言わずと知れたジャズ・メッセンジャーズを率いたブレイキーの経歴には、ジャズの歴史の中でも最も輝かしい時代を彩る奏者達の名前が並ぶ。マイルス・デイヴィス、チャーリー・パーカーにセロニアス・モンク。ビバップ、ハードバップの時代を牽引し、無数のレコードを後世に残したブレイキーだが、彼がフリーなアプローチの演奏に関わったことはほとんどなかったようだ。
アーサー・テイラーはこう質問している。
「アヴァンギャルドやフリーダム・ミュージックに関してはどのように感じていますか?」
理解できません。フリー・ジャズや、そんな類のものが聞こえてくると、そろそろ帰る時間だな、と思います。
フリーダム、自由は素晴らしいものだけれど、秩序のない自由はただのカオスですから。
何かに到達するためには、あるポイントを定めることが必要です。
どこに行くのか?すべてがカオスであればそこには何の意味もありません。方向性というものがなければ。あなたが伝えようとしていることを、人が理解できないのは良くありません。
普通の人間は、音楽を聞く時に頭を使おうなんて思いませんよ。辛辣な内容に、翻訳しながらいろいろな思いが交差した。
音楽というものは、毎日の生活でたまった埃を振り払ってくれるべきものです。
リスナーは、音楽家がやろうとしていることを頭を使って理解しようとはしません。
一日中頭を使っていろいろなことを理解しなければいけないのですから。
音楽を聴く時は、ただその音楽に別の世界に連れて行ってもらいたいのですよ。音楽はエンターテイメントなのです。
フリーダムをやっているミュージシャン達もいろいろいますが・・・
数年前に、レニー・トリスターノがそんなようなことをやっているのを聞きましたが、あれには方向性がきちんとありました。
最近よくある、みんなが同時にばっと演奏するようなものよりもずっと理解しやすかった。
あんなのは簡単にできる逃げだと思いますよ。
ああいう輩がロックンロールを馬鹿にするでしょう。そしてジャズのことも馬鹿にする。
チャーリー・パーカーのライブを聞いたことも、レコードを聞いたこともないような若い奴らが、チャーリーのことさえ馬鹿にする。単なる逃げです。
梯子の一番上から始めることなんて不可能なんです。きちんと下から登っていかないと。
基礎がないといけません。
音楽は生き続けています。チャーリー・パーカーがいて、それで最後なんかじゃないのです。
太陽が沈んで、しばらく真っ暗闇な期間があったとしても、突然に誰かが立ち上がり、太陽がまたのぼって、音楽における素晴らしいリーダーが現れるのです。
人々は、「バードは素晴らしかった。」と言って聞かないかもしれないけれど、新しいリーダーは否応なく現れる。注意深く、辺りを見回して耳をすませていれば必ず。
音楽は宗教の様なものです。
いつの時代にも、人より多く演奏し、人よりも度胸があって、人よりも多く表現することのある音楽家というのがいるのです。
だけどカオスからは何も生まれない。方向性というものがなければ、音楽は終わってしまいます。
アヴァンギャルドのミュージシャン達が、自分達は新しいことを発見していると思っているとすればそれは信じられないことです。
今演奏されていることの中で、これまでに演奏されたことのないものなんて存在しません。
少し違ったアプローチがあるかもしれないけれど、基本的には同じです。
窓の外を見て太陽があがっていることを確認して、「今は昼間です。」と得意になって言う人が何の称賛に値しますか?わかりきったことだと思いませんか?
太陽があがって、何かが起きて、何か画期的なことを発見した者だけが称賛を受けるに値するのです。バッハやベートーベンがそういう人達ですよ。彼らは自分達が何をしていたか理解していた。
それは彼らの領域での話です。黒人の音楽家である我々とは関係のない領域です。
我々の持っているのはスイングです。
白人の音楽家が「スイング」する唯一の方法は、ロープを使うことです。(注:ブランコ(英語でスイング)に乗ってればいい、という皮肉。)
スイングするのが我々の音楽的領域であって、我々はそこにとどまっていればいい。
ラテンの人々は彼らのやり方を貫いたし、アフリカの人々も彼らのやり方を貫いた。
なのに我々が、この世界でもっとも素晴らしいスイングというやり方を捨てる理由が一体どこにありますか?
ビートも何もない、ヤンヤン音がしてるだけのような変てこな音楽なんか・・
バッハやベートーベンのレコードを流してあげましょうか?凄くてひっくり返る様なものがありますよ。
彼らはあの音楽に精通している。 だけどあれは我々のものではない。
我々の持っているものは、スイングであって、それは恥ずかしがるようなことではないのです。誇りに思うべきものです。
我々は(ジャズを通して)色々な音楽的容れものに入ることができます。
ラテンの器、カリプソの器。 カリプソほどに素晴らしい器はこの世にありません。
ボサノバもあります。ボサノバは我々とも繋がっている。
我々は自身のアイデンティティを維持しなければならない。アイデンティティをなくしてしまうことこそが、奴らが求めていることなのですから。
我々が育むべき人材が育っていかないのは、若い才能がフリーダム・ミュージックのやり方に埋もれてしまって、「フリーで演奏するから勉強や練習はする必要がない」というような考え方に陥ってしまうからです。
近い将来、世代間で音楽家達が互いに乖離してしまうようなことが起こるでしょう。
さっき言ったような若い才能が、きちんと勉強しなかったことによって失われてしまう。
本当にそうなりますよ。
白人の若者達は、きちんと訓練されているから、彼らがそのうちに乗っ取ってしまうでしょう。
バンドに白人のミュージシャンを入れた奴らはそのうちに完全に乗っ取られてしまった。
我々にはスイングしかないのです。それが我々のアイデンティティです。
この国の黒人達がスイングというアイデンティティを失ってしまえば、それで奴らの画策はすべて成功したと言えるでしょう。そうならないことを神に祈ります。
<中略>
バードが言ってました。若いミュージシャン達には、ブルースの弾き方を学んで欲しいと。バード自身は少し表面をかじった程度だったから、と。
ブルースをきちんと習得することなしに、全部学びきったと思うなんてとんでもないことです。
本当にたくさんのやり方とアプローチがあって、それらを全部学ぶのにはすごく時間がかかるのです。
今の状況は本当に嘆かわしい。
けれど、変化は必ず訪れます。何かが起こるはずです。
誰かが何か素晴らしいものを持ってきて、これからはこういう方向性に向かうのだ、と導いてくれるはずです。そろそろ新しいリーダーシップが生まれてもいい頃ですし、私は本当にそう信じています。
今起こっていることは本当に忌々しいことだ。
この国の黒人のミュージシャン達は、協力して何かを成し遂げるというステージに達していません。
白人のミュージシャン達は協力するのが上手ですよ。もし頼めば、毎晩、年の始めから終わりまで、同じ演奏をしてくれるでしょう。協力的で、時間も厳守するし、エゴもありません。
彼らが何か素晴らしいことを成し遂げることがあれば、それは彼らに才能があるからではなくて、協調性があるから、ということにつきます。
私はこう思います。
神は、ソロモン王に対して、願うものはすべて与えられると教えました。
ソロモン王は長い間考えたすえに、自分の欲しいものは知識と英知だけであると言いました。
なぜなら知識と英知さえあれば、すべてのドアが開けられると思ったからです。
我々に必要なのもまた、協力し合うための知識と英知であり、そうして我々の前にもドアが開けるでしょう。何か世界に対して与えられるものを持っているのならば、道は開けるのです。
我々は社会的な理由で、協力し合うことがいままでできなかった。
黒人の若者達は落胆させられ、間違ったことを教えられてきました。
ひとりの人間が他の誰よりも金を持ちたがり、残りの我々には協力し合わなかったために何も残らなかった。
何年も時間が経ってからそんな間違いに気づくのです。気づいてからではもう遅いのです。
我々にできることは、若い世代が同じ間違いを犯さないためにドアを開けて導いてやることだけです。
ブレイキーがこのインタビューで話した内容は、あまりジャズ史の表面では語られない部分であるかもしれない。少なくとも、21世紀の今では。
インタビューは1971年の12月に行われた。
68年にキング牧師が暗殺され、公民権運動及びブラック・パンサー党の運動が激化した時代であることを考えると、ブレイキーの音楽における人種についての過激な発言も仕方ないのかもしれないと思えてくる。
フリーダム・ミュージックについてはブレイキー自身がまったく良いイメージを持っておらず、
さらに彼はそれが「白人的な」音楽で、黒人文化を破壊するためのある種の陰謀であるとすら考えていたことが伺える。それはあまりにも極端で保守的なスタンスであるが、同時にこのようなブレイキーのコメントは、とても生々しくリアリティーを持って私達にせまってくる。
ジャズという音楽がアカデミックになり、古典になり、品格のある文化になり変わった今では忘れがちなことだけれど、もともとこの音楽は売春宿で生まれた「ストリート」の音楽で、
アフリカン・アメリカンの人々がまだ今よりももっと抑圧されていた時代に彼らに希望を与えたアイデンティティのひとつでもあった。
ブレイキーはそんな「ストリート」の立場からジャズという音楽を見ていた。
現代ではブレイキーの様に「ジャズは我々の所有する音楽でアイデンティティであり、他人種には弾けないものだ。」というようなあからさまな表現をする音楽家はほとんどいないと思うが、
実際のところ、ある種のアメリカ音楽が黒人にしか作り得ないという意識を持つ人は少なからず居ると思う。ただ、それが意図的であるかないかにかかわらず、そのような意識を持つ層がいることによって、人種によって創造できる音楽が(主観的にも客観的にも)精神的に規制されてしまうというのはなんとも哀しいことではないかと私は思う。
同時に、そのような精神的な枠組みを音楽のまわりに作らざるをえない状況を作った社会があり、その枠組みを必死で守ろうとした人々が居たのに対して、その精神的な枠組みをすべて取り払って自由になろうとした人々が居て、その彼らがフリーダム・ミュージックという流れをつくりだしていったのではないだろうか。
出典:Notes and Tones Musician-to-Musician Interviews, Expanded Edition by Arthur Taylor (蓮見令麻訳)