まず傀儡子の生業とした『芸能』について。
彼らの芸能は、操り人形の芸である。
傀儡女達に巫女的な役割があったとすると、この操り人形のもともとの由来として、
日本古来から巫女達が(おそらく鎮魂の儀式の為に)舞わした人形(ひとがた)が関係していたと考えるのは自然のことに感じられる。
世阿弥によって日本芸能の源流として位置づけられているアメノウズメの天の岩戸での踊りが象徴するものは、死者の鎮魂を仕事とする「殯(もがり)」の儀式である。
「遊部(あそびべ)」という集団が居て、彼らは死者をもがりの宮において同伴し、歌や舞をして鎮魂の儀式とした。すなわち、音楽と舞を中心としたこの宗教的儀式を昔の言葉で「遊び」と呼んだのだ。
これに関連する信仰の例としてあげておきたいのが 、東北地方のオシラ様だ。
巫女が、木製のオシラ様というひとがたを祭ることを「オシラ遊び」と呼ぶそうだ。
しかも、この信仰は女性性とも深く関係がある様である。
このようなことを並べて考えてみると、次の「呪術の介在する売春」という点がわかりやすくなる。
以下「るいネット」より引用
御託宣(ごたくせん)の神事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて、「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。
当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。
巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では呪詛行為の術で恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。
何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。
現代の私達の住む世界においては、性に対しての膨大なネガティブなイメージ、
タブー意識、妊娠への渇望または恐れが蔓延していて、
「性」が、精神の「精」でありまた神聖の「聖」であることにまでおおよそ考えが及ばないようになっている。
想像してみるのは容易ではないけれど、何百年、何千年も昔の世界では、
完全に異なった性への意識があったのかもしれない。
中世からさらに遡って、縄文時代の話へ。
其の三へつづく
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