それぞれの異なった音楽が内側で主体としているものにはものすごいバリエーションがあると思う。
例えば、ひとつの社会的階級を象徴する音楽があって、その音楽は誰かにとっては城壁の様な役割をする。
あるいは、また別の音楽は、どこかの誰かにとっては、 過去を走馬灯の様に蘇らせるアルバムの様なものかもしれない。
また別の誰かにとっての音楽は、ただがむしゃらに踊って陶酔するための乗り物で、
その向こう側の誰かにとっては、音楽は恐怖である可能性すらある。
今晩、私はマリア・ファラントゥーリのステージを見た。
ギリシャの伝説的な歌手、政治家であり、文化活動家でもある彼女は、近年チャールズ・ロイドとも共演し、ECMからアルバムを出している。
彼女の、内側から響きわたる歌声の中に聞こえる力強さには、
例えばエリス・レジーナがAtras da Portaを歌った時の様な、聴く側の精神をかき回すざわざわとしたものが存在していた。
2時間半の長いステージの間、歌った曲の多くを、観客席の大半を占めていたギリシャ人達は一緒に口ずさんでいた。
後にわかるのだけれど、ファラントゥーリの存在というのは、
ギリシャという国とその人々にとってはただの音楽家以上のものであるようだった。
ファラントゥーリは、70年代頃から、ギリシャの代表的作曲家、ミキス・テオドロキスと共に活動し、
ギリシャの軍事政権に対しての批判的な姿勢をとって、音楽を制作し続け、国の民主化に貢献した。
テオドロキスはレジスタンスとして投獄され、彼の楽曲が国内で禁止されたことさえあった。
ファラントゥーリの歌は、ステージの上から歌われる歌ではなかった。
彼女は、ステージの横に、同じ高さに、すぐ隣にいるすべての人へ向けて歌を歌い、
観客と、そのこころにどこまでも寄り添っていた。
その当時の政治的状況の渦中では、音楽を純粋に音楽として楽しむという需要よりも、
より良い明日への希望を持ち、苦境を乗り込むための音楽という需要の方がずっと強かったのかもしれない。
そういった政治的背景、イデオロギーがあったにもかかわらず、
ファラントゥーリの歌は、とても率直に「歌」であり続け、人々はその歌を通して、
ノスタルジアや、苦境を乗り越えた者同士の団結を感じている様に見えた。
根源的な、人間の肉声、「歌」の持つパワー、そういうものを目の当たりにした日だった。
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