不思議な感覚を抱えている。
満月だからかもしれない。
日本のことを考えている。
アメリカに来て、長い時間が経って、そこに居る自分という感覚が自然だ。
一方で、ニューヨークという都会に住んで、即興音楽をやっている自分、という今の自分のメインの世界を包み込むあらゆる層の自分の化身というか分身の存在について、時に考えることがある。
5年程前に、奄美大島にひとりで旅をしたことがあった。
離島の海辺のコテージに泊まった日は、8月6日だった。
コテージの外からは、波の音がして、月が煌煌と光っており、蟹達が動き回る音が聞こえるようだった。
備え付けの小さなテレビでは、白黒の第二次世界大戦の映像が流れていて、原爆についての話をしていた。
その日、私は、はかりしれない静謐さと共に、おそろしいほどの孤独も感じていた。
その孤独を感じるために私はその旅をしたのだと思う。
また別の時、カリフォルニアのメンドシーノという山の中に暮らしていた時も、
私は孤独を慈しみ、孤独を愛し、孤独をもてあましていた。
私のこころはほとんど少女であった。
その少女の精神は、精霊の存在を感じる取ること、人のこころを汲み取ることに長けていた。
早朝の誰もいない山から谷を見下ろして、薄紫色の雲が波のように空を押し寄せてくるのを眺めた。
この時のことは、まるで前世の物語のように遠い昔に感じる。
我ながら、よく都会にここまで馴染んでいるなぁと感心する。
まあ、何事も慣れではあるし、今やっていることをするには素晴らしい修行の場であるから、ここにいる。
ただ、私は、いま、自分の国のことを考えると、胸がつぶれる思いだ。
どうか物事が少しでもよい方向に向かいますように。
教育が大事だ。
問題提起をできる、自分の頭できちんと考る積極性をみんなが持たなければならない。
みんなが互いを思いやり、気遣える社会であるからこそ、それを生かして、ポジティブで新しい創造をどんどんしていける柔軟さも必要だ。
周りがこう言ってるから、とか、テレビがこう言ってるから、とかは関係ない。
自分で学習して自分の力でその学習した内容を身に付け、それに基づいて行動するのだ。
それはすなわち、教養のある人間になる、ということである。
2011年10月27日木曜日
Baldwin
ジェームス・ボールドウィンの著作を二冊。
Giovanni's Room と If Beale Street Could Talk。
人間と人間の、細かな感情の交わり合い。
情景が、手に取る様に伝わってくるような表現の仕方。
すごくリアルなのだ。
例えば地下鉄の電車に乗り込んで座った時に、目の前に座っているひとが居る。
そのひとのことは、何も知らないし、ただ脳に情報として入ってくるのは、彼/彼女の風貌のみである。
通常の感覚であれば、そのひとの人生に起こっていることに敢えて興味は持たないし、
ましてそのひとの感情のバリエーションなどには考えも及ばないものだ。
だけれど、
ボールドウィンを読んだ後は、その、他人と自分の世界を隔てるシールドの様なものを自分のマインドがいとも簡単に通り抜けてしまう感覚がある。
淡々と送られていく人生の中で、
感情を掻き乱されるという経験をひとはどれくらいするだろうか。
例えば、愛する人がある日ジェイルに行ってしまったら。
例えば、自分の、ぬるいものに包み隠された冷酷さに突然気づいてしまったら。
私は、幸せなことに、哀しみを生み出すたぐいの感情の揺れにはしばらく会っていない。
ただ、素晴らしい音楽を聞く時の高揚感は、知っている。
哀しみの陣痛も、悦びの高揚も、私達の内側から生まれる場所は、同じところのような気がする。
そして、その場所に存在するものは、時間と空間を超越する種類のものなのだと思う。
Giovanni's Room と If Beale Street Could Talk。
人間と人間の、細かな感情の交わり合い。
情景が、手に取る様に伝わってくるような表現の仕方。
すごくリアルなのだ。
例えば地下鉄の電車に乗り込んで座った時に、目の前に座っているひとが居る。
そのひとのことは、何も知らないし、ただ脳に情報として入ってくるのは、彼/彼女の風貌のみである。
通常の感覚であれば、そのひとの人生に起こっていることに敢えて興味は持たないし、
ましてそのひとの感情のバリエーションなどには考えも及ばないものだ。
だけれど、
ボールドウィンを読んだ後は、その、他人と自分の世界を隔てるシールドの様なものを自分のマインドがいとも簡単に通り抜けてしまう感覚がある。
淡々と送られていく人生の中で、
感情を掻き乱されるという経験をひとはどれくらいするだろうか。
例えば、愛する人がある日ジェイルに行ってしまったら。
例えば、自分の、ぬるいものに包み隠された冷酷さに突然気づいてしまったら。
私は、幸せなことに、哀しみを生み出すたぐいの感情の揺れにはしばらく会っていない。
ただ、素晴らしい音楽を聞く時の高揚感は、知っている。
哀しみの陣痛も、悦びの高揚も、私達の内側から生まれる場所は、同じところのような気がする。
そして、その場所に存在するものは、時間と空間を超越する種類のものなのだと思う。
2011年10月6日木曜日
- The truth that we are intended to express is that we are all larger than we know.
We are part of a grand design. There is room for our expansion.
The Universe falls in with worthy plans.
As we strive to grow larger and more expansive, the Universe seeks to expand through us. - Julia Cameron
何度もすべての作品を消しゴムで消して、自分も消え去りたいと思った時があったけど、
あの時、そうしなくて本当によかった。
何かに確実に近づいている。
私の人生の根幹を形作っていく、何か。
自分で、手探りをして、体中泥まみれになりながら、涙を垂らしながら必死で探していた。
みつからなくて、あー、もう駄目かもなあ、なんて、
とりあえず仰向けに土の上に寝転んでみたら、
目に映るのは、一輪の鮮やかな花が、秋の澄んだ空に揺れている様。
それを見て、「あー これだ。」
無理しなくても、そこにあった。
っていうような感覚。
We are part of a grand design. There is room for our expansion.
The Universe falls in with worthy plans.
As we strive to grow larger and more expansive, the Universe seeks to expand through us. - Julia Cameron
何度もすべての作品を消しゴムで消して、自分も消え去りたいと思った時があったけど、
あの時、そうしなくて本当によかった。
何かに確実に近づいている。
私の人生の根幹を形作っていく、何か。
自分で、手探りをして、体中泥まみれになりながら、涙を垂らしながら必死で探していた。
みつからなくて、あー、もう駄目かもなあ、なんて、
とりあえず仰向けに土の上に寝転んでみたら、
目に映るのは、一輪の鮮やかな花が、秋の澄んだ空に揺れている様。
それを見て、「あー これだ。」
無理しなくても、そこにあった。
っていうような感覚。
2011年9月29日木曜日
芸術の系譜
ジェームス・ボールドウィンの『ジョヴァンニの部屋』を読み進めているうちに、
山田詠美の書く世界との共通点を見つけた。
人間の、複雑で、生々しく、どうしようもない性。
それはいつも愛情と哀しみから生まれてくる。
私達の住む世界のそういう部分を、長い間私は見逃してきた。おそらく、故意に。
孤独を謳歌し、人の深い感情の湖に、自分の手を敢えて濡らし、水を掬ってみるということを避けてきた。
ボールドウィンを読みながら、その小説の中の世界に没頭していく中で、
並行して自分自身を取り巻く世界に同じ匂いのするストーリーが静かに流れていることに気づいた。
この一見なだらかに見える変化は、大きなインパクトを私の人生にもたらしつつある。
アリスコルトレーンのオルガンの演奏がインド古典音楽のハーモニウムの演奏からの水脈を受け継いでいる、
ということにもやっと気がついた。
自分の魂が、求めている芸術の形、それには、系譜の様なものがある。
その系譜を辿っていく事は、私の魂が求めていることを紐解いていくことでもある。
山田詠美の書く世界との共通点を見つけた。
人間の、複雑で、生々しく、どうしようもない性。
それはいつも愛情と哀しみから生まれてくる。
私達の住む世界のそういう部分を、長い間私は見逃してきた。おそらく、故意に。
孤独を謳歌し、人の深い感情の湖に、自分の手を敢えて濡らし、水を掬ってみるということを避けてきた。
ボールドウィンを読みながら、その小説の中の世界に没頭していく中で、
並行して自分自身を取り巻く世界に同じ匂いのするストーリーが静かに流れていることに気づいた。
この一見なだらかに見える変化は、大きなインパクトを私の人生にもたらしつつある。
アリスコルトレーンのオルガンの演奏がインド古典音楽のハーモニウムの演奏からの水脈を受け継いでいる、
ということにもやっと気がついた。
自分の魂が、求めている芸術の形、それには、系譜の様なものがある。
その系譜を辿っていく事は、私の魂が求めていることを紐解いていくことでもある。
2011年9月6日火曜日
小さい頃から絵を描くことが好きで、画家になりたいと思った時もあった。
ピアノも好きだったけれど、自分が本当にいつでもやりたいと思うのは、絵を描くことだった気がする。
色彩というものに、魅了された子供だった。
それは、小学生の時に露草や朝顔などの花からつくった色水、夏に庭に咲き乱れた百合の花、
夜に咲いた月見草の群れ、空き地でおそるおそる眺めた彼岸花などの色彩のイメージだった。
近頃、対するスタンス、そして内容的なものも、私の音楽は、painting に近いものになりつつある。
フリー即興演奏を始めてから、限りなく感覚的な奏法を用いているため、コードを選んで弾く感覚、単音を散らしていく感覚というものが、絵の具をキャンバスに落とす作業の様に感じるようになった。
私が即興演奏によって表現したい世界観というのは、Emily Kngwarreyの描くアボリジナルアートの世界観である。earthyで、spiritual、そしてpeaceful。
木や花や人の様に、芸術作品というのは、ひとつとして同じものは存在せず、
それぞれに魂が宿っているもの。
不完全であったり、一見、不格好なものに、魂が宿っている。
そして、その一見不格好なものを、不格好で価値がない、と捉える価値観というのは、それだけの価値観である。
人が「不格好だ」と言って、ある対象を嘲笑する時、
嘲笑される対象は、時に、おそろしく洗練された見識眼で、その嘲笑という行為を受け入れる。
その対象が、自身の「不完全さ」という美を賛美する限り、嘲笑は風となって消え、
嘲笑する者達は、己の知らぬ間に、対象の美の存在感により圧倒される。
ピアノも好きだったけれど、自分が本当にいつでもやりたいと思うのは、絵を描くことだった気がする。
色彩というものに、魅了された子供だった。
それは、小学生の時に露草や朝顔などの花からつくった色水、夏に庭に咲き乱れた百合の花、
夜に咲いた月見草の群れ、空き地でおそるおそる眺めた彼岸花などの色彩のイメージだった。
近頃、対するスタンス、そして内容的なものも、私の音楽は、painting に近いものになりつつある。
フリー即興演奏を始めてから、限りなく感覚的な奏法を用いているため、コードを選んで弾く感覚、単音を散らしていく感覚というものが、絵の具をキャンバスに落とす作業の様に感じるようになった。
私が即興演奏によって表現したい世界観というのは、Emily Kngwarreyの描くアボリジナルアートの世界観である。earthyで、spiritual、そしてpeaceful。
木や花や人の様に、芸術作品というのは、ひとつとして同じものは存在せず、
それぞれに魂が宿っているもの。
不完全であったり、一見、不格好なものに、魂が宿っている。
そして、その一見不格好なものを、不格好で価値がない、と捉える価値観というのは、それだけの価値観である。
人が「不格好だ」と言って、ある対象を嘲笑する時、
嘲笑される対象は、時に、おそろしく洗練された見識眼で、その嘲笑という行為を受け入れる。
その対象が、自身の「不完全さ」という美を賛美する限り、嘲笑は風となって消え、
嘲笑する者達は、己の知らぬ間に、対象の美の存在感により圧倒される。
2011年9月1日木曜日
たまに、 全部、 手放してしまいたい欲求に駆られる。
こだわりとか、
自分はこういう人間だ、という思い込みとか、
そういうものから自分自身をすべて解放したところには、
自由が存在している。
自由ほど、こわいものはない。
自由を手にした時、人間は、創造という「性」の内なる存在に気づき愕然とする。
創造するということは、継続である。
その創造における自らの不能を垣間見る時、人間は生存の危機に近いものを感じるのかもしれない。
しかし、その継続性というものを実現するためには、
仏教的円環思想の観点から言えば、創造と共に、破壊が存在することが自然である。
破壊が存在してはじめて、創造が継続される。
----------------------------------------------------------
when you emancipate yourself from
clinging to things
or subjective labeling of oneself as being certain ways,
you see freedom.
freedom that you dread.
nothing else is more dreadful.
you stare at a handful of freedom in amazement,
realizing your undeniable urge for creation.
creation exists within continuity.
a glimpse of the fact
that you have just little authority over that flow of creation
gives you a shiver
the feeling that is very much like a struggle for life itself.
now,
to attain the continuity
the cyclical view of life is much helpful
for it shows us the meaning of construction and destruction.
may both sides be celebrated, as sacred parts of creation.
こだわりとか、
自分はこういう人間だ、という思い込みとか、
そういうものから自分自身をすべて解放したところには、
自由が存在している。
自由ほど、こわいものはない。
自由を手にした時、人間は、創造という「性」の内なる存在に気づき愕然とする。
創造するということは、継続である。
その創造における自らの不能を垣間見る時、人間は生存の危機に近いものを感じるのかもしれない。
しかし、その継続性というものを実現するためには、
仏教的円環思想の観点から言えば、創造と共に、破壊が存在することが自然である。
破壊が存在してはじめて、創造が継続される。
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when you emancipate yourself from
clinging to things
or subjective labeling of oneself as being certain ways,
you see freedom.
freedom that you dread.
nothing else is more dreadful.
you stare at a handful of freedom in amazement,
realizing your undeniable urge for creation.
creation exists within continuity.
a glimpse of the fact
that you have just little authority over that flow of creation
gives you a shiver
the feeling that is very much like a struggle for life itself.
now,
to attain the continuity
the cyclical view of life is much helpful
for it shows us the meaning of construction and destruction.
may both sides be celebrated, as sacred parts of creation.
2011年8月18日木曜日
Terry Riley
坂本龍一氏の著書、「音楽は自由にする」(このタイトルは、"music sets you free"という意味とも"play music freely"とも取れるのが面白い)の中で紹介されていたレコードを入手。
Terry Rileyの音楽を初めて聴いた。
Music for the Gift/Bird of Paradise/Mescalin Mix(1960-1965)
"Music for the Gift"にはChet Bakerも参加していて、ジャズの演奏が主体になっているのだが、
そこに加えられたマニュピュレーションがとてつもなく格好良い。
"Mescalin Mix"については、ピアノ、テープ処理、ボイスを用いて創られており、
アルバムに乗せられているインタビューには、その当時ペヨーテに彼が音楽的、経験的な上での影響を受けていたことが述べられている。
"Shri Camel"(1980)
このアルバムは、彼に最も影響を与えたと言われるインド古典声楽の名人、Pandit Pran Nathからライリーが学んだものの集大成である、とライナーノーツに述べてある。
そして、一見(一聴)するとオリエンタル、東洋音楽的な雰囲気があるのにも関わらず、
その音楽を構成するのは、オルガンであり、西洋的なテクノロジー、音楽倫理に基づいている。
ライナーノーツが素晴らしいので、一部、訳してみた。
「この音楽の反復的、円環的構成は時間の存在しない無限性を表すオーラを作り上げている。
ライリーの高揚感のあるリリシズムは私達の想像とスピリットを未だかつて訪れたことのない空間へと誘う。この内的静穏と精神的な冒険が重なり合う経験は、臨床のアルファ波的現象に近いものがあるが、これは単なるメタファーに過ぎず、実際の音楽的経験を確実に描写するには事足りない。
このような精神的経験ついては、必ず誰しもが気持ちよいと感じるものではないだろう。
『手放す』こと、そして子供の精神を持つことができない者達にとっては、恐ろしく、脅威的な経験となりうるかもしれない。
しかし、体の内側に存在する知恵を体感できる者、そして高次意識への受容性のある者にとって、
テリーライリーの音楽は強い魅力を持つだろう。
『グローバルな精神』の裏側にあるからだと精神のための音楽であり、
『新しい時代』のための音楽であり、
現在の世界における、新しい宗教的意識の誕生のための音楽である。」-Hugh Gardner
最近、合わせて、アフリカ、ピグミー族の音楽を聴いてきたのだけれど、
彼らの歌に存在する美しいポリフォニーにとても似た音がテリーライリーの音楽の中で聴けたのも面白いと思った。
Terry Rileyの音楽を初めて聴いた。
Music for the Gift/Bird of Paradise/Mescalin Mix(1960-1965)
"Music for the Gift"にはChet Bakerも参加していて、ジャズの演奏が主体になっているのだが、
そこに加えられたマニュピュレーションがとてつもなく格好良い。
"Mescalin Mix"については、ピアノ、テープ処理、ボイスを用いて創られており、
アルバムに乗せられているインタビューには、その当時ペヨーテに彼が音楽的、経験的な上での影響を受けていたことが述べられている。
"Shri Camel"(1980)
このアルバムは、彼に最も影響を与えたと言われるインド古典声楽の名人、Pandit Pran Nathからライリーが学んだものの集大成である、とライナーノーツに述べてある。
そして、一見(一聴)するとオリエンタル、東洋音楽的な雰囲気があるのにも関わらず、
その音楽を構成するのは、オルガンであり、西洋的なテクノロジー、音楽倫理に基づいている。
ライナーノーツが素晴らしいので、一部、訳してみた。
「この音楽の反復的、円環的構成は時間の存在しない無限性を表すオーラを作り上げている。
ライリーの高揚感のあるリリシズムは私達の想像とスピリットを未だかつて訪れたことのない空間へと誘う。この内的静穏と精神的な冒険が重なり合う経験は、臨床のアルファ波的現象に近いものがあるが、これは単なるメタファーに過ぎず、実際の音楽的経験を確実に描写するには事足りない。
このような精神的経験ついては、必ず誰しもが気持ちよいと感じるものではないだろう。
『手放す』こと、そして子供の精神を持つことができない者達にとっては、恐ろしく、脅威的な経験となりうるかもしれない。
しかし、体の内側に存在する知恵を体感できる者、そして高次意識への受容性のある者にとって、
テリーライリーの音楽は強い魅力を持つだろう。
『グローバルな精神』の裏側にあるからだと精神のための音楽であり、
『新しい時代』のための音楽であり、
現在の世界における、新しい宗教的意識の誕生のための音楽である。」-Hugh Gardner
最近、合わせて、アフリカ、ピグミー族の音楽を聴いてきたのだけれど、
彼らの歌に存在する美しいポリフォニーにとても似た音がテリーライリーの音楽の中で聴けたのも面白いと思った。
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