三人の熱量は、丸々一時間半ずっと変わらない。
ラス・ロッシングがグランドピアノの弦をはじいて最初の音を出してから、ドラムのケニー・ウォルセン、テナーのルイ・ベロジニスはおろか、
私達客席の数人も、音の洪水にひたりきったまま、誰も休むことを赦されていない。
静謐さが、二十人も入ればいっぱいになってしまう小さな箱を包み込んだ。
三人が瞬間ごとに造り出す音のかたまりは、あたかも波のように、満ちては引き、満ちては引きを繰り返していた。
波そのもののように、一体として動きつつも、一度として同じ波はない。
その中で、顔色を変えないまま、熱量の高い演奏をし続けている音楽家達を見ながら、
私はぼんやりと考えるのだった。
この、冷静さの中に遠慮がちに見え隠れする感情の昂ぶり。
洗練されたコントロールと、少しずつ確実にあらわになる、手なずけられた狂気。
アメリカの人は、本当に真面目で堅苦しく、本当に自由でひらけている。
その自由さは精神の畑を縦横無尽に走り回る。
人工物と自然の共存。
緻密に作り上げられた構成を、惜しげもなくなぎ倒す暴力。
秩序のあるように見えて、秩序もルールも本当はない世界。
秩序のないカオスに見えて、最後にはすべてが交わり合うという秩序がある世界。
どちらが人間で、どちらが自然?
ピアノの中身を覗き込むようにして、あらゆる方法でピアノ内部の弦や金属部から音を作り出していくロッシングの様子を見ながら、
私は、次第に、漆黒に光るそのピアノの脇腹のゆるやかなカーヴに見惚れてしまうのだった。音、静寂、音、静寂。
まるで手術着を着た医師の様に、ロッシングはピアノの12音性を解体し、
もっとプリミティブなやり方で音を出すことで、ピアノの見えない拘束具をはずしていった。弦を使ったりして、とても土着的な音を出す一方で、ピアノの持つ美しい宮廷的金属音をも美しく演出する、ピアニスト、ラス・ロッシング。
なんという創造力と技巧だろうか。
ウォルセンとベロジニスの演奏ももちろんとても良く、上手くロッシングを引き立てていた。ベロジニスは中盤まで綺麗なメロディー、ロングトーンを吹きつづけているだけ、という感じだったのが、途中でソロを取った時に神懸った様にアルバート・アイラーの様な音を出したのが印象的だった。
素晴らしいフリーインプロビゼーションというのは何か、教えてもらった夜。
I Beam Brooklynにて。
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