2019年2月3日日曜日
ABIDING DAWN
去年の暮れから制作を開始したソロアルバム、『ABIDING DAWN』が完成した。
前回の記事から繋がる話なのだけれど、
子供を生んだのが2017年の夏。
それから2018年の暮れまで、両手で数えられるほどしかライブをしなかった。
環境の変化や親として全うしなければならない責任を考えると仕方ない。
とにかくアウトプットする機会も、外に出て他のミュージシャン達と交流する機会も圧倒的に減った。
そういう環境の中で何ができるかと考えた時に、
私に残されていた道は、自宅録音で音楽制作をすることだった。
うちではセッションやレコーディングをこれまでに100回以上は行ってきているから、
幸い、楽器も機材もそれなりに自宅スタジオに揃えてある。
パートナーでエンジニアリングもこなすトッドと話し合い、このアルバムを制作することに決めた。
自宅録音というアイディアを実行することになったのは、
やっぱりプーさんの影響が大きい。
晩年のプーさんは、自宅のピアノで膨大な量のソロピアノを録音して、
それを繰り返し大音量で聞いてはまた新しいものを録音するということを繰り返していた。
プロのレコーディング・スタジオで、よりすぐりの機材を使用して録ったものと違い、
自宅録音には、時に恐ろしいほど親密な、ある種の生々しさがあると思う。
『ABIDING DAWN』の録音で使用したピアノは、スタインウェイのモデルCというコンサートグランドピアノだ。
一生音楽をやっていくことを自分に約束するために、自宅用のグランドピアノを探し始めた頃、
プーさんにピアノのことを聞いたことがあった。
その時に話してくれたのはこんな内容だった。
モデルCなら、自宅の一部屋でも丁度良い大きさで響くし、モデルBやAなどの多少サイズが小さいものよりも低音がしっかりしている。
(彼の場合はロフトだったけれど、アメリカでピアノを置くような部屋は、ある程度の広さがあることが多い。)
それから、何ヶ月もかけてモデルCを探して、運命的に出会ったピアノを自宅に運び入れた。
そのピアノを今でも定期的に調律してくれているのは、
長年プーさんのピアノを調律してきたベテランの調律師だ。
彼は、スタインウェイピアノのことを知り尽くしている、とても謙虚で繊細な感覚を持った人で、
彼は確か父親もまたスタインウェイで働くピアノ職人だった人で、ピアノ工場で遊びながら育ったという生粋のピアノマンなのだ。
これまでにリリースした2作品ではできなかったこと、
ソロだからこそできる表現を試してみたいと思い、
KORGのアナログシンセサイザーをオーバーダブした楽曲や、ソロピアノ、朗読などを取り入れて、
ひとつのナラティブとして仕上げた。
このアルバムは、アリス・コルトレーン、アーサー・ラッセル、マタナ・ロバーツ、ムハル・リチャード・エイブラムスなどから受けた影響が強く出ていると思う。
実際に、アリス・コルトレーンに捧げる楽曲「monument eternal」も収録されている。
ちなみに、
このアルバムのイメージを頭の中に描いていた時に繰り返し浮かんできたのが、「夜明け」の情景だった。
子育てという気の遠くなるような時間、否応なく感じる疎外感や孤独、
そういったものが長い「夜」だとしたら、この音楽が「夜明け」を宣言してくれるのではないかという期待から「夜明け(Dawn)」という言葉を使おうと当初は思っていた。
だけど、考えれば考えるほどに、
私はある意味では、シンボルとしての太陽に対して大きな期待や愛着は感じておらず、
できることなら夜明けにずっと包まれていたいと感じていることに気づいた。
その不完全な美、暗闇と光の交差する場所、刹那的時間、静けさ、に惹かれる。
そういうわけで、このアルバムのタイトルは「永久的な(Abiding) 夜明け(Dawn)」 になった。
アルバムのリリースは3月1日。
東京・福岡のライブで先行発売するので、是非聞きに来て下さい。
2019/2/13(水) 公園通りクラシックス(東京)
蓮見令麻SOLO『COSMIC SOUNDSCAPE』
(piano/voice/pre-recorded synthesizer)
開場:19:30 / 開演: 20:00
予約:¥3,000 当日:¥3,500 学生:¥2,500
http://koendoriclassics.com/
2019/2/14(木) 神保町試聴室(東京)
蓮見令麻SOLO『文学x即興:サミュエル・ベケットの世界』
(piano/voice)
開場19:30 / 開演20:00
予約3,000円(1ドリンク、スナック込)※学生1000円引
http://shicho.org/
2019/2/20(水) NEW COMBO(福岡)
『蓮見令麻& 長沢哲SOLO+DUO』
蓮見令麻(piano/voice) / 長沢哲(drums)
開場19:00 / 開演20:00
予約:¥3,000 当日:¥3,500 学生:¥2,000
http://newcombo.sakura.ne.jp/
2019/3/9(土) 箱崎水族館(福岡)
蓮見令麻(piano) / 武井庸郎(drums) / アックス小野(bass)
19:30~
http://www.hakosui.net/
2019年1月28日月曜日
アーティストが母親になるとき
前回ここに書き物をしてから、随分と時間が経ってしまった。
2017年に出産した息子は今年6月で2歳になる。
妊娠・出産は、個人的には人生の中でまったく予期していなかった出来事で、それまでは目の前にある音楽を最優先事項としてきた暮らし方が180度方向転換することになった。
振り返れば、この2年はとにかく内側に向かい続ける時間の連続だった。
もともと内向的な性格の私は、1人で過ごすことが全く苦痛ではない。
どちらかといえば、黙々と、人知れず、何かに没頭する時間を大事にする方だ。
だからこそなおさら、
妊娠中には、歩き回るのも電車に乗るのも億劫になり、
子供が生まれたら、今度は子供の世話と仕事で忙しくなり、
音楽を人前で弾く回数も、人の演奏する音楽を見に行く回数も随分と減ってしまった。
これから先、少しずつ復帰していこうという所存ではあるけれども。
母親になるという、あまりにも陳腐であまりにも壮大な出来事に、
創作者としての自分が当たり前のように身に纏っていたデカダンスはいとも簡単に剥ぎ取られてしまった。
抽象的な感覚を音にすることは、その抽象的世界にある程度身を浸して生きるということだ。
おむつや哺乳瓶に翻弄されながら、そこに抽象的な美を見出すことは、不器用な私にはとてもできなかった。
アウトプットを出来ずにいる時間が徐々に増えて、
表現すべきものが自分の中にまだ棲息しているのかどうかさえ分からなくなった頃、
このまま私は「ただの母親」になるのだろうか、という恐怖に襲われるようになった。
それは恐怖でもあり、安堵でもあった。
私は、このまま「ただの母親」になってしまえば楽だろうに、と同時に感じていたのだ。
この瞬間に、私は初めて、自分の創作生活の終わる場所を目撃した。
チラリと見えたそのフィニッシュテープは、
地平線のかなたでゆらゆらと蜃気楼のように揺れているような気がした。
一方で、私が生み出した小さな人は、
何の躊躇も恐れもなく、朝から晩まで表現して、表現して、表現していた。
その圧倒的な求心力とよろこびは、私の浸りきっていたデカダンスとは真逆に位置するものであり、
私はその爆発的なエネルギーに、たじろぎ、憧れた。
時に一歩下がってその異質さを眺め、時に抱きしめてその率直さに寄りかかった。
そういうわけで、
物理的に時間が許すときでさえ、どんな表現が今の私にとって正直なのかわからず右往左往する始末だった。
こどもを生んで数年もしないうちに、
哺乳瓶やおむつがリュックサックや長靴やパズルや宿題やなんかに変化していく毎日の中で、
「自分の表現」を十分に出していくことができる人は、
きっとものすごく強い意志と行動力を持っている人なんだろうと思う。
私はまだ、バランスを上手く取りかねている。
こどもとの距離感も、音楽との距離感も。
息と止めて踏ん張って何かを必死に掻き集めて作り出すのはどこか違う気がする。
とりあえずは心のおもむくままに、「表現すべきもの」を眠らせ、走らせ、佇ませようかと思う。
そういえば、
私の中に棲む「表現すべきもの」の生態は、どこか「小さな人」の暮らしぶりに似ている。
2017年に出産した息子は今年6月で2歳になる。
妊娠・出産は、個人的には人生の中でまったく予期していなかった出来事で、それまでは目の前にある音楽を最優先事項としてきた暮らし方が180度方向転換することになった。
振り返れば、この2年はとにかく内側に向かい続ける時間の連続だった。
もともと内向的な性格の私は、1人で過ごすことが全く苦痛ではない。
どちらかといえば、黙々と、人知れず、何かに没頭する時間を大事にする方だ。
だからこそなおさら、
妊娠中には、歩き回るのも電車に乗るのも億劫になり、
子供が生まれたら、今度は子供の世話と仕事で忙しくなり、
音楽を人前で弾く回数も、人の演奏する音楽を見に行く回数も随分と減ってしまった。
これから先、少しずつ復帰していこうという所存ではあるけれども。
母親になるという、あまりにも陳腐であまりにも壮大な出来事に、
創作者としての自分が当たり前のように身に纏っていたデカダンスはいとも簡単に剥ぎ取られてしまった。
抽象的な感覚を音にすることは、その抽象的世界にある程度身を浸して生きるということだ。
おむつや哺乳瓶に翻弄されながら、そこに抽象的な美を見出すことは、不器用な私にはとてもできなかった。
アウトプットを出来ずにいる時間が徐々に増えて、
表現すべきものが自分の中にまだ棲息しているのかどうかさえ分からなくなった頃、
このまま私は「ただの母親」になるのだろうか、という恐怖に襲われるようになった。
それは恐怖でもあり、安堵でもあった。
私は、このまま「ただの母親」になってしまえば楽だろうに、と同時に感じていたのだ。
この瞬間に、私は初めて、自分の創作生活の終わる場所を目撃した。
チラリと見えたそのフィニッシュテープは、
地平線のかなたでゆらゆらと蜃気楼のように揺れているような気がした。
一方で、私が生み出した小さな人は、
何の躊躇も恐れもなく、朝から晩まで表現して、表現して、表現していた。
その圧倒的な求心力とよろこびは、私の浸りきっていたデカダンスとは真逆に位置するものであり、
私はその爆発的なエネルギーに、たじろぎ、憧れた。
時に一歩下がってその異質さを眺め、時に抱きしめてその率直さに寄りかかった。
そういうわけで、
物理的に時間が許すときでさえ、どんな表現が今の私にとって正直なのかわからず右往左往する始末だった。
こどもを生んで数年もしないうちに、
哺乳瓶やおむつがリュックサックや長靴やパズルや宿題やなんかに変化していく毎日の中で、
「自分の表現」を十分に出していくことができる人は、
きっとものすごく強い意志と行動力を持っている人なんだろうと思う。
私はまだ、バランスを上手く取りかねている。
こどもとの距離感も、音楽との距離感も。
息と止めて踏ん張って何かを必死に掻き集めて作り出すのはどこか違う気がする。
とりあえずは心のおもむくままに、「表現すべきもの」を眠らせ、走らせ、佇ませようかと思う。
そういえば、
私の中に棲む「表現すべきもの」の生態は、どこか「小さな人」の暮らしぶりに似ている。
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