チアゴ・チアゴ・ヂ・メロの音楽は、とても親しみやすい。
一度聞いたら、ずっと頭の中で響き続け、気づけば口ずさんでしまう種類の音楽だ。
そういったブラジル音楽特有の親密さのある一方で、リズムやメロディーには洗練されたディテールが散りばめられている。
カートゥラが書いてきた歌の様に、チアゴ・チアゴ・ヂ・メロの心地よいメロディーに乗せられた歌詞には、燃えるような力強さと物語がある。
チアゴ・ヂ・メロというアーティストは、私の知る限りでも全部で4人居る。
アマゾンの詩人で、素晴らしい作品を発表してきたアマドゥ・チアゴ・ヂ・メロ。
作曲家でマルチ・インストゥルメンタリストのガデンシオ ・チアゴ・ヂ・メロ。
実験的フォーク・ミュージックのシンガー、マンドゥカ・チアゴ・ヂ・メロ。
そして、シンガーソングライターのチアゴ・チアゴ・ヂ・メロだ。
詩人のアマドゥはチアゴ・チアゴの父であり、シンガーのマンドゥカは兄、作曲家のガデンシオは叔父にあたる。
先日、チアゴ・チアゴと話をする機会があった。
彼はとても誇らしげに父、アマドゥについて語った。
アマドゥ・チアゴ・ヂ・メロは、1926年に生まれ、パブロ・ネルーダを始め、チェ・ゲバラやフィデル・カストロなど、ラテンアメリカを代表するアーティスト、政治家と交流を持ち、制作活動を続けてきた。
そんな父を持ち、音楽家の兄と叔父を持つ彼は、このような活動の系譜を受け継いでいくことに情熱的だ。
音楽家達の感性が豊かであり続けること、メディアを介したジャーナリズムだけに頼らないこと、
伝統的な楽器で新しい音楽を弾く、または、新しい楽器で伝統的な音楽を弾くこと、
そしてそこに、「story-telling ものがたりを伝える」という淡々とした深遠なる流れがあること。
チアゴは私達にそんなことを語った。
チアゴと、パンデイロ奏者のセルジオ・クラコウスキは、同じくブラジル音楽に新しい潮流を送り込むため、実験的な音楽を演奏する同志のミュージシャン達と共に、コレクチボ・シャマ(炎の集団)をたちあげた。
このコレクティブを結成した当初、
「今、手を繋いでひとつの『集団』にならないと、僕達はつぶされて消えてしまう。」という風に感じていたとチアゴは言った。
コレクティブを結成してから最初の三ヶ月、彼らはそれぞれの楽器を手にすることなく、まず互いの思想を交換するために話し合いを続けたという。
以下は、nprのコレクチボ・シャマについての記事より抜粋。
ブラジルの楽曲は、想像の世界を見事に表現する。
中でも、リオデジャネイロはそういった楽曲の宝庫と言っていい。
19世紀のマシーシェやショロに始まり、20世紀のサンバやボサノバに繋がっていった、リズムと深い叙情性の素晴らしい融合がリオにはある。
ブラジル人にとって、このような楽曲の数々は特に大きな意味を持っている。
ブラジルでは正式な教育が万人に開かれていないために、人気のある曲がある種の教育になることがあるのだ。
「ほとんどのブラジル人は、ソングライターの曲を聞いて、話し方、書き方、そして感じ方さえも学ぶんだ。」チアゴ・チアゴ・ヂ・メロは言う。
チアゴは、リオのソングライターの中でも新しい世代で、ブラジルの音楽について真剣に考えている。
チアゴは、アマゾンの詩人、アマドゥ・チアゴ・ヂ・メロの息子であり、
ブラジルの豊かな文学的伝統とサンバやフォホ、パゴヂの様なアフリカ的リズムを、ジャズ、ロック、エレクトロニカと融合させてきた。
チアゴと彼の仲間は、彼らの試みている新しいブラジル音楽の形を、「explorative-探求的なもの」と呼ぶ。
トム・ジョビンとジョアオ・ジルベルトがボサノバのムーヴメントを、
あるいは、カエタノ・ベローソとジルベルト・ジルがトロピカリアというムーヴメントを牽引し、音楽として発展してきた時の様に、
今の時点でこの「explorative」 という言葉を、うまく英語に訳すことは難しいかもしれないが、この言葉はブラジルのユートピア的系譜と野望を確実に思い起こさせる。
(npr jazz "In time for world cup, explorative new music from Brazil" by Tim Wilkins
http://www.npr.org/sections/ablogsupreme/2014/06/13/320978456/in-time-for-the-world-cup-explorative-new-music-from-brazil