デュークの演奏するピアノには、いつでも音楽の向かう道筋に灯る絶対的な光の様なものが存在している。
それは、演奏における「迷いの無さ」という奏者の主体的な感覚としての印象というよりも、音楽を通して何かに「奉仕する」という、ピアノの向こう側に居る対象の存在を浮かび上がらせるようなイメージである。そのピアノの向こう側の対象というのは、彼の音楽に耳を傾けるオーディエンスなのかもしれないし、あるいはデュークの言うところの「たったひとりの神」そのものであるのかもしれない。
このアルバム、"The Pianist"は、1966年のニューヨーク録音と、1970年のラスヴェガスでの録音を合わせたもので、すべてピアノ・トリオの編成での演奏が収録されている。
ニューヨークではJohn Lamb(bass)、Sam Woodyard(drums) 、ラスヴェガスではVictor Gaskin/Paul Kondziela (bass)とRufus Jones(drums)という顔ぶれになっている。
ラスヴェガス録音の部分は、ニューヨークのものよりも若干ピアノの聞こえ方が遠いのが惜しい気がするけれど、そんな思いを掻き消すくらいにデュークの演奏は圧倒的だ。
Duck Amok での厚い和音を重ねていく演奏には確実にオーケストラの残響が聞こえ、
そのブルースとリズムの感覚は「ジャズ」という言葉を辞書で引いたらそのままの音が聞こえてきそうなくらいに断定的だ。
かと思えば、そのすぐ後の Never Stop Remembering Bill の演奏において、デュークは優しさ、エレガンスとロマンチシズムというほとんど別人とも思えるような全く異なった表情を見せている。
それぞれの演目における雰囲気の対比の明瞭さは、悲劇と喜劇の限りなく薄い境界線についてきちんと知っている、才能ある俳優を思わせる。
デュークのピアノ演奏はとてもシンプルだ。
彼ほどに、たった一音で多くを語れるピアニストはそうそういない。
デュークの叩く鍵盤から響くひとつの音には、その一音が持ちうる最大限の「意味合い 」が詰まっている。それはできれば小説にして読みたいくらいに魅力的なストーリーの数々の欠片の様なものだ。
デレック・ジュウェル著「デューク:ポートレイト・オブ・デューク・エリントン」に、こんなデュークの言葉が記されている。
「私はジャズ(の曲)を書いているのではない。黒人の民族音楽を書いているんだ。」
「我々は長い間、ジャズという旗の下で働き、戦ってきたけれど、(ジャズという)言葉そのものには何の意味もない。ジャズという言葉にはある種の謙遜のようなものがある。」と、デュークは1968年にラジオで述べた。
彼はまぎれもなく大衆の持つジャズにおけるブラック・ゲットーのイメージを暗喩していた。
デューク・エリントンほどにエレガンス、知性、才能、そしてカリスマを兼ね備えた音楽家にとっては、ひとつのラベルによって彼自身の音楽がひとくくりにされてしまうのはひどく息苦しいことだったのかもしれない。そう考えると、エリントンという名前が今も「ジャズ」の代名詞の様にうたわれることは皮肉なものである。
ジュウェルは第一章をこのように締めくくっている。
デュークが亡くなった時、 何万人もの人々にとっての灯火が消えた。
彼らは、デュークがステージでいつも声高に宣言したのと同じくらいの愛を、デューク・エリントンという人とその音楽に対して持っていた。キャラバンは止まった。だが、音楽と、彼の残した文化的遺産は継続していく。
デューク・エリントンのピアノ演奏は、一見すれば、様々なやり方で綺麗にラッピングされ、開けれられるのを待っているギフトボックスの様であるとも思う。
計算されつくしたわかりやすさ、まるで「あなたのために」とでも書いてあるかのように愛と奉仕精神に満ちた曲と演奏の数々。そのエレガンスと器の大きさという包装紙を何枚もめくっていくと、内側には何が隠されているのだろう?そんな私達の愚鈍な疑問を優雅な笑みでかわし続けるデュークの弾く先にはやはりいつも圧倒的な光が照らしだされ、その音楽を聞く私達は彼を通してその光を知ることができるのだ。
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