一、申楽、神代の始まりといふは、
天照大神、天の岩戸に籠り給ひし時、
天下常闇になりしに、八百萬の神達、天の香具山に集まり、
大神の御心をとらんとて、神楽を奏し、細男を初め給ふ。
中にも、天の鈿女の尊、進み出で給ひて、榊の枝に幣を附けて、
聲を挙げ、火処焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ、舞ひ、奏で給ふ。
その御聲ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。
国土また明白たり。神達の御面、白かりけり。
その時の御遊び、申楽のはじめと、云々。
世阿弥
『風姿花伝』神儀篇
日本の芸能の歴史を辿っていくと、その先にあるのはこの場面だ。
あめのうずめが半裸でこっけいな舞をし、神々は それを笑った。
この場面が本当に面白いと思うのは、この神話の一面に、性、死、高揚感(笑いという形の)が一挙に描かれていることである。
「遊び」という言葉は、その昔、死者の魂降り、鎮魂のため、「もがり」という儀礼を行った際の歌や舞のことを表した。
そこにはきっと、現代で言うイタコのように憑依されて踊るシャーマンの存在もあっただろうと思う。
生と死の境界線で、魂の導くままに音楽を奏し、舞う。
それはきっと、おそろしく、畏れ多き光景であり、古代人の精神性の核となるものであったに違いないと感じるのだ。
もがりにおける儀礼を隠喩したものが、この神話の一場面であるとすれば、
あめのうずめが性的な芸能の表現をしているのは、なぜであろうか?
中世において、巫女、くぐつめ、遊女などが、儀式を司る立場であり、
同時に性的な存在であると位置づけられているのはなぜだろうか?
性の神聖さ、というのを、私達現代人は見直す時かもしれない。
性が虐げられ、搾取される時代には、真の精神性は見出されないのではないか。
この巫女と中世芸能について今勉強しているのだけれど、
脇田晴子という人が本当に面白い本を書いている。
その序文から、こういった一節がある。
「女性史の問題としては、家内に包含される女性、そこからはじきだされる尼僧、娼婦・芸能者、その三者に分断され、鼎立して存在する女性のあり方を、「家」をユニットとして成り立つ社会構造のなかに位置づけることこそ肝要であると考えている。」
このテーマはこれからしばらく続く。
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