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2015年12月15日火曜日

MATANA ROBERTS "Coin Coin Chapter Three"


マタナ・ロバーツのコイン・コイン・チャプター・スリー:リヴァー・ラン・ディー(2015, Constellation Records)を聞いた。

古めかしく懐かしくも、未来的で真新しくも聞こえるこのアルバムは、あらゆる種類のフィールド・レコーディング、サックスのオーヴァーダブ、マタナ自身のヴォイス、ノイズ音などのコラージュからなるキャンバスに、ところどころ遠くで響く様な聞こえ方でサックスのソロが入り込んでくるという不思議な構成を持っている。
構築された「リズム」という側面がほとんどないことがひとつの特徴と言えるかもしれない。全体の基盤を形作るのはドローンの様な音で、その音はアルバム全体に大きなひとつの織り物のような、または音で描かれた絵画のようなイメージを与えている。
それぞれの音の奥行きと、グレゴリー聖歌のようなコーラスの残響には宗教音楽的なものも感じられた。
一方で、聞けば聞くほどに、これはある種のフォーク・ミュージックなのではないかという思いも浮かび上がる。
マタナのサックス演奏はブルースに満たされているし、ところどころに聞こえる子守唄の様な歌声や静かな話し声を聞いているとトニ・モリスンの物語の世界にトリップしたような感覚さえ覚える。
どこかに、フォーク・テイル(おとぎ話)の風情があるのだ。
もしかすると、この音楽を聞く人は、どこか恐ろしく、覗いてはいけないような気分にさせられる一方で、懐かしく暖かい気持ちにもなるという複雑な二重の感覚を経験するかもしれない。


クリストファー・スタックハウス氏によるマタナ・ロバーツへのインタビュー内容がとても興味深いのでBOMB Magazineの許可を得て、下記に訳文を掲載する。
創作における「純粋さ」の可能性、そしてAACMの潮流を受け継ぐ新世代のシカゴミュージシャンとしてのアプローチ、アメリカ黒人史における社会的変遷とアクティビズムからの影響などについてロバーツは話している。要約した箇所もあるので、気になる方は下記のリンクより英語での原文も読んでみてほしい。

スタックハウス(以下S):会話という手段が使われず、そこに音楽と音のみが存在する状況では、時代を経た物語はどのように表現され得るでしょうか?純粋な音そのものによって、先祖代々の歴史的な経験を包括し、明瞭化してそれを「現在」に持ち込むことは可能だと思いますか?パフォーマンスだけではなくて、音楽全般において、ということです。

ロバーツ(以下R):純粋な音がそういったものを反映できるかどうかはわかりませんが、抽象作品にはできると確信しています。私には歴史というものが様々な点で無意味なものに思えることがあります。私にとって歴史は直線的なものではありません。いつも円環的に繰り返すものです。
このトピックは私が今研究している音と伝統を使った作品制作において注目していることでもあります。
プロジェクト自体は直線的に進むように形作られているけれども、実はそうではない。直線的なやり方であれば、このソロ作品が最初に発表され、チャプター・ワンが次に、そしてチャプター・トゥーがその後にくるはずです。音によって伝達される感情の純粋さそのものが、聞く側を、そしてパフォーマーとしての私自身を明らかに導いてくれます。
音は感情を再生することができ、それにより「違い」と「苦難」のあらゆる境界線を超えることもできます。
音というのは、私の呼ぶ「経験の子宮」というものの中で様々なものを縫い合わせることもできます。私は、作品をライブで仕上げていく、または、ライブにおいて作品を作品足らしめるということに挑戦しています。完全であることは決してないのです。音楽家や、アーティストの参加者、そして目撃者としての参加者、皆をひとつに集めて、この経験の子宮を通過し、その音を見つけるというのは、私にとっては純粋さに立ち戻るということになります。このような種類の音の持つ純粋さが包括する感情が、私の試みの根幹にあるものに人々を引き寄せてくれるのです。

S:シカゴという街はあなたの音楽や性格、エトスに影響を与えていますね。あなたが育ったところは人種分離された街で、さらに興味深いのはその街が商業用の倉庫街としてハイチ系の黒人であったジャン・バプティスト・ドゥサブルによって作られたということです。シカゴは、深い意味でのアフロセントリズム(黒人中心主義)に根付いた沢山の音楽とアートを創りだしてきました。この街は黒人中心主義的な文化の生まれた場所であり、労働における政治運動や革命的思想の中心地でもあります。フレッド・ハンプトン(黒人社会運動家でブラックパンサー党の指導者)も、ここで政治的に成長し、そして暗殺されました。この街にハウス・ミュージックが育ち、ブルースが帰りつきました。あなたにとって、精神的な面で、そしてインテレクチュアルな面でシカゴはどのような影響を与えましたか?
現在もあなたの中にシカゴは存在していますか?

R:私のシカゴでの経験は色々な顔を持っています。私の家系の者の多くは、30年代、そして40年代にシカゴへ移ってきました。私の両親ともにシカゴ生まれですが、父は研究者で、私が10代の時にシカゴに戻る前まではニューヨーク州のイサカや、ノースカロライナのダーハムなどを転々としていました。 シカゴ独特の政治的な気風から出てきたアーティストとしてのプライドを私は持っています。
両親がその当時シカゴで運動が始まっていた黒人ユダヤ教に傾倒していた為に、私はマタナという名前をつけられました。マタナには、ヘブライ語でギフトという意味があります。私の兄もヘブライ語の名前をつけられました。だけど弟だけは、ほんの一時期だけ両親がネーション・オブ・イスラムに傾倒したためにアラビア語の名前を持っています。
私はこの時期の私の家族の物語が好きです。その後、私の両親は少しだけブラック・パンサーとも関わりを持ちました。彼らは若かったのです。母は18歳の時に私を産みました。私は両親がそうやってシカゴのアフリカ系アメリカ人にとっての重要な政治的変遷を渡り歩いていくのを目撃することができたのです。
私の祖父母そして総祖父母も、投票権と共同体の編成のための草の根運動を支援していました。
南部からシカゴへ移動してきた最初の世代として、シカゴのアフリカ系アメリカ人達には一種の自尊心というものが芽生えていました。
去年私はミシシッピ、ルイジアナ、テネシーなどの場所に旅をして、子供の頃に経験し、(シカゴの様な)中西部にはそぐわない様に思えたシニフィアンやコードについて初めて理解することができました。

ー中略ー

S:アミリ・バラカがブラック・アーツ・ムーヴメントに対して定義したところの黒人のラディカルな伝統という枠組みの中にあなたの音楽は含まれると思いますか?

R:どちらとも言えません。何故人々が私とブラック・アーツ・ムーヴメントを結び付けたがるのかに関して理解はできますが、私の作品はアメリカにおいてあらゆる境界線を跳躍するラディカルな経験に対する信条なのです。バラカを始めとする、最初の波に乗った沢山のアーティスト達の創造なしには、私の作品が生まれることはありませんでした。
私は最後の時まで彼らのようなアーティスト達と繋がりを持っていたいですが、それと同時に、私の作品を、ただの黒人歴史月間のためだけのものでなく、ある種の「アメリカらしさ」という感覚として理解して欲しいとも願っています。
私の作品が、黒人歴史月間以外においてとりあげられることがないとすれば、それは私にとっては受け入れがたいことです。アフリカ系アメリカ人のアーティスト達が、彼らの作品の多面性や複雑さを無視され、一箇所に追いやられてしまうというのが私は好きでありません。それはまるでオークションにかけられるようなものです。アメリカ史の早い時期に起きた出来事とだけ自分を関連付けて存在することは不可能です。そういう捉え方には精神的にとても疲れてしまうようになりました。

S:アメリカという国家を、アフリカ系アメリカ人の経験したことと切り離して考えることは不可能だと私は考えています。文化的にも、政治的にも、そして社会的にも、その経験こそがアメリカをひとつに束ね、革新的に現代的社会を作り上げたと思います。
私達の社会はこの黒人的、アフリカン・アメリカン的側面のおかげで、所謂「モダン」という定義を超える何かの最先端に位置することができています。
ここで審美的な話になりますが、文化的な偏見なしに、完全に客観的で、音そのもの以外の何物とも一切の関係を持たない、純粋な音というものは存在すると思いますか?

R: そうですね、おそらく、ある意味では。私はほとんどの自由時間を小さな舟の上で過ごしています。今は近くにある運河に浮かんだ舟に住んでいます。舟に乗っている時は、純粋さに包まれた音を経験することができます。でも仕事中に私が奏でる「純粋な音」というものは、アフリカン・アメリカンの経験との関連性へと繋がっていきます。私にとってこのような純粋さとは、歴史の持つ「痛み」という種類の音です。
その生々しさは、文化という枠組みを越え、人間らしさという枠組みの中へと入っていくのです。
それはあるいは矛盾であるかもしれません。モダニスト的な審美眼というレンズを通す時、そこからアメリカの歴史はどこかに押しやられてしまいます。そういうやり方にはリスペクトがないのではないでしょうか。モダニズムは、過去の信仰や宗教などを理解しようと努めてきました。しかしアメリカの歴史、中でもアフリカン・アメリカンの歴史は、忌々しい宗教的歴史を基盤としています。白人、男性的、父権的な宗教という基盤です。
私は、アメリカにおいて黒人で女性であることに対しての自分の感覚に基づいた感覚的な行動のルールに基づいて活動しています。


ー中略ー

 R:この国でアフリカン・アメリカンの女性の持つ特権と、アフリカン・アメリカンの男性が持つそれの深い溝に関しては話が長くなりそうです。
実際にこのけだものの腹の中に入ってしまわなければ決して気づくことのない溝です。
若い世代の人々がデモを引っ張っているし、最前列にいるのは若いアフリカン・アメリカン女性達です。私が若い時に母や祖母、叔母のサポートを受けて経験した黒人のフェミニスト運動とはわけが違います。 
新しい何かが育まれつつあるのです。私の作品は、盲目な現代社会を生き延びるための杖の様なものです。 何が起こるのかは分からないけれど、ひとつだけ歴史において希望が持てることは、歴史はいつも解決を提示してくれたということです。この国が、否定に基づいて建国されたということをきちんと理解しない限りは、永久的な解決さくなどは何もありませんが。
すぐには変化は訪れないでしょう。ですから、アメリカのアーティスト達は、私達が前に進む責任があるということを思い出させられるような作品を作ることが大事です。 私がアーティストとして選ぶ物事にはこういったことが関係しています。


Bomb Magazine

http://bombmagazine.org/article/742833/matana-roberts
 
The interview with Matana Roberts by Christopher Stackhouse was commissioned by and first published in Bomb Magazine, issue 131, Spring 2015. © Bomb Magazine, New Art Publications, and its Contributors.
クリストファー・スタックハウスによるマタナ・ロバーツへのインタビューはBomb Magazineにより委託され、2015年春の第131号で発行されている。訳文:蓮見令麻)




2014年7月31日木曜日

「方向の変化」以上のものを 〜つづき〜

このインタビューを読んで、私は穏やかな感嘆を覚えた。
ヴィジョン・フェスティバルでのマシュー・シップ・トリオの演奏は、まさにシップ自身がインタビューで述べている内容通りの表情を私達に見せてくれていたからだ。
ピアノ、ドラム、ベースという伝統的なピアノトリオの構成。
今までの彼の作品よりも、もっと「馴染みやすい」、「ジャズ的」サウンド。
きっと彼は、とても頭の冴えた、そして優しい人なのだろうと、つい私などは想像してしまうのだけれど、
感性の細やかな人だからこそ、オーディエンスへの橋渡し、という感覚を音楽的実験の中に取り入れたりできるのかもしれない。
しかも、マシュー・シップはそれを、自身の音楽的理想を犠牲にせず、限りなく繊細なバランスを保って成し遂げている。
彼の少し以前の演奏は、もうすこし荒いというか、どすのきいたフリージャズピアノという感じがあった。そこから、今のもう少しオーディエンスにとっては入り込みやすい演奏への試みをする課程において、どういう心境の変化があったのだろう?

フリーのピアノトリオ演奏で、私がすぐに思いつくのは、セシル・テイラー、そして菊地雅章のふたりだ。
セシル・テイラー:フィール・トリオの混沌と舞踏、 または菊地雅章:テザード・ムーンの静謐さとエレガンスとも違う、独自のスタイルをマシュー・シップ・トリオは持っている。
トリオのメンバーそれぞれが独立した、個々の音の表情を演出する。
それでいて、そのバランスや一体感は研ぎ澄まされていた。
演奏の中で、静寂や激情といった表情の変化は豊富にあるのだけれど、そこで決して遠くへ行き過ぎない、統制を保っているのだ。
大人のする恋愛ってこういう感じだろうか。
特に印象に残っているのだが、 ドラマー、ウィット・ディッキーが、大きな体の背筋を伸ばし、 目を瞑って、ただスネアドラムだけを長い間叩き続ける様子はまるでどこかの僧侶が一心に瞑想をしながら木魚をたたく姿の様であった。
それくらい、内省的な音楽だ、という印象を得たということだが、
内省的であると同時に、音のエネルギーは確実に聞く側に差し出されている。

インタビューの中で、彼はこう言っている。
「ひどい文化、社会の状態とのバランスをとるためにも、音楽家達は、例え自分達が稼げなくても、
この種類の音楽(主にフリージャズのことだろう)を継続していかなくてはならない」と。

世の中の人々の多くの眼が利益とコンフォート(居心地の良さ)に向いている中で、
純粋に芸術への専心、という活動をする芸術家、音楽家の存在は、
大げさではなく、そういった世の中のバランスをとるはずだと私も思う。

少し前に書いたものの中で、自己決定権という話をしたが、これはもちろん音楽に対する姿勢に関しても同じことが言える。
演奏する側は、利益が例えでなくとも、自分がその作品を信じている限り、魂を投じて演奏すればいいのだし、演奏を聞く側も、他者からの評判を頼らずに、自分の感性と判断のみを信じて鑑賞するしないを決定する、そういうスタンスがこの種の音楽においては求められる。
そしてそういう姿勢こそ、「大衆」というひと括りの枠が価値基準になっている現在の世界で、私達が今見直していかなければいけないことだと思うのだ。


最後に、与謝野晶子の、「愛、理性及び勇気」より以下を引用したい。

ほんとうに芸術を愛そうとすると、世間の評判なんかに拘泥して居る余裕はありません。
寧ろ世間の評判なんか害こそあれ何にもならないという気が起こります。
自分のまだ知らずに居る 漠然とした大きな生命を ー真実をー 一寸よりは二寸、一尺よりは二尺と云う風に深く掘り下げて覗かせてくれる芸術ほど好い芸術だと思います。
そう云う芸術を余計な仲介者無しに自分自身で発見しようと心掛けることが芸術を鑑賞する唯一の態度でしょう。
鑑賞とは、芸術の奥に宇宙の真実を透感し体験することです。
芸術家の特異な心意気や巧妙な言い回しやに感服することでは無い、断じて無いと思います。
真実は無限、無量無際です。如何なる芸術家でも真実の全部を窺うことは出来ません。
その一角を誇張して、その一角に繋がった奥行を或程度まで深く浮き出させることが芸術の使命です。





2014年7月29日火曜日

「方向の変化」以上のものを

ヴィジョン・フェスティバルで感銘を受けたマシュー・シップのトリオ。
リリースされたトリオのアルバムや、マシュー・シップの歩いてきた音楽シーンについての、
Jazz Right Nowのシスコ・ブラドリーによる、ピアニスト、マシュー・シップのインタビュー。
(2014年3月)


ブラドリー:
マイケル・ビシオとウィット・ディッキーとの共演でリリースしたアルバム、Root of Things(Relative Pitch, 2014)は何か新しい方向性というもの示しましたか?

シップ:
新しい方向性というのが正しい表現かはわからない。もしかしたら、もっと強烈な形での融合というのが合った見方かもしれない。
私は確実に、以前よりももっと「ジャズ」のサウンドに足を踏み込んでいる。
このトリオは、伝統的なピアノ・トリオのような、馴染みやすい種類の音の世界への見せかけの橋渡しをしているが、音楽的方向性そのものは、音と律動の連続体だ。
それは、より深く、違った角度から、ただの「方向の変化」以上のものを導き出すということ。
今回書きだしたいくつかの素材のフォーカスは、私が今まで書いた曲のテーマとは少しエネルギーも方針も違う。


ブラドリー:
ウィット・ディッキー、そしてマイケル・ビシオと、ここ何年か一緒に仕事をしてきたのはどのような経験でしたか?

 シップ:
ウィット・ディッキーのことは80年代の終わり頃から知っていて、それ以来ずっと親しい仲なので、その間の細かい課程とかそういうことは覚えていない。家族の様な感じだから。
彼は私の演奏スタイルにとってパーフェクトなドラマーだ。
マイケル・ビシオと私は何年もの間知り合いで、実際に一緒に演奏するまでに何度も共演の話はしていた。共に演奏した最初の一音を聞いた瞬間に、互いに家族の様に感じた。
ふたりとも、とても親しい間柄だ。

ブラドリー:

80年代頃から今まで、ウィリアム・パーカーやデイヴィッド・S・ウェアなどとの共演でシーンの潮流を起こしてきましたが、その当時のニューヨークのシーンや雰囲気について話してもらえますか?

シップ:
80年代の初めの頃は、ダウンタウンのアヴァンギャルド・シーンでは、いわゆる黒人派と白人派が分離されていた。ニッティングファクトリーで白人も黒人も皆が演奏するようになって、ダウンタウンのアヴァン・シーンというアイディアがより一体となった感じがする。それまでは、ウィリアム・パーカー派とジョン・ゾーン派という風に分かれていたし、それ以外にもアップタウンのウィントン・マーセリスを筆頭とする伝統派とダウンタウン派の黒人と白人両方の間の分離もあった。
こういった種類の分離は未だ存在している。
ダウンタウンの黒人派は、80年代初め、3つの出来事が起こるまで、全く注目されなかった。
ひとつめに、スウェーデンのシルクハート・レコードが来て、チャールズ・ゲイルやデイヴィッド・ウェア、Other Dimetions in Music、私自身や他のミュージシャン達を録音し始めた。
ふたつめは、オルタナティブやパンク・ロックのレーベルが、フリージャズを録音しはじめ、さらにオルタナティブ、パンク・ロックのミュージシャン、サーストン・ムーアやヘンリー・ロリンスがダウンタウン派のミュージシャンを起用して録音したこと。
最後に、ヴィジョン・フェスティバルが立ち上がり、成長していったことで、この種類の音楽への国際的評価が得られたこと。
この3つの出来事のおかげで、デイヴィッド・ウェア、ウィリアム・パーカー、私自身、ウィリアム・フーカー、ロイ・キャンベルなどは色々な事をできるようになった。
もちろん、ウィリアム・パーカーの成功はものすごい仕事への熱意と数えきれないほどのプロジェクトへの専心によって得られたものだ。
デイヴィッド・ウェアは一匹狼で、ダウンタウンの黒人ミュージシャンの傘下にはいなかった。
だけど、やはりこの一連の動きからの恩恵は受けていると思う。

ブラドリー:
クリエイティブな音楽をやっているミュージシャンにとっては、ニッティングファクトリーの時代とダイナミックなシーンを懐かしむことは珍しいことではないと思いますが、どうしたらそのようなダイナミックなシーンを再築することができると思いますか?それとも違った方向へと押し進めるのが良いのでしょうか?

シップ:
新しい方向へ進んで、何か違ったことを始動させる方がいいだろうね。
ニッティングファクトリーはとにかく中心的な場所そしてイメージになったし、あるレベルではその場所と音楽における継続性を創ったけれど、アーティストそれぞれがそこから抜け出す方法も創りださなければいけない。

ブラドリー:
この5年間で、ニューヨークのクリエイティブな音楽シーンは良くなったと思いますか、悪くなったと思いますか?

シップ:
私は自分自身のプロジェクトにフォーカスしているし、生き残っていくためにはいろいろとやることがあるので、シーン全体のことを知ることは難しいし、この質問は答えにくい。
私は50代半ばなので、20代や30代の時の様に外を遊び歩くことはないんだ。家にいるのが好きだし。ブルックリンに沢山クラブがあるのは知っているけど、ほとんどは行ったこともない。
色々な音楽的活動もあるようだけれど、よくは知らない。
私が思うに、社会全体がとても嫌な場所になってきているし、文化全般が浅はかなものに成り下がっている今、この種類の音楽は、ミュージシャン達が稼げていてもいなくても、継続していかなければならないものだ。ひどい社会文化の状態とバランスを取るためにね。
たとえ天気が悪かったとしても、ーいつも悪いものだけどー 一番重要なことは、人々がそれぞれの活動を活動するということだ。
こういった動き全体にはもしかしたら宇宙意志なんてものが働いていて、
私達がお金を稼げるかどうか、またはダウンビート誌に評価されるかどうかというのは、
宇宙意志の計画にとっては重要ではないのかもしれない。
質問に答えるとしたら、もちろん、今のこの音楽シーンの状態は悪いよ。
文化そのものがバランスを欠き、フェイクなものになっている中で、このシーンだけが良い状態でいれることなんて無理だろう。けれど、だからといって、そういう状況が、本物のアーティストが活動をしていくことの妨げにはならないはずだ。

ブラドリー:
これからリリースされる予定のもの、グループなどありますか?

シップ: トリオのRoot of Things、イヴォ・パレルマンとの共作がふたつ、ダリウス・ジョーンズとのライブ録音、それからゲストとして参加している、The Core Trio、ドラマーのジェフ・コズグローブのグループ、それからサースティー・イヤーのためのソロ録音もする。

ブラドリー:
ダリウス・ジョーンズとのCDについてもう少し聞かせてもらえますか?

シップ:いくつかのギグでライブ録音したものを厳選したCDが数カ月後にリリースされます。もちろん、AUM Fidelityから。ダリウス・ジョーンズと演奏するのは大好きだ。彼はこの音楽における輝く光のひとつだ。多くのリスナーがまだ聞いたことはないと思うが、彼は音を引き伸ばしたり伸縮させたりすることができるんだ。まるで巣を編む蜘蛛の様にだ。彼の音は、本当にオーガニックな可能性を秘めている。ひとつの言語とも呼べるものだ。

ブラドリー:
もしニューヨークのクリエイティブ音楽シーンでひとつ変えることのできるものがあるとすれば、何でしょう?

シップ:私達がしていることが、他の音楽に比べて「out」(はみ出している、おかしい)と思ってしまう感覚。アーティストが、自身の感じている本物の感情をもとに創造しているのであれば、その創造物は「out」ではなく、ただそれはありのままにそういうものなのだ。




引用:Jazz Right Now 
訳:蓮見令麻


2014年6月3日火曜日

ヴィジェイ・アイヤーのスピーチ 



ピアニスト、ヴィジェイ・アイヤーのスピーチが最近話題になった。
ジャズの世界で市民権を握る黒人ではなく、まして白人でもない、
アジア系マイノリティのアーティストであるアイヤーの視点から見た、ジャズ批評について、
コミュニティを作り、社会活動と芸術活動と連動させていくことの重要さなどについて話している。


私自身は、アメリカに来た2002年当時、アメリカ黒人史の講義を受けたりして、
ジャズとアメリカという国における歴史的背景との関連性をできるだけ理解しようと努めてきた。
その当時はその作業に夢中だったのだが、在米5年を過ぎたあたりからは、
音楽に集中し、そのような社会的な事を考える機会は年々減っていたように思える。
アメリカにおいては、人種について何か言及することは、ある種のクリシェであり、
所謂リベラルな人々にとって、人種差別などというのはもってのほかの古臭い話題であるという風潮もある一方で、未だに社会的な場面では人種の問題が声高に論議される一面もある。

ジャズの世界での話をすれば、
音楽の評価における人種的偏見は、極めて微妙な形でだが、存在していると感じる。

在学時代に教えを受けたピアニスト、ジョージ・ケイブルスに、私はジャズと人種の関係についての問いを投げかけたことがあった。
その時に、ジョージは少し間をおいてから、優しい物腰でこう言った。
「ジャズは、黒人の所有する音楽ではないけれど、黒人の経験から生まれたものだよ。」
「この曲を教えてあげよう。」と言って彼が弾きだしたのは、
Lift Every Voice and Singという、アフリカン・アメリカンの国歌とも言うべき曲だった。

ジャズのすべてを吸収したかった私は、この曲も習得したし、ブルースもひたすら勉強した。
だけれど、ある時点で、所謂「ジャズ」と呼ばれるもの、スタンダードやブルースを弾くことに面白みを感じなくなっていった。そういうものを弾く時、表現の根本とも言える、私の精神の深みに存在する『何か』と、音楽の響きそのものが符合しなくなっていた。
その時に初めて、自分はアジア人で、日本人なのだということを客観視しはじめたと思う。

今自分が生きている社会の中で、自分の生まれ育った背景に忠実な形で、
純粋な表現をしたい、そう思った時に、目の前に開いていたのはインプロビゼーションの世界だった。
何年か、インプロビゼーションジャズの世界に身を置いてきたが、
特に最近、夫とそのような話をよくすることもあって、社会的興味と自分のアーティストとしてのスタンスが繋がり始めていた感じがあった。

今この時期にジェン・シューがやっていることや、ヴィジェイ・アイヤーのスピーチの内容なんかは、
私が感じていることとの繋がりもあるし、なんだか大事なことの様な気がしている。

ジャズという音楽は、アメリカ社会の根底にあるものを反映してきた。
奴隷制度があり、市民権運動があり、資本主義大国アメリカのアメリカ中心主義があり、
人種の多様性があり、そのひとつひとつがジャズの中になにかしらの形で反映されていった。

移民のルーツを持ったコミュニティとして、アジア人として、私達はこうやって表現していく、という
自らのアイデンティティを尊重した表現の提示をしていくことは、私達自身と他者、両方の想像力を育ててくれると思う。

音楽や表現というものが存在しなかったら、政治にも社会にも希望を持てないのではないか。
だからこそ、音楽家・芸術家は、芸術作品が人間のラディカルな発想の喚起を促す可能性を持っている、ということを自覚した上で表現していくことが必要とされる時代なのかもしれない。


 以下がスピーチの内容です。

(翻訳:蓮見令麻)
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皆さん、
今回初めて、アジア系アメリカ人のイエール大学卒業生として、世代を越えて集まった皆さんとお会いできたことを、嬉しく、誇りに思います。

ご存知ない方のために説明しますが、
私はピアニスト、作曲家、即興演奏家、バンドリーダー、エレクトロニック・ミュージシャン、そしてプロデューサーです。おそらくジャズの世界では私のことを知る人が多いと思いますが、
同時に私はそのジャズというカテゴリーにあてはまる内容と、そうでない内容を両方創作してきたアーティストとして一般的には知られています。ごく最近、私はハーバード大学の音楽学部の教授にも就任しました。

私は、皆さんとまったく変わらない、ひとりのアジア系アメリカ人ですし、
これまでに、このような機会において様々な人々によって述べられてきた物事以外に、私が提供できる叡智などは特にありませんが、
今日は、「私達」についてのお話をしたいと思います。

イエール大学というのは、インドで財産を築きあげた、特権階級の、裕福な帝国主義者、エリフ・イエールの名前から由来しています。
そのような場所に戻ってくるということは、私にとっても非常に面白いことです。
 1687年から1692年まで、エリフ・イエールは、イギリスの東インド会社のインド、マドラス(現チェンナイ)の交易所Fort St. Georgeの知事でした。
そしてこの土地は、私の祖先が生まれた場所でもあります。
後に、イエールは、不正所得と東インド会社に対する数々の冒涜により、知事を退任させられました。

この様な事実により、エリフ・イエールのことをイギリス東インド会社のジョージ・ブッシュまたはミット・ロムニーと呼べるかはわかりませんが、
とにかく、監視の目のない状況での、彼の帝国主義的略奪は、様々な物事を動かす動機となりました。
エリフ・イエールは、1700年代の始め、
この学校(イエール大学)に多額の寄付をできるほど裕福になり、
結果として学校の正門に彼の名前がつきました。
私達が何をして、どのような機関を設立しようと、私達イエール大学の卒業生は、エリフ・イエールの家元にいるというわけです。

現在、私自身も、何世紀という歴史のあるもうひとつの教育機関会社(ハーバード大学のこと)に毎週趣き、教鞭を取るわけです。
その度に私は、ナイジェリア系イギリス人のアーティスト、インカ・ ショニバレの、
"complicity with excess"ー「贅沢の共謀」いう言葉を思い出します。

私達がアメリカ人としての道すじというものを考え、構築し、それを応用していくプロセスにおいて、私は自分自身がこのような国のシステムの中の共謀者のひとりであるという事実を考えずにはいられません。
構造のなかの不平等性、支配のパターン、恐ろしい奴隷と暴力の歴史。
そういったものすべてにおいてです。
いまこの場所にいる私達のほとんどが、そのようなシステムにおいて「成功」した結果、ここにいるわけです。
そうやって私達はイエール大学に入学し、 周りの人々に「最も成功した人」ともてはやされます。
もしかすると、私達の中には、自身の成功の証明を確認するため、今週末ここに集まってきた者さえいるかもしれない。(中略)
アメリカで成功するということは、アメリカという国家の意義にある意味では賛成することにもなり、
また、アメリカの醜い過去を認め、消化したということにもなるのです。

そういった事も考慮にいれながら、とりあえずは「成功」という話を置いておき、
別の観点から我々について話してみましょう。

あなた達と同じように、私自身も、大人になってからのほとんどの間、「私達(アジア系アメリカ人のこと)」について考えてきました。
コミュニティについて、どこに属するかということ、アイデンティティー、連合。
アメリカ人らしさ、アジア人らしさ。
法学者カレン・シマカワの近年の研究において、彼女がアジア系アメリカ人の状況・経験を理論的に説明する為に使っている「国民的消沈」という言葉が非常に興味深いのです。
それは、私達のここでの生活というのは、
アメリカ人らしさを尊重した上でなお、常に人種的境界線に立ち、
「アメリカ人であることはどういうことか」を考えるフロンティアでいなければならないというものです。


この「私達」に関する問いは、私にとっては、ただなんとなしに考える思考の羅列以上の意味があります。
1992年にイエール大学を卒業してから、私はずっと外の世界で文化的な仕事をしてきました。
18のアルバムをリリースし、何百ものコンサートをこなし、
アルバムやパフォーマンスはテレビ・ラジオでブロードキャストされ、
いかにも何千という批評を受けてきました。
その結果として、私がアイディアを形にし、探求し、提議し、繋がっていくものを作ってきたものに対する、ローカルなものと国際的なもの、両方の反応をリアルタイムで経験してきました。

この私自身の経験は、主に北アメリカとヨーロッパが舞台でした。
さらにこの経験は、ジャズという、アメリカにおいてもっとも人種的な葛藤を孕んだ文化的表現を背景にしていました。この不可思議で、ごちゃごちゃしていて、競争的でもある、ジャズという文化です。
この音楽は、一般的には、ブラック・パワー、またはリベラルな白人の「カラー・ブラインドネス(人種間の軋轢に対し、精神的に関与しない)というスタンスの間で理解されてきたものです。

アフリカン・アメリカンのコミュニティの力、
または、アメリカ黒人の「ブラックネス(社会的、文化的、黒人らしさ)」に対する、白人、または外国人によるフェティシズムに寄り掛かった、文化理解、芸術理解というわけです。


過去20年間の間に、幾度となく、私は人種についての会話に参加してきました。
今となっては、私はジャズの世界において、安定した継続的な位置を獲得することができました。
私はジャズ界におけるサクセス・ストーリーの一員となったわけで、それに関しての文句は何もありません。ただ、その「物語」が、どのように語られるか、ということを観察しているのです。

例えば、何度も、(ほとんどの場合、ジャズの世界で発言する立場にある白人男性によって)
私の作品は、「数学的」で、「技巧的」、「偽物のジャズ」、「コンセプチュアルすぎる」、「オタクのためのジャズ」、「不協和音」、「アカデミック」、そしてつい最近、「失敗作」と呼ばれました。

数年経つうちに、人種的な内容がこのような批評の中に付随するようになりました。

『アジア人にはソウルがないので、アーティストになろうと努力するだけ無駄であり、
特に「ブラックネス」というイメージの直結する(ジャズの様な)分野においては、見込みがない。 』
しかしこれは白人の純粋に直観的でインテレクチュアルではない批評であり、
多く存在する白人のジャズミュージシャンに対してはこのような批評は無縁なのです。

1990年代の初めに、私はUCバークリー大学で、物理学専攻の博士課程にありました。
同時に、オークランドでアフリカン・アメリカンのミュージシャンをメンターとして音楽の勉強もしていました。 また同時に、Asian Improv Arts(アジア人即興芸術)というアジア系アメリカ人の活動家アーティストのコミュニティの一員でもありました。
この団体は、30年以上前に、ジョー・ジャン、フランシス・ワン、マーク・イズ、フレッド・ホーなどの面々により設立されたものです。

そしてこの団体は、アフリカン・アメリカンの連合体としての政治、そしてアクティビズムの功績から直接的な影響を受けました。
音楽業界の上部構造を回避し、彼らは自分達自身のレーベルを立ち上げます。
私は彼らの恩恵を受け、最初の二枚のアルバムをこのレーベルから出すことができました。
ベイエリアの大きなアジア系アメリカ人のコミュニティの期待を受け、
San Francisco Asian American Jazz Festivalを始めとする様々なイベントも運営しています。
アジア系である、という共通点を彼らは様々な形で利用してきました。
それは、異国風のアジア・ジャズ・フュージョンを作るとかではなくて、
創造的探求の場所のため、多様性を分かりやすく表現するため、フェティシズムからの脱却、
アンチ・オリエンタリズムの改造、そしてコミュニティ運営の実践という形で、です。
そうやって、Asian Improv Artsは、アジア系アメリカ人のコミュニティメンバーが集まり、様々なものを作り上げる場所と機会を提供してきたのです。

彼らは、若くクリエイティブなアジア系アメリカ人のミュージシャンのひとりとして私を暖かく迎え入れてくれました。
その当時、私にとっては、「アジア系アメリカ人」の連合に私のような南アジア人が入り込むことができるかどうか疑問でした。

西海岸の人種的構造は今と少し違い、何世代も続く日系アメリカ人と中国系アメリカ人のコミュニティに、わずか30年あまりしか存在しない南アジア系アメリカ人のコミュニティは圧倒されていました。
シリコンバレーとクイーンズを除いては、私達の数は圧倒的に少なかったのです。
さらに言うと、南アジア系と東アジア系の間には、連帯感の様なものはまるで存在しませんでした。
ですから、最初は、私達が同じ困難を共にする者として自分達をひとくくりにするのには、
まだ早いのではないかと、戸惑いを感じたのを覚えています。

それは、北カリフォルニアにおける、インド由来のものすべてに対する傲慢な文化的関連性とも混ざり合った感情でした。
ヨガや瞑想、お香やタンプーラ(ドローンの一種)、タブラ、インド風ネックレスに腕輪にビーズ、
そういうものすべてに魅了されるアメリカ人にとって、 北カリフォルニアは聖地の様な場所でした。
もしこの数週間のうちにベイエリアに行く機会があれば、アジアン・アート美術館に行ってみてください。興味深いヨガについての展示があります。
この展示に、私の友人でアーティスト、デザイナーのチラーグ・バクタが参加し、膨大な数のエフェメラのコレクションを出しています。その名も、『ヨガをする白人』という、物議を醸すタイトルです。

この作品は、20年前に私が南アジア系アメリカ人として通りぬけ、抵抗してきた物を象徴しています。それは、異国風のものを好み、取り入れようとしてきた白人の文化的雑食性の傾向のことです。
アーティストとして旅をし、様々な場所を見た結果、ベイエリアの白人が、ジャズやヒップホップ、そしてすべての黒人文化に対して、同じようなスタンスで接していることに気付きました。
黒人のアイデンティティやコミュニティを提示するという強気な態度ではなく、
白人が身につけたり、収集したり、または白人の主観性に取り込んでしまうというフェティシズムという形で、です。


南アジア系のアメリカ人という存在自体がアメリカ社会において新しく、
人々は私達が誰で、どんな背景を持っているかをよく知りませんでした。
私達がひとつの集団として主流文化に初めて登場しだしたのは、1990年代、私の世代が成人した頃のことです。
私達は、1965年以降の、西欧圏の外からやってきた移民の医者、科学者、エンジニアなどの両親のもとに生まれた最初の世代の子供達でした。
私達は、言ってみれば、希望を持ち、ある程度の教育を受ける特権と階級を持ち、
またある程度の文化的な不透明さを持った、新しいタイプのアメリカ人だったのです。


私が最初のアルバムをAsian Improvのレーベルから出すという話をアングロ・アメリカンのパーカッショニストにした時のことをよく覚えています。
彼は、まるで私が重大な間違いをおかしたような表情でこう言いました。
「インドがアジアの一部だなんて知らなかったな。」
私は、インドは南アジアに位置しており、それはアジアのうちに入るのだと思うと言いました。
彼の返事はこうでした。
「だったら、僕は北西のアジア人だな。そのレーベルから僕もレコードを出せるかな。」
それは、8年生の時に、クラスメイト達が私に向かって「サンチェス」とか「フィリッペ」とかいう南米風の名前を叫んできた時の感じによく似ていました。
私達は、基本的には、異なった経験の額ぶちに入れられ、認められず、存在を認識されることもほとんどない、「謎」の種族でした。

Asian Improvの仲間達、それから敬愛するアフリカン・アメリカンのメンター達に育てられ、
90年代に私のアーティストとしてのプロジェクトは始動していきました。
めぐり合わせ、コラボレーション、コミュニティ、そういったものに突き動かされて、
私はあらゆる種類のことを試しました。

他のアジア系アメリカ人や、アフリカン・アメリカン、異なった人種の人と様々な共同プロジェクトを行ったのも、コミュニティという概念を熟考し、動かし、試し、また時には批判するためでした。
コミュニティとは何か?
私の友人で政治科学者のカラ・ウォンは、彼女の「義務の境界線」という本の中で、
「個人のマインドの中にある、類似性、従属、仲間意識を感じさせる集団に対してのイメージ」n
という風にコミュニティを定義しています。

コミュニティとは、私達の想像の賜物とも言えるでしょう。
これは政治学者ベネディクト・アンダーソンの重要な識見でした。
そして、この想像する力のおかげで、コミュニティという概念は現実世界に反映されていくのです。
カラ・ウォンは彼女の本の中でこのようにも述べています。
「自己定義された共同体意識は、個人の興味、価値やイデオロギーの内容にかかわらず、
共同体のメンバー皆がより良く生きていくという目的に対しての興味、そして責任を促します。 」

9・11以降、南アジア系アメリカ人のコミュニティはあらゆる困難に直面してきました。
(テロを理由に中東系の者に対するヘイト・クライムが多発したため)
他者と、社会的主張を共有していく課程で、私達は自分達自身がもっと大きい存在であると想像することを学びました。
アフリカン・アメリカンのライター、グレッグ・テイトは、2001年に私に向かってこう言いました。
「人種別尋問の世界へようこそ。」

私達は、自分達自身の宗教的、文化的多様性を自覚し、認めざるをえませんでした。
シーク教徒、ムスリム、キリスト教徒、ジャイナ教徒、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人、ネパール人、インド人、アフガニスタン人、ブータン人、そしてアラブ、中東、アフリカの北と東、東アジア及び東南アジア、すべてのディアスポラ、そしてもちろん、アフリカン・アメリカンにラティーノ。
有色人種の他のコミュニティも含めた、圧倒的な多様性です。
私達が共有していたのは、困難とそこから生まれる主張、恐れや監視、疑惑、パラノイア、円満する不平等の雰囲気でした。

さらに、1960年代以降のアメリカの人口統計において、成功をおさめ、富裕層となり、
急激にコミュニティの中の財産を築いていった私達は、私達が世界の中でどういう立ち位置にあり、どこに特権を持っているかということを理解するために、
新しい共同意識を発展させる必要がありました。
その最中でも、私達は日々、他者からの微妙な人種的発言や行動の猛襲を受け、
未だに私達はメインストリームの文化からは忘れられ、求められていない、という事実を噛みしめてきました。
マーチン・ルーサー・キング牧師はマハトマ・ガンジーのやり方を見習ったことを、
そして私達アジア系アメリカ人は、この国を造り上げてきたアフリカン・アメリカンと、他のマイノリティーの正義の為の葛藤から、精神的には切り離すことのできない場所にいるということを、
決して忘れてはならないのです。

今朝私はフロリダから飛行機でここへ来ました。
フロリダという州は、武器を持たない黒人の子供を撃って殺すことが、違法ではない州のひとつです。(トレイボン・マーティン事件のこと)
私は今日、我々自身に疑問を投げかけたいと思います。
この恐ろしいアメリカの実体と、私達自身はどのような関わりがあると思いますか?


去年の秋、私は家族と共にアトランタに行き、キング牧師の歴史的跡地を訪れました。
そこには、美しいガンジーの像が立っていました。
ディスプレイには、キング牧師の痛烈な言葉が刻まれていました。
「人生における最も絶え間なく、且つ答えが急がれる疑問とは、自分は他者の為に何をしているか、ということである。」
 私があなた達に知ってほしいのは、どんな肩書きがあっても、私はまずひとりのアーティストであるということです。
アーティストとして、私は先に述べたキング牧師の質問を毎日自らに投げかけます。

私は他者の為に何をしているか?


これまで私は3つの目標を追いかけてきました。
ひとつに、文化的背景の中に、継続的な、注目せざるをえない、複雑な存在を創りだすことです。
ポール・ローブソンやニナ・シモン、ジョン・コルトレーンそしてジミー・ヘンドリックスなどのアフリカン・アメリカンの開拓者達も経験したことだと思いますが、
自分というアーティストを(人種を理由に)否定し得る文化を前にして、
西欧社会における有色人種のアーティストは、「私は事実である。」と、力強く宣言する必要があるのです。

このように、境界線からの咆哮とも呼ぶべき、挑戦的な存在感の芸術家には、
文化を掻き乱し、変貌させる力があります。
その力は、新しいアメリカの息吹に耳をかたむけ、その誕生をうながすことでしょう。
そしてまた、この挑戦的な存在は、私達の様な「他者」の想像力を突き動かす力も持っています。
ディアスポラである若いアジア系アメリカ人達は、ついに、文化背景に自分達の代表がポジティブな受容をされ、自分達も大きな夢を持つことができる、と勇気づけてもらえたのです。

二つ目の目標は、アミリ・バラカやハイレ・ゲリマ(エチオピア出身の映画監督)、テジュ・コール(ナイジェリア出身の小説家)そしてマイク・ラッド(詩人)に代表される、マイノリティーのアーティスト達との協力関係をスタートさせ、そして継続することです。
そうすることで、私達は、伝統や国家、信念を超越したコミュニティという概念を想像し、構築し、 動かすことができると思うのです。
そうすれば、私達は否定しようのないフォースとなり、良い意味で物事をひっくり返していける、
ひとつのグループとして、新しい現実を想像し、創りだしていけるのではないでしょうか。

三つ目の目標は、

正義ある社会に対して参加していくことの重要性を強調し、示していくことです。
ヨーヨーマも言及していますし、私自身も生徒にいつも言い聞かせることですが、
芸術的人生とは、献身的人生です。
あなた達の中に、もし政治的活動家やコミュニティのオーガナイザーが居れば、
積極的に周りのアーティスト達と協力し仕事をしていくことを勧めます。
私達のミッションがあなた達のミッションに貢献するためにです。
そうして私達は、必要な行動を起こしていくための革命的な想像力をお互いに喚起していくことができると思います。

あなた達そして私自身にどうか努力していってほしいことがあります。
それは、私達自身の「贅沢の共謀」 に関しての問いかけをいつも自分にすることです。
私達の意志には関係ないところで、時に、コミュニティが他の誰かの苦しみをもとにした支配のシステムを包括し得るということを頭において、常に注意深くいて下さい。

私達は、地球上に生きるすべての人々の平等と正義のため改革的な献身をできるでしょうか?
もし私達が自分達のことをアジア系アメリカ人と呼ぶのであれば、
このアメリカという国家が過去に犯してきた過ちを認めることを拒むようなアメリカ人になるのではなく、すぐには私達の社会に属するようには見えない人々や移民のためにもより良いアメリカになるための手助けをしませんか?

「私達」とは誰のことでしょうか?
私にとっては、何らかの連合やコミュニティに自分が属することを決めた時、
それは、「過去を忘れない我々」、「未来のことを気にかける我々」、 「思いやりをもち、懐深く、忍耐強く、 他者の繁栄のために献身する我々」、「『私達』という呼びかけをすることは終わりではなく始まりであることに賛同する我々」のことを意味します。
正義の為にこれからも奮闘していきましょう。
ありがとうございました。

       
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