2014年5月19日月曜日
Matthew Shipp / William Parker "DNA" (1999)
1999年の、マシュー・シップとウィリアム・パーカーのデュオ録音「DNA」。
マシュー・シップ自身の綴ったライナーノーツが、即興演奏についてのシンプルで的を得た解説をしているので、ここに日本語訳を記しておきたいと思う。
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即興のプロセスというものは、まるである種の生態系の様である。
その多様性と 視野は無限であり、
しかしながら即興をする者によって、その表現方法はそれぞれ違ってくる。
即興というものは、必要に応じて生み出されるものだ。
すなわち、即興演奏者は、即興をしなければ、という深い欲望または必要性を感じていなければならない。
「即興とは作曲である」という前提に対する理解があって、
初めてマインドは膨大な量の音楽的情報を処理し始めるのである。
才能と成熟を兼ね備えた即興演奏者というのは、あらゆる疑問に対して真剣な考慮をした上で、
ゲシュタルトに行き着くのである。
そのゲシュタルト(意味のある全体性)というのは、
奏者が論理的な音楽の構造と生き生きとした情熱を合わせ持った、語彙としてのリズムや音を瞬時に紡ぎだすことを可能にする言語システムとしての音楽の臨界質量を指している。
作曲とは、有機的なものだ。
人間の深層心理のまた深い奥底から生まれるものであるから、
それはある種の生き物であるとも言える。
しかしあくまでもそれは人間が一生という時間をかけて習得する、瞬時に知性的な主題の提示をするための方法論であるから、「作曲」と呼べるのである。
成熟した即興演奏家は、常に深層心理から言語システムを生み出している。
よって、パフォーマンスというのはそのプロセスの結果として自然に表面に出てくるものであって、
パフォーマンスを目的とするパフォーマンスというものは存在しない。
良い即興演奏におけるエレガンスは、「集合体」となり、私達リスナーを満たしてくれる。
それはまるで、原子がくっつきあったり、離れたりして、夢の中のような連鎖運動で泳ぎまわり、
私達の深層心理の奥の奥底から飛び出して、
ひとつのスピリットが自然の一部分へと変化する様そのものである。
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私自身が即興演奏の魅力に取り憑かれているのはやはり、
この不完全な形態ながら、ゲシュタルトを獲得する言語システムとしての音楽表現の深さ、自由さを知ったからである。
即興演奏(フリーインプロビゼーション)をする時、奏者同士の間には形態化された言語システムの共有というものは存在しない。
なぜなら、各々の作り上げてきた即興演奏の言語システムは唯一無二、個人的なものなのだ。
共有言語がないという非常にプリミティブな状況で、
ひとり(と観客)、または誰かと共同してあるひとつの世界観を作り上げるというのは、
創造意欲を持つ人間にとってはとてつもなく魅力的な作業である。
言語学者ノーム・チョムスキーによると、言語というものは、根本的な部分で人間を人間足らしめる文化的遺産である。言語の種類の数だけ、私達人間の作り出す世界観がある。
その世界観の多様性にもかかわらず、人間の生き様、言葉で紡ぎだす世界には普遍性というものが存在する。
それを、私達は共有言語なしにひとつの音楽をつくりあげるという芸術の形で確認することができるのだ。
もうひとつチョムスキーを引用するが、生物学的観点からすると、
言語はコミュニケーションを目的にデザインされているものではなく、
実体の証明、解釈のためにデザインされているのだそうだ。
即興演奏においては、究極的には音楽的言語の境界線はない。
とても個人的で、それでいて、どこまでも開放的だ。
つまり即興演奏を以って音楽家同士はコミュニケーションもできるけれども、
個人的な世界観の提示、解釈なしには、せっかくの音楽的交流も空虚なものに成り下がってしまう。
マシュー・シップの言う、あらゆる疑問に対する真剣な考慮というのは、この世界観の提示を的確にできるための精神的鍛錬であると言えるだろう。
現代社会において私達がこれからさらに進化していくためには、
既存のものに「共感する」という姿勢よりも、新しいものを「創造する」という姿勢を持つ者が増えなければいけないと私は思っている。
そういう意味で、即興演奏の世界には静かな勢いがある。
人間の道徳的成長と、アーティスト達の芸術活動は、未だ完全に乖離はしていないと、そう思うのだ。
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「即興演奏者は、即興をしなければ、という深い欲望または必要性を感じていなければならない」というのはどうなんだろう? 即興って、その場での閃きとか「面白いからやってみよう!」ってノリでやるからこそ、(波動が上がってるってことだよね)そこにケミカルリアクションが起きて新しいものや楽しいものができるんじゃないかと思うのだけど....
返信削除ichiroさん。
返信削除そうですね。その面白いからやってみようという気持ちで誰でも即興を始めると思うんです。
ですが、即興をひとつのアートの形として追求した時に、面白いからやってみるという気持ちやノリだけでは続いていかないと思うのです。即興をやっている人々は、一生をかけていかに良い即興演奏をできるか、という研究をしていくので、
即興への飽くことない探究心という意味でシップ氏は「欲望または必要性」という言葉を使ったのではないかと思います。