2015年8月7日金曜日

TONY MALABY GROUP@ RYE


音楽とはイデアそのものであり、この世の中のさまざまな事象とは一線を画すもので、
それは宇宙の外側に理想的なかたちで存在し、「空間」ではなく「時間」のみによって理解される。
その結果として目的論的な仮説により侵食されることもない。
この根本的な音楽の品位は、非純粋的な聞き手が、その理想的でいて視覚的ではない音楽というものに形を与えようとする行為、また、聞き手自身が調度良いと感じる典型にイデアを当てはめるという行為によってねじまげられてしまう。
サミュエル・ベケット、プルースト論より


このような、ベケットの言葉を借りると、「根本的な音楽の品位をねじ曲げる」行為を、私達の多くが日常的に続けている。皮肉なことに、音楽について評論するような立場の者にとっては、
音楽に形や典型、または説明を見出そうとするという構えは、捨てきれない一種の性の様なものなのかもしれない。
私自身も例外に漏れず、 音楽をある大きさ、かたちの額縁に入れて鑑賞する趣きがあることを自覚している。
だがそれは、評論的な類の額縁ではなくて、「ものがたり」の額縁である。
音楽の演奏を目の前にして、音の波に呑まれながら、
私は多くの場合、演奏している人の背景に拡がる膨大な束のものがたりについての想像を膨らませる。
ものがたりの束、それ自体は、イデアとしての音楽的領域を侵すことはないけれども、
演奏する者が経験してきたものがたりは、その人の身体と記憶を通して音楽に色彩を加える。
俗世的なものが音楽にそうやって入り込んでしまえば、あるいはベケットはそれが未だイデアそのものであるとは言わないかもしれない。
圧倒的に純粋であるという魅力、そして同時に俗世的であるのという魅力、
音楽はそのふたつの顔を時と場合によって使い分け、私達を混乱させ、酔わせる。



ここ何日か、セシル・テイラーの音楽を聞き直すことに没頭していたこともあって、
この日のトニー・マラビー・グループの演奏を聴きながら、
私はフリージャズの潮流の中における、セシル・テイラーというひとつの分岐点、
特に、リズムをひとつの大きな母体として形作る、音楽の感触について考えた。
トニー・マラビーはテナーとソプラノを交互に吹いた。
時には聞こえないくらいの小さな音で、時にはこれ以上にないくらいワイルドな咆哮で。
ベースのアイヴァンド・オプスヴィックはくぐもった音のベースで、密度の高い音の粒をはじきだし、デイヴィッド・トロイトのドラムがエッジーな音で空間に裂け目を作った。
クリストファー・ホフマンのチェロは中音域に厚みをもたせたファンタジックな演奏。
ベン・ガースティンのトロンボーンは密林に住むけものの様に本能的だ。

グループの全員が、吹きすさぶ音の嵐の中で、ひとつの舟を沈没させない為に手綱にしているのは、
「感触」なのだろうと私は思う。
それは、メロディックな概念としての、音感よりも、音楽理論の理解よりも、
本能的、プリミティブな音楽の作り方だ。
ざらざらとしていて、掴みどころがない。
音楽は、ただそこにあり、呼吸をし、流れていく。

セシル・テイラーの素晴らしさとは、リミットがないことだと思う。
まず、「ピアノはこんな風に弾くものである。」 というリミットがない。
そして、「私はピアニストである。」というリミットもまたない。
セシル・テイラーは、詩を朗読していても、踊っているときも、同じ躍動で「演奏」している。

トニー・マラビー・グループの奏者達ひとりひとりは、一体これまでにどんな場面でセシル・テイラーの演奏を聞いて、
それについてどんな風に感じてきただろう。
こんな風に直観と衝動に突き動かされる演奏をすること、
そういう精神的な場所から新しいものを構築すること、
この奏法が、彼らにとって、そして彼らを取り巻く小さく、大きな世界にとっての「スタンダード」に 成り得つつあることをどんな風に思っているだろう。
その「スタンダード」の潮流の始まりの一端の、大きな部分を担ったテイラー。
異なった時間枠を通して延々と繋がっていく音楽家達。
セシル・テイラーから、ウィリアム・パーカーに。
ウィリアム・パーカーから、トニー・マラビーに。


ものがたりが、どこまでも、どこまでも続いていく。

0 件のコメント:

コメントを投稿