はプエルトリコで生まれ、文学者や詩人の有志と共に政治活動に参加し、
第二次大戦後にニューヨークへ渡り、逮捕、収監を経てなお政治活動、執筆活動を続けた。



 『孤独』         クレメンテ・ソト・ヴェレズ


飛ぶこと ただひとりで 
燃え上がる様な 想像の空の上を
飛びまわること

ただひとり
終わりのない
人生飛行を
創造すること

考えること ただひとりで
考えること
すべての創造的な力が集まればそうするように
ただひとり
ただひとり
ただひとり
光の中で振動する
手つかずの道理を求め
耳をすます




歌うこと
ただひとり
歌うこと
原子達が
行動する意志を歌うように
ただひとり
歌うこと
エネルギーの覚醒が伝えるように

孤独 ー孤独!

磁石の様な吸引力を持った雨雲
跳ね返してくる すべての生きる力の中でバランスをとる

孤独 ー孤独!
生命のこころ!


(訳:蓮見令麻)



かの詩人はこのような詩を書き、感銘を受けた同志達は、
のちに彼の名にちなんだ文化センターを設立した。
Arts For Artという団体がオーガナイズするこの文化センターでのパフォーマンス・シリーズに、詩の朗読やダンス、アート、という要素が必ず盛り込まれているのは、そんな歴史をこの建物が持っていることもひとつの理由だろう。

なかなか古いこの建物は、天井も高く、かなり響きの良い造りになっている。
今日はここでトム・レイニーのトリオを見た。
共演者は、レイニーのパートナーでもあるサックス奏者、イングリッド・ラウブロックと、ギタリスト、メアリー・ハルヴァーソンの二人。
トム・レイニーの演奏は以前何度か見たことはあったけれど、
今回は音響も良く、真正面から見ることができて、レイニーのドラミングの凄さをあらためて思い知った。
予測不可能な方向性、粗っぽいスティックさばきがはじき出すざらざらとした感触の音。
直線を走っているわけではないのにずっと存在する疾走感。
トム・レイニーの音は、アメリカの荒野を突っ切る風や空気を思わせる。
イングリッドの吹くテナーの、風の抜けるような美しく素朴な音がそのまわりを浮遊し、
メアリー・ハルヴァーソンの規則的なカッティングやエフェクトを多様した様々な音の羅列は、
少しぎこちなさを残しながらも、ひとつの世界観を作り上げていた。
なんというか、非常に個人主義的な即興演奏だと私には感じられた。
もちろん、良い意味で。
3人とも、自分の世界、自分の音のいく道をまっすぐにどんどん進んでいく。
私はこっちにいく。あなたはそっちにいく。それでいい。
もしどこか向こうの方で、また顔を合わせるかもしれないし、それもいいね。

そんな雰囲気だった。
そういうやり方は、私にとってはあるいは新鮮なもので、
それくらいお互いが自由にやっていて、心地が良い、それでもなんとなくまとまる、というのは素敵なことだなと思った。

荒野のまっただなかに、ただひとりでいること。
それでも、どん、と構えていられる、
そういう演奏者でいれたら。







2015年4月9日木曜日

僕たちは海に潜った




僕たちは海に潜った

帰り道に砂浜で 砂にまみれた足を波で洗う時
波は僕たちの素足を撫で はじき 吹くのだった

生ぬるい水の感触は僕たちの理性を甘やかし
遠くに見える水平線が僕たちの理想を掻き回した

ラプ ラプと鳴る水の淵が僕たちの胸に届くころ
一匹の海猫が 近くの岩にとまった
海猫は 恍惚とした 救いようのない僕たちを一瞥し
そのまま目を閉じて眠った

ラプ ラプ

ラプ ラプ

僕たちの躰は 隙間のない海からの抱擁で
窮屈さと自由を 一度に感じていた

そして僕たちは海に潜った

その時から

すべては動き

すべては止まり

あらゆるものが同時に喋り

あらゆるものが同時に沈黙した


僕たちが海に潜った時から










2015年3月15日日曜日

TYSHAWN SOREY "Koan II"

タイショーン・ソーリーの『公案 II』を見てきた。

オリジナルの『公案(I)』では、トッド・ニューフェルド(エレクトリック・ギター)、トーマス・モーガン(ベース)の二人を軸にしたトリオでソーリーの作曲を中心に演奏されているのに対し、
今回の新しいプロジェクトは、マット・マネリ(ヴィオラ)、ベン・ガースティン(トロンボーン)、トッド・ニューフェルド(アコースティック・ギター)を迎えたカルテットで、通しでフリー・インプロビゼーション
が演奏された。

彼らの演奏においては、静寂の中の一音というものが、とにかく大事に大事に扱われる。
その一音を、その瞬間に、弾くか弾かないか、という駆け引きに、全員がごく真剣に参加するのだ。
そこには自然と、ぴんと張り詰めた一本の見えない糸が浮かび上がってくる。
この音楽は、理性と野性のあいだを縫って歩く。
作曲家としてのソーリーの冷静沈着な「構築」の為の統制は、
彼がマレットで叩き出す柔らかなとどろきによって指揮されていく。
雅楽的とも言える、12音階の境目を縫うように漂うヴィオラの音が、張り詰める緊張の糸をところどころほぐす。
その得体の知れない、心地良いのか心地良くないのか決めかねる雰囲気の中で、
漆黒の森林から飛び出してくる獣の様にトロンボーンが咆哮し、
ギターのためらいと革新の繰り返しによって新しい方向性が提示されていくのだった。

それはまるで、はじまりも、終わりも存在しない演劇の様であったとも思う。
そう感じたのは、私には全体の音から武満徹の映画音楽に通じるものが聞こえたからかもしれない。
もしくは演奏中盤、奏者全員が立ち上がり、舞台や客席を歩きまわって演奏したことも影響しているだろう。

演奏は約90分に及び、全てをインプロビゼーションで通したことは、奏者にとっても、観客にとっても容易ではなかったはずだ。
しかし、奏者達が60分で演奏を終わらせずそこからさらに展開させていったことにより、
人は何故起承転結を求めがちであるか、ということを私は考えるに至った。
なぜ、はじまりと終わりは相応の様子でなければならず、
その間にクライマックスが存在しないと満足できないことになってしまうのだろうか。
そういうイメージの枠組みを、自分はまづすべて取り払ってしまいたいと思った。

以下は、ダニエル・レナー氏による、タイショーン・ソーリーへのインタビューより抜粋したもので、
『公案』の制作にいたった経緯などを少し知ることができる。
 


2006年に日本を訪れたことをきっかけにして、ソーリーの作曲手法には重要な変化が現れた。
「その年に日本へ行った時、休みの日に僧院を訪れた。
アメリカに帰ってから、自分の状態を良くするため、という目的だけではなく、音楽への影響として、禅への興味が湧き始めた。その頃、自分の演奏している音楽は割と良い音楽だという自覚はあったのだけど、何かがしっくり来ていなかった。そういう音楽は、『難しくあるための、難しい音楽』なだけな気がしていた。

禅と瞑想のコンセプト(アラン・ワッツの著書などを読んだという)は、確実にソーリーに影響を与えていった。 まず彼が書いたのは、前年のクインテットとしての全作品からは大きくかけはなれた長編で、のちに物議を醸すことになった、『ソロピアノのための順列』だった。
この曲は演奏に45分を要し、ひとつのコードを、休符と音域、ピッチやアタック、減衰などの変化をつけながら繰り返すことで細部に砕かれた音の情報を操作するというコンセプトを探求したものだ。

「この曲が誰かに演奏されることはないかもしれないけれど、少なくともこれから私が創作していくもののひとつのシニフィアンにはなるだろうと思う。」そうソーリーは説明した。
「そういう経緯で、That/Not (Firehouse 12, 2007)の為に、この曲を書いた。音楽自体がずっと上手く呼吸できていることが分かるだろうと思う。演奏には技工を要するけれど、この曲には音楽が呼吸し、話しかけてくるような、そういう側面がある。
オブリークのために書いた曲達よりもメロディックだと思う。オブリークにはオブリークのメロディックさ、というのがあるけれどね。 」

中略

次作、『公案』Koan (482 Music, 2009)は、That/Not からの継続と言うよりも、日本で経験したことの継続と呼ぶ方が正確だ。他のどんな作品よりも、『公案』は作曲におけるあらゆる種類の言語を網羅した。
「音と時間に対する自分自身の関係性とその全体的な思考を試された。こういう類の音楽にはシステムなんていうものは存在しない。ただ、その音楽が聞こえた瞬間に書き留める、そういう風にして生まれたものだ。音楽的な語彙だけでは説明できない。もっと実存的な語彙で、聴く経験とは何かということを考えることはできると思う。

『公案』は目を見張る程様々な種類の音楽的アイディアや音律の残像を映した。
"Nocturnal"の様な曲では、フレーズを何度も異なったやり方で繰り返す手法が使われ、"Two Guitars"ではピッチに制限を用いたし、"Correct Truth"においては十二音技法のみならず、もっと抽象的な「可聴度」の概念にも焦点がおかれ、"Awakening"は異なる時間の層に軸を置いた。
作曲における手法のあまりの幅の広さに、全ての手法は使い切れなかったとのことだが。

ソーリーが作曲家として発表した音楽への世間の最初の反応は、残念ながら、
彼のドラマーとしての功績よりもむしろ、彼がアフリカン・アメリカンの音楽家であるという人種的アイデンティティに注目した。「黒人」で、「ドラマー」、そして「作曲家」であるというソーリーの個人的そして音楽家として当てはまる3つの形容詞は、不器用な具合にお互いに摩擦しあい、ファンや同士、そして批評家達を混乱させた。次に述べるのは、ソーリーが表現した、「黒人ドラマー」に課せられた典型的イメージ、頻繁に見られるステレオタイプである。

「アフリカン・アメリカンのジャズドラマーというある種の幻想は、例えばスイングしたり、2拍と4拍を叩いたり、技術を見せびらかしたりする、『超絶技巧のドラマー』 であるというイメージだ。
だが、そういったイメージの継続体から一歩外側に足を踏み出してしまうと、黒人らしくないと言われる。私自身も、スイングしない、とかそういう理由でこういったコメントをもらったことが何度かある。これは、AACMの作曲家達の多くや、ミンガスさえもが直面した問題そのままだ。
ミンガスの音楽が黒人らしくない、なんて、どうしてそんなことが言えるんだろう?
アフリカン・アメリカンの音楽は聞こえる。、ゴスペルからブルース、所謂「ジャズ」と呼ばれる音楽まで。でも、同じように、ストラヴィンスキも、シュトックハウゼンもそこにあるんだ。そう、ミンガスはシュトックハウゼンのファンだったんだ。
私自身の音楽はマックス・ローチ、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンクの影響と同じ様に、トランス・ヨーロピアンの作曲家達や、アメリカの実験音楽家達、インドの音楽家達などからの影響も受けている。
まるで、私が作品を発表する際には、アフリカン・アメリカンであるという事を証明するためにブルースを弾かなきゃいけないと誰かに言われてるみたいだ。
私はゲトーに生まれ育って、ブルースを生きているのに、だ。
これ以上に彼らは私に何であって欲しいのだろう?

中略

もうひとつ、黒人の作曲家であることについてソーリーが述べた問題がある。
「アフリカン・アメリカンの作曲家が、それなりの 作曲的語彙からはみ出してしまうと、人々は眉をひそめるんだ。私はいわゆるジャズという伝統の世界を歩いてきたし、系譜としてもジャズの世界は一番近いところにあった。しかしだからと言って、いつまでもそこにじっとしていなければいけない訳じゃない。私がエクスペリメンタルやトランス・ヨーロピアンの音楽を聴き始めた時、周りの人々はすぐに驚いた顔をした。私がモートン・フェルドマンに捧げた43分のピアノ曲を書いたことは、彼らにとってはショッキングな出来事だった。私の知る限りでは、過去にそんなことをしたドラマーは居なかったからだ。ある種の人々にとっては、私がまるでわざと謀反者になろうとしているように見える様だった。
でも私は先にあげた音楽を、マックス・ローチや、ウィリアム・グラント・スティルや、ヘイル・スミス(注:全員黒人の作曲家である)と同じくらい愛している。
次世代のインド人作曲家、または次世代の南アフリカ人作曲家、なんていう紹介を我々がほとんど目にしないのはおかしいと思わないか。
白人の作曲家達は声部進行や音楽の歴史について詳しいインテレクチュアルな専門技術者として高位におかれ、黒人の音楽家達は、白人の作曲家達の演奏するものよりも、「魂」や「フィーリング」はあるのに知性はない、という位置づけをされている様に見える。
黒人のインテレクチュアルでとても重要な作品を発表している人々が居るのに、私達がそれについて聞くことがほとんどないのはとても残念なことだ。

中略

「良いか悪いかということを判断することはあまり好きではない。
何故かというと、すぐに判断しだしてしまうと、そこから学ぶチャンスを失ってしまうからだ。
判断は後に残しておけばいいし、今そこにある音楽を作っている最中には、良くも悪くも、ただ流れに身をまかせるしかないんだ。」

ダニエル・レナー、Tyshawn Sorey :Composite Realityより。
訳:蓮見今麻

参考
http://www.allaboutjazz.com/tyshawn-sorey-composite-reality-tyshawn-sorey-by-daniel-lehner.php?&pg=5

2015年2月26日木曜日

非存在としてのインプロビゼーション

インプロビゼーションと呼ばれる音楽は、まるで幻獣の様である。

実体を完全に掴むことはできない。
だから、得体の知れない存在として人々の想像の中に生きる。
時に、得体の知れない存在であるがゆえに美化され、
また時には、得体の知れない存在であるがゆえに拒絶され、
そして時には、得体の知れない存在という名の「存在せぬもの」という扱いを受ける。

実際に演奏する音楽家にとってさえ、完全なる形で捕らえ、乗りこなすことはできないのだから、
聴き手側が簡単に納得するはずがない。

存在の裏付けがされないということが何を意味するかというと、
それはその幻獣についてあなたが想像する、姿や形、動き方や性質には限界がなく、
よってあなたの想像は人間の集合体による観念に完全に支配されることがないということ。

もし幻獣に少しでも興味があるのなら、
同じように幻獣に興味を持つ人々(世間からは「変わり者」と呼ばれたりする)の提示する、
幻獣についての見解を聞いてみるだろう。
それぞれの見解は、ある「存在せぬもの」に関する個性的な翻訳の数々であり、
そこに普遍的なものはほとんど見出されない。

そこで興味を失い、「想像してみること」を放棄し、「理解する」価値を見出さないという道もある。
理解することなんてはなっから期待してはいけないのだ。
幻獣なのだから。
もし、「想像してみる」という道を選べば、
幻獣はあなたのゆく先々で、一瞬姿を見せては去り、
あなたを狂おしい気持ちにさせ、惑わすだろう。






2015年1月18日日曜日

CECIL TAYLOR ON FREEDOM

自由という言葉の意味はいつも履き違われてきた。
外側の世界の人々によって、そしてさらには「運動」の渦中に居たはずの音楽家達によって。

ひとりの音楽家がある旋律を一定の時間奏でる時、そこにはひとつの秩序が芽を出す。
その個人的秩序というものを提示する、あるいはそれについて一種の論争に高じる、
どちらにしても、もしその音楽家が、演奏によって何かを表現しようとすれば、必ず秩序はそこに存在する。
秩序なしには音楽はありえないのだ。
もしその音楽が奏者自身の内側から湧き出ているものであれば。
しかしこの種の秩序というのは、外部から抑圧されてできあがる種類の秩序の基準とは何の関係性もないということを述べておく。

つまり、大事なのは、『自由』の反対側にある『非自由』ではなく、
秩序に関するアイディアと表現を認知することそのものなのだ。
         ーセシル・テイラー(FLY!FLY!FLY!FLY!FLY!(1980)ライナーノーツより抜粋)
    


「表現の自由」について、この頃、ひとびとは考えるだろう。

ディストピアの憂鬱に視界は曇り、根幹と視野を失った「表現」が創造性の柔らかな草地を蹂躙する。
そのような世界では、私達の多くは、「表現の自由」と言う言葉を聞けば、『非自由』の概念を想起し、
あるいは、自由を搾取する存在に対する行き場のない困惑の思いを感じるだろう。

ここでセシル・テイラーが述べていること、「自由」という言葉の理解は、
このような世界に生きる私達にとって、そしてまさに、「フリージャズ」または「自由即興」とも呼ばれる類の音楽を演奏する奏者達にとって、 極めて重要である。

「自由」という言葉は、「抑圧」または「束縛」というような非自由的概念と並べて理解されるべきではなく、
「創造性」そしてそれを芸術的表現たらしめる、そのひと特有の「創造における秩序」、その色彩の豊かさと優美な統制という自発的感覚を持って理解されるべきなのだ。

このような「自由」の側面について、私達は充分に考えることをしてこなかったのかもしれない。
私は、これに、「自由」は詩的であることもつけ加えたい。
創造性そのものを幹にして生まれるものであるが故、「自由」は、詩的であることを避けられないと思うのだ。