2011年5月12日木曜日

my blue print

ずっと ずっと
何度も 何度も
試行錯誤して
考え続けてること。
本当に、ずっと考えている。

どの表現方法を自分は選ぶか。

今年に入ってから、フリーの即興演奏を始めたこともあって、
あまり弾いていなかったスタンダードジャズの演奏を今日してみたら、意外に気持ちが良かった。

だけど、やっぱり自分に合っている奏法、自分が一番臆する事無く表現できる方法は、フォームのない即興演奏だと、思う。きっと。

アメリカの音楽を勉強してきて、その文化、歴史を尊敬し、愛してはいるけれど、
私は決して、その真似事がしたいわけではない。

多分、私にとって、音楽を弾く至高の(そして無意識の)目的は、感情の、深みのある側面を思い切り音楽という媒体を通して表現することだ。。。

だから、音楽を、商業的に捉えることはもしかしたら一生できないかもしれない。
職業音楽家としては駄目なのかもしれない。
多分、悩んでる、焦る、といつも思ってはいるけれど、
やりたいことは奥底ではわかっている。
人間の感情の、様々なレベルの立体感を、表すこと。
いわばシャーマニズム。


ということを、自分の演奏の音源を聞きながら書いた。
何かが生まれつつある。
卵をあたためている親鳥の気分。

2011年5月3日火曜日

Without kindness, there can be no true joy.

-Thomas Carlyle

2011年5月2日月曜日

本当の芸術は神学である

Mary Lou Williamsの音楽を研究している。

彼女は、アメリカの歴史においての、女性の楽器奏者という意味でとても重要な位置にいる、
レジェンダリーな人物である。

そういう意味でも非常に尊敬しているのだけれど、
彼女のブルースの演奏というのは本当に素晴らしい。嘘がない演奏というか。。

最近、ジャズのライブ等を見に行って、飽き飽きしてしまう気持ちになることが多々ある。
それはなんというか、エゴの為に演奏している奏者があまりにも多い気がするから。

音楽というのは、色んな種類のものがある。
自分が注目されたいとか、有名になりたいという薄っぺらいエゴを捨て、
神、または偉大なる存在、スピリチュアリティー、そういうものの為に演奏する、
それが究極的な音楽、または芸術の形であり、それは神学に身を投じるということだと理解している。

その一方で、エンターテイメント性の高い音楽が数えきれない程たくさんあり、
それはもはや芸術とは呼べないものが多い。
ジャズの世界にも、そういう音楽がたくさんあるような気がして、
それをしたり顔で、うんうん、素晴らしい、なんてワイングラスを片手に聞く聴衆がいる、という光景を見て、馬鹿らしいと思ってしまう。
それは、ジャズ雑誌の評論家にも言えることだ。
私達は、それぞれに、それぞれの感性を目一杯生かして、芸術を紐解いていくという姿勢が必要だと思う。
評論家や大衆、マスメディアの多数決が決めるヒットチャートの一位に踊らされるのは野暮だ。
自分の耳を、目を、感覚を、磨いていくことだ。
それは他の誰も自分のためにやってくれない。
本当に良いものは、ピカピカに磨かれた大型グローサリーの野菜やくだもののように媚びてあなたを待ちはしないのだ。
良いものは、土に埋もれ、泥にまみれ、その美しさをひけらかすことなく、ただ存在している。
それを見つけ出しにいくのは、私達自身。

これが実は本音。


話が飛んだけれど、
Mary Lou Williamsが、いかにジャズの根本であるブルースとスピリチュアル音楽を彼女の音楽に昇華したか、それでいてアバンギャルドな要素も持ち合わせている彼女が、
どうしてこんなにも知られていないのかが不思議でならない。

これについてはまた書こう。

2011年4月25日月曜日

piano is a mother of romance

前に借りていたアパートの私の部屋の階下に住んでいた、会ったことのないエジプト人の女の子が、
その当時、ひとつの恋愛を終えたばかりで、私の弾くピアノで少しだけ悲しみを埋めることができていた、と人に聞いた。
あれから4ヶ月、私がそのアパートから引っ越して、
彼女も引っ越したらしいのだけど、
ピアノの音色がどうしても恋しくなって、とうとうピアノを購入してしまったらしい。


もう4年ほどピアノを教えている大好きな12歳の生徒がいて、
彼女は本当に天真爛漫で才能に溢れている。
先週のレッスンの時に、ふと彼女の手を見て、もうすでにピアニストの手になっていることに気づいた。
少し無骨で、指の関節がしっかりしている。
私の手とそっくりな彼女の手。
「大きさが同じくらいなのね、ほら。」と言って、私の手を彼女の手に合わせると、
「ワオ、本当だ!先生って手が小さいのね!」と満面の笑顔で答えてくれる。
そんな彼女に、すごくきっと私は癒されてると思う。


私はどうしようもなくセンチメンタルな人間だ。
だからこそ、ピアノを人生の中に持つことで、
素晴らしくロマンティックで情緒ある生き方をできていると思う。

ロマンスを感じるための、幾多もの層を私の心に創り出してくれたのも、
きっと、昔から弾いてきたショパンでありベートーベンであり、ドビュッシーなのだ。。

2011年4月23日土曜日

reminder

怖れることなく、偏見を持たず、自分の世界を拡げていくこと。

ある事物、人に対して自分の中に生まれた観念に、変化の余裕を常に与えること。

自分の世界に常に新しい風が吹くように、窓を開けておくこと。

2011年4月19日火曜日

don't think, just play

We cannot play it safe and expand as artists at the same time.
We must risk expanding our territory. -Julia Cameron


今日はThe StoneでKarl Bergerという作曲家、ピアニスト、ヴァイビストの、即興オーケストラのワークショップを見た。
『70~80年代に、Ornette Colemanらと共にCreative Music Studioを立ち上げ、ジャズとワールドミュージックにおいての前衛的な開拓者となった。』と説明書きがあった。

オーケストラは、総勢20名くらい。
Don Cherry作曲のテーマなどにしたがい、その場で耳で曲を覚え、そこからcollective free improvisationがはじまる。
面白かったのは、Karl Berger氏の指揮の取り方。
その場で即興でオーケストラをひとつにまとめるのは容易ではないはずだけれど、
音楽はすごく良かった。

途中でBerger氏が言っていて印象に残った言葉。

「感じたままに即興してください。この音、フレーズでいいだろうか、などと考えないでください。
『思考』は遅すぎて、即興演奏についていけないのです。」

2011年4月16日土曜日

鏡の中にある如く

Ingmar Bergmanの、Through a Glass Darkly (1961)を見た。


小説家の父 David (Gunnar Bjornstrand)、精神分裂病で完治しないだろうと言われている娘、Karin (Harriet Andersson)。
Karinを愛してやまない夫、Martin (Max von Sydow)。
そして、Karin同様に精神薄弱な弟 Minus (Lars Passgard)。

この4人の、感情の交錯がものすごい密度の濃さで描かれている。
特に、Harriet Anderssonと Lars Passgardの演技は素晴らしかった。

白黒の海の風景に、画面から溶け出してくるかと思う程の人間の感情。
静かなシーンの中で流れ出すチェロは、バッハのSarabande from Suite No. 2 in D minor。
美しさと、人間の感情の持つ繊細なグロテスクさの同居。

それから、精神分裂病により、現実と倒錯のふたつの世界を彷徨うKarinを愛する3人の男、という設定もおもしろいと思った。

ひとりの女と、その父、弟、夫という一番近しい3種類の男達が、他に誰もいない孤島で過ごすのだ。
その3人全員とKarinとの間に、とても微妙な具合の性的なニュアンスが描かれている。
父が、弟が、夫が、Karinを愛し、愛で、抱きしめる様子、
そしてその愛の雨にまみれて、さらに精神を病んでいくKarin。


印象に残っているのは、
ベッドで夫に抱きしめられながら、愛の言葉を囁かれ、
父の書斎では、椅子に座った父の膝の上に座り、なだめられ、
古い船の地下で、雨水のしたたる中、性的に弟をからかった後でその弟に抱きしめられ眠るKarin。

この映画の中での、それぞれの愛情表現のシーンというのが本当に衝撃的だった。
発狂寸前の愛、というか。。
こういう愛の表現を映像で見るのは初めてだった。


言葉や音楽にボキャブラリーがあるように、
愛の表現にもボキャブラリーというものがある、と思う。

そのボキャブラリーを増やしていくことで、人間は愛の美しさを体感するのだと思う。

どんな愛し方をするか、というのは、喋る時にどんな言葉を選ぶかと同じだ。