2012年1月9日月曜日

Kafka on the shore

海辺のカフカを読了し考える。

村上春樹独特の世界観を持って彼がこの作品の中に書き込んだものは、
時に「バタフライ・エフェクト」、時に「聖なる一体」そしてまたある時には「存在」とか「神」と呼ばれるものであるように思える。
少なくとも私にとっては、そういった部分のディスクリプションの緻密さが非常に印象を残した小説である。

私達は普段の生活の中で、どれだけ起こりうる事象の範囲を想定(または限定)しているだろうか。
そして、そうすることによって、あらゆる事象のあらゆる側面をどれほど見落としているのだろうか。

様々な場面で、「聖なる一体」が動いている、と感じる時がある。
すべてが一体であり、一体であるがゆえに、個別である。
別個としての意識があるからこそ、一体を認識できる。
現代社会において、人間がその一体性ということを再認識するために、
社会におけるミスティシズムの再生が必要となる。
それはすなわち、失われたシャーマニズムである。
土着文化から分離してしまった現代の社会において、そのシャーマニズムを体現できるのは音楽家、舞踏家が主であるだろう。


‥‥ 神秘性が無視された世界ほどつまらない世界はないのだ。


村上春樹はこのようなことを意識して海辺のカフカを書いただろうか?
「入り口の石」というコンセプトなどは、とても神道的な、まるで天の岩戸の話のような響きである。
考えてみれば日本の神話などは「自然」というモチーフにあくまでも基づいたミスティシズムに溢れている。
そしてそこに、性があり、踊りがあり、音楽がある。
すべて、「一体」と繋がるツール。
静謐でありながら、饒舌である。
森林の文化、そのものであると思う。