2013年3月20日水曜日

リチャード・プライヤーとボールドウィン



「リチャード・プライヤーは、悲劇と喜劇の間に可能な限り薄い線を描いた。」


ビル・コズビーはリチャード・プライヤーについてこう語ったといわれている。
最近になって初めて、1977年にNBCで放送され、たったの4シリーズで幻のように終わってしまったリチャード・プライヤー・ショー を見た。
社会を辛辣に風刺するひとつひとつの喜劇の中で、金儲け主義の教会の牧師、アメリカ初の黒人大統領、奇跡を起こすカルト的宗教の教祖などにプライヤーは扮している。
一時間程度の番組を見終わった後に、それは感じた事のない複雑な感情を私に抱かせた。
それは決してコメディを見終わったときに一般的に得る感情ではなくて、
哀しみと愉快さ、どしゃぶりの雨と晴天が全部混ざった様な、なんともいえない不思議な感情だった。
人間が何かに熱狂して我を忘れるということは興味深いもので、
その対象は俗世の辛さを忘れさせてくれる音楽かもしれないし、ただのめりこみ、信仰する以外にない何かの宗教かもしれない。
その熱狂という心理的状態が、時に人間を戦争へ駆り立て、また時には素晴らしくクリエイティブな芸術を創らせる。
そういう人間の性格そのものが、喜劇であり悲劇だ。

リチャード・プライヤーのことを考える時、自然とボールドウィンの世界を思い出す。
社会からの逸脱、疎外、孤独。怒り、愛、性、放蕩、生身の人間。
「俺もあなたのベイビーのひとりじゃないのか、マザーファッカー」と、神に対してつぶやくルーファス。

 プライヤーとボールドウィンの世界観というのは、
人間の持つ性格の幾層の深みを丁寧に観察をし、且つその層の一枚一枚の色の違いを見分ける繊細さのある人間が作り出す類のものだと思う。

雨に降られてずぶ濡れになった人は、止まない雨に悪態をつきながらも、
自身の内面にある限界のない想像の世界のビビッドな色彩を深く愛するのだ。


音楽にこの感覚を呼び起こしたい。
と思う私は、
一見冷静に見えても、まったく冷静じゃないのかもしれない。


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