2016年2月3日水曜日

自由即興における儀式の場:アルバート・アイラー





アルバート・アイラーの吹くブルースを聞いて、
この人の音は何が違うのだろうと長い間考えてみた。

媚びずに、寄り添っている。
目の前が真っ白になるくらいの最上の喜びと、
哀しみの層を通り過ぎた後の恍惚と、
エネルギーをただ一点に集めて涙と共に流れ続ける怒りと、
全部が一緒くたになって、
マイナーとメジャーの間を鈍い金色の音が行き来する度に、
私達はあらゆる感情を旅する。

即興演奏をするということは、
自分の選択肢を創造することだ。
自分の創造を信じて、選択肢を信じることだ。
そうするためには、自分に嘘はつけない。
即興の演奏は自分の中にあるものをすべて反映するから、
信頼できる選択肢を創造できる人間性を自分の内に育むことだ。

それは極めて内省的なプロセスであるにもかかわらず、
響く音を出すことのできる奏者は、外界とほぼ一体化している。
そして自分を取り巻く世界に対しての信頼がある。
つまるところは、自分に対してもまた、信頼がある。
しかしそのひとは、演奏において醜さも情けなさもすべてをさらけ出す宿命にあるので、
自身への圧倒的信頼が、ナルシシズムに成り下がることがない。
醜さも情けなさもすべてをさらけ出すということは、
人間が、「社会においてあるべき姿」という鎧を脱いで、哀しみや弱さへの受け皿を持つ「信仰」の泉へ飛び込む行為である。
そして、そのような類の演奏行為は、信仰と儀式の持つ感覚に非常に近いものを私達に与える。
伝統音楽が受けおってきた、世界の中の儀式的な場所はほとんど生き残っていないかもしれない。
伝統音楽における儀式にはカタルシスがあり、
カタルシスの体験は私達の膿を洗い流してくれる。
自由即興には、その儀式としての場を作る力がある。