ジェームス・ボールドウィンの『ジョヴァンニの部屋』を読み進めているうちに、
山田詠美の書く世界との共通点を見つけた。
人間の、複雑で、生々しく、どうしようもない性。
それはいつも愛情と哀しみから生まれてくる。
私達の住む世界のそういう部分を、長い間私は見逃してきた。おそらく、故意に。
孤独を謳歌し、人の深い感情の湖に、自分の手を敢えて濡らし、水を掬ってみるということを避けてきた。
ボールドウィンを読みながら、その小説の中の世界に没頭していく中で、
並行して自分自身を取り巻く世界に同じ匂いのするストーリーが静かに流れていることに気づいた。
この一見なだらかに見える変化は、大きなインパクトを私の人生にもたらしつつある。
アリスコルトレーンのオルガンの演奏がインド古典音楽のハーモニウムの演奏からの水脈を受け継いでいる、
ということにもやっと気がついた。
自分の魂が、求めている芸術の形、それには、系譜の様なものがある。
その系譜を辿っていく事は、私の魂が求めていることを紐解いていくことでもある。
2011年9月6日火曜日
小さい頃から絵を描くことが好きで、画家になりたいと思った時もあった。
ピアノも好きだったけれど、自分が本当にいつでもやりたいと思うのは、絵を描くことだった気がする。
色彩というものに、魅了された子供だった。
それは、小学生の時に露草や朝顔などの花からつくった色水、夏に庭に咲き乱れた百合の花、
夜に咲いた月見草の群れ、空き地でおそるおそる眺めた彼岸花などの色彩のイメージだった。
近頃、対するスタンス、そして内容的なものも、私の音楽は、painting に近いものになりつつある。
フリー即興演奏を始めてから、限りなく感覚的な奏法を用いているため、コードを選んで弾く感覚、単音を散らしていく感覚というものが、絵の具をキャンバスに落とす作業の様に感じるようになった。
私が即興演奏によって表現したい世界観というのは、Emily Kngwarreyの描くアボリジナルアートの世界観である。earthyで、spiritual、そしてpeaceful。
木や花や人の様に、芸術作品というのは、ひとつとして同じものは存在せず、
それぞれに魂が宿っているもの。
不完全であったり、一見、不格好なものに、魂が宿っている。
そして、その一見不格好なものを、不格好で価値がない、と捉える価値観というのは、それだけの価値観である。
人が「不格好だ」と言って、ある対象を嘲笑する時、
嘲笑される対象は、時に、おそろしく洗練された見識眼で、その嘲笑という行為を受け入れる。
その対象が、自身の「不完全さ」という美を賛美する限り、嘲笑は風となって消え、
嘲笑する者達は、己の知らぬ間に、対象の美の存在感により圧倒される。
ピアノも好きだったけれど、自分が本当にいつでもやりたいと思うのは、絵を描くことだった気がする。
色彩というものに、魅了された子供だった。
それは、小学生の時に露草や朝顔などの花からつくった色水、夏に庭に咲き乱れた百合の花、
夜に咲いた月見草の群れ、空き地でおそるおそる眺めた彼岸花などの色彩のイメージだった。
近頃、対するスタンス、そして内容的なものも、私の音楽は、painting に近いものになりつつある。
フリー即興演奏を始めてから、限りなく感覚的な奏法を用いているため、コードを選んで弾く感覚、単音を散らしていく感覚というものが、絵の具をキャンバスに落とす作業の様に感じるようになった。
私が即興演奏によって表現したい世界観というのは、Emily Kngwarreyの描くアボリジナルアートの世界観である。earthyで、spiritual、そしてpeaceful。
木や花や人の様に、芸術作品というのは、ひとつとして同じものは存在せず、
それぞれに魂が宿っているもの。
不完全であったり、一見、不格好なものに、魂が宿っている。
そして、その一見不格好なものを、不格好で価値がない、と捉える価値観というのは、それだけの価値観である。
人が「不格好だ」と言って、ある対象を嘲笑する時、
嘲笑される対象は、時に、おそろしく洗練された見識眼で、その嘲笑という行為を受け入れる。
その対象が、自身の「不完全さ」という美を賛美する限り、嘲笑は風となって消え、
嘲笑する者達は、己の知らぬ間に、対象の美の存在感により圧倒される。
2011年9月1日木曜日
たまに、 全部、 手放してしまいたい欲求に駆られる。
こだわりとか、
自分はこういう人間だ、という思い込みとか、
そういうものから自分自身をすべて解放したところには、
自由が存在している。
自由ほど、こわいものはない。
自由を手にした時、人間は、創造という「性」の内なる存在に気づき愕然とする。
創造するということは、継続である。
その創造における自らの不能を垣間見る時、人間は生存の危機に近いものを感じるのかもしれない。
しかし、その継続性というものを実現するためには、
仏教的円環思想の観点から言えば、創造と共に、破壊が存在することが自然である。
破壊が存在してはじめて、創造が継続される。
----------------------------------------------------------
when you emancipate yourself from
clinging to things
or subjective labeling of oneself as being certain ways,
you see freedom.
freedom that you dread.
nothing else is more dreadful.
you stare at a handful of freedom in amazement,
realizing your undeniable urge for creation.
creation exists within continuity.
a glimpse of the fact
that you have just little authority over that flow of creation
gives you a shiver
the feeling that is very much like a struggle for life itself.
now,
to attain the continuity
the cyclical view of life is much helpful
for it shows us the meaning of construction and destruction.
may both sides be celebrated, as sacred parts of creation.
こだわりとか、
自分はこういう人間だ、という思い込みとか、
そういうものから自分自身をすべて解放したところには、
自由が存在している。
自由ほど、こわいものはない。
自由を手にした時、人間は、創造という「性」の内なる存在に気づき愕然とする。
創造するということは、継続である。
その創造における自らの不能を垣間見る時、人間は生存の危機に近いものを感じるのかもしれない。
しかし、その継続性というものを実現するためには、
仏教的円環思想の観点から言えば、創造と共に、破壊が存在することが自然である。
破壊が存在してはじめて、創造が継続される。
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when you emancipate yourself from
clinging to things
or subjective labeling of oneself as being certain ways,
you see freedom.
freedom that you dread.
nothing else is more dreadful.
you stare at a handful of freedom in amazement,
realizing your undeniable urge for creation.
creation exists within continuity.
a glimpse of the fact
that you have just little authority over that flow of creation
gives you a shiver
the feeling that is very much like a struggle for life itself.
now,
to attain the continuity
the cyclical view of life is much helpful
for it shows us the meaning of construction and destruction.
may both sides be celebrated, as sacred parts of creation.