2015年7月13日月曜日

追悼

20周年を迎えたヴィジョン・フェスティバルについて書こうと思ったけれど、

なんだか頭の中が空白で何も浮かんでこない。


プーさんのこの言葉が、鮮明によみがえる。

「俺達はすごくモダンなことをやってるんだ。」

その日に会った、見知らぬ誰かに親しく語りかける彼は、自分のグループのことを、嬉々としてこう説明していた。


この言葉を聞いた時、何かが体中を駆け抜けるような感覚が走った。

モダンという言葉には、ただ単に、今の時代、現代、という意味もあれば、
芸術の枠においては、 伝統的に受け継がれてきたやり方から脱却し、
より個人的、実験的な領域での感性に重きを置いた姿勢、という意味もある。

芸術的な未開の領域における勇敢な開拓者として、
誰もいまだかつて見たことのない領域の美しさを目のあたりにした者にしか、
あれだけ堂々と、 自分の作品はモダンだ、と言い切ることはできないだろうと思うのだ。


素晴らしい音楽の数々をありがとうございました。









2015年4月29日水曜日

REMA HASUMI "UTAZATA"




2013年に録音をしてからというもの、編集をゆっくりとしてきたもので、割と長い期間が経ってしまったけれど、いよいよ5月3日にリリースする。

この作品は、結論から言うと、コンセプト・アルバムという形になった。
日本の伝統音楽から、「東遊」、「筑前今様」、「御詠歌」、「竹田の子守唄」を取り上げ、それぞれのテーマをキャンバスにして、インプロビゼーションで抽象画を描いていく様に演奏したものだ。

正直に言って、自分が、最初の作品を創るにあたって、「日本風」のものを取り入れるという考えは、
初めは私の頭の中に微塵もなかった。
 録音の構想を始める前の数年間は、かなり深くアリス・コルトレーンの音楽にのめり込んでいたし、
60〜70年代のスピリチュアルジャズと呼ばれるようなものが好きで、ファラオ・サンダースやサンラなんかをよく聞いていた。
この時期私は、ダリウス・ジョーンズと一緒にアリス・コルトレーンの曲を演奏するコンサートを重ねていたのだけど、彼女の創りあげたコンポジションの持つ魅力へより深く潜り、彼女の音楽的軌跡を辿るうちに、音楽の独創性は自分自身の内側を見ることでしか得られないのだということをアリスに教えられた気がした。
同時に、女性特有の表現をしたいという気持ちも、メアリー・ルー・ウィリアムスやアミナ・クローディン・マイヤースを聴きながら日に日に私の内側で育っていた。

そういう感覚というのは、アメリカで、「ジャズ」という言葉でくくられる種類の音楽を演奏する経験の中で感じた強い違和感を発端にしたひとつの着地点であったと思う。
理論や格好良さを武器にしたものばかりではなく、抽象や「いびつ」さが中心になる世界観が表現されてもいいのではないかと感じていた。

インプロビゼーションという奏法の奥へ奥へと足を踏み入れる程に、
「自分ではないもの」を弾くことができなくなっていた。
私はジャズを弾きたくて今までやってきたけれど、だいたい、自分の表現は何を根幹としているだろうかという素朴な疑問に私はその頃ぶつかっていた。
その時に初めて、きちんと自分の生まれた場所の芸能と一度向き合ってみようと思い、
日本の芸能、女性史、土着文化、信仰を焦点とした様々な資料を読んだ。
そのひとつのまとめとして、日本芸能史に見る音楽と平和 を書いた。
そういった探索の中で、私は桃山晴衣の音楽と出会い、日本の唄の素晴らしさを知った。
同時に、西洋的な音楽の解釈や理論に呑み込まれて、非西洋的音楽が少しずつその姿を消していくことに恐ろしさを感じていたし、自分がそういう潮流に何も考えずに身をまかせてきたことにも落胆した。
その頃、同時に素晴らしい音楽家達との出会いもあった。
タイショーン・ソーリーの「公案」は特に、このアルバムを創るにあたっての大きなインスピレーションになっている。
初めて「公案」を聞いた時、そのミニマリズム、静謐さの中に同時に存在する緊張と緩和の絶妙なバランスに圧倒された。タイトルからも分かる様に、意図的に東洋的アプローチをした音楽であるように思えるが、そこには所謂オリエンタリズムと呼ばれる類のものとは一線を画す、洗練された「何か」があった。
「公案」でソーリーと共演しているギタリスト、トッド・ニューフェルドとベーシスト、トーマス・モーガンの演奏、そして彼らを経由して聴き始めた菊地雅章さんの音楽。
ジェン・シューの祭祀音楽、民族音楽をインプロビゼーションに持ち込んだパフォーマンス。
彼らはそれぞれに非常に個性的な音楽へのアプローチを持っていて、
このままあらゆるものすべてが一面化されていってしまうかもしれないという現代社会の本質的な脆さ、そこに一石を投じるインパクトを持つように感じられた。
彼らからの鼓舞、影響ははかり知れない。

このアルバムに私がつけたタイトルは『UTAZATA』といって、「女性芸能の源流(脇田晴子著)」という本の中で述べられている「歌沙汰」という表現から来ている。
今様狂いであった後白河院と今様唄いであった傀儡女たちの間で交わされた「正しい歌の旋律」を決める熱心な音楽談義の事をさす言葉として、著書の中では使われている。
この話を読んだ時に、ふと私が思ったのは、
そういう音楽談義というのは、「何がジャズで何がジャズではない」、とか、「誰々がジャズを弾くにふさわしく、誰々がふさわしくない」という話し合い、つまり「正しいジャズとは何か」という現代のディスカッションと割と似ているんじゃないだろうか、ということだった。

フリー・インプロビゼーションの手法を持って、平均律にとらわれない演奏を求め、切磋琢磨している音楽家のひとりであるからこそ、私は「正しい旋律」や「正しいジャズ」というテーマを持ったディスカッションに対して不条理的な見方をしている。
と、同時に、そういったテーマについて何時間も話しあえるというのは、ある意味では素晴らしく平和的、人間的行為だという称賛の思いも持っている。
この様なテーマのディスカッションを喚起する様な側面が、UTAZATAには少なからずあるんじゃないかと思う。そういう意味合いがアルバムタイトルに込められている。
「歌沙汰」という言葉は、音楽狂いの我々を、不条理と滑稽と愛着をもって俯瞰する。
先に述べたテーマに見る人間の「形状の継受」への執着と、
その反動としてのインプロビゼーションという対比は面白いし、私はその今その渦中にいる。


もしどこかの誰かがこのアルバムを聞いてくれた時に、
「どうして日本の歌をテーマにしたんだろう。」という疑問がきっと湧くと思ったので、
そういう時にこの文章にたどり着いて参考にしてくれたら、と思っている。


"UTAZATA" CD Release Concert
5/3 sunday
8pm @ ShapeShifter Lab

Rema Hasumi (piano/keyboard/vocal)
Todd Neufeld (guitar)
Thomas Morgan (bass)
Billy Mintz (drums)
Sergio Krakowski (pandeiro/adufo)
Ben Gerstein (trombone)


CD Available at Ruweh Records Website




2015年4月19日日曜日

MARIA FARANTOURI

音楽というのは、表面的にはひとつの文化的現象に過ぎないように見えることがあっても、
それぞれの異なった音楽が内側で主体としているものにはものすごいバリエーションがあると思う。
例えば、ひとつの社会的階級を象徴する音楽があって、その音楽は誰かにとっては城壁の様な役割をする。
あるいは、また別の音楽は、どこかの誰かにとっては、 過去を走馬灯の様に蘇らせるアルバムの様なものかもしれない。
また別の誰かにとっての音楽は、ただがむしゃらに踊って陶酔するための乗り物で、
その向こう側の誰かにとっては、音楽は恐怖である可能性すらある。


今晩、私はマリア・ファラントゥーリのステージを見た。
ギリシャの伝説的な歌手、政治家であり、文化活動家でもある彼女は、近年チャールズ・ロイドとも共演し、ECMからアルバムを出している。
彼女の、内側から響きわたる歌声の中に聞こえる力強さには、
例えばエリス・レジーナがAtras da Portaを歌った時の様な、聴く側の精神をかき回すざわざわとしたものが存在していた。
2時間半の長いステージの間、歌った曲の多くを、観客席の大半を占めていたギリシャ人達は一緒に口ずさんでいた。
後にわかるのだけれど、ファラントゥーリの存在というのは、
ギリシャという国とその人々にとってはただの音楽家以上のものであるようだった。
ファラントゥーリは、70年代頃から、ギリシャの代表的作曲家、ミキス・テオドロキスと共に活動し、
ギリシャの軍事政権に対しての批判的な姿勢をとって、音楽を制作し続け、国の民主化に貢献した。
テオドロキスはレジスタンスとして投獄され、彼の楽曲が国内で禁止されたことさえあった。

ファラントゥーリの歌は、ステージの上から歌われる歌ではなかった。
彼女は、ステージの横に、同じ高さに、すぐ隣にいるすべての人へ向けて歌を歌い、
観客と、そのこころにどこまでも寄り添っていた。

その当時の政治的状況の渦中では、音楽を純粋に音楽として楽しむという需要よりも、
より良い明日への希望を持ち、苦境を乗り込むための音楽という需要の方がずっと強かったのかもしれない。
そういった政治的背景、イデオロギーがあったにもかかわらず、
ファラントゥーリの歌は、とても率直に「歌」であり続け、人々はその歌を通して、
ノスタルジアや、苦境を乗り越えた者同士の団結を感じている様に見えた。
根源的な、人間の肉声、「歌」の持つパワー、そういうものを目の当たりにした日だった。







2015年4月17日金曜日

TOM RAINEY TRIO@ Clemente Soto Velez

クレメンテ・ソト・ヴェレズというプエルトリコの詩人がニューヨークに居た。
彼はプエルトリコで生まれ、文学者や詩人の有志と共に政治活動に参加し、
第二次大戦後にニューヨークへ渡り、逮捕、収監を経てなお政治活動、執筆活動を続けた。



 『孤独』         クレメンテ・ソト・ヴェレズ


飛ぶこと ただひとりで 
燃え上がる様な 想像の空の上を
飛びまわること

ただひとり
終わりのない
人生飛行を
創造すること

考えること ただひとりで
考えること
すべての創造的な力が集まればそうするように
ただひとり
ただひとり
ただひとり
光の中で振動する
手つかずの道理を求め
耳をすます




歌うこと
ただひとり
歌うこと
原子達が
行動する意志を歌うように
ただひとり
歌うこと
エネルギーの覚醒が伝えるように

孤独 ー孤独!

磁石の様な吸引力を持った雨雲
跳ね返してくる すべての生きる力の中でバランスをとる

孤独 ー孤独!
生命のこころ!


(訳:蓮見令麻)



かの詩人はこのような詩を書き、感銘を受けた同志達は、
のちに彼の名にちなんだ文化センターを設立した。
Arts For Artという団体がオーガナイズするこの文化センターでのパフォーマンス・シリーズに、詩の朗読やダンス、アート、という要素が必ず盛り込まれているのは、そんな歴史をこの建物が持っていることもひとつの理由だろう。

なかなか古いこの建物は、天井も高く、かなり響きの良い造りになっている。
今日はここでトム・レイニーのトリオを見た。
共演者は、レイニーのパートナーでもあるサックス奏者、イングリッド・ラウブロックと、ギタリスト、メアリー・ハルヴァーソンの二人。
トム・レイニーの演奏は以前何度か見たことはあったけれど、
今回は音響も良く、真正面から見ることができて、レイニーのドラミングの凄さをあらためて思い知った。
予測不可能な方向性、粗っぽいスティックさばきがはじき出すざらざらとした感触の音。
直線を走っているわけではないのにずっと存在する疾走感。
トム・レイニーの音は、アメリカの荒野を突っ切る風や空気を思わせる。
イングリッドの吹くテナーの、風の抜けるような美しく素朴な音がそのまわりを浮遊し、
メアリー・ハルヴァーソンの規則的なカッティングやエフェクトを多様した様々な音の羅列は、
少しぎこちなさを残しながらも、ひとつの世界観を作り上げていた。
なんというか、非常に個人主義的な即興演奏だと私には感じられた。
もちろん、良い意味で。
3人とも、自分の世界、自分の音のいく道をまっすぐにどんどん進んでいく。
私はこっちにいく。あなたはそっちにいく。それでいい。
もしどこか向こうの方で、また顔を合わせるかもしれないし、それもいいね。

そんな雰囲気だった。
そういうやり方は、私にとってはあるいは新鮮なもので、
それくらいお互いが自由にやっていて、心地が良い、それでもなんとなくまとまる、というのは素敵なことだなと思った。

荒野のまっただなかに、ただひとりでいること。
それでも、どん、と構えていられる、
そういう演奏者でいれたら。







2015年4月9日木曜日

僕たちは海に潜った




僕たちは海に潜った

帰り道に砂浜で 砂にまみれた足を波で洗う時
波は僕たちの素足を撫で はじき 吹くのだった

生ぬるい水の感触は僕たちの理性を甘やかし
遠くに見える水平線が僕たちの理想を掻き回した

ラプ ラプと鳴る水の淵が僕たちの胸に届くころ
一匹の海猫が 近くの岩にとまった
海猫は 恍惚とした 救いようのない僕たちを一瞥し
そのまま目を閉じて眠った

ラプ ラプ

ラプ ラプ

僕たちの躰は 隙間のない海からの抱擁で
窮屈さと自由を 一度に感じていた

そして僕たちは海に潜った

その時から

すべては動き

すべては止まり

あらゆるものが同時に喋り

あらゆるものが同時に沈黙した


僕たちが海に潜った時から










2015年3月15日日曜日

TYSHAWN SOREY "Koan II"

タイショーン・ソーリーの『公案 II』を見てきた。

オリジナルの『公案(I)』では、トッド・ニューフェルド(エレクトリック・ギター)、トーマス・モーガン(ベース)の二人を軸にしたトリオでソーリーの作曲を中心に演奏されているのに対し、
今回の新しいプロジェクトは、マット・マネリ(ヴィオラ)、ベン・ガースティン(トロンボーン)、トッド・ニューフェルド(アコースティック・ギター)を迎えたカルテットで、通しでフリー・インプロビゼーション
が演奏された。

彼らの演奏においては、静寂の中の一音というものが、とにかく大事に大事に扱われる。
その一音を、その瞬間に、弾くか弾かないか、という駆け引きに、全員がごく真剣に参加するのだ。
そこには自然と、ぴんと張り詰めた一本の見えない糸が浮かび上がってくる。
この音楽は、理性と野性のあいだを縫って歩く。
作曲家としてのソーリーの冷静沈着な「構築」の為の統制は、
彼がマレットで叩き出す柔らかなとどろきによって指揮されていく。
雅楽的とも言える、12音階の境目を縫うように漂うヴィオラの音が、張り詰める緊張の糸をところどころほぐす。
その得体の知れない、心地良いのか心地良くないのか決めかねる雰囲気の中で、
漆黒の森林から飛び出してくる獣の様にトロンボーンが咆哮し、
ギターのためらいと革新の繰り返しによって新しい方向性が提示されていくのだった。

それはまるで、はじまりも、終わりも存在しない演劇の様であったとも思う。
そう感じたのは、私には全体の音から武満徹の映画音楽に通じるものが聞こえたからかもしれない。
もしくは演奏中盤、奏者全員が立ち上がり、舞台や客席を歩きまわって演奏したことも影響しているだろう。

演奏は約90分に及び、全てをインプロビゼーションで通したことは、奏者にとっても、観客にとっても容易ではなかったはずだ。
しかし、奏者達が60分で演奏を終わらせずそこからさらに展開させていったことにより、
人は何故起承転結を求めがちであるか、ということを私は考えるに至った。
なぜ、はじまりと終わりは相応の様子でなければならず、
その間にクライマックスが存在しないと満足できないことになってしまうのだろうか。
そういうイメージの枠組みを、自分はまづすべて取り払ってしまいたいと思った。

以下は、ダニエル・レナー氏による、タイショーン・ソーリーへのインタビューより抜粋したもので、
『公案』の制作にいたった経緯などを少し知ることができる。
 


2006年に日本を訪れたことをきっかけにして、ソーリーの作曲手法には重要な変化が現れた。
「その年に日本へ行った時、休みの日に僧院を訪れた。
アメリカに帰ってから、自分の状態を良くするため、という目的だけではなく、音楽への影響として、禅への興味が湧き始めた。その頃、自分の演奏している音楽は割と良い音楽だという自覚はあったのだけど、何かがしっくり来ていなかった。そういう音楽は、『難しくあるための、難しい音楽』なだけな気がしていた。

禅と瞑想のコンセプト(アラン・ワッツの著書などを読んだという)は、確実にソーリーに影響を与えていった。 まず彼が書いたのは、前年のクインテットとしての全作品からは大きくかけはなれた長編で、のちに物議を醸すことになった、『ソロピアノのための順列』だった。
この曲は演奏に45分を要し、ひとつのコードを、休符と音域、ピッチやアタック、減衰などの変化をつけながら繰り返すことで細部に砕かれた音の情報を操作するというコンセプトを探求したものだ。

「この曲が誰かに演奏されることはないかもしれないけれど、少なくともこれから私が創作していくもののひとつのシニフィアンにはなるだろうと思う。」そうソーリーは説明した。
「そういう経緯で、That/Not (Firehouse 12, 2007)の為に、この曲を書いた。音楽自体がずっと上手く呼吸できていることが分かるだろうと思う。演奏には技工を要するけれど、この曲には音楽が呼吸し、話しかけてくるような、そういう側面がある。
オブリークのために書いた曲達よりもメロディックだと思う。オブリークにはオブリークのメロディックさ、というのがあるけれどね。 」

中略

次作、『公案』Koan (482 Music, 2009)は、That/Not からの継続と言うよりも、日本で経験したことの継続と呼ぶ方が正確だ。他のどんな作品よりも、『公案』は作曲におけるあらゆる種類の言語を網羅した。
「音と時間に対する自分自身の関係性とその全体的な思考を試された。こういう類の音楽にはシステムなんていうものは存在しない。ただ、その音楽が聞こえた瞬間に書き留める、そういう風にして生まれたものだ。音楽的な語彙だけでは説明できない。もっと実存的な語彙で、聴く経験とは何かということを考えることはできると思う。

『公案』は目を見張る程様々な種類の音楽的アイディアや音律の残像を映した。
"Nocturnal"の様な曲では、フレーズを何度も異なったやり方で繰り返す手法が使われ、"Two Guitars"ではピッチに制限を用いたし、"Correct Truth"においては十二音技法のみならず、もっと抽象的な「可聴度」の概念にも焦点がおかれ、"Awakening"は異なる時間の層に軸を置いた。
作曲における手法のあまりの幅の広さに、全ての手法は使い切れなかったとのことだが。

ソーリーが作曲家として発表した音楽への世間の最初の反応は、残念ながら、
彼のドラマーとしての功績よりもむしろ、彼がアフリカン・アメリカンの音楽家であるという人種的アイデンティティに注目した。「黒人」で、「ドラマー」、そして「作曲家」であるというソーリーの個人的そして音楽家として当てはまる3つの形容詞は、不器用な具合にお互いに摩擦しあい、ファンや同士、そして批評家達を混乱させた。次に述べるのは、ソーリーが表現した、「黒人ドラマー」に課せられた典型的イメージ、頻繁に見られるステレオタイプである。

「アフリカン・アメリカンのジャズドラマーというある種の幻想は、例えばスイングしたり、2拍と4拍を叩いたり、技術を見せびらかしたりする、『超絶技巧のドラマー』 であるというイメージだ。
だが、そういったイメージの継続体から一歩外側に足を踏み出してしまうと、黒人らしくないと言われる。私自身も、スイングしない、とかそういう理由でこういったコメントをもらったことが何度かある。これは、AACMの作曲家達の多くや、ミンガスさえもが直面した問題そのままだ。
ミンガスの音楽が黒人らしくない、なんて、どうしてそんなことが言えるんだろう?
アフリカン・アメリカンの音楽は聞こえる。、ゴスペルからブルース、所謂「ジャズ」と呼ばれる音楽まで。でも、同じように、ストラヴィンスキも、シュトックハウゼンもそこにあるんだ。そう、ミンガスはシュトックハウゼンのファンだったんだ。
私自身の音楽はマックス・ローチ、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンクの影響と同じ様に、トランス・ヨーロピアンの作曲家達や、アメリカの実験音楽家達、インドの音楽家達などからの影響も受けている。
まるで、私が作品を発表する際には、アフリカン・アメリカンであるという事を証明するためにブルースを弾かなきゃいけないと誰かに言われてるみたいだ。
私はゲトーに生まれ育って、ブルースを生きているのに、だ。
これ以上に彼らは私に何であって欲しいのだろう?

中略

もうひとつ、黒人の作曲家であることについてソーリーが述べた問題がある。
「アフリカン・アメリカンの作曲家が、それなりの 作曲的語彙からはみ出してしまうと、人々は眉をひそめるんだ。私はいわゆるジャズという伝統の世界を歩いてきたし、系譜としてもジャズの世界は一番近いところにあった。しかしだからと言って、いつまでもそこにじっとしていなければいけない訳じゃない。私がエクスペリメンタルやトランス・ヨーロピアンの音楽を聴き始めた時、周りの人々はすぐに驚いた顔をした。私がモートン・フェルドマンに捧げた43分のピアノ曲を書いたことは、彼らにとってはショッキングな出来事だった。私の知る限りでは、過去にそんなことをしたドラマーは居なかったからだ。ある種の人々にとっては、私がまるでわざと謀反者になろうとしているように見える様だった。
でも私は先にあげた音楽を、マックス・ローチや、ウィリアム・グラント・スティルや、ヘイル・スミス(注:全員黒人の作曲家である)と同じくらい愛している。
次世代のインド人作曲家、または次世代の南アフリカ人作曲家、なんていう紹介を我々がほとんど目にしないのはおかしいと思わないか。
白人の作曲家達は声部進行や音楽の歴史について詳しいインテレクチュアルな専門技術者として高位におかれ、黒人の音楽家達は、白人の作曲家達の演奏するものよりも、「魂」や「フィーリング」はあるのに知性はない、という位置づけをされている様に見える。
黒人のインテレクチュアルでとても重要な作品を発表している人々が居るのに、私達がそれについて聞くことがほとんどないのはとても残念なことだ。

中略

「良いか悪いかということを判断することはあまり好きではない。
何故かというと、すぐに判断しだしてしまうと、そこから学ぶチャンスを失ってしまうからだ。
判断は後に残しておけばいいし、今そこにある音楽を作っている最中には、良くも悪くも、ただ流れに身をまかせるしかないんだ。」

ダニエル・レナー、Tyshawn Sorey :Composite Realityより。
訳:蓮見今麻

参考
http://www.allaboutjazz.com/tyshawn-sorey-composite-reality-tyshawn-sorey-by-daniel-lehner.php?&pg=5

2015年2月26日木曜日

非存在としてのインプロビゼーション

インプロビゼーションと呼ばれる音楽は、まるで幻獣の様である。

実体を完全に掴むことはできない。
だから、得体の知れない存在として人々の想像の中に生きる。
時に、得体の知れない存在であるがゆえに美化され、
また時には、得体の知れない存在であるがゆえに拒絶され、
そして時には、得体の知れない存在という名の「存在せぬもの」という扱いを受ける。

実際に演奏する音楽家にとってさえ、完全なる形で捕らえ、乗りこなすことはできないのだから、
聴き手側が簡単に納得するはずがない。

存在の裏付けがされないということが何を意味するかというと、
それはその幻獣についてあなたが想像する、姿や形、動き方や性質には限界がなく、
よってあなたの想像は人間の集合体による観念に完全に支配されることがないということ。

もし幻獣に少しでも興味があるのなら、
同じように幻獣に興味を持つ人々(世間からは「変わり者」と呼ばれたりする)の提示する、
幻獣についての見解を聞いてみるだろう。
それぞれの見解は、ある「存在せぬもの」に関する個性的な翻訳の数々であり、
そこに普遍的なものはほとんど見出されない。

そこで興味を失い、「想像してみること」を放棄し、「理解する」価値を見出さないという道もある。
理解することなんてはなっから期待してはいけないのだ。
幻獣なのだから。
もし、「想像してみる」という道を選べば、
幻獣はあなたのゆく先々で、一瞬姿を見せては去り、
あなたを狂おしい気持ちにさせ、惑わすだろう。