ジェームス・ボールドウィンの著作を二冊。
Giovanni's Room と If Beale Street Could Talk。
人間と人間の、細かな感情の交わり合い。
情景が、手に取る様に伝わってくるような表現の仕方。
すごくリアルなのだ。
例えば地下鉄の電車に乗り込んで座った時に、目の前に座っているひとが居る。
そのひとのことは、何も知らないし、ただ脳に情報として入ってくるのは、彼/彼女の風貌のみである。
通常の感覚であれば、そのひとの人生に起こっていることに敢えて興味は持たないし、
ましてそのひとの感情のバリエーションなどには考えも及ばないものだ。
だけれど、
ボールドウィンを読んだ後は、その、他人と自分の世界を隔てるシールドの様なものを自分のマインドがいとも簡単に通り抜けてしまう感覚がある。
淡々と送られていく人生の中で、
感情を掻き乱されるという経験をひとはどれくらいするだろうか。
例えば、愛する人がある日ジェイルに行ってしまったら。
例えば、自分の、ぬるいものに包み隠された冷酷さに突然気づいてしまったら。
私は、幸せなことに、哀しみを生み出すたぐいの感情の揺れにはしばらく会っていない。
ただ、素晴らしい音楽を聞く時の高揚感は、知っている。
哀しみの陣痛も、悦びの高揚も、私達の内側から生まれる場所は、同じところのような気がする。
そして、その場所に存在するものは、時間と空間を超越する種類のものなのだと思う。