2012年10月23日火曜日
ローランド・カークとアルバート・アイラー
ローランド・カークの If I Loved Youを聞いていた。
この人は、なんて直接的な感情を込めて演奏したんだろう。
とてもエモーショナルなのに、オープンで、フリーで、広がっていく、柔軟な音。
変幻自在な音楽のエネルギーの扱い方をマスターした人の演奏だ。
その手法と、ローランド・カークという人の中につまっているあらゆる種類の愛情が結びついて生まれた、まさに魔法のような音楽。
アルバート・アイラーを聞いても、同じ様な感覚を得る。
ドン・チェリーがアイラーについての話をしているインタビューで、こんなことを言ってた。
「商業主義的なやつらが、俺達みたいな音楽家を見つけて、いろいろとビジネス的な後押しをしてくれるようになるまではしばらくかかる。
それでもなにかしら、俺達は毎日演奏してるわけだ。
誰でも音楽家としてやっていこうと思った時に、やっぱり、お金のために音楽を演奏するという状況になる。でも、アルバートっていう人間は、お金のためでもなんでもなく、For the Love of God、神の愛のために演奏する、数えるほどしかいない類のミュージシャンのひとりだった。」
丁度、フリー即興を弾く意味について自分自身も少し考えていたところだった。
バークレーメソッドを大学で習って、理論に沿った弾き方をある程度習得し、
そういう演奏をしている他のミュージシャンの演奏も見たけれど、 違和感を感じずにいられなかった。
結局のところ、私という個人の世界は、反抗精神やヘロインに突き動かされる60年代でもないし、ジャズという文化を解体し、分解してその魂を取り除いてしまったアカデミズムの中でもなかった。
本当に自分が音楽を弾こう、表現しようと思った時に出て来るものが、
理論的な部分と乖離していたというのもある。
正直に言えば、癲癇を持っていたことは少し影響しているかもしれない。
西洋的12音階主義から抜け出した場所で、アメリカ音楽の好きなところをうまく自分なりに表現できるようになればいいと思う。
2012年9月14日金曜日
2012年9月2日日曜日
草間彌生と60年代
草間彌生展を見てきた。
彼女の作品ももちろんたくさん展示されていたのだけれど、
一番私が見入ったのは、ガラスケースに詰め込まれた彼女の若い頃の写真、新聞等に載せられたアーティクル、そして草間氏自身が送った、または草間氏宛に送られた手紙の数々が陳列された一室だった。
この中に、リチャードニクソンに向けて草間氏が書いた手紙というものがあった。
下記はその手紙の中の一節である。
Let's forget ourselves, dearest Richard, and become one with the Absolute, all together in the altogether. As we soar through the heavens, we'll paint each other with polka dots, lose our egos in timeless eternity, and finally discover the naked truth: You can't eradicate violence by using more violence.
「親愛なるリチャード、我々自身のことなど忘れましょう、そして、すべてと共に、完全なる神との一体化を遂げましょう。天国を飛び回りながら、私達は互いの体に水玉模様を塗り、時間の存在しない永遠の中でエゴを捨て去り、隠しきれない真実というものを発見するのです。その真実とは、暴力撲滅のために更なる暴力を使う事はできない、ということです。」
いかにも、60年代らしい、サイケデリックなイメージをもったロマンチシズムとでも言おうか、私は彼女の書いたこの手紙の文章を気に入った。
そして、60年代に彼女がニューヨークに住み、反戦活動、そして過激なパフォーマンスをしていた時代に、マイルスデイビスはBitches Brewを録音し、ESPがファラオサンダースやアルバートアイラーの音楽を録音していたのか、と思った。
なんという時代だろうか。
きっと人々はあらゆるものを渇望していたのだろう。
平和への渇望、そして人権への渇望。
繰り返されてきた不平等と戦争に対する嫌悪で渇ききった芸術家達の喉は、
創作という行為によって潤ったに違いない。
人間が誰かの芸術作品に惹かれるというのは、創作者の個性、生き方、そういうものに惹かれるということかもしれない。
ずっとあきらめずに、創作し続けている人というのは、作品に良い意味での一貫性そして個性がある。
その一貫性が表すものが、人が創作において無意識に放っている霊性の表現なのだと思う。
彼女の作品ももちろんたくさん展示されていたのだけれど、
一番私が見入ったのは、ガラスケースに詰め込まれた彼女の若い頃の写真、新聞等に載せられたアーティクル、そして草間氏自身が送った、または草間氏宛に送られた手紙の数々が陳列された一室だった。
この中に、リチャードニクソンに向けて草間氏が書いた手紙というものがあった。
下記はその手紙の中の一節である。
Let's forget ourselves, dearest Richard, and become one with the Absolute, all together in the altogether. As we soar through the heavens, we'll paint each other with polka dots, lose our egos in timeless eternity, and finally discover the naked truth: You can't eradicate violence by using more violence.
「親愛なるリチャード、我々自身のことなど忘れましょう、そして、すべてと共に、完全なる神との一体化を遂げましょう。天国を飛び回りながら、私達は互いの体に水玉模様を塗り、時間の存在しない永遠の中でエゴを捨て去り、隠しきれない真実というものを発見するのです。その真実とは、暴力撲滅のために更なる暴力を使う事はできない、ということです。」
いかにも、60年代らしい、サイケデリックなイメージをもったロマンチシズムとでも言おうか、私は彼女の書いたこの手紙の文章を気に入った。
そして、60年代に彼女がニューヨークに住み、反戦活動、そして過激なパフォーマンスをしていた時代に、マイルスデイビスはBitches Brewを録音し、ESPがファラオサンダースやアルバートアイラーの音楽を録音していたのか、と思った。
なんという時代だろうか。
きっと人々はあらゆるものを渇望していたのだろう。
平和への渇望、そして人権への渇望。
繰り返されてきた不平等と戦争に対する嫌悪で渇ききった芸術家達の喉は、
創作という行為によって潤ったに違いない。
人間が誰かの芸術作品に惹かれるというのは、創作者の個性、生き方、そういうものに惹かれるということかもしれない。
ずっとあきらめずに、創作し続けている人というのは、作品に良い意味での一貫性そして個性がある。
その一貫性が表すものが、人が創作において無意識に放っている霊性の表現なのだと思う。
2012年8月26日日曜日
Transfiguration
Alice Coltrane -Transfiguration (1978)-
It has been a while since the last time I listened to Alice Coltran's music.
It is indeed distinctive in it's sound as the music ceaselessly invigorates us to rediscover deeper, broader sense of spirituality that linger in our minds.
It would remind you of the solemn air of a shrine,
and it would also remind you of a primitive type of fear that a human faces when reading an ancient mythology.
This type of fear is naturally very close in its place to sacredness, and what Alice Coltrane does in her music is to express by sound this mere line between the fear and sacredness, and surely embrace both with her motherly blues to bring us into a shamanic realm.
I visited the Fushimi-Inari shrine, where they deify white fox, in Kyoto.
As I watched the quiet view of a pond in the shrine site, I witnessed two snakes crawling in the bush, tangling their brown bodies to each other.
In Japanese shintoism, snakes are considered as one of the sacred animals.
This does not surprise us since shintoism is a polytheistic, animisitc religion.
Snakes have been deified as a symbol of Magna Mater, the mother goddess, in polytheisic religion such as in ancient Greece and Egypt.
Along the history, when the weather turned extremely dry in West Asia, there were group of people who began to worship the weather gods, who became the paternal figures in monotheistic religion ("Snakes and the Cross" by Yoshinori Yasuda).
This could also be related to how desert environment may have influenced monotheistic religions and their view of the world.
"Rules" are important in the paternal gods of monotheistic world, while Magna Mater is doubtlessly shamanic "Rule-breaker" in polytheism. The sort of witch-like personality that mother goddesses were entitled to is indeed related to the image that we have of snakes being dreadful and inveigling.
I have received the image of this Magna Mater from Alice Coltrane's music.
Her music holds a type of flexibility that liberates the listener's ears from the rigidity of theoretical rules or formation.
And yet, Coltrane's music does not yield its absolutely unique aesthetic of sound to the "Rules".
I am one person, who listens to Coltrane's music as one artistic abstraction of a yearning.
Yearning for the motherly ground that bears peaceful creation, filled with soils damp and ripe, that would never display, but knows only to play.
It has been a while since the last time I listened to Alice Coltran's music.
It is indeed distinctive in it's sound as the music ceaselessly invigorates us to rediscover deeper, broader sense of spirituality that linger in our minds.
It would remind you of the solemn air of a shrine,
and it would also remind you of a primitive type of fear that a human faces when reading an ancient mythology.
This type of fear is naturally very close in its place to sacredness, and what Alice Coltrane does in her music is to express by sound this mere line between the fear and sacredness, and surely embrace both with her motherly blues to bring us into a shamanic realm.
I visited the Fushimi-Inari shrine, where they deify white fox, in Kyoto.
As I watched the quiet view of a pond in the shrine site, I witnessed two snakes crawling in the bush, tangling their brown bodies to each other.
In Japanese shintoism, snakes are considered as one of the sacred animals.
This does not surprise us since shintoism is a polytheistic, animisitc religion.
Snakes have been deified as a symbol of Magna Mater, the mother goddess, in polytheisic religion such as in ancient Greece and Egypt.
Along the history, when the weather turned extremely dry in West Asia, there were group of people who began to worship the weather gods, who became the paternal figures in monotheistic religion ("Snakes and the Cross" by Yoshinori Yasuda).
This could also be related to how desert environment may have influenced monotheistic religions and their view of the world.
"Rules" are important in the paternal gods of monotheistic world, while Magna Mater is doubtlessly shamanic "Rule-breaker" in polytheism. The sort of witch-like personality that mother goddesses were entitled to is indeed related to the image that we have of snakes being dreadful and inveigling.
I have received the image of this Magna Mater from Alice Coltrane's music.
Her music holds a type of flexibility that liberates the listener's ears from the rigidity of theoretical rules or formation.
And yet, Coltrane's music does not yield its absolutely unique aesthetic of sound to the "Rules".
I am one person, who listens to Coltrane's music as one artistic abstraction of a yearning.
Yearning for the motherly ground that bears peaceful creation, filled with soils damp and ripe, that would never display, but knows only to play.
2012年8月16日木曜日
変容
Alice Coltrane - Transfiguration (1978)-
久しぶりに聞いた、アリス・コルトレーンの音楽。
他のどんな音楽とも違う、濃密で精神的、宗教的な世界が繰り広げられている。
澄み渡る、寺院の神聖な空気を憶わせる音もあれば、人間の宗教的世界観における、ある種の恐ろしさというものを、神聖と畏れとの境界線ぎりぎりの所で、美とブルースを以てして確実に包括し、我々を圧倒するのだ。
私が京都の伏見稲荷神社を訪れた時、境内の池を眺めていたら、二匹で交わりながら池のほとりの草地を動き回る蛇を見た。
それから私は蛇について読んだり考えたりしている。
神道においては、神社のしめ縄の形からも蛇が神聖な動物とみなされてきたことがわかる。
それは、多神教的である神道においては予見されることなのである。
より古代的、大地に根付いた古代ギリシャ、エジプトなどの多神教宗教においては、大地母神のシンボルとして頻繁に蛇はあがめられてきた。
その昔、西アジアの気候が乾燥化したことにより、大地の豊かさは蛇が象徴する大地母神ではなく、空からの雨の恵みを司る天候神、すなわち、より男性的、一神教的な神であるという思想が生まれる。これは、砂漠文化と一神教のアルマゲドン思想とも関連する。
一神教的な男神の存在において、「掟」というものが重要視されるのに対し、
多神教的な大地母神は極めてシャーマニックなイメージがあり、ある種の「掟破り」とも言える。
そのような性質ゆえに、蛇というシンボルに姿を変えて、おそろしい、人をそそのかす、という悪のイメージを植え付けられてしまったのだろう。
なぜこんな話を書こうかと思ったかというと、
アリス・コルトレーンの音楽から私は幾度もこのシャーマニックな女性の神のイメージを享受してきたのだ。
音楽における理論上の形やルールというものを制限しない柔軟さがそこにはある。
しかし、その「柔軟」は理論上の「掟」、または確固たる「形成」 に、耳に聞こえる概念として負けないのだ。なぜ負けないのかと言うと、きっとそれは極めて洗練された音楽における精神性の主張であり、私(や第三者の誰か)はそれを求めて音楽を聴くからである。
久しぶりに聞いた、アリス・コルトレーンの音楽。
他のどんな音楽とも違う、濃密で精神的、宗教的な世界が繰り広げられている。
澄み渡る、寺院の神聖な空気を憶わせる音もあれば、人間の宗教的世界観における、ある種の恐ろしさというものを、神聖と畏れとの境界線ぎりぎりの所で、美とブルースを以てして確実に包括し、我々を圧倒するのだ。
私が京都の伏見稲荷神社を訪れた時、境内の池を眺めていたら、二匹で交わりながら池のほとりの草地を動き回る蛇を見た。
それから私は蛇について読んだり考えたりしている。
神道においては、神社のしめ縄の形からも蛇が神聖な動物とみなされてきたことがわかる。
それは、多神教的である神道においては予見されることなのである。
より古代的、大地に根付いた古代ギリシャ、エジプトなどの多神教宗教においては、大地母神のシンボルとして頻繁に蛇はあがめられてきた。
その昔、西アジアの気候が乾燥化したことにより、大地の豊かさは蛇が象徴する大地母神ではなく、空からの雨の恵みを司る天候神、すなわち、より男性的、一神教的な神であるという思想が生まれる。これは、砂漠文化と一神教のアルマゲドン思想とも関連する。
一神教的な男神の存在において、「掟」というものが重要視されるのに対し、
多神教的な大地母神は極めてシャーマニックなイメージがあり、ある種の「掟破り」とも言える。
そのような性質ゆえに、蛇というシンボルに姿を変えて、おそろしい、人をそそのかす、という悪のイメージを植え付けられてしまったのだろう。
なぜこんな話を書こうかと思ったかというと、
アリス・コルトレーンの音楽から私は幾度もこのシャーマニックな女性の神のイメージを享受してきたのだ。
音楽における理論上の形やルールというものを制限しない柔軟さがそこにはある。
しかし、その「柔軟」は理論上の「掟」、または確固たる「形成」 に、耳に聞こえる概念として負けないのだ。なぜ負けないのかと言うと、きっとそれは極めて洗練された音楽における精神性の主張であり、私(や第三者の誰か)はそれを求めて音楽を聴くからである。
2012年6月1日金曜日
thunder
そこはかとなく親密でいて、よそよそしいのだ。
初夏というのは。
やんわりと湿気を帯びた空気が、肌に張りつき、子供達の叫び声や車のクラクションはこだまのように聞こえる。
まるで体が繭に包まれているような感覚。
自分はそこにいるけれど、他の人からはもしかすると見えていないんじゃないかという疎外感。
空気の密度の濃さは着実に現実の正体という幻想のベールを私達にかぶせていく。
タイムトリップが一年のある時期にだけ可能だとしたら、それはきっとこんな初夏の夕暮れだろうと思う。
そんな初夏の夕暮れに、まだ赤く染まりだしたばかりの空に灰色の雲が立ちこめ、
雷の唸り声が聞こえだした頃に降り出す夕立ち。
雨は勢いをまし、雷の唸りもそれに呼応して頻度を増す。
親密さとよそよそしさによって育てられた、初夏の気怠さが、
突然の夕立ちと雷鳴によりドラマチックに 覚醒を強いられる。
夕立ちは、人間のこころにいくらかの切迫した真剣さをもたらし、
強く降りしきる雨は私達に心を鎮める時間を与える。
そしてもし落雷があれば、
私達は必然的に観念としての 扉 の前に立たされる。
どこかへつづく、入り口、というものである。
そして畏怖を知る。
初夏というのは。
やんわりと湿気を帯びた空気が、肌に張りつき、子供達の叫び声や車のクラクションはこだまのように聞こえる。
まるで体が繭に包まれているような感覚。
自分はそこにいるけれど、他の人からはもしかすると見えていないんじゃないかという疎外感。
空気の密度の濃さは着実に現実の正体という幻想のベールを私達にかぶせていく。
タイムトリップが一年のある時期にだけ可能だとしたら、それはきっとこんな初夏の夕暮れだろうと思う。
そんな初夏の夕暮れに、まだ赤く染まりだしたばかりの空に灰色の雲が立ちこめ、
雷の唸り声が聞こえだした頃に降り出す夕立ち。
雨は勢いをまし、雷の唸りもそれに呼応して頻度を増す。
親密さとよそよそしさによって育てられた、初夏の気怠さが、
突然の夕立ちと雷鳴によりドラマチックに 覚醒を強いられる。
夕立ちは、人間のこころにいくらかの切迫した真剣さをもたらし、
強く降りしきる雨は私達に心を鎮める時間を与える。
そしてもし落雷があれば、
私達は必然的に観念としての 扉 の前に立たされる。
どこかへつづく、入り口、というものである。
そして畏怖を知る。
2012年4月20日金曜日
雅歌
Song of Solomon(1977) by Toni Morrison
トニ・モリソンの作品3冊目を読み終えた。
Song of Songs, Song of Solomonというのは、古代イスラエルの王、ソロモンが書いたと言われる恋愛詩である。
そのソロモンの雅歌において描写されるぶどう畑というのは、女性の性の象徴なのだそう。
雅歌の、ざくろやぶどうを始めとした果物、狐、雌羊、子鹿などの官能的なイメージのある動物の描写、
その性的な雰囲気というものが、モリソンの小説にはとても上手く昇華されている。
私が最も興味を引かれたのは、
この物語の中での「ソロモン」という人物が、アフリカから奴隷としてアメリカ大陸に辿りつき、
その土地に定住し、子孫を残していった、
ブラック・ディアスポラであるという点である。
そのソロモンという人物が、「空を飛んだ」というのが、物語の大きな軸になっている。
ただ飛んだのではなく、飛んでいなくなってしまったのである。
残された妻は正気を失い、その息子はインディアンの家に養子にもらわれ、その子孫達というのが、
物語の主人公になっているという壮大な話なのだ。
「その当時、黒人の男性が「空を飛び」いなくなってしまう、ということはよく聞く話だったのだ」
という趣旨のことが物語の中で語られている。
それは、私個人の解釈では、奴隷制度というトラジェディーにより離散を強いられたブラック・ディアスポラの、
昇華しきれなくなった哀しみと苦難に人間の尊厳が重ねられた思いの民話化であると感じる。
空を飛ぶという行為の、「自由」さ、神秘性とそのイメージは彼らにとってもはやRevelation(天啓)と感じられた可能性もある。
「ソロモンが飛んだ」という民話は、物語の中で、やがて土地の子供の遊び歌となり、不可解な歌詞とともに歌い継がれていくのだ。
土地、文化、人の関わりによって紡がれる、
こんな物語が、世界中にたくさんあるのだろうという想像は、
なんともいえずロマンティックな気分を喚起する。
この題名からインスパイアされた曲を書いた。
どうしてもブルース的なイメージになるのだけれど、そこに少しアフリカの民族音楽的要素を入れた。
それも、子供達のあそびうたのような雰囲気の。
その「飛ぶ」という神秘的なイメージも入れたかった。
もうひとつこの物語によって私が考えたことは、ひとりの人間の歴史と名前についてである。
この世に生まれて、名前をもらい、ニックネームをもらい、その名前で毎日人に呼ばれ、私達は生きる。
そして、私達の前には気が遠くなりそうなくらいの人々が関わっているのだ。
そこになにかしらのストーリーが、ずっと受け継がれている、と思うと、
それも果てしなくロマンティックではないか。
トニ・モリソンの作品3冊目を読み終えた。
Song of Songs, Song of Solomonというのは、古代イスラエルの王、ソロモンが書いたと言われる恋愛詩である。
そのソロモンの雅歌において描写されるぶどう畑というのは、女性の性の象徴なのだそう。
雅歌の、ざくろやぶどうを始めとした果物、狐、雌羊、子鹿などの官能的なイメージのある動物の描写、
その性的な雰囲気というものが、モリソンの小説にはとても上手く昇華されている。
私が最も興味を引かれたのは、
この物語の中での「ソロモン」という人物が、アフリカから奴隷としてアメリカ大陸に辿りつき、
その土地に定住し、子孫を残していった、
ブラック・ディアスポラであるという点である。
そのソロモンという人物が、「空を飛んだ」というのが、物語の大きな軸になっている。
ただ飛んだのではなく、飛んでいなくなってしまったのである。
残された妻は正気を失い、その息子はインディアンの家に養子にもらわれ、その子孫達というのが、
物語の主人公になっているという壮大な話なのだ。
「その当時、黒人の男性が「空を飛び」いなくなってしまう、ということはよく聞く話だったのだ」
という趣旨のことが物語の中で語られている。
それは、私個人の解釈では、奴隷制度というトラジェディーにより離散を強いられたブラック・ディアスポラの、
昇華しきれなくなった哀しみと苦難に人間の尊厳が重ねられた思いの民話化であると感じる。
空を飛ぶという行為の、「自由」さ、神秘性とそのイメージは彼らにとってもはやRevelation(天啓)と感じられた可能性もある。
「ソロモンが飛んだ」という民話は、物語の中で、やがて土地の子供の遊び歌となり、不可解な歌詞とともに歌い継がれていくのだ。
土地、文化、人の関わりによって紡がれる、
こんな物語が、世界中にたくさんあるのだろうという想像は、
なんともいえずロマンティックな気分を喚起する。
この題名からインスパイアされた曲を書いた。
どうしてもブルース的なイメージになるのだけれど、そこに少しアフリカの民族音楽的要素を入れた。
それも、子供達のあそびうたのような雰囲気の。
その「飛ぶ」という神秘的なイメージも入れたかった。
もうひとつこの物語によって私が考えたことは、ひとりの人間の歴史と名前についてである。
この世に生まれて、名前をもらい、ニックネームをもらい、その名前で毎日人に呼ばれ、私達は生きる。
そして、私達の前には気が遠くなりそうなくらいの人々が関わっているのだ。
そこになにかしらのストーリーが、ずっと受け継がれている、と思うと、
それも果てしなくロマンティックではないか。
2012年4月17日火曜日
2012年3月31日土曜日
音楽を演奏していくことは、
何が美徳であるかということを日々追求する道を選ぶということであった。
そして、美徳というものを考えるということは、
一日中、浮き雲と蘭の花を見つめて白昼夢を見るということではなく、
泥の中にひざまづき、黒く汚した手で埋めた種の発芽を辛抱強く待つことであり、
精神的に失明した透明人間達の、通り過ぎて行く大きな足の大きな歩幅を鳥瞰することであり、
また、色彩の濃いイメージを持って、想像と創造をまぐわす方法を学ぶことである。
己が何者でどんな人間であるかは、音楽を以てして、必ず明確に表れる。
今は、人としてどうあるべきかを、よくよく考えさせられている時期であるようだ。
愚痴を言わずに、ただ黙々と、どんなに小さな仕事も、課されたものをきちんとこなすこと、
その中に喜び、創造性を見いだせることを美しいと思う。
自分もそうあれたら、と思い、そう思わせてくれる人物がまわりに幾人か居ることに感謝する。
生きていれば、すべてが思い通りにいくわけではない。
文句の一つや二つ、言いたくなる時もあるけれど。
人の気持ちを考えることが大事だし、同時に自分の気持ちを大切にすることも必要。
文句をこぼさずに、改善するための行動を起こせるようになること。
行動すれば、状況は変わっていくもの。
そしていつも、自分の言動行動、笑顔を忘れていないか、ありがとうの気持ちを忘れていないか、
自省しながら謙虚に生きよう。
何が美徳であるかということを日々追求する道を選ぶということであった。
そして、美徳というものを考えるということは、
一日中、浮き雲と蘭の花を見つめて白昼夢を見るということではなく、
泥の中にひざまづき、黒く汚した手で埋めた種の発芽を辛抱強く待つことであり、
精神的に失明した透明人間達の、通り過ぎて行く大きな足の大きな歩幅を鳥瞰することであり、
また、色彩の濃いイメージを持って、想像と創造をまぐわす方法を学ぶことである。
己が何者でどんな人間であるかは、音楽を以てして、必ず明確に表れる。
今は、人としてどうあるべきかを、よくよく考えさせられている時期であるようだ。
愚痴を言わずに、ただ黙々と、どんなに小さな仕事も、課されたものをきちんとこなすこと、
その中に喜び、創造性を見いだせることを美しいと思う。
自分もそうあれたら、と思い、そう思わせてくれる人物がまわりに幾人か居ることに感謝する。
生きていれば、すべてが思い通りにいくわけではない。
文句の一つや二つ、言いたくなる時もあるけれど。
人の気持ちを考えることが大事だし、同時に自分の気持ちを大切にすることも必要。
文句をこぼさずに、改善するための行動を起こせるようになること。
行動すれば、状況は変わっていくもの。
そしていつも、自分の言動行動、笑顔を忘れていないか、ありがとうの気持ちを忘れていないか、
自省しながら謙虚に生きよう。
2012年3月22日木曜日
Blues/Spiritual
Albert Ayler
Swing Low Sweet Spiritual (1964)
アルバートアイラーは、あらゆるサックス奏者の中で一番好きだ。
中学校の音楽の教科書に、Swing Low Sweet Chariotという曲が載っていて、
なぜだかわからないけれど、他のどの曲よりも好きで、私にはたまらない魅力があった。
その当時はそれがなぜだかわからなかったけれど。
多分、私は黒人の歌い、演奏してきたスピリチュアルな音のバイブレーションにすごく共鳴する。
このレコードの中で演奏されている、Nobody Knows the Trouble I've Seenという曲も、
素晴らしい曲だと思う。
概念としてのブルースと、スピリチュアルという種類の音楽はどういう風に繋がっているんだろう?
Swing Low Sweet Spiritual (1964)
アルバートアイラーは、あらゆるサックス奏者の中で一番好きだ。
中学校の音楽の教科書に、Swing Low Sweet Chariotという曲が載っていて、
なぜだかわからないけれど、他のどの曲よりも好きで、私にはたまらない魅力があった。
その当時はそれがなぜだかわからなかったけれど。
多分、私は黒人の歌い、演奏してきたスピリチュアルな音のバイブレーションにすごく共鳴する。
このレコードの中で演奏されている、Nobody Knows the Trouble I've Seenという曲も、
素晴らしい曲だと思う。
概念としてのブルースと、スピリチュアルという種類の音楽はどういう風に繋がっているんだろう?
2012年3月7日水曜日
Sula
Sula by Toni Morrison (1973)
今まで読んだものの中で、最も衝撃的で美しい小説だった。
私達が生きていく、その壮大な物語は、必ずしもいつもハッピーエンドであったりすべてが簡潔では決してない。
人間というのは、感情を堀りさげるほどに、自らのうちに鬱蒼と森のようにいかにも自然な形で存在している狂気の濃淡を、苦く、甘く、味わうことになるだろう。
その、甘さと苦さ、という味覚のジレンマ、それがもたらす恍惚感のようなものを、読んだ気がした。
物語自体を客観的に表現すると、とても苦いのだ。
だけれども、そこに絶対的に甘さが存在しているのは、時間の密度、愛情の密度、人間性の密度、感覚の密度、
それらすべてが飽和するほどに濃いからなのだと思う。
スラという主人公は、所謂現代的な魔女として描かれている。
世間の常識を畏れない女。
子供の持つ恐ろしさ、純粋さ、を同時にもてあまして大人になった女。
自分としては大した意図のない行動が、なぜかいつも劇的な結末をもたらしてしまう女。
彼女の哀しみを思った。
ひとり、意図せずして、ベッドで孤独の死を呑み込んだひとつの魂を。
彼女の死を喜び安堵した、村の者達の安易で悪意のない排他的精神を。
それでも、スラは甘く苦く、色彩のあくまでも濃い人生を送ったことを。
今まで読んだものの中で、最も衝撃的で美しい小説だった。
私達が生きていく、その壮大な物語は、必ずしもいつもハッピーエンドであったりすべてが簡潔では決してない。
人間というのは、感情を堀りさげるほどに、自らのうちに鬱蒼と森のようにいかにも自然な形で存在している狂気の濃淡を、苦く、甘く、味わうことになるだろう。
その、甘さと苦さ、という味覚のジレンマ、それがもたらす恍惚感のようなものを、読んだ気がした。
物語自体を客観的に表現すると、とても苦いのだ。
だけれども、そこに絶対的に甘さが存在しているのは、時間の密度、愛情の密度、人間性の密度、感覚の密度、
それらすべてが飽和するほどに濃いからなのだと思う。
スラという主人公は、所謂現代的な魔女として描かれている。
世間の常識を畏れない女。
子供の持つ恐ろしさ、純粋さ、を同時にもてあまして大人になった女。
自分としては大した意図のない行動が、なぜかいつも劇的な結末をもたらしてしまう女。
彼女の哀しみを思った。
ひとり、意図せずして、ベッドで孤独の死を呑み込んだひとつの魂を。
彼女の死を喜び安堵した、村の者達の安易で悪意のない排他的精神を。
それでも、スラは甘く苦く、色彩のあくまでも濃い人生を送ったことを。
2012年1月9日月曜日
Kafka on the shore
海辺のカフカを読了し考える。
村上春樹独特の世界観を持って彼がこの作品の中に書き込んだものは、
時に「バタフライ・エフェクト」、時に「聖なる一体」そしてまたある時には「存在」とか「神」と呼ばれるものであるように思える。
少なくとも私にとっては、そういった部分のディスクリプションの緻密さが非常に印象を残した小説である。
私達は普段の生活の中で、どれだけ起こりうる事象の範囲を想定(または限定)しているだろうか。
そして、そうすることによって、あらゆる事象のあらゆる側面をどれほど見落としているのだろうか。
様々な場面で、「聖なる一体」が動いている、と感じる時がある。
すべてが一体であり、一体であるがゆえに、個別である。
別個としての意識があるからこそ、一体を認識できる。
現代社会において、人間がその一体性ということを再認識するために、
社会におけるミスティシズムの再生が必要となる。
それはすなわち、失われたシャーマニズムである。
土着文化から分離してしまった現代の社会において、そのシャーマニズムを体現できるのは音楽家、舞踏家が主であるだろう。
‥‥ 神秘性が無視された世界ほどつまらない世界はないのだ。
村上春樹はこのようなことを意識して海辺のカフカを書いただろうか?
「入り口の石」というコンセプトなどは、とても神道的な、まるで天の岩戸の話のような響きである。
考えてみれば日本の神話などは「自然」というモチーフにあくまでも基づいたミスティシズムに溢れている。
そしてそこに、性があり、踊りがあり、音楽がある。
すべて、「一体」と繋がるツール。
静謐でありながら、饒舌である。
森林の文化、そのものであると思う。
村上春樹独特の世界観を持って彼がこの作品の中に書き込んだものは、
時に「バタフライ・エフェクト」、時に「聖なる一体」そしてまたある時には「存在」とか「神」と呼ばれるものであるように思える。
少なくとも私にとっては、そういった部分のディスクリプションの緻密さが非常に印象を残した小説である。
私達は普段の生活の中で、どれだけ起こりうる事象の範囲を想定(または限定)しているだろうか。
そして、そうすることによって、あらゆる事象のあらゆる側面をどれほど見落としているのだろうか。
様々な場面で、「聖なる一体」が動いている、と感じる時がある。
すべてが一体であり、一体であるがゆえに、個別である。
別個としての意識があるからこそ、一体を認識できる。
現代社会において、人間がその一体性ということを再認識するために、
社会におけるミスティシズムの再生が必要となる。
それはすなわち、失われたシャーマニズムである。
土着文化から分離してしまった現代の社会において、そのシャーマニズムを体現できるのは音楽家、舞踏家が主であるだろう。
‥‥ 神秘性が無視された世界ほどつまらない世界はないのだ。
村上春樹はこのようなことを意識して海辺のカフカを書いただろうか?
「入り口の石」というコンセプトなどは、とても神道的な、まるで天の岩戸の話のような響きである。
考えてみれば日本の神話などは「自然」というモチーフにあくまでも基づいたミスティシズムに溢れている。
そしてそこに、性があり、踊りがあり、音楽がある。
すべて、「一体」と繋がるツール。
静謐でありながら、饒舌である。
森林の文化、そのものであると思う。