2014年4月25日金曜日

RITE - Russ Lossing / Louie Belogenis / Kenny Wollesen

三人の熱量は、丸々一時間半ずっと変わらない。
ラス・ロッシングがグランドピアノの弦をはじいて最初の音を出してから、ドラムのケニー・ウォルセン、テナーのルイ・ベロジニスはおろか、
私達客席の数人も、音の洪水にひたりきったまま、誰も休むことを赦されていない。
静謐さが、二十人も入ればいっぱいになってしまう小さな箱を包み込んだ。
三人が瞬間ごとに造り出す音のかたまりは、あたかも波のように、満ちては引き、満ちては引きを繰り返していた。
波そのもののように、一体として動きつつも、一度として同じ波はない。
その中で、顔色を変えないまま、熱量の高い演奏をし続けている音楽家達を見ながら、
私はぼんやりと考えるのだった。

この、冷静さの中に遠慮がちに見え隠れする感情の昂ぶり。
洗練されたコントロールと、少しずつ確実にあらわになる、手なずけられた狂気。
アメリカの人は、本当に真面目で堅苦しく、本当に自由でひらけている。
その自由さは精神の畑を縦横無尽に走り回る。
人工物と自然の共存。
緻密に作り上げられた構成を、惜しげもなくなぎ倒す暴力。
秩序のあるように見えて、秩序もルールも本当はない世界。
秩序のないカオスに見えて、最後にはすべてが交わり合うという秩序がある世界。
どちらが人間で、どちらが自然?

ピアノの中身を覗き込むようにして、あらゆる方法でピアノ内部の弦や金属部から音を作り出していくロッシングの様子を見ながら、
私は、次第に、漆黒に光るそのピアノの脇腹のゆるやかなカーヴに見惚れてしまうのだった。音、静寂、音、静寂。
まるで手術着を着た医師の様に、ロッシングはピアノの12音性を解体し、
もっとプリミティブなやり方で音を出すことで、ピアノの見えない拘束具をはずしていった。弦を使ったりして、とても土着的な音を出す一方で、ピアノの持つ美しい宮廷的金属音をも美しく演出する、ピアニスト、ラス・ロッシング。
なんという創造力と技巧だろうか。
ウォルセンとベロジニスの演奏ももちろんとても良く、上手くロッシングを引き立てていた。ベロジニスは中盤まで綺麗なメロディー、ロングトーンを吹きつづけているだけ、という感じだったのが、途中でソロを取った時に神懸った様にアルバート・アイラーの様な音を出したのが印象的だった。

素晴らしいフリーインプロビゼーションというのは何か、教えてもらった夜。

I Beam Brooklynにて。

2014年4月19日土曜日

Muhal Richard Abrams "afrisong" (1975)

日本から持ち帰ってきたレコードの中で、ひときわ聞くのを心待ちにしていたものがあった。
 厶ハル・リチャード・エイブラムスのソロピアノのアルバム、「afrisong」だ。

確か2年ほど前に、彼のコンサートをマンハッタンにある教会で聞いたのだけど、
その時には多数の若い前衛ジャズミュージシャン達の他に、ヘンリー・スレッドギルやアミナ・クローディン・マイヤーズなどが集まっていて、 彼の人望の厚さを伺わせた。

その後、パイ・レコーディングスから出ているエイブラムスのレコードを聞いて、彼の音楽を知り始めた。
エイブラムスの90年代以降の音源だけを聞いて持った感想としては、
商業的な部分のまったくない、非常に抽象的な前衛・純音楽というイメージだった。
そのイメージというのは、思想・主義・主張というものを感じさせない音楽というものである。「純文学」と同じ定義で使われるところの「純音楽」という言葉がもし成立するのであれば、娯楽性よりも芸術性を重んじる「純音楽」にはイデオロギーは存在しないものと言えるだろう。

だけれど、例えば60年代に台頭したハード・バップには、黒人の人権の確立というある種のプロパガンダが存在したし、
アリス・コルトレーンやファラオ・サンダースは、アメリカにはない異国的な精神性を音楽に追求し、それを聞く人々はスピリチュアリティーの探求を喚起された。
同じ時期にオーネット・コールマンやアルバート・アイラー、阿部薫の吹いていたフリージャズが日本の学生運動とも共鳴していたとも聞くし、
ある視点から見れば、ジャズと呼ばれる音楽とイデオロギーというのは、容易には切り離せない部分があったかもしれない。
ここに、ジャズにおいて、エンターテイメントと純粋芸術という二つの文化的極面がぶつかりあったり交わりあったりしながらそれぞれの世界に枝分かれしていった様子を垣間見ることができる。
そういった音楽家達の葛藤や混乱の中で、意図した、しないにかかわらず、思想が全面に現れて出た音楽もあったし、まったく思想から自由な音楽もあったと思う。
ただ、私の印象では、少なくとも60年代、70年代のジャズにおいては、何らかのイデオロギーを持った音楽がかなり日の目を浴びたように思える。
つまり人々は何らかの思想の提示を音楽に求めていた。


とにもかくにも、私はエイブラムスの音楽にそういった意味での透明さを感じていた。
イデオロギーの不在が、徹底された芸術の純粋さをより明確にしているのだ。

 こうういう経緯もあって、
レコード店で「afrisong」を手にとった時、私はそのジャケットのビビッドな赤、緑、黒(黒人の解放と民族的独立を意味する色)と、アフリカという言葉を思わせるタイトルに大変驚いたのだ。のちに、このジャケットはwhy not レコードから出された他のアルバムすべてに使用されていたものだと知って、少し拍子抜けしたのだけれど。
この意外性と、エイブラムスの70年代のソロピアノの録音ということもあって、どうしても聞かなければと思ったレコードだった。

75年のエイブラムスのピアノは、今のどちらかというと現代音楽的なスタイルよりもかなりジャズピアノの伝統を残したものだった。
このアルバムを聞くと、彼が伝統をきっちりと消化し、その上で自由に実験的なことをしてきたアーティストなのだということがよくわかる。
私は有機的にちりばめられたピアノの音の粒の大群というのがとても好きだ。
それもタッチが丸く優しいものが良くて、アリス・コルトレーンやメアリー・ルー・ウィリアムスをよく聞くのはそのせいなのだけど、エイブラムスもこのテキスチャーを良くこのアルバムで聞かせてくれた。
ジャケットのイメージからして、もしかするとものすごく主張の強い内容なのかもしれないと思っていたのだけれど、結論から言うとやっぱり彼の音楽は75年にも透明だった。
アフロアメリカンの弾くジャズ特有の暗さ、もしくはブルース的な主張というのを私はエイブラムスの音楽に、感じない。もっと、陰陽の陽の部分の大きい、アフリカ的とも言えるサウンドにはアブドゥーラ・イブラヒムを思い起こした。

野口久光氏による"afrisong"のライナーノーツにはAACM (Association for the Advancement of Creative Musicians)についてこう書かれている。

多かれ少なかれコマーシャリズムからの誘惑に乗ったり、あるいはコマーシャリズムに抑圧され、ゆがめられてきたジャズを純粋に自分達の芸術にしたいという意識も強く働いてきた。
(中略)
ニューヨーク派の新進的なジャズメンの動向に対して、シカゴの若い進歩的なジャズメンはニューヨーク派のジャズメンによる演奏の成果を充分認めた上で、ニュージャズ運動に新しい理念、方向づけをし、実践活動を開始した。それがAACMだった。 

 厶ハル・リチャード・エイブラムスという人は、弾いてきた音楽の中で常に実験をし、変容してきた音楽家であると思う。そういう意味で、プーさんこと菊地雅章氏とも重なる。
エイブラムスの弾く音を聞いていると、彼が若かった時代、彼は時代の潮流とは精神的にかなり違う場所に居たのではないかと思った。反抗の時代に作られた彼の音楽はあまりにも平和的で透明なのだ。AACMを発足し、コマーシャリズムに自身の芸術への誠実さを持って対向してきたひとりのアーティストの幾層にも重なる創造の歴史を垣間見て、音楽家としてのあり方を深く考えさせられた。