スージー・イバラの演奏の魅力は、彼女がドラムとパーカッションで紡ぎだす民族音楽的な音とリズムの数々にある。
アメリカで生まれ育った彼女は、10年程前から、両親の故郷であるフィリピンへ度々渡り、現地の希少民族音楽の研究、録音を行ってきた。
シンバルやゴングの音は、まるでガムランのような率直でためらいのない響きで室内を包み、
スージーがマレットのミュートされた音で祭祀音楽の様なヒプノティックなリズムを刻んだ。
その土着的なリズムに乗せるマタナ・ロバーツのサックスは完全にブルースだった。
ディアスポラのルーツを持つ者が、自分という人間の中に脈打つ系譜と自分の音楽を統合するというのは、自然な成り行きであると思う。
音楽というものは、自分の精神そのものから生まれてくるものであるから、
良い音楽家は、常に自分自身が何者であるか、何を音楽にしているかということを探求している。
ブルースの響きと、民族音楽の響きの融合には、新しい発見があった。
民族音楽には、地に足のついた一種の明るさがある。
民族が一体となり、共に歌い踊り、神を祭祀する。
先祖代々生まれ育った土地で、血の繋がった者達、食料を分かち合う者達同士で、
同じ神にすべてを委ねるという絶対的な安心感がそこにはある。
ブルースに関しては、ラングストン・ヒューズの言葉を。
あなたが女たちの一部分をつかまえると、他の一部分があなたから逃げます。
悲しくておかしい歌、
おかしがるには悲しすぎ、悲しがるにはおかしすぎる。
スピリチュアルズは集団の歌だが、ブルースはあなたがひとりで歌う歌だ。
スピリチュアルズは天幕の集会や、遠隔の農園地方で生まれた宗教歌だ。
だがブルースは、大都会のごみごみした通りから発生する街の歌だ。
あるいはまた、あなたが眠ることのできない狭い安部屋の淋しい壁にぶつかって鳴り出してくる。
スピリチュアルズは、天に、明日に、神にむかう、逃亡の歌だ。
だがブルースは、現世で、いま、あなたが心に悩みをもち、
どうしていいかわからず、誰もかまってくれないとき、破れかぶれで、
心を打ち砕かれた、今日の歌だ。
(訳:木島始 「詩 黒人 ジャズ」より抜粋)
ブルースは、個人的な、神への直接的な訴えと言えるかもしれない。
生来の地から切り離された人間は、神の存在に対し、具体性を持たない。
土着の神社や、祭りというものを通して神を経験することがもはやないのだ。
だからこそ、ブルースを歌う個人にとっての神の存在とは、
あたかも、何処かに存在する「もうひとりの個人」の様に感じられるのかもしれない。
そうやって、ブルースは、
「どうしてなんだ?おかしくて悲しくて涙が出てしまうよ。」と、
訴え、語りかけるのだ。
こんな風にまったく異なった「神に対してのスタンス」から生まれる音楽の断片が相互に交わり、
互いの領域を侵略することなく、空間をうまく共有することができるのは、
インプロビゼーションという表現技法の柔軟性を持ってして、であるように思える。
それにしても、
マタナ・ロバーツがサックスをかけたままで、クラリネットを手に持って吹き出した時、
頭にまとめたドレッドロックスとサングラスのせいもあってか、
今は亡き、素晴らしき音楽家ローランド・カークの影を見た気がした。
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