2016年3月10日木曜日

フリーダム・ミュージック 第二回

引き続き、アーサー・テイラーによるインタビューからの抜粋で、
「フリーダム・ミュージックをどう思うか?」という問いに対するミュージシャン達の答えを集めていく。

第二回目はフィラデルフィア出身のドラマー、フィリー・ジョー・ジョーンズ。
マイルス・デイヴィスとの共演によってその名を世に知らしめたフィリー・ジョーだが、マイルス以外にもジョン・コルトレーン、ソニー・クラーク、ビル・エヴァンスやエルモ・ホープを始めとして、ジャズの歴史を形作った第一線のミュージシャン達と共演した彼の経歴は輝かしいものだ。
ざっとその経歴を見ていくと、彼の参加作品はほとんどが50年代終わりから60年代終わりにかけてのビバップにかなり忠実なタイプのものばかりだ。
その中で注目したいのが、1969年にフィリー・ジョーが参加したアーチー・シェップのリーダー作品、「Blasé」。この録音でフィリー・ジョーは、デイヴ・バレルやレスター・ボウイなど、かなり「フリー」な面々と共演している。ここでのアーチー・シェップの音楽はかなり作曲構成されてはいるものの、ビバップからはかけはなれているという点で、フィリー・ジョーがフリーダム・ミュージックの世界と交差した瞬間のひとつはあるいはこの録音に聞くことができるかもしれない。また、フィリー・ジョーは晩年近く(またはもっと早い時期から?)にサンラ・アーケストラとも共演していることも興味深い。


「フリーダム・ミュージック」という言葉には私はなんの意味もないように感じます。
というのは、私はこれまでの人生の中でいつも「フリー」な演奏をしてきたからです。
自分の楽器についての深い理解がない限り、「フリーダム・ミュージック」を弾くことは不可能だと思います。
ひとつのとびらが開かれた、というただそれだけのことです。私がいわゆる「かばん持ち」と呼ぶ輩に対して、ジョン・コルトレーンはひとつのとびらを開いたのです。奴らはかばんの中に楽器を入れて持ち歩くでしょう?そうやって一年間ほどうろうろするわけです。そうしてすぐに、もしそのような機会があれば、つまり誰かがステージにあがっていいですよと声をかければ、嬉々としてステージに飛び上がり、自分の持つ楽器についての知識も何もないままにただ騒音を出すのです。
ジョン・コルトレーンは独自の演奏をやりました。彼は奇跡的に素晴らしく、熟練したミュージシャンです。 彼は勤勉で、本もよく読みました。
ジョンは最高のミュージシャンで、自身の楽器について、上から下まで知り尽くしていた。
上から下まで、と言ったけれど、それは、楽器のてっぺんの、そのさらに上から、一番下のさらに下の方まで、ということです。彼はどんどん飛び越えていくんです。
彼がやっていたことはとても美しかったし、同時に非常に良く構築されていた。
彼が動いて音を出すたびに、見ているこっちは、ジョンは例えサックスがさかさまであったとしても上手く弾けるんだろうと思わされました。
エリック・ドルフィーもそうです。ジョンやエリックは天才でした。
彼らは自分達が何をしでかすか、完全に知っていたのです。

己を知ることです。楽器は2年やそこらじゃあ習得できはしない。
私は27年ドラムを叩いてきているけれど、自分の満足いくほどに上達できていないんです。
あのトレーンさえも、自身の技術に満足できていなかった。それでも、彼は他のサックス奏者達を超越した演奏をしました。27年演奏してきた私が満足できていないのに、2年弾いただけの「かばん持ち」が果たして満足なんてできるでしょうか?そういう人に何年くらい楽器をやっているのか聞くと、大抵の場合は4年以下なんですよ。私はドラムを始めて4年目なんかはじたばたしていたものです。ステージにあがるなんてとてもじゃないけどできなかった。
4年目の頃は、ジョン・コルトレーンを聞いていました。彼は本当に美しい演奏をしていた。
その頃は、エディー・ロックジョウ・デイヴィスや、ベニー・ゴルソンがステージに立っていました。
我々はとてもじゃないけど彼らと張り合えなかった。フィラデルフィアで、年上のミュージシャン達が演奏するのを聞く毎日でした。

<中略>

フリーダム・ミュージックには沢山のファンが居るようだけど、彼らはほとんど音楽のコンセプトについて何も知らないんじゃないだろうか?そうでなければ説明がつきません。
サンラやファラオ・サンダースの場合には、ある種の全体性というものがあります。
ええ、彼らはあの類の音楽を正しく演奏していると思う。
サンラなんかは本当に素晴らしい音楽家です。彼のようにきちんと勉強した上でああいう弾き方をするミュージシャンの演奏は私は嫌いじゃない。あまりにも遠くへ行き過ぎるということがないからです。
かなり遠くに行くことはあっても、あまりにも遠くへ行きすぎてすべてが台無しになることは決してない。
サンラは、シカゴで何年もの間美しい演奏をしてきた人です。
彼は彼なりの「コズミック・ミュージック(宇宙の音楽)」を弾くと決めた。
彼の音楽は宇宙からおりてくるのです。それが彼の感覚なのです。
あのバンド(サンラ・アーケストラのことだろう)は本当に美しい演奏をします。
毎週月曜日にはニューヨークで猛練習していました。 バンドの誰しもが素晴らしかった。
パット・パトリック、ジョン・ギルモア、みんながです。
ジョン・ギルモアとは、二年間ほどストレートな音楽を一緒に演奏しました。
だから私には彼のコンセプトが何かわかります。一緒に仕事をし始める前にもシカゴで彼が演奏するのをよく見ていたし、サンラのバンドで演奏している彼を私が見つけてからも、彼はずっと素敵な演奏をしていました。

フリーダム・ミュージックは、それを演奏できる人だけが演奏するようにしたらいいと思います。
構成を開いて、フリーな演奏をするなんて、なんでもない。
楽器と混沌だけが存在する、たまにはそういうのもいいかなと私なんかは思います。
やってみる度胸はあっても、私がたまにフリーな演奏をしようとしても、なかなか統一性というものが得られません。単に手が導くところへ手を動かしている、という感じで。何をやってもいいわけですから。
そこには限界というものがありません。
ドラマーなんかは特に、フリーな演奏をしようとしても、楽器についての基本的な知識に欠けるために、ただ単に騒音を出すだけでつまづいてしまいます。
フリーダムというのは、ただ騒音を出すということじゃないと思いますよ。
前にも言った様に、みんなが「自由」に演奏してきたのです。
ソロをとる時には、どんな風に弾いたっていいのです。それは自由そのものじゃないですか?

音楽自体は変わっていません。みんな良い音楽が好きですから。
音楽は騒音とは違うのです。誰も騒音なんて聞きたくありません。
何か普通じゃない騒音が聞こえた時に、人は「なんだこの音は?」と言うでしょう?
フリーダム・ミュージックの中にはそれとほとんど変わらないものだってあるのです。

<中略>

それを「音楽」だと呼ぶミュージシャンもいるのです。
チャールス・ロイドがそんなことを言っていました。
ほとんどがジョン(コルトレーン)が探求していたものの中から切り取ったものなのに。
テナーを弾くミュージシャン達はこぞってジョンの真似をして、そこに何かを付け加えようとする。
だけどそういう奏者の演奏を聞いていると、ジョンの弾いたフレーズばかりが聞こえてくるわけです。
彼らはジョンのレコードを聞きながら練習しています。すぐにわかりますよ。
私自身もサックスをいくつか持っていますけど、彼らはそうやってステージにあがって、誰かの弾いたフレーズをそのまま弾くんです。自分自身を弾いていない。
チャールス・ロイドのレコードは二枚ほど持っていますが、彼の演奏の中でジョンのフレーズそのままのものがいくつもあって驚きました。
ジョンのようにただただ独自のやり方で前に進むことをしないで、みんな真似ばかりしている。
ジョンはいつも前に進み続けました。
そして、やろうとしていたことを完了できずに亡くなりました。
ミュージシャンの多くが、『クリフォード・ブラウンがもう少しだけ長く生きていれば、今でも彼の演奏を聞けたのに。』とか、『バードがもう少しだけ長く生きていれば・・・』だとか言っているのを聞きますが、そういうのはなんだか変な気がします。
だって彼らが今まで生きていたとして、あの頃と同じ演奏をしているとは限らないでしょう。
マイルスは今も演奏していて、クリフォードやバードのような位置にいます。ディジーもそうですし。
凝り固まってしまったり、後ろ向きになるのではなくて、前へ進もうとしているのです。


 このインタビューは1969年の10月に行われた。丁度アーチー・シェップとのレコーディングをした年であるのも面白い。
「フリーダム・ミュージック」に対する、かなり辛辣な意見には、約半世紀たった今読んでも、フリーというコンセプトを通しての良い音楽作りを志すものとしては恐縮してしまう。彼は他人にも自分自身にも厳しい生き方をした人だったのかもしれない。
だからこそあそこまでドラムの腕前をあげることができたのだろう。
「フリー」な演奏をすることは何も今はじまったことではない、昔からみんなそうやって演奏してきた、と言っている点は、ランディ・ウェストンと同じだ。
私個人的に思うことは、「ひとの真似をせずに独自のやり方で前へ進む」ということに興味がある奏者にとっては、フリーの演奏にたどりつくことはとても自然なことなのではないか、ということ。
「フリーダム・ミュージック」とひとくくりにしても、ひとつの演奏の中で、どれくらいの割合が既に構成されたもので、どれくらいの割合が完全な即興なのか、その完全な即興の中で、どれほど既成のジャズ言語の中から汲み取った音楽的「語彙」を使うか、そういうものによって印象がかなり変わってくると思う。
音楽が「外側」に飛び出る瞬間に、そこに自由や快楽を見出すか、それとも混沌や心地悪さを見出すかは、かなり人によって受け止め方が違ってくるだろう。



出典:Notes and Tones Musician-to-Musician Interviews, Expanded Edition by Arthur Taylor (蓮見令麻訳)

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