2013年11月2日土曜日

ジャズは幻想であるか

村上春樹と小澤征爾の対談本、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んでいる。

その中で、マーラーの音楽について二人が話をする場面で出てくる会話において、
小澤氏はこう述べている。

「…日本人、東洋人には、独自の哀しみの感情があります。それはユダヤ人の哀しみとも、ヨーロッパ人の哀しみとも、少し成り立ちの違うものです。そういう心のあり方を深いところできちんと把握し、理解すれば、そしてそういう地点に立ってしっかり選択をおこなっていけば、そこには自ずから道が開けると思います。東洋人が西洋人の書いた音楽を演奏する独自の意味も出てくる、ということです。そういうことを試みるだけの価値はあると、僕は考えています。」

「表層的な日本情緒、みたいなことじゃなくて、もっと深いところまで降りていって、それを理解し、取り込まなくてはならない、そういうことですか?」

村上氏の解釈のこの言葉は、より一層感覚的な理解を深めてくれる。


この話を読んで私が思ったのはプーさんことピアニストの菊地雅章氏のことだった。
菊地氏の音楽というのは私にとっては橋の様な存在で、
しばらくの間いわゆるジャズという音楽を弾いてきた私がどうしても払拭できなかったある種の違和感から抜け出すひとつの答えを与えてもらったと思っている。

その違和感というのは、ジャズの背景にある民族性や歴史から自分自身がかけはなれているという事実からくるものだった。
もしかしたら小澤氏も、東洋人としてヨーロッパの歴史と伝統あるクラシック音楽界で指揮者として活躍する中でそういう違和感を感じたことがあったかもしれない。

いわゆるジャズという音楽には、アメリカ黒人の壮絶な歴史がうねるように絡みつき、
そのルーツにはアフリカの土着文化がある。
そういった、ジャズの持つ民族的、歴史的などろどろとした深みを、日本人である私はどう頑張っても体感はできないのだ。

何をジャズと呼ぶかということもテーマになってくる。
私の夫であるギタリストのトッド・ニューフェルドは、「ジャズという概念は幻想だ。」と先日言っていた。
確かに、ジャズという言葉の解釈は非常に主観的になりつつあるかもしれないと思う。

菊地雅章氏の演奏を初めて見たのは確か2年ほど前、場所はVillage Vanguardだった。
初めて目にしたプーさんの演奏はすでにほぼフリーインプロビゼーションで、
そこから私は年代を遡ってTethered Moonを聞いたり、Sustoを聞いたりして、度々感銘を受けたのだった。
 菊地氏はジャズの時代を生きてきた人だから、その音楽性の比較的大きな部分をジャズの伝統的な音楽の成り立ちが占めているのではないかと思うのだけれど、
彼の音楽には、何か得体の知れない、独特、固有の魅力がある。
自分が何を弾いているんだろうと疑問に思った時、菊地氏の音楽を聞くと、
大体いつも、空気がすぅっと通るような気分になるのだ。

世界中には素晴らしい音楽家達がたくさんいて、もちろん学ぶことが沢山ある。
だけれど、私たち音楽家は、自分個人のことをどれほど観察できているだろう?
これだけ情報が溢れているのもあるけれど、他の人がやっていることを賛美し観察しすぎて、肝心な自分自身の音楽と歴史、精神を見失うのは残念だと思う。
日本の音楽を聴き始めて、いかに自分の音楽観がユーロセントリック、またアフロセントリックであったか痛感している。

自分の精神の中に存在するものと、自分の身体が楽器や声を通して演奏するもの、
そのふたつの次元がきちんと繋がっていなければ、自分に嘘をついているような気がしてなんだか気持ちが悪い。
取り越し苦労になってしまったとしても、音楽に繋がっていく精神的な部分は何度も見直していきたい。




2013年10月14日月曜日

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

その技術に感激するのか。
では技術とは何か。
数学的であることか。より複雑であることか。
その音を心地よいと感じるのか。
では心地よさを求める自分とは何か。
心地よさそのものとは何か。
その音を心地悪いと感じるのか。
では心地悪さを回避しようとする自分とは何か。
人間はいつまでも心地よさを追求するか。
心地よい場所にとどまることは何を意味するか。
音楽とは楽しむものか、愉しむものか。

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

誇示する男達の自我か、
媚売る女達の因果か。
男達は自我に武器を与え戦争をつづけ、
女達はハイヒールを履いて資本と欲望に貢献する。
音楽家が楽器に自我を投影する世界では戦争は終わらない。
芸術は、向上しようとする精神の混沌とした泥から生まれる花だ。
そういった純粋な精神の淘汰すべきものは己の自我それだけである。

その音を聞いて、人はなにを思い起こすか?

音楽を選ぶ時、人は知らずと思想を選ぶ。
とすると私達の思想はいま、何を提議しているか。



2013年10月1日火曜日

桃山晴衣とその素晴らしき世界

この頃は、桃山晴衣というひとの音楽を聞いている。
三味線を弾きながら唄をうたう彼女の音楽からは、古謡という枠組みに縛られないラディカルさ、自由さ、そして拡がりを感じる。



民謡や演歌を聞く層も限られて、大衆受けのする商業音楽が流行る最中、日本に古くからある音楽を模索し、日本各地を流浪して生きる唄を創りつづけた。
稀有な才能を持つ彼女の選んだ道は、伝統を継承しながらも打破し、歴史という時間の作り出したひとつの文化の形に身を浸しながら、その文化体系の海原の深く深くへもぐりこみ、そのまま自身が芸術と一体化した、そのような印象を受けずにはいられない。そしてその専心の様を私は少なからず自分に重ね合わせている。

 私にとっては即興演奏は自由という観念を体現できる媒体である。

今の世の中を見ていると、強力な力を持して戦争と資本を操る支配層があり、
プロレタリアートは左右に立つ同じ境遇の人を見て安心するのだ。
テレビの画面を通じて見るニュースは遥か彼方で起こる物語で、いざそのドラマティックな展開が自分の隣町で起こっても、大衆はポップコーンを片手にして、スクリーンを眺めつづけるだけかもしれない。

そんなとち狂った状態の世界にいるからこそ、私たち音楽家は演奏することを選ぶのだ。
 お金や保証のために東西南北奔走しても得られない、精神の自由を音楽が私たちにくれる。
 桃山晴衣から私が学ぶことは、
大衆の仲間意識から生まれる思考なき嗜好という壁を恐れないということ。
メディアの囃し立てるそういった大衆意識は資本主義社会の大好物である。

人間が精神から体まで人間らしく暮らすために、、、、
自然との共存繁栄は不可欠だ。
そういった意識を反映する私の音楽もまた自然主義的な響きになっていくだろうと思う。
 

創作する側の私達は、いかなる芸術的内省をえてしてもただの自己満足に終わらぬために、何度も自問を繰り替えさなければいけない。


2013年4月13日土曜日

ディアスポラ的な洗練

先日書いた記事で、「ディアスポラ的な洗練」という表現をした。

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ある集団の属する文化、社会の持つ性格は、
その集団が生活している大陸という土地の持つエネルギーに精神的な影響を受けるだろう。

 土着的な文化、その土地で何百年の時間をかけて培われた文化は、
その土地のエネルギーに長い時間を包まれて、素晴らしい創造物を作り上げる。
それはそのエネルギーに密着した形の建造物であったり、そのエネルギーの形を表すような音楽やダンスとなってあらわれるだろう。
そういった創造物というのは、母の存在をいつも確実に感じて育った子供のように、地に足がついた、落ち着いた性格を持っているように思う。

一方で、ディアスポラの集団によって生み出される文化はどうだろう?
人が、生まれ育った土地を離れ、帰る場所を持たない者として生活するということは、
いうまでもなく極端に困難なことであるのは間違いない。
生来の土地のエネルギーから切り離された状況でも、創造を続けていくのが、
人間の自然な姿だろう。
そういった状況で、故郷を手放した者は容易にアイデンティティー・クライシスに陥るかもしれない。私達のアイデンティティーは、生まれ育った土地と言語に、多くの場合大きな比重を置いている。
そのような方法でアイデンティティーを確立しない場合、
人間は、ただ自分の中に「あるもの」と向き合うしかない。
そこにあるものは、名前やラベルをはって簡単に理解することができる類のものでは全くなく、
もっと本質的であり、宗教的な感覚をもっていると思う。
もちろん、口承で伝えられた、伝統の欠片はところどころにちりばめられていても、そこからもっと完成されたものを新しい土地で形作るときには、自身の直観的な創造性が求められるはずだ。

そういうプロセスを経てつくられた音楽が、アメリカの音楽なのだと思う。
このような意味で、「ディアスポラ的な洗練」という表現をした。
私にとって直観ほど洗練されたものはないと、感覚的に理解しているからだ。

 ジャズという音楽について言うと、その歴史は約1世紀弱。
その文化が、土地のものとして根付き、母性的な文化的印象をつくりあげることも可能なだけの時間がすぎているように思える。
しかし、そうならないように見えるのは、ジャズがもともとディアスポラ的な精神から生まれたものであるからかもしれない。
ディアスポラ的な洗練は、言い換えれば、「飽くことなき創造への欲求」である。
それゆえに、同じ形のまま、伝統を大事に伝えていく、というやり方がそぐわない。

ジャズは、ある意味では特殊な文化で、創造への欲求というモーメンタムを受け渡していく、「自己の内側へと深く入り込むことによって、外側とより広く繋がっていく」、そういうもののような気がする。




2013年3月28日木曜日

ブルースの心理

今回のコンサートでは、日本の唄を題材にしてフリーの即興をするという試みをした。

私はもともと音楽を勉強しに渡米し、アメリカの音楽を聴き、そのアメリカの音楽をアカデミックに分析した 観点からの音楽教育を受けた。
必死にジャズまたはアメリカ音楽というものを理解しようと切磋琢磨してきたものだから、
その盲目的な献身の副産物として、少なからず私の音楽についての理解はアメリセントリックなものになってしまっていたように思う。

アメリカの音楽は確かに素晴らしく魅力的で、
民族移動の歴史と文化的、あるいは社会的摩擦によって育てられたその創造的モーメンタムが作り出してきた蒼々たる音楽の系図は圧倒的な存在感を持つ。

その中でも私はいつもブルースという音楽的側面に心を揺さぶられるのが常で、
何度も聴いてきたのはメアリー・ルー・ウィリアムスであり、アルバート・アイラー だった。両者ともにジャズミュージシャンであるけれども、彼らのサウンドはとても土着的であり、それと同時にディアスポラ的洗練を持っている。それは純粋芸術の様なもので、大衆芸術的なアプローチをする類のジャズとはまったく違っているように思う。


でも、同じものは弾けない。


 フリーインプロビゼーションが素晴らしいのは、形式がないこと。
形が決まっていない、ルールがない、ということは、先代の奏者達の影にとらわれることがない。ただ、例えば私がメアリー・ルーのピアノがとても好きで、そのエレメントを自分の音楽の中に表現したいと思えば、音楽理論を超えたもっと空間的な部分でそれは表現できると思う。

今回演奏したインプロビゼーションのテーマにした曲は「島原の子守唄」と「りんご追分」。
興味をひかれたのはこの二つの曲の起源をたどっていくと、両方に娼婦の存在があることだ。島原の子守唄はモチーフのなかに「からゆきさん」という異国の娼館で働いた娘達のことが描かれているし、「追分」という民謡が伝わった背景にも、「飯盛り女」と呼ばれた私娼達が居たようだ。

 ビリーホリデイのことが頭に浮かぶけれど、、最悪な状況に置かれたとき人はブルースを唄った。ブルースは理論的にはメジャーコードの上でマイナースケールを弾くものであるけど、その二元的な性質がどこか、前にも書いたリチャード・プライヤーのことをビル・コズビーがあらわした、「悲劇と喜劇の間の限りなく薄い線」という言葉を思い出させる。

ブルースについて、それからブルースの中の女性性について、もっと深く考えてみることにする。



2013年3月20日水曜日

リチャード・プライヤーとボールドウィン



「リチャード・プライヤーは、悲劇と喜劇の間に可能な限り薄い線を描いた。」


ビル・コズビーはリチャード・プライヤーについてこう語ったといわれている。
最近になって初めて、1977年にNBCで放送され、たったの4シリーズで幻のように終わってしまったリチャード・プライヤー・ショー を見た。
社会を辛辣に風刺するひとつひとつの喜劇の中で、金儲け主義の教会の牧師、アメリカ初の黒人大統領、奇跡を起こすカルト的宗教の教祖などにプライヤーは扮している。
一時間程度の番組を見終わった後に、それは感じた事のない複雑な感情を私に抱かせた。
それは決してコメディを見終わったときに一般的に得る感情ではなくて、
哀しみと愉快さ、どしゃぶりの雨と晴天が全部混ざった様な、なんともいえない不思議な感情だった。
人間が何かに熱狂して我を忘れるということは興味深いもので、
その対象は俗世の辛さを忘れさせてくれる音楽かもしれないし、ただのめりこみ、信仰する以外にない何かの宗教かもしれない。
その熱狂という心理的状態が、時に人間を戦争へ駆り立て、また時には素晴らしくクリエイティブな芸術を創らせる。
そういう人間の性格そのものが、喜劇であり悲劇だ。

リチャード・プライヤーのことを考える時、自然とボールドウィンの世界を思い出す。
社会からの逸脱、疎外、孤独。怒り、愛、性、放蕩、生身の人間。
「俺もあなたのベイビーのひとりじゃないのか、マザーファッカー」と、神に対してつぶやくルーファス。

 プライヤーとボールドウィンの世界観というのは、
人間の持つ性格の幾層の深みを丁寧に観察をし、且つその層の一枚一枚の色の違いを見分ける繊細さのある人間が作り出す類のものだと思う。

雨に降られてずぶ濡れになった人は、止まない雨に悪態をつきながらも、
自身の内面にある限界のない想像の世界のビビッドな色彩を深く愛するのだ。


音楽にこの感覚を呼び起こしたい。
と思う私は、
一見冷静に見えても、まったく冷静じゃないのかもしれない。