2019年1月28日月曜日

アーティストが母親になるとき

前回ここに書き物をしてから、随分と時間が経ってしまった。


2017年に出産した息子は今年6月で2歳になる。
妊娠・出産は、個人的には人生の中でまったく予期していなかった出来事で、それまでは目の前にある音楽を最優先事項としてきた暮らし方が180度方向転換することになった。


振り返れば、この2年はとにかく内側に向かい続ける時間の連続だった。
もともと内向的な性格の私は、1人で過ごすことが全く苦痛ではない。
どちらかといえば、黙々と、人知れず、何かに没頭する時間を大事にする方だ。
だからこそなおさら、
妊娠中には、歩き回るのも電車に乗るのも億劫になり、
子供が生まれたら、今度は子供の世話と仕事で忙しくなり、
音楽を人前で弾く回数も、人の演奏する音楽を見に行く回数も随分と減ってしまった。
これから先、少しずつ復帰していこうという所存ではあるけれども。


母親になるという、あまりにも陳腐であまりにも壮大な出来事に、
創作者としての自分が当たり前のように身に纏っていたデカダンスはいとも簡単に剥ぎ取られてしまった。
抽象的な感覚を音にすることは、その抽象的世界にある程度身を浸して生きるということだ。
おむつや哺乳瓶に翻弄されながら、そこに抽象的な美を見出すことは、不器用な私にはとてもできなかった。

アウトプットを出来ずにいる時間が徐々に増えて、
表現すべきものが自分の中にまだ棲息しているのかどうかさえ分からなくなった頃、
このまま私は「ただの母親」になるのだろうか、という恐怖に襲われるようになった。
それは恐怖でもあり、安堵でもあった。
私は、このまま「ただの母親」になってしまえば楽だろうに、と同時に感じていたのだ。
この瞬間に、私は初めて、自分の創作生活の終わる場所を目撃した。
チラリと見えたそのフィニッシュテープは、
地平線のかなたでゆらゆらと蜃気楼のように揺れているような気がした。

一方で、私が生み出した小さな人は、
何の躊躇も恐れもなく、朝から晩まで表現して、表現して、表現していた。
その圧倒的な求心力とよろこびは、私の浸りきっていたデカダンスとは真逆に位置するものであり、
私はその爆発的なエネルギーに、たじろぎ、憧れた。
時に一歩下がってその異質さを眺め、時に抱きしめてその率直さに寄りかかった。


そういうわけで、
物理的に時間が許すときでさえ、どんな表現が今の私にとって正直なのかわからず右往左往する始末だった。
こどもを生んで数年もしないうちに、
哺乳瓶やおむつがリュックサックや長靴やパズルや宿題やなんかに変化していく毎日の中で、
「自分の表現」を十分に出していくことができる人は、
きっとものすごく強い意志と行動力を持っている人なんだろうと思う。

私はまだ、バランスを上手く取りかねている。

こどもとの距離感も、音楽との距離感も。

息と止めて踏ん張って何かを必死に掻き集めて作り出すのはどこか違う気がする。
とりあえずは心のおもむくままに、「表現すべきもの」を眠らせ、走らせ、佇ませようかと思う。


そういえば、
私の中に棲む「表現すべきもの」の生態は、どこか「小さな人」の暮らしぶりに似ている。

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