2015年1月18日日曜日

CECIL TAYLOR ON FREEDOM

自由という言葉の意味はいつも履き違われてきた。
外側の世界の人々によって、そしてさらには「運動」の渦中に居たはずの音楽家達によって。

ひとりの音楽家がある旋律を一定の時間奏でる時、そこにはひとつの秩序が芽を出す。
その個人的秩序というものを提示する、あるいはそれについて一種の論争に高じる、
どちらにしても、もしその音楽家が、演奏によって何かを表現しようとすれば、必ず秩序はそこに存在する。
秩序なしには音楽はありえないのだ。
もしその音楽が奏者自身の内側から湧き出ているものであれば。
しかしこの種の秩序というのは、外部から抑圧されてできあがる種類の秩序の基準とは何の関係性もないということを述べておく。

つまり、大事なのは、『自由』の反対側にある『非自由』ではなく、
秩序に関するアイディアと表現を認知することそのものなのだ。
         ーセシル・テイラー(FLY!FLY!FLY!FLY!FLY!(1980)ライナーノーツより抜粋)
    


「表現の自由」について、この頃、ひとびとは考えるだろう。

ディストピアの憂鬱に視界は曇り、根幹と視野を失った「表現」が創造性の柔らかな草地を蹂躙する。
そのような世界では、私達の多くは、「表現の自由」と言う言葉を聞けば、『非自由』の概念を想起し、
あるいは、自由を搾取する存在に対する行き場のない困惑の思いを感じるだろう。

ここでセシル・テイラーが述べていること、「自由」という言葉の理解は、
このような世界に生きる私達にとって、そしてまさに、「フリージャズ」または「自由即興」とも呼ばれる類の音楽を演奏する奏者達にとって、 極めて重要である。

「自由」という言葉は、「抑圧」または「束縛」というような非自由的概念と並べて理解されるべきではなく、
「創造性」そしてそれを芸術的表現たらしめる、そのひと特有の「創造における秩序」、その色彩の豊かさと優美な統制という自発的感覚を持って理解されるべきなのだ。

このような「自由」の側面について、私達は充分に考えることをしてこなかったのかもしれない。
私は、これに、「自由」は詩的であることもつけ加えたい。
創造性そのものを幹にして生まれるものであるが故、「自由」は、詩的であることを避けられないと思うのだ。



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