全聾の天才作曲家と謳われた佐村河内守氏のほぼ全作品が、実のところは新垣隆という別の作曲家の作品であったというニュースが世間を賑わせている頃、
私は指揮者小澤征爾と作曲家武満徹の1984年に発行された対談集、「音楽」を読んでいた。
小澤氏は対談の中でこう述べている。
「音楽の本質は公約数的なものではなく非常に個人的なもので成り立っていると思うんだよ。」
「音楽会へ行って三千人すわっていても、その三千という数が問題なのではなく、一人ひとりとの関係が重要なんだよ。中略 根本的なところから発しているから、受け入れられ方の幅がうんと広いわけ。
だからレコードが何枚売れたとか、有名だとか、超一流だとか二流だとか三流だとか、ヘッポコだとかは重要でないわけ。一番大事なのはね、もしかすると、人間と音楽が根本的にどこでつながるかにあるんじゃないだろうか。」
そして武満氏。
「実際には、音楽家は自分の考えで音楽をやる以外にはない。結局、最初に話に出たように、実際に音楽をやる気がないような、ある種の太平ムードの中で、なしくずしに意欲を失っていては自分の感受性にたとえあり余るものを身に受けていても、自分が積極的になれない以上は、ものをみきわめる力が、どんどん失われていくのはやむを得ない。」
私が怖いと思うのは、現代の資本主義社会において、大衆の目にするもの耳にするものがプロパガンダに支配されたマスメディアという媒体に限定されることにより、人々の嗜好(または思考)の一元化がなされてしまうということである。
または、人々がある一定の思想、つまるところはメディアを筆頭とするマジョリティーの支持する思想やイメージに太平を求め落ち着いてしまうという状態。
こういった状態に私達の社会は一歩も二歩も入り込んでしまっているように思える。
多様性を消してしまうことは、自然界の成り立ちにも反するし、
私達の世界を極めてロボティックにしてしまう恐ろしさを秘めている。
このことを頭の片隅に置いて、私達は何かを「良い」と言う時に、
自分自身にこう問いかける必要があるかもしれない。
「自分は何を根拠にこれを良いと思うのか?」
「何らかの集団に属したいという欲望のために良いと言っていないか?」
「個人としての自分の判断にどれほどの価値を見出すことができるか?」
少なくとも、この問いかけをして、自らの思想を決定する自由を、未だ我々は手にしている。
武満氏の言うように、意欲を持って生き、良いと思うものをみきわめていけたらと思う。