「変容の音楽」と題された、ピアニスト・作曲家、ヴィジェイ・アイヤーのコンサート。
第一部がソロ・ピアノ、第二部が弦楽器カルテットとピアノ、エレクトロニックスのための作品、ミューテーションズI-X、そして第三部が「ラジェ・ラジェ: ライツ・オブ・ホーリー」と題された、プラシャント・バーガルヴァ監督による映画のためにヴィジェイ・アイヤーが書き下ろした組曲が、大きなスクリーンに映る映画をバックグラウンドに、演奏された。
第三部の演奏は、インターナショナル・コンテンポラリー・アンサンブル、通称ICE(アイス)という気鋭のオーケストラで、クラシックやコンテンポラリー音楽とクロス・オーヴァーするジャズ・ミュージシャンと頻繁に共演している。
この12人からなる小さなオーケストラにタイショーン・ソーリーとヴィジェイ・アイヤーが加わった編成。
一番印象に残ったのは第三部の「ラジェ・ラジェ: ライツ・オブ・ホーリー」。
バーガルヴァ監督のこの映画は、春の訪れを祝って色粉や色水を掛け合うインドの祭り、ホーリーでの人々の熱狂をその強烈な色彩とともに記録したものだ。
アイヤーとバーガルヴァ共著の解説によると、 このヒンドゥー教の祭りの起源となった神話の中の一節にこんなものがある。
若く、浅黒い肌をしたクリシュナは、自分の恋焦がれる相手、ラジャ(またはラジェ)の肌の色が薄いことに腹を立て、彼女と彼女の友人達にこっそりと近づき、色粉をかぶせて驚かせた。
「このクリシュナの行為が、肌の色を乗り越えるための少しの悪ふざけ、
または女性と男性の間の力の交錯の瞬間、
または単なる若さゆえの酔狂の行為、
この中のどれであったとしても、
とにかくこの、神話の中のクリシュナの突発的行為が、ホーリー祭におけるカタルシスの儀式の中心となり得たのだ。」
このホーリー祭りにおける色彩豊かな春のカオスとユーフォリアをテーマにしたこの作品は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」におけるカオスと儀式、そして変容というテーマへの芸術的応答なのだそうだ。
演奏が始まってからしばらくは、オーケストラは、クラシカルなサウンドをしばらく保っていた。
映像も、まだ祭りの始まる少し前の村の風景なんかを映したものだったように思う。
ふいに、タイショーン・ソーリーが、今まで弾いていたティンパニからドラムセットへと移って出した音で、全体のサウンドが確実にオーケストラ主体のクラシカルなものから、ジャズの音に変わった。
一時間ほどの組曲の中で、ストラヴィンスキとの対比的なオーケストラの音、
タイショーン・ソーリーとヴィジェイ・アイヤーが「フィールドワーク」などで培ってきた現代ジャズの音、そしてヴィジェイ・アイヤーのルーツで彼が表現し続けようとするインド音楽の音、
大きく言えばこの三つの音が交じり合い、共存していたと思う。
組曲が終盤にさしかかったところで、映像の中で踊り狂う集団のリズム(映画自体は無声映画である)と、オーケストラが演奏するリズムがシンクロナイズした時、
映像に収められた「過去」と、観客が体験する「現在」がリズムを通して異次元で繋がり合っているという感覚を覚えた。
映像自体がまた、とても土着的、民族的、儀式的であるがゆえに、
その感覚が次に呼び起こすものは、体験している「現在」において、「観客がステージのオーケストラを見る」というある種の無機質さと、映像の中の「過去」のまぎれもない儀式の中で酔狂しながら踊る人間達のプリミティブな芸術体験の力強さとの対比であった。
アリス・コルトレーンは、インド人ではなかったものの、60−70年代にかけてインド音楽に影響された作品を多数発表した。
男性的、またユーロセントリック(もしくはアフロセントリック)になりがちなアメリカのジャズ音楽界において、東洋音楽との融合に精神の赴くままに取り組んだアリスのこの作品群を、私は言うまでもなく素晴らしく、歴史的意義のあるものだと思っている。
しかし、この同じ側面に対し、安易なexoticism(異国趣味)であるという批判をした評論家も居たらしい。
ジャズという音楽と、ディアスポラの定義を考える時に、最近はいつもこのことが頭に浮かぶ。
異国の音楽、文化的なものをジャズという枠組みの中に取り入れること。
その根本的な動機とは何か、そしてリスナーはそれをどう捉え理解するか、ということだ。
ヴィジェイ・アイヤーも、アリス・コルトレーンもディアスポラの子孫で、
ジャズをそのままの形ではなく、民族的ルーツまたは精神的ルーツに繋がる場所の音楽と交差させて新しい表現方法を掴んでいる。
現代のジャズは幅広くクロスオーヴァーしているし、ポップスという「グローバリズム的」音楽とも交差するわけだが、
反グローバリズム的(超資本主義のために一様化されていくという意味でのグローバリズム)な立場をとっている私としては、世界各地の伝統的音楽がジャズと融合し、
変容し、継承されていく、という過程は重要なものであると感じている。
そして、そういった「文化的変容」に対して非常に柔軟であるという意味で、ジャズと即興演奏には現代に生きる人間にとってとても重要な何かが残されているとも思う。
ネイティブ・アメリカンが淘汰された後のアメリカには、儀式がなく、神話がなく、土着宗教もない。
そういった現代社会の淋しさと同時に、変容への積極性と柔軟性も、アメリカという国は兼ね備えている。そういうことを私はこのコンサートから感じた。
先に述べた神話の一節の神々の肌の色についての話も人種的なことを想起させるが、
実は第一部では「黒人の命にも意味がある」という標語がスクリーンに映しだされた。
これは最近のアメリカでの人種差別問題でのデモで頻繁に使われてきた標語で、
明らかにアメリカ社会への批判が込められていた。
かなり政治的な意見を取り込んだパフォーマンスであった、という一面もあり、
そのことについてはまた考えてみたいと思う。
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