2014年5月30日金曜日
Jen Shyu "Solo Rites"
私達は、音楽を儀式として演奏する喜びを、どこかに忘れてきてしまっていた。
そもそも、私達が音楽を演奏し、聞く理由は何だろうか?
ジェン・シューのソロ・オペラ、「Solo Rites」は圧倒的な存在感を持って私達観客を引き込んだ。
布を使ったインスタレーションと、
その布を美しく活用したジェンの舞踏。
古楽器とピアノの演奏もさることながら、彼女のボーカルの素晴らしさはまた言葉にできない程の深みで、迫りくるものがあった。
ジェン・シューを聞くというのは、ただ美しい音楽を聞く、という経験ではない。
人間の醜さ、魂の叫び、そういうもの一切を、「声」という裸の楽器で、
直接的に表現してくる。
彼女の歌を聞いていると、
ザワザワと、精神の奥底をえぐられるような感覚を掻き立てられる。
その感覚こそが、音とシャーマニズムの原点にある感覚ではないだろうか。
すべての演奏が終わった後に、
ジェンは静かにそれぞれの楽器に布をかぶせていった。
そして最後に、後ろに束ねていた髪をほどき、舞台の真中に座った。
静かに語り、歌いながら、彼女は自らの髪を鋏で切り落とし、
舞台は幕を閉じたのだった。
ジェン・シューの何が素晴らしいか、というと、彼女の作品は、
私達の中にある、凝り固まった思い込みや思想を一度解体し、解き放ってくれるのだ。
例えば彼女は自分自身を「実験的ジャズボーカリスト」であると説明するが、
このオペラを見て一般的な意味でのジャズだと受け取る人はほぼいないだろう。
そこで喚起される疑問とは、「ジャズ」は何であるか?ということだ。
ピアニスト、ビジェイ・アイヤーも言及しているが、アジア系のアメリカ人(または非アメリカ人)が、
長い間白人と黒人の葛藤をシンボライズしてきた、アメリカの文化、「ジャズ」を演奏するということはどういうことか、という命題も、彼女のパフォーマンスは提議すると思う。
このオペラでの多くの音楽的コンセプトは、彼女のルーツであるインドネシア、東ティモール、韓国の伝統音楽から生まれたものであった。
アジア文化をこれだけ豊富に取り入れた内容の作品を、
ジャズ・インプロビゼーション的なスタンスを用いて、
しかもボーカルという声をメインにして演奏したことは、
私達ミュージシャンにとっても非常に刺激的なものになった。
伝統における、儀式としての音楽、シャーマニズム。
音楽を、精神の成長の為、または献身への没頭の為に純粋に演奏するというスタンスもあるということを、商業主義に翻弄されてしまう、私達、都市の音楽家達はいま一度教えられた。
西洋と東洋の壁、人種の壁、音楽と踊りの壁、
演劇と音楽の壁、アートと音楽の壁、
楽器と声の壁、
すべての見えない壁は、私達のマインドにある「限界」というイマジネーションが創りだしたもの。
実際には存在しない壁に、無意識のうちに、線を引いて、私達はその線を超えないようにしているのかもしれない。
創造においては、限界は存在しない、
ただ必要なのは、柔軟な発想と、それを経験しようとする姿勢だ。
2014年5月28日水曜日
Susie Ibarra + Matana Roberts Duo @ Stone
スージー・イバラの演奏の魅力は、彼女がドラムとパーカッションで紡ぎだす民族音楽的な音とリズムの数々にある。
アメリカで生まれ育った彼女は、10年程前から、両親の故郷であるフィリピンへ度々渡り、現地の希少民族音楽の研究、録音を行ってきた。
シンバルやゴングの音は、まるでガムランのような率直でためらいのない響きで室内を包み、
スージーがマレットのミュートされた音で祭祀音楽の様なヒプノティックなリズムを刻んだ。
その土着的なリズムに乗せるマタナ・ロバーツのサックスは完全にブルースだった。
ディアスポラのルーツを持つ者が、自分という人間の中に脈打つ系譜と自分の音楽を統合するというのは、自然な成り行きであると思う。
音楽というものは、自分の精神そのものから生まれてくるものであるから、
良い音楽家は、常に自分自身が何者であるか、何を音楽にしているかということを探求している。
ブルースの響きと、民族音楽の響きの融合には、新しい発見があった。
民族音楽には、地に足のついた一種の明るさがある。
民族が一体となり、共に歌い踊り、神を祭祀する。
先祖代々生まれ育った土地で、血の繋がった者達、食料を分かち合う者達同士で、
同じ神にすべてを委ねるという絶対的な安心感がそこにはある。
ブルースに関しては、ラングストン・ヒューズの言葉を。
あなたが女たちの一部分をつかまえると、他の一部分があなたから逃げます。
悲しくておかしい歌、
おかしがるには悲しすぎ、悲しがるにはおかしすぎる。
スピリチュアルズは集団の歌だが、ブルースはあなたがひとりで歌う歌だ。
スピリチュアルズは天幕の集会や、遠隔の農園地方で生まれた宗教歌だ。
だがブルースは、大都会のごみごみした通りから発生する街の歌だ。
あるいはまた、あなたが眠ることのできない狭い安部屋の淋しい壁にぶつかって鳴り出してくる。
スピリチュアルズは、天に、明日に、神にむかう、逃亡の歌だ。
だがブルースは、現世で、いま、あなたが心に悩みをもち、
どうしていいかわからず、誰もかまってくれないとき、破れかぶれで、
心を打ち砕かれた、今日の歌だ。
(訳:木島始 「詩 黒人 ジャズ」より抜粋)
ブルースは、個人的な、神への直接的な訴えと言えるかもしれない。
生来の地から切り離された人間は、神の存在に対し、具体性を持たない。
土着の神社や、祭りというものを通して神を経験することがもはやないのだ。
だからこそ、ブルースを歌う個人にとっての神の存在とは、
あたかも、何処かに存在する「もうひとりの個人」の様に感じられるのかもしれない。
そうやって、ブルースは、
「どうしてなんだ?おかしくて悲しくて涙が出てしまうよ。」と、
訴え、語りかけるのだ。
こんな風にまったく異なった「神に対してのスタンス」から生まれる音楽の断片が相互に交わり、
互いの領域を侵略することなく、空間をうまく共有することができるのは、
インプロビゼーションという表現技法の柔軟性を持ってして、であるように思える。
それにしても、
マタナ・ロバーツがサックスをかけたままで、クラリネットを手に持って吹き出した時、
頭にまとめたドレッドロックスとサングラスのせいもあってか、
今は亡き、素晴らしき音楽家ローランド・カークの影を見た気がした。
2014年5月19日月曜日
Matthew Shipp / William Parker "DNA" (1999)
1999年の、マシュー・シップとウィリアム・パーカーのデュオ録音「DNA」。
マシュー・シップ自身の綴ったライナーノーツが、即興演奏についてのシンプルで的を得た解説をしているので、ここに日本語訳を記しておきたいと思う。
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即興のプロセスというものは、まるである種の生態系の様である。
その多様性と 視野は無限であり、
しかしながら即興をする者によって、その表現方法はそれぞれ違ってくる。
即興というものは、必要に応じて生み出されるものだ。
すなわち、即興演奏者は、即興をしなければ、という深い欲望または必要性を感じていなければならない。
「即興とは作曲である」という前提に対する理解があって、
初めてマインドは膨大な量の音楽的情報を処理し始めるのである。
才能と成熟を兼ね備えた即興演奏者というのは、あらゆる疑問に対して真剣な考慮をした上で、
ゲシュタルトに行き着くのである。
そのゲシュタルト(意味のある全体性)というのは、
奏者が論理的な音楽の構造と生き生きとした情熱を合わせ持った、語彙としてのリズムや音を瞬時に紡ぎだすことを可能にする言語システムとしての音楽の臨界質量を指している。
作曲とは、有機的なものだ。
人間の深層心理のまた深い奥底から生まれるものであるから、
それはある種の生き物であるとも言える。
しかしあくまでもそれは人間が一生という時間をかけて習得する、瞬時に知性的な主題の提示をするための方法論であるから、「作曲」と呼べるのである。
成熟した即興演奏家は、常に深層心理から言語システムを生み出している。
よって、パフォーマンスというのはそのプロセスの結果として自然に表面に出てくるものであって、
パフォーマンスを目的とするパフォーマンスというものは存在しない。
良い即興演奏におけるエレガンスは、「集合体」となり、私達リスナーを満たしてくれる。
それはまるで、原子がくっつきあったり、離れたりして、夢の中のような連鎖運動で泳ぎまわり、
私達の深層心理の奥の奥底から飛び出して、
ひとつのスピリットが自然の一部分へと変化する様そのものである。
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私自身が即興演奏の魅力に取り憑かれているのはやはり、
この不完全な形態ながら、ゲシュタルトを獲得する言語システムとしての音楽表現の深さ、自由さを知ったからである。
即興演奏(フリーインプロビゼーション)をする時、奏者同士の間には形態化された言語システムの共有というものは存在しない。
なぜなら、各々の作り上げてきた即興演奏の言語システムは唯一無二、個人的なものなのだ。
共有言語がないという非常にプリミティブな状況で、
ひとり(と観客)、または誰かと共同してあるひとつの世界観を作り上げるというのは、
創造意欲を持つ人間にとってはとてつもなく魅力的な作業である。
言語学者ノーム・チョムスキーによると、言語というものは、根本的な部分で人間を人間足らしめる文化的遺産である。言語の種類の数だけ、私達人間の作り出す世界観がある。
その世界観の多様性にもかかわらず、人間の生き様、言葉で紡ぎだす世界には普遍性というものが存在する。
それを、私達は共有言語なしにひとつの音楽をつくりあげるという芸術の形で確認することができるのだ。
もうひとつチョムスキーを引用するが、生物学的観点からすると、
言語はコミュニケーションを目的にデザインされているものではなく、
実体の証明、解釈のためにデザインされているのだそうだ。
即興演奏においては、究極的には音楽的言語の境界線はない。
とても個人的で、それでいて、どこまでも開放的だ。
つまり即興演奏を以って音楽家同士はコミュニケーションもできるけれども、
個人的な世界観の提示、解釈なしには、せっかくの音楽的交流も空虚なものに成り下がってしまう。
マシュー・シップの言う、あらゆる疑問に対する真剣な考慮というのは、この世界観の提示を的確にできるための精神的鍛錬であると言えるだろう。
現代社会において私達がこれからさらに進化していくためには、
既存のものに「共感する」という姿勢よりも、新しいものを「創造する」という姿勢を持つ者が増えなければいけないと私は思っている。
そういう意味で、即興演奏の世界には静かな勢いがある。
人間の道徳的成長と、アーティスト達の芸術活動は、未だ完全に乖離はしていないと、そう思うのだ。
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